初めてのアメリカの旅で1番感動したのが、グリーティングカードの豊富さだった。
「あちらはカードの国だから、スーパーでもいろんなカードが売ってるでしょ。
『ハッピーバースデー』だけでも、ありとあらゆるあげる相手が書いてある。
husband(夫)に、daughter(娘)に、son(息子)、granddaughter(孫娘)、grandson(孫息子)、それをみたときは「わーなんて素敵なのかしら、夢みたい!」と思いました。
だって私がそもそもNHKに入ったのは、子供に上手に絵本を読んであげられるお母さんになりたいというのが動機だったんですから。
いつか結婚して子供ができたときのためにとお小遣いのほとんどをカードで使ってしまいました。
でも結局、どれひとつ使えないまま 、ウンと後になって「あのときのカード、どうしたんだろう」って箱を開けたらノリがベッタリくっついちゃって。
無理に剥がそうとしたらバリバリって破けちゃった」
ニューヨークの後、船はもう1度、サンフランシスコへ寄った。
シカゴ、ケベック、オタワ、ナイアガラ、ニューヨークと10日間持ち歩いた10本のハタキは、くたびて、色が褪せ、薄汚れていたが、買った店には同じものが売っていて、非常に損した気分になった。
そして
「行ったほうがいいですよ」
といわれてディズニーランドへ。
朝一番、開園と同時に入ると
「すごい」
「キレイ」
と大興奮。
大人がここまで夢中になるとは思っていなかった付き添いの人間は、
「後でまた迎えに来ます」
といって途中で帰ってしまったが、結局、22時の閉園まで滞在した。
「生まれて初めてのローラーコースターがマッターホルン・ボブスレー。
でもコースターだけはダメでした。
速いものが苦手なの。
そういうとすぐ「そんなに口は速いのに?」っていわれちゃいますけど。
1番好きなのは潜水艦とイッツ・ア・スモールワールド。
後はなんていう名前だったか忘れちゃったんですけど、暗い中をティンカーベルが先導してくれるアトラクションがあって・・・・
私、本来は暗いところが嫌いなはずなのにティンカーベルが先を行ってくれるだけでワクワクドキドキできたから・・・
それだけでも「ウォルト・ディズニーはすごいんだなあ」と空中を飛びながら思いました。
子供のためにあんなにきれいで楽しいものを提供するなんて。
ウォルト・ディズニーさんを心から尊敬したし、つくづく「アメリカはすごい」と思って日本に帰ってきました」
1960年、20代後半、テレビとラジオのレギュラーが週10本となり、睡眠時間3時間という日々が続いた。
本番中に耳鳴や眩暈がしたため病院にいくと医者に
「過労」
「このままでは死ぬよ」
といわれ、1ヵ月入院。
禁止されていたテレビをみる許可が下りると、ハラハラしながら自分が出ていた番組をチェック。
しかし何事もなかったのように別の人に代わっていたり、渥美清の妻役も
「実家に帰っている」
とされていた。
「死ぬまで病気しない方法はイヤだと思った仕事はしないこと。
やりたいことだけをやりなさい」
という院長先生の言葉を胸に、退院後は8時間の睡眠を確保し、やりたいと思った仕事だけをやるようにした。
ただ
「人にどうみられようと何といわれようとやりたいこと好きなことを貫いて『私はこう!』と開き直るためには、ある程度の経験が必要」
で
「20~30代は40代に個性を確立するための準備期間」
といっている。
1961年、子供向けバラエティ番組「魔法のじゅうたん」の司会となった。
番組のコンセプトは
「子どもたちに最高の夢をみせよう」
で、徹子が
「アブラカダブラ」
のいうと魔法のじゅうたんが子どもたちを乗せて空を飛び回った。
CGがない時代、魔法のじゅうたんが空を飛んでいるシーンは、まずヘリコプターでじゅうたんを空撮し、それに徹子と子どもたちの映像をはめこむ「クロマキー」という技術が使用された。
4月、かねがね舞台出身の俳優の演技力の高さを感じていた徹子は、演技を学ぶためにNHKを退社し、文学座付属演劇研究所の3期生となった。
同期の宮本信子は
「同期生といっても私は18歳で、名古屋から出てきたばっかりで。
徹子さんはもうバリバリで本当に光り輝いていらっしゃった」
といっている。
江守徹も同期生で、このとき18歳。
徹子は
「私は少し年上でしたけど」
といっているが10歳上の28歳だった。
5月、スターが45人も集まって、歌あり、笑いありのコメディドラマ「若い季節」に出演。
歌やコントで構成されたバラエティ番組「夢であいましょう」では、渥美清と組んでコントをやった。
2人は
「お嬢さん」
「兄ちゃん」
と呼び合い、頻繁に映画や食事に出かけ、周囲には渥美が徹子に心を寄せているようにみえた。
「もしかするとそうかもしれません。
今思うとね。
だけど渥美さんにとって私の第1印象はさんざんだったのよ。
初めて共演したとき、本番前なのに私はなぜか台本を持ってなくて、渥美さんが読んでいた台本を『貸して!』ってふんだくって、自分のところを読んで、本番直前にそのまま返したみたいなの。
それで渥美さんは自分のセリフがあるページがどこだかわかんなくなっちゃって困ったそうなのね。
『お嬢さん、あなたはね、そういう人でしたよ』って。
『ウソッ、私そんなことしないわよ』っていったんだけど、したに違いないと思うのね。
でも今、渥美さんの奥さまととても仲良くなって、一緒にご飯食べに行ったりしてます」
1965年年末、「まんが海峡クイズ」という番組で司会を務めた徹子は、「天才バカボン」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」など多くの代表作を持つギャグマンガの大御所、赤塚不二夫と出会った。
このとき2人は20代。
週刊誌が2人のロマンスを取り上げることもあり、3歳上の赤塚は、徹子に恋愛感情があったかもしれないが、結局、50年以上、友人として交流を続けた。
「私が鈍感で気がつかなかったんです。
大阪でお芝居をやったとき、突然楽屋に赤塚さんが現れて「どうしたの?」と聞いたら「来ちゃった」って。
そこで「何しに来たの?」とでも聞いたら違った展開になっていたかもしれないけど、私は「それで、いつ帰るの?」って聞いちゃって。
でも最後まで仲良くして、お互いに笑わせることができたから良かったと思います」
赤塚は、2008年に72歳で他界するが、その少し前、脳内出血で寝たきりになったとき、病室に見舞いにいった徹子は、初めて赤塚さんの手を握った。
そして我慢できなくなって
「ねえ、もうこんなに長いこと寝てるんだから、いいかげん起きたら?」
と大きな声でいってしまった。
すると赤塚の顔は明らかに変化。
妻の真知子は
「笑ってる!
これ笑うときしか出来ないシワです。
絶対笑ってます」
といった。
徹子も
「表現できないだけでちゃんと全部わかってるんだろうなあ」
と思った。
徹子は、仕事があるから恋愛や結婚をやめるというのではなく、むしろ恋愛優先と思っていた。
好きな男性のタイプは、仕事を夢中にやっている人。
そして
「ショーン・コネリーとかヨン様(ペ・ヨンジュン )みたいに」
エレガントで平和的な男性が好き。
残酷で暴力的なのはダメ。
そしてどちらかというと年上のほうが好きだった。
たくさんのお見合い話があり、実際に3回、お見合いをしたが、人生で最初に結婚を考えたのは、その3回目のお見合い相手の脳外科医。
「正直いうとお見合い相手よりお父様のほうが私の趣味でした」
と相手の父親が素敵だったことが
「結婚してもいいかな」
と思った理由の1つだった。
相手もとてもいい人で、相手の母親にも気に入ってもらい、何の問題もなく、ほとんど結婚する運びになり、自分の母親に
「お嫁に行ったらもうあげられないから」
と4枚もコートをもらった。
その中の1枚は、薄いピンク色で、すごく気に入って毎日着ていた。
ところがもうすぐ結納という時期に仕事場で作曲家に
「結婚したら、その相手とずっと一緒に暮らすわけだから、何か1つ嫌なとこがあったらやめておいたほうがいいね」
といわれた。
「えーそうか」
と思って素直に考えてみると、相手の歩き方が気に入らないことに気づいた。
それともう1つ、ずっと心に引っかかっていたのが
「お見合い結婚って結婚した後に恋愛すればいいっていうけれど、もし結婚式場を出たところで『うわあ、この人と結婚したい!』と思えるような人と出会っちゃたらどうなるんだろう」
ということ。
結局、自分の母親に
「私、やめる」
というとあっさり
「そうね。
そのほうがいいわね」
と許してもらった。
しかしその後、ピンクのコートを着る度に
「結婚詐欺!」
といわれた。
恋愛に関して、最初は
「風と共に去りぬのクラーク・ゲーブルのような」
ルックスのよい男性に憧れていたが、
「男らしくみえる人でも小心者だったり、見た目と中身にギャップがあることが圧倒的に多い」
ということに気づくと
「見場が悪い人のほうが得」
と思うようになった。
「それは女の人にもいえることで、例えば会社に新人社員で入ったとして、見場がいい人はチヤホヤされるのに見場があまりよくないとゾンザイに扱われるってあるでしょう?
でもそういうことがあるとかえって燃えるというか、自分の道は自分で切り開こうと思えるじゃない。
見場のいい人みたいに大事にされて、その状況に甘んじてしまったら、そのときはいいけど成長はあまりしないと思うの。
それに男も女もある年齢になったら必ず、中身で勝負のときが来ます。
そのときが見場のよくない人のチャンスです。
人と自分を比べないことも大切ね。
比べたらキリがないの。
『なんであの人はきれいなの』『あの人のボーイフレンドお金持ちでいいわね』なんて人と比べていいことは何もない。
私は私。
自分でやれることは自分でやっていく。
女の子たちには、そんなふうに生きてほしいわね」
1970年、帝国劇場でミュージカル「スカーレット」に出演。
このときブロードウェイのスタッフと親しくなり、
「ぜひニューヨークにいらっしゃい!」
と誘われた。
25~30歳前半の徹子は、毎日仕事、仕事で
「休まなくちゃ」
とばかり考えていた。
そして
「シワをつくらないようにしなきゃ」
「年齢にふさわしいブランド物を身につけなくちゃ」
など外見的なことよりも、どちらかというと内面的なことで焦りがあり、絵を観たり、展覧会にいったり、本を読んだり、そういう心磨きのようなことに夢中だった。
この招きを受けて、
「もっと勉強したい」
とニューヨーク留学を決意した。
1971年、NHKの朝のテレビ小説「繭子ひとり」で演じた、青森県出身の働き者の家政婦、田口ケイ役は、そのリアリさに徹子だと気づかない人も多くいた。
10月、1年間休暇をとって、38歳で渡米。
思い切って仕事を休んでニューヨークにいくと、街には仕事のない人がたくさんいて、自分を必要としてくれる人がいて、仕事があるということのありがたさに気づかされた。
「人と自分を比べることは無意味なことだけど、自分が置かれている状況がいかに恵まれているかを知ることは、虚栄心を排除するのにつながるかもしれません。
生きることは大変だし、難しいんだけど『日本はなんて自由なんだ』『自分は仕事があって人に必要とされているだけでも幸せだ』って思えれば、生活なんてつつましくてもいいんじゃない?」
1970年代のアメリカはフェミニズムが台頭していた。
20代前半は、女優という女性にしかできない仕事が多くて、あまり感じなかったが、20代後半になって、いろいろな仕事を始めると
「女だから」
と制約を受けたり、立場の弱さを感じることが多くなり
「ほんと嫌になっちゃう」
と思っていた徹子は、この運動に共感した。
一方で女性活動家たちの中には頑張りすぎて女性らしさがない人もいて
「あんなに頑張ると男の人みたいになっちゃうのかな?」
と不安になったりもした。
メリー・ターサイ演劇スタジオ、ルイジ・ダンススクールで演技やダンスを学び、モノローグ(登場人物が相手なしで心中の思いなどをしゃべるセリフ)のレッスンでは
「私、気がついていなかった。
時がこんなに早く過ぎていくなんて。
お互いの顔を見合わす暇もないくらい。
さようなら、ママのひまわりも、私の栗の木も。
さようなら。
私の小さな町。
何もかもが懐かしい・・・」
と映画にもなったアメリカの戯曲「わが町」の中の主役のエミリーという少女がつぶやくセリフを行った。
すると先生は
「セリフをいわなくていい。
代わりにABCDとアルファベットでいうだけでいい。
ただ感情だけはちゃんと込めてね」
と指示。
その後、「ABC」だけで一生懸命、「本当の幸せとは何か」という感情を伝えようとした。
やり終えると驚いたことに、先生を含め、そこにいたみんなが泣いていた。
この「本当に感情を表現できたら思いは伝わる」という体験は、後のユニセフの活動でも役立った。
世界中を回って子供たちに話しかけるとき、徹子はたいて日本語で語りかけたが、あるとき下痢による脱水症状で老人のようにシワシワになっていた女の子に症状を止める飲み物を手渡しながら
「飲まなきゃダメよ。
死んじゃうんだから」
と気持ちを込めていった。
すると女の子は、一生懸命に飲み始めた。
学校が終わった後、アフターファイブは
「絶対にウケる」
という着物姿でパーティーやディナーなど積極的に社交の場に足を運んだ。
ニューヨークで友人となったヘアメイクアーティスト・須賀勇介と
「マリー・アントワネットのような髪型
「着物と洋服、どちらにも似合う髪型」
をテーマに「タマネギヘア」を開発。
やがてこのタマネギヘアは、
「子供たちに会ったときにプレゼントするため」
にキャンディーを入れるなど小物入れとしても活用するようになった。
大事な書類や海外へ行くときにパスポートも入れることもある。
2001年、ジブリ映画「千と千尋の神隠し」が公開されると、湯婆婆のモデルはといわれた。
日本のテレビの誕生、創世記、そして現在に至るまで活躍し続け、人間ドックで受けたときに、なぜか食べ物の消化が通常より4倍早いことが発覚した徹子は、本当に優しい心を持った魔女なのかもしれない。
またこのニューヨークで
「キツいからいらない」
と外したのをきっかけに、徹子は現在に至るまでノーブラを続けている。
テレビで白いドレスを着用したとき、乳首が透けたときもティッシュを挟んで対応。
『垂れるのでは?』
と聞かれると
「胸が下がってくることを恐れるなんてことは、ある年になってくるとどうでもいいことになる」
と答えた。
38歳の徹子は、このニューヨーク滞在中、42歳の外国人男性に
「一緒にパリに来てくれないか」
といわれたが、仕事を辞める決断ができず、断った。
そして帰国後、FAXなどで連絡を取り合い、年に1~2度、海外で会うという遠距離恋愛を続けた。
徹子は彼が誰か明かさず
「別々に住んでいてたまに会うだけというなら結婚する必要もないでしょう?」
「私みたいに変なっぽい人を、変なっぽい人と思わないでみてくれた。
良い恋愛をすると、別れても、その人が死んでも、いつまでも生きていくことができる」
といっているが、この男性はブルガリア人ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg)で、彼が2012年にスイスで亡くなるまで遠距離恋愛は40年間続いたといわれている。