山田かまち
まずは音楽性と芸術性の感性が飛びぬけていた山田かまちさんからご紹介します。
本名:山田かまち
生年月日:1960年7月21日
没年月日:1977年8月10日(享年17歳)
名前の由来:両親が読んだ歴史小説、和島誠一さん著「日本歴史物語」の主人公の名前(鹿麻知(かまち))
出身地:群馬県高崎市
幼いころから絵画の才能を発揮し、冬休みの宿題だった動物の絵(52枚)を1時間あまりで描き上げています。
東京芸術大学出身だった当時の担任は、その作品に驚嘆して美術界のパトロンだった井上房一郎さんに引き合わせた程でした。
高崎市倉賀野中学校に在籍していた1975年には、ビートルズなどのロックに傾倒していきます。
同級生で後のBOØWYのメンバーである氷室京介さんや松井恒松さんと共にロックバンドを組んで、練習していたこともあったそうです。
その後高校受験に失敗し、1浪して1977年に群馬県立高崎高校に入学します。
高校で友人と共に映画を作成し学園祭に出演しますが、同年8月自宅でエレキギターを演奏中に感電し亡くなってしまいました。(自殺説あり)
死後4年が経過した1981年に前橋市で「山田かまち絵画遺作展」が開催されます。
1989年には生前に担任が紹介した井上房一郎主催により、高崎市の画廊で「山田かまち水彩デッサン展」が開催されています。
そして1992年、高崎市に「山田かまち水彩デッサン美術館」が開館しました。
(こちらには小学生の時に描いた動物の絵も飾られています)
山田かまちさんが通っていた高崎高校から徒歩数分のところに美術館はあります。
高崎高校は前橋高校と並ぶ群馬県屈指の男子の進学校で、学力も相当高かったことが伺えますね。
氷室京介さんは山田かまちさんの死をもとにして「MORAL」という楽曲を制作して死を悼んでいて、生存されていればBOØWYのメンバーに入っていた可能性もあります。
才能に溢れていた山田かまちさんのあまりの早すぎる死ですが、遺した物は偉大ですね。
不可思議wonderboy
続いては2011年に事故死したポエトリーラッパーの不可思議wonderboyさんです。
私が不可思議wonderboyさんを知ったのはごく最近で、高校生の息子が「Pellicule」を車中で聴いていて耳にとまりました。
もっと他にも聴きたいと思いましたが、すでに亡くなっていて亡くなってから有名になったと聴いて、訃報を聞いてから聴くと本当に歌詞が深いです。
どうしてもサッカーを職業にしたくてタイの下部リーグに行った友人に充てて書いた曲だそうです。
ポエトリーラップとは、曲の上に詩を乗せて読むスタイルですが、不可思議wonderboyさんはとても落ち着く声で頭に素直に入ってきます。
この「Pellicule」はYouTubeの再生回数が2022年時点で2000万回を超えていました。
不可思議wonderboyさんが亡くなったのが、2011年ですからずっと生き続けているのですよね。
この曲も良いのですが「世界征服やめた」が一番好きです。
歌詞の中で「知りたくない、知りたくない、知りたくない」と叫ぶ場面があるのですが、「死にたくない、死にたくない、死にたくない」と聞こえてしまい、心の叫びのように感じてしまいました。
不可思議wonderboyさんのプロフィールです。
本名:石田剛
生年月日:1987年12月30日
没年月日:2011年6月23日(享年23歳)
出身地:埼玉県
最終学歴:埼玉大学
アーサー・ラッセル
続いてはアメリカのチェロ奏者でもあり、作曲家、ミュージシャンなど多彩な才能を発揮したアーサー・ラッセルさんをご紹介します。
名前:アーサー・ラッセル
生年月日:1951年5月21日
没年月日:1992年4月4日(享年40歳)
1970年代半ばに現代の実験的作曲とインドのクラシック音楽の訓練を受け、ニューヨークに移ローワーマンハッタンのアバンギャルドコミュニティや街のディスコシーンと関わりを持つようになります。
1970年代から1980年代にかけて、アーサー・ラッセルさんは、Dinosaur LやIndian Oceanなどの別名でのアンダーグラウンドダンスヒットなど、多くのコレクションを制作しました。
ただ…プロジェクトが完成に至ることが難しく、リリースされた作品の量はごくわずかになってしまいます。
「World of Echo」は、1986年にリリースされ生前で唯一のソロポップアルバムになってしまいました。

そんなアーサー・ラッセルさんは2000年代に入ってから未発表の録音されていたアルバムがリリースされて、再評価されています。
わずか40歳で、HIV関連の病気で若くして亡くなってしまったアーサー・ラッセルさん。
もっと長生きして21世紀を迎えて欲しかったです。
杉原千畝

続いてはアーティストではなく外交官ですが、死後評価され映画化もされた杉原千畝さんです。
第二次世界大戦中に起きた、ユダヤ人のホロコースト。
当時リトアニアの日本領事館領事代理だった杉原千畝さんは、多くのユダヤ人にビザを発給し命を救いました。
杉原千畝 - Wikipedia
本名:杉原千畝(すぎはらちうね)
生年月日:1900年1月1日
没年月日:1986年7月31日
出身地:岐阜県美濃市
1940年7月に、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などは、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていました。
当時のリトアニアはソ連軍に占領されていて、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到します。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知していた杉原千畝さんは、「(ビザの)発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、領事が最適当と認めたもの」を代替案としましたが、本省からは「旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと」の発給条件厳守の指示が繰り返し回電されていました。
ソ連政府や本国からの再三にわたる退去命令を受けながらも、ビザを発給し続けた杉原千畝さん。
ベルリンへの異動命令を受けて、ベルリンに渡る汽車の中でもビザを書き続けました。

ユダヤ人を迫害から救った人物としてドイツ人の実業家のオスカー・シンドラーさんが有名ですが、杉原千畝さんは日本人にもあまり知られていませんでした。
亡くなる3年前の1983年になって、フジテレビが杉原千畝さんと妻の幸子さんと「日本に来たユダヤ人」の著者バルハフティクさんとの面談を含む「運命をわけた1枚のビザ―4,500のユダヤ人を救った日本人」を放送したことで、知名度が上がっていきます。
そして1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。
ただ名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになっていきます。
外務省から冷淡な扱いを受け続け、名誉は回復されないまま1986年に逝去。
杉原千畝さんの発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルさんは、杉原千畝さんが外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、妻の幸子夫人に「日本に行って外務省に抗議する」旨を手紙で伝えています。
日本国政府によって杉原千畝さんの名誉が正式に回復されたのは、2000年10月10日で、死後14年もの月日が経ってからだったのでした。

日本人として世界に誇れる人物に対してあまりにも遅い名誉回復でしたが、妻の幸子さんが2008年までご存命で見届けることが出来たのは、せめてもの救いのように感じます。
保身を捨てて解雇を覚悟で、人命を救った杉原千畝さんの功績はいつまでも語り継がれることでしょう。
まとめ
今回は「死後に評価されたアーティストについて調査」についてご紹介しました。
人並外れた才能をお持ちの方ばかりで、生きている間に評価されていたら…と思わずにはいられません。
でも作品や功績は時代を超えて、いつまでも人々の心の中に感動を呼び続けるでしょう。