「子どもの頃から、学校でも家庭でも人格を大切にしてもらったお陰で、自分が何ができるかはわからないけど「何かはできるだろう」とずっと思ってきました。
自己肯定感を育んでもらったことが大きかったと思います」
という徹子の父は、NHK交響楽団のコンサートマスター(指揮者)でヴァイオリニストの黒柳守綱。
母は、エッセイストの黒柳朝。
弟は、ヴァイオリニストの黒柳紀明。
妹は、バレリーナでエッセイストの黒柳眞理。
伯父は、日本ニュースのニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治。
年末、NHK交響楽団が第9のコンサートを開いたとき、コンサートマスターだった22歳の父親とコーラスとしてやってきた音大生、19歳の母親が出会った。
このコンサートのコーラスは全員、ボランティアの音大生。
そのたくさんいるコーラスの中から、父は母に一目惚れ。
日比谷公会堂でのコンサートの後、
「お茶を飲みにいかない」
と誘った。
喫茶店では山盛りのサクランボを出され
「サクランボ、好き?」
と聞かれた母は
(こんなおいしいもの、誰でも好きだろ)
と思いながら
「大好き」
と答えた。
そして喫茶店で話し込んだ後、
「僕の部屋に来ない」
と誘われ、喫茶店の上のアパートに行ってみるとワンルームの部屋にベッドと長椅子があるだけだった。
「私、帰ります」
「もう電車ないよ」
北海道の実家から出てきて、麹町の親類の家に住みながら学校に通っていた母は、ここがすごく遠い場所だとしかわからず、タクシー代もなく、部屋に残るしかなかった。
そしてその後もしばらすそこにいた。
父は出かけるとき、外からもカギをかけた。
「もう監禁よね!」
(黒柳徹子)
そんなプレイボーイだった父親だが、仕事にはとても厳しかった。
若い頃、天才ヴァイオリニストと呼ばれ、21歳でNHK交響楽団のコンサートマスターとなるとミスをした団員をにらみつけ
「みんな死に物狂いで弾いているのに、なんで間違えるんだ」
と怒り、
「怖い」
と恐れられていた。
徹子いわく
「特にヴァイオリンに関しては鬼だった」
という父は、家でヴァイオリンのレッスンを行った後、帰りの玄関で生徒が
「先生、今日は天気がいいですね」
というと急に怒り出した。
「今、君が考えなければならないのはヴァイオリンのことであって天気のことじゃない。
そんなことどうだっていいじゃないか」
また結婚後は、1度も浮気をしなかった。
とにかく仕事以外は母といつも一緒にいた。
父が他界したとき母は70歳で
「いつもママきれい、ママきれいっていってくれてたけど、そういってくれるパパがいなくなったら、私なんてただのおばあちゃんじゃない。
せめてもうちょっと早く死んでくれれば私だってまだ次のチャンスがあったのに」
といい、その後、アメリカに住んだり、公演活動をしながら95歳まで生きた。
6歳のとき、徹子は日曜学校の演劇でキリスト役に抜擢された。
3人の賢者が天使にに導かれてキリストが生まれた馬小屋にたどり着き、3つの贈り物をするという場面。
マリア様に抱かれた徹子は、羊役の子供にの顔の前にティッシュペーパーを突きつけた。
「アナタ、羊でしょ。
食べなさい」
「イエス様はそんなことなさいません!」
牧師にキリスト役を降ろされ、羊役になると
「チリ紙ちょうだい」
といいながらキリストの足をくすぐって羊役からも降ろされた。
1939年4月、東京、大田区の公立小学校に入学。
3ヵ月後の7月、
母親が呼び出され「お嬢さんがいるとクラス中の迷惑になります」
といわれて退学。
現在でいうADHD、ASD、LDなどの障害のある子供と判断されたのかもしれない。
日本初のリトミック教育(音楽、演劇、ダンスなどを多用して楽しく学ぶ教育)を導入した自由が丘のトモエ学園に転校。
初めて会った小林宗作校長に
「君は本当はいい子なんだよ」
といわれたことや、教室が廃車になった電車だったことが気に入った。
トモエ学園の授業は、子どもたちの興味や個性を尊重し、席も時間割も自由。
その日の気分で好きな席に座り、各自のペースで勉強し、校外学習も多かった。
この斬新で自由なスタイルの下、徹子は友達と一緒にノビノビと元気よく育っていった。
「義経と弁慶」の演劇をすることになたとき、
「私、かわいかったので」
主役の義経に抜擢。
関所で
「義経と弁慶ではないか」
と疑われ、そうでないことを証明するために弁慶が義経を殴るシーンで、弁慶役にブタれた徹子は反射的に足にかみついてしまい、山伏役に降格。
5人の山伏が
「♪お山は晴天♪」
と歌いながら山を登るシーンで金剛杖で指揮をとってしまい、山伏役も降ろされた。
1941年12月、日本がアメリカを奇襲攻撃したことで太平洋戦争が勃発。
家には父親が東洋蘭の栽培をするための温室があって、そこに防空壕を掘って、空襲警報が鳴る度、家族はそこに避難していた。
あるとき防空壕の中で大きなガマガエルを見つけた母親は、素手でつかんで父親にくっつけた。
ガマガエルが嫌いな父親は、警報が鳴る中、何度も防空壕から出そうになった。
それをみて徹子たちは小声で笑った。
戦争が始まると、その日その日に必死で、楽しいことや笑うことは少なくなっていた。
テレビはまだなく、国はラジオで国民に
「日本は勝っている」
と伝えていたが、トモエ学園でも避難する数が増え、小学生の徹子は
「勝っているなんていうわりにしょっちゅう空襲がくるんだな」
と不思議に思った。
学校は毎日あったが店は全部閉まっていて、食料は配給のみ。
「これしかないから考えて食べてね」
と母親に渡される大豆15粒が1日のゴハンで常に空腹だった。
やがて大豆も配給されなくなると栄養失調になり、体中におできができて、爪の下が腫れて膿んできた。
1944年、敵国の音楽として演奏ができない状況が続いていた父親に召集令状が届き、麻布の第3連隊に入隊。
ガマガエルをくっつける相手がいなくなった母親はさみしくなった。
戦争中、自由が丘の駅で戦地に赴く兵隊を旗を振って見送ると裂いたスルメを1本もらえた。
だから徹子も駅に人が集まっているとその中に入っていった。
「ただスルメが欲しかったのです。
後になって、そのことが私の中に大きな罪の意識として残りました。
私が送った兵隊さんの中には戦死して帰ってこなかった人もいた・・・」
徹子は、
「戦争は幸せの真逆にあるもの。
楽しいもの、愛するもの、美しいものを奪ってしまう」
といい、戦争の恐ろしさを伝えていくもの、自分の使命だと自覚している。
1945年3月10日、東京大空襲でトモエ学園は焼失。
前年の夏休みに北海道旅行をした帰り、汽車で隣り合わせた青森県の農家の「おじさん」を頼って、祖母、母、弟、妹と疎開。
魚が食べられるようになって、栄養失調はすぐに治った。
「戦時中、私は栄養失調で、おできが体中にできていました。
それが膿んで、全身がドキンドキンと脈打つあの感覚。
疎開先の青森でお魚を食べたら、おできがすぐ治って、タンパク質の大切さを痛感しました 」
疎開中、子供はリンゴの袋貼りをやらされたが、他の子供がすぐに飽きてやめてしまう中
「飽きない性分なの」
という徹子は延々と続け
「おめ、飽ぎねーのか?」
と聞かれても
「飽ぎね」
と答え、いつまでも作業を続けた。
「テレビの出演料と同じくらいお金をいただけるなら『職業・袋貼り』でもいいくらい!」
1945年8月、終戦後に東京に戻ったが、父親は捕虜としてシベリアにいた。
母親の友人が家を訪ねてきたとき、留守番をしていた徹子は玄関に座り
「母はただいま出かけております。
父はシベリアにいっております。
おことづけがあれば伺います。
ただシベリアの父への伝言はいつになるかわかりません」
と対応し
「お利口ね」
とホメてもらった。
1949年4月、イギリス系のミッションスクール(キリスト教の教えを教育理念に掲げている学校)、香蘭女学校に入学。
同年11月22日、父、黒柳守綱がシベリアから復員。
日本に向かう引揚船、高砂丸の中で、疲れ切った人々を励ますようにバイオリンを弾いた。
徹子は父親に笑顔で駆け寄っていった。
すると父親は
「ただいま、トット助!」
とうれしそうにいった。
両親は共に美形で、家に来たお客様にあいさつしたときに
「あら、お父さんもお母さんもおキレイなのにね」
と少し失礼なことをいわれたことがあったが、母親が即座に
「素直なだけが取り柄です」
というのを聞いて
(きれいより素直なのがいいんだ)
と思った。
徹子は、誰に対してもきちんとした敬語で話し、その言葉遣いが非常にうまい。
それは日本語学者の大野普が
「テレビに出ている人の中では1番敬語がうまい」
と評するほどだが、キレイな言葉を使うことを意識するのようになったのは、中高を過ごした香蘭女学校。
この学校では、乱暴な言葉を使っていると
「あなた、駅で乱暴な言葉を使ってらっしゃったんじゃない?
お気をつけにならないと。
香蘭の生徒として恥ずかしいとお思いにならない?」
と上級生から注意されるという厳しい伝統と環境があった。
そして正しい敬語を意識し始めた徹子は、
『そうよ』
は
「そうですよ」
に
『食べる?』
は
「召し上がる?」
に
『そっち、そっちに回って』
は
「そちらよ、そちらにお回りになって」
に変化。
最終的には
「~あそばせ」
をさりげなく使えることを目指した。
「敬語が難しいのは、複数の偉い方が一堂に会したときね。
私の場合、ご成婚記念で横浜にこどもの国というのができて、皇后陛下と皇太子様がいらしゃって、そこにさらにゲストの方々がいらして、会場のお客さんにも敬語を使わねきゃならないときに司会したのがかなり大変でした。
インドのネルー首相から象が寄贈されていて、紹介したんですけど、『さあ、いよいよ象が会場にいらっしゃいます』なんて動物にまで敬語を使ったりしてね」
正しい日本語に敏感な徹子は、よくやめてほしいと思う言葉遣いに遭遇する。
例えば、おいしいものを食べたときに
「ヤバい」
ということ。
「『ヤバい』ってコワい職業の方が危ないときに使う言葉でしょ?
『自分を見失うくらいおいしい』ってことを表現したいなら、なんか自分流のホメ言葉をつくるとかね」
当然、汚い言葉や人を罵倒する言葉も嫌いで
「自分の顔がどんなにブスでも『うわあ、ブス』なんて口にはしません」
といっている。
この頃はとにかく映画少女で
「美しいもの、豊かなものへの憧れはモノがなかったからこそ強まったのでしょう。
私は戦争が終わった10代の頃、食べ物より映画の中に出てくるファッションやインテリアに夢中になりました。
目に入ってくるファッションやインテリアに夢中になりました。
当時はフランス映画を貪るように観ました」
といっている。
また
「優れた音楽は人の心を豊かにしてくれるものです」
といい、映画だけでなく音楽も好き。
中でも幼い頃から親しんだクラシック音楽が大好き。
大人になって「紅白歌合戦」や「ザ・ベストテン」の司会をして歌謡曲やポップスもたくさん聴くことになったが、それでも家でいるときはクラシック音楽しか聴かなかった。
「なぜかというと歌詞がある曲っていうのは、どうしても詞に左右されてしまうのね。
例えば失恋の歌だとか、いろいろ余計なことを考えてしまうじゃない?
いろんなことにどんどん心が動いちゃっうとか。
でもクラシックなら、たとえ落ち込んでいるときでも聴いていれば、たいていが気が晴れてくる感じがするんです」
クラシック音楽の魅力を
「作曲家の人生って結構悲惨で、ベートーベンは途中で耳が聞こえなくなって自殺を考えたり、モーツァルトも随分貧しい生活を送ったようで、最後は無名墓地。
それでも命を削るようにして素晴らしい曲を残したんです。
だからこそ受け継がれてきて、クラシック音楽というのは永遠なんでしょう。
クラシックがさらに贅沢なのは、作曲家だけでなく演奏家の方もプロになるまですごく時間とお金がかかっていることね。
世界の有名な楽団に所属している演奏家はみんな幼い頃からちゃんとした先生について、そこから留学したり、コンクールで勝ち抜いたりしているわけです。
そういう選りすぐりのプロの人たちの演奏が悪かろうはずがない。
たくさんの人が集まって1つの曲を呼吸と心を合わせて演奏する。
それだけでも素晴らしいのに、目の前で起こっていること以外にも作曲家や演奏家のたくさんの時間の積み重ねがあるのがクラシックなのです」
と語る徹子は、父親の仕事をみてクラシック音楽の大変さを知った。
だから芸事に対して厳しい目を持っていて、「徹子の部屋」でお笑い芸人にムチャぶりやキツい一言を浴びせてしまうこともあり、
「芸人キラー」
「芸人潰し」
と恐れられている。
1953年2月、そんな徹子は、オペラ「トスカ」を観て
「歌手になりたい」
と思って東洋音楽大学(現:東京音楽大学)に進んだ。
そして在学中、オーケストラの演奏に加え、豪華な衣装を着た俳優が芝居をしながら歌い、コーラスやバレエまで入るオペラに魅了された。
そして
「弟子入りという感じで・・・」
日本人として初めてニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招聘されて演出を行った青山圭男の仕事場について回った。
しばらく修業した結果、
「オペラ演出家は向いていない」
と自覚。
「音楽評論家はどうだろう」
とも思ったが、
「私、シューベルトの「未完成交響曲」とチャイコフスキーの「悲愴」を聴いても、どっちがどっちかわかないのよね。
子供のころから毎日、聴きすぎて。
それで諦めました」
そして今度は
「子供に上手に絵本を読んでやれるお母さんになりたい」
と思い、NHK放送劇団の俳優募集に応募。
持参するべき履歴書を郵送してしまったり、筆記試験の会場を間違えて遅刻し、問題がわからず答案用紙の裏まで自分の長所を書き、面接では
「親にいったらこんなみっともない仕事と・・・」
「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろと・・・」
などといいながら、約6,000人中、13人の合格者の1人になった。
養成所としては第5期生だが、テレビ俳優としては第1期生で、翌年のテレビ放送開始に向けて養成を受けた。
そしてテレビ放送が始まると通行人などに駆り出されたが
「個性が邪魔!」
「個性、引っ込めて!」
といわれて役を降ろされることもしばしば。
ラジオドラマでも劇作家に、
「日本語がヘン」
といわれてガヤガヤ要員に。
ガヤガヤ要員とは「その他大勢」とか「群衆の声」のことで、例えばドラマの中で誰かが倒れたら
「あれ?」
「どうしたんですか?」
などと訛りや声を変えながら1人で何役もしなければならず
「もっと小さな声で」
「もっとくぐもった声で」
と注意されてガヤガヤ要員からも降ろされることもあった。
そんな憂鬱な時期だったが、本読みのために通っていた劇作家の家で、劇作家の娘がいろんなことがあって家にこもっていることを知ると、すぐに部屋を伺って挨拶をした。
「あーら、お嬢様でいらっしゃいますか?
オホホホホ。
私、黒柳徹子と申します」
娘は
「彼女が入ってきたとき、まわりが明るくなって、パアッとお花畑が広がったようだった」
という。
この時代、大卒の平均月給は9千円。
そしてテレビは、1台25万円もした。
日本国内にあったテレビの台数は866台で、すべて白黒だった。
「私がよく覚えているのは、当時、アメリカのテレビから偉い人(NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティー)がいらして
『テレビは世の中を変える力を持っている。
永久的な平和を手に入れる鍵もテレビが握っている』
という話をされたんです。
私はこの言葉を信じてテレビをやってきました」
そんなテレビの仕事に使命を感じる徹子は、初めて舞台でカメラの前に立ったとき
「ここが好き!」
と感じたという。
ただその後、何度舞台に立っても、自分の周囲を含め、俳優なら誰でも必ずみるという
「舞台でセリフを忘れて恐怖で立ち尽くす」
という夢をみることがなく
「きっと鈍感なんだわ」
と思っていた。
しかしあるとき、ついにその夢をみた。
それは芝居をやろうと思ったが台本に何も書いていないという夢。
夢をみながら
「わあ、私もみた」
と思っていたが、夢の中の自分は舞台に出ていって
「今日は台本がありませんから違う話をします」
といい、目が覚めたとき
「私、緊張しなくてやんなっちゃう」
と思った。
ちなみに徹子は、これまでの人生で9回くらいしか夢をみていないという。
日本のテレビの技術は急激に進歩し、最初は生放送しかできなかったものが収録が可能になった。
それでも編集はできず、1本の番組は最初から最後まで撮るしかなく、ミスが出たら撮り直しとなった。
こうしてニュースやバラエティなど、徐々に番組が充実してきた日本の白黒テレビ放送だったが、アメリカでは1947年にカラーテレビ放送が開始されており、日本でもカラーテレビ放送を行うべきという意見が挙がり、NHK技術研究所は、1951年からカラーテレビの実用化を目指して実験を始めた。
徹子も実験要員として駆り出され、
「モデルになってほしい」
といわれ研究所に着くと、すぐに顔の右半分を紫色に塗られた。
「せめてピンク色にしてください」
と頼んだが
「ダメなの、今日は紫色の日だから」
とわれ、左半分には白色に塗られ、シマウマのような顔でカメラの前に立たされた。
1954年、東洋音楽大学を卒業後、ラジオドラマ「ヤン坊 ニン坊 トン坊」のオーディションを受けた。
募集要件は
「大人で子供の声が出せる人」
これまで
「個性を引っ込めて」
といわれ続けていた徹子だったが、このオーディションで審査員をしていた飯沢匡に
「あなたの個性が必要なんです。
そのままでいてください」
といわれて合格し、トン坊役でブレイク。
以降、テレビ人形劇「チロリン村とくるみの木」、「ブーフーウー」でもさまざまなキャラクターの声を演じて一躍有名になった。
飯沢匡、本名、伊澤 紀は、警視総監、貴族院議員、台湾総督を歴任した官僚政治家を父親に持ちながら、勉強嫌いで落第も経験し、最終的に美術専門学校を卒業。
朝日新聞東京本社入社後、アルバイトでNHKの台本を書いているのがバレないように
「印刷しては別人にみえ、発音すると本名のように聞こえる名」
ということで、
「伊澤 紀 (いざわただす) 」
という本名に対し
「 飯沢匡(いいざわただす)」
とペンネームをつけた。
戦後、朝日新聞で「婦人朝日」「アサヒグラフ」編集長を務めた。
広島に落とされた新型爆弾の暴こうと占領軍の目をくぐって手に入れ隠し持っていた巨大なキノコ雲の写真をアサヒグラフに掲載し、世界で初めて原爆の悲惨さを伝えたといわれている。
朝日新聞を退社後、「ヤン坊 ニン坊 トン坊」のオーディションを行ったが、以後も劇作家としても人道主義を貫きながら、子供番組や政治風刺劇を作成。
「私が最初にお会いしたのが40歳と少しくらいだった」
という徹子は、ずっと師弟関係を続け、ラジオ・テレビ・舞台と多くの作品を競作した。
1958年、徹子は、テレビドラマ「お父さんの季節」で渥美清の妻役に。
同年12月、「第9回紅白歌合戦」で初司会。
当時、紅白歌合戦は現在ほどステータスがなく、歌手は自分の年末のコンサートと掛け持ちで生放送に出場。
それらが到着して、着替えて化粧をし直す間、司会はとにかくつながなくてはならず、徹子はエキストラの犬に
「オスですか?
メスですか?
メスなら紅組の応援になりますけど」
と話しかけて時間を稼いだ。
この初となる紅白の司会から22年後、1980年に「第31回NHK紅白歌合戦」で2回目。
それから81、82、83年と4年連続、司会を務めた。
さらに32年後の2015年、「第66回NHK紅白歌合戦」で通算6度目。
これはNHKアナウンサー以外の女性として最多記録である。
1959年6月、アメリカで、大西洋とミシガン湖を結ぶセントローレンス海路が開通。
NHK女優第1号としてアイドルのような扱いでテレビに出ていた徹子は、東京都知事からのメッセージをシカゴ市長に渡すという大役を仰せつかって初渡米。
まずハワイに寄って給油した後、サンフランシスコで1泊したが、進駐軍以外の外国人がたくさんいることに驚き、黒人のポーターにチップをあげて
「Thank You!」
といわれ
「面白ーい」
と思った。
またサンフランシスコの街を歩いていると、みたことのないようなキレイなハタキを売っているのを発見。
「ピンクやブルーや紫のボカシが入っていて、フワフワでとってもかわいいの」
友人へのお土産にしようと思い、帰りにもう1度サンフランシスコに寄ることになっていたが
「売り切れたら困る」
と10本ほど購入。
スーツケースの中に入らなっかったため、以後ずっと移動の度に手で持ち歩いた。
セントローレンス海路でのセレモニーが終わると、ニューヨーク観光を勧められ、ブロードウエイでミュージカルを初体験した。
「マイ・フェア・レディ!!!
映画「マイ・フェア・レディ」でもヒギンス教授役を演じたレックス・ハリソンと「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースが共演していて、もうね、ひえ~~~って。
本当に打ちのめされました。
歌と踊りはもちろん素晴らしいんですけど、それだけじゃなくて、舞台装置も立派だし、衣装も素敵で、オーケストラも大迫力で、第一、演技がすごいでしょう。
こんなの日本ではできっこないと思いました。
それから私はただの1度も自分から「ミュージカルがやりたい」といったことはありません。
もちろん最近は日本でも質の高いミュージカルが上演されていますし、私も何本かミュージカルに出演していますけど、当時は本当にビックリしたんです。
こんなに豪華で迫力のあるエンターテインメントがあるのかと」
初めてのアメリカの旅で1番感動したのが、グリーティングカードの豊富さだった。
「あちらはカードの国だから、スーパーでもいろんなカードが売ってるでしょ。
『ハッピーバースデー』だけでも、ありとあらゆるあげる相手が書いてある。
husband(夫)に、daughter(娘)に、son(息子)、granddaughter(孫娘)、grandson(孫息子)、それをみたときは「わーなんて素敵なのかしら、夢みたい!」と思いました。
だって私がそもそもNHKに入ったのは、子供に上手に絵本を読んであげられるお母さんになりたいというのが動機だったんですから。
いつか結婚して子供ができたときのためにとお小遣いのほとんどをカードで使ってしまいました。
でも結局、どれひとつ使えないまま 、ウンと後になって「あのときのカード、どうしたんだろう」って箱を開けたらノリがベッタリくっついちゃって。
無理に剥がそうとしたらバリバリって破けちゃった」
ニューヨークの後、船はもう1度、サンフランシスコへ寄った。
シカゴ、ケベック、オタワ、ナイアガラ、ニューヨークと10日間持ち歩いた10本のハタキは、くたびて、色が褪せ、薄汚れていたが、買った店には同じものが売っていて、非常に損した気分になった。
そして
「行ったほうがいいですよ」
といわれてディズニーランドへ。
朝一番、開園と同時に入ると
「すごい」
「キレイ」
と大興奮。
大人がここまで夢中になるとは思っていなかった付き添いの人間は、
「後でまた迎えに来ます」
といって途中で帰ってしまったが、結局、22時の閉園まで滞在した。
「生まれて初めてのローラーコースターがマッターホルン・ボブスレー。
でもコースターだけはダメでした。
速いものが苦手なの。
そういうとすぐ「そんなに口は速いのに?」っていわれちゃいますけど。
1番好きなのは潜水艦とイッツ・ア・スモールワールド。
後はなんていう名前だったか忘れちゃったんですけど、暗い中をティンカーベルが先導してくれるアトラクションがあって・・・・
私、本来は暗いところが嫌いなはずなのにティンカーベルが先を行ってくれるだけでワクワクドキドキできたから・・・
それだけでも「ウォルト・ディズニーはすごいんだなあ」と空中を飛びながら思いました。
子供のためにあんなにきれいで楽しいものを提供するなんて。
ウォルト・ディズニーさんを心から尊敬したし、つくづく「アメリカはすごい」と思って日本に帰ってきました」
1960年、20代後半、テレビとラジオのレギュラーが週10本となり、睡眠時間3時間という日々が続いた。
本番中に耳鳴や眩暈がしたため病院にいくと医者に
「過労」
「このままでは死ぬよ」
といわれ、1ヵ月入院。
禁止されていたテレビをみる許可が下りると、ハラハラしながら自分が出ていた番組をチェック。
しかし何事もなかったのように別の人に代わっていたり、渥美清の妻役も
「実家に帰っている」
とされていた。
「死ぬまで病気しない方法はイヤだと思った仕事はしないこと。
やりたいことだけをやりなさい」
という院長先生の言葉を胸に、退院後は8時間の睡眠を確保し、やりたいと思った仕事だけをやるようにした。
ただ
「人にどうみられようと何といわれようとやりたいこと好きなことを貫いて『私はこう!』と開き直るためには、ある程度の経験が必要」
で
「20~30代は40代に個性を確立するための準備期間」
といっている。
1961年、子供向けバラエティ番組「魔法のじゅうたん」の司会となった。
番組のコンセプトは
「子どもたちに最高の夢をみせよう」
で、徹子が
「アブラカダブラ」
のいうと魔法のじゅうたんが子どもたちを乗せて空を飛び回った。
CGがない時代、魔法のじゅうたんが空を飛んでいるシーンは、まずヘリコプターでじゅうたんを空撮し、それに徹子と子どもたちの映像をはめこむ「クロマキー」という技術が使用された。
4月、かねがね舞台出身の俳優の演技力の高さを感じていた徹子は、演技を学ぶためにNHKを退社し、文学座付属演劇研究所の3期生となった。
同期の宮本信子は
「同期生といっても私は18歳で、名古屋から出てきたばっかりで。
徹子さんはもうバリバリで本当に光り輝いていらっしゃった」
といっている。
江守徹も同期生で、このとき18歳。
徹子は
「私は少し年上でしたけど」
といっているが10歳上の28歳だった。
5月、スターが45人も集まって、歌あり、笑いありのコメディドラマ「若い季節」に出演。
歌やコントで構成されたバラエティ番組「夢であいましょう」では、渥美清と組んでコントをやった。
2人は
「お嬢さん」
「兄ちゃん」
と呼び合い、頻繁に映画や食事に出かけ、周囲には渥美が徹子に心を寄せているようにみえた。
「もしかするとそうかもしれません。
今思うとね。
だけど渥美さんにとって私の第1印象はさんざんだったのよ。
初めて共演したとき、本番前なのに私はなぜか台本を持ってなくて、渥美さんが読んでいた台本を『貸して!』ってふんだくって、自分のところを読んで、本番直前にそのまま返したみたいなの。
それで渥美さんは自分のセリフがあるページがどこだかわかんなくなっちゃって困ったそうなのね。
『お嬢さん、あなたはね、そういう人でしたよ』って。
『ウソッ、私そんなことしないわよ』っていったんだけど、したに違いないと思うのね。
でも今、渥美さんの奥さまととても仲良くなって、一緒にご飯食べに行ったりしてます」
1965年年末、「まんが海峡クイズ」という番組で司会を務めた徹子は、「天才バカボン」「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」など多くの代表作を持つギャグマンガの大御所、赤塚不二夫と出会った。
このとき2人は20代。
週刊誌が2人のロマンスを取り上げることもあり、3歳上の赤塚は、徹子に恋愛感情があったかもしれないが、結局、50年以上、友人として交流を続けた。
「私が鈍感で気がつかなかったんです。
大阪でお芝居をやったとき、突然楽屋に赤塚さんが現れて「どうしたの?」と聞いたら「来ちゃった」って。
そこで「何しに来たの?」とでも聞いたら違った展開になっていたかもしれないけど、私は「それで、いつ帰るの?」って聞いちゃって。
でも最後まで仲良くして、お互いに笑わせることができたから良かったと思います」
赤塚は、2008年に72歳で他界するが、その少し前、脳内出血で寝たきりになったとき、病室に見舞いにいった徹子は、初めて赤塚さんの手を握った。
そして我慢できなくなって
「ねえ、もうこんなに長いこと寝てるんだから、いいかげん起きたら?」
と大きな声でいってしまった。
すると赤塚の顔は明らかに変化。
妻の真知子は
「笑ってる!
これ笑うときしか出来ないシワです。
絶対笑ってます」
といった。
徹子も
「表現できないだけでちゃんと全部わかってるんだろうなあ」
と思った。
徹子は、仕事があるから恋愛や結婚をやめるというのではなく、むしろ恋愛優先と思っていた。
好きな男性のタイプは、仕事を夢中にやっている人。
そして
「ショーン・コネリーとかヨン様(ペ・ヨンジュン )みたいに」
エレガントで平和的な男性が好き。
残酷で暴力的なのはダメ。
そしてどちらかというと年上のほうが好きだった。
たくさんのお見合い話があり、実際に3回、お見合いをしたが、人生で最初に結婚を考えたのは、その3回目のお見合い相手の脳外科医。
「正直いうとお見合い相手よりお父様のほうが私の趣味でした」
と相手の父親が素敵だったことが
「結婚してもいいかな」
と思った理由の1つだった。
相手もとてもいい人で、相手の母親にも気に入ってもらい、何の問題もなく、ほとんど結婚する運びになり、自分の母親に
「お嫁に行ったらもうあげられないから」
と4枚もコートをもらった。
その中の1枚は、薄いピンク色で、すごく気に入って毎日着ていた。
ところがもうすぐ結納という時期に仕事場で作曲家に
「結婚したら、その相手とずっと一緒に暮らすわけだから、何か1つ嫌なとこがあったらやめておいたほうがいいね」
といわれた。
「えーそうか」
と思って素直に考えてみると、相手の歩き方が気に入らないことに気づいた。
それともう1つ、ずっと心に引っかかっていたのが
「お見合い結婚って結婚した後に恋愛すればいいっていうけれど、もし結婚式場を出たところで『うわあ、この人と結婚したい!』と思えるような人と出会っちゃたらどうなるんだろう」
ということ。
結局、自分の母親に
「私、やめる」
というとあっさり
「そうね。
そのほうがいいわね」
と許してもらった。
しかしその後、ピンクのコートを着る度に
「結婚詐欺!」
といわれた。
恋愛に関して、最初は
「風と共に去りぬのクラーク・ゲーブルのような」
ルックスのよい男性に憧れていたが、
「男らしくみえる人でも小心者だったり、見た目と中身にギャップがあることが圧倒的に多い」
ということに気づくと
「見場が悪い人のほうが得」
と思うようになった。
「それは女の人にもいえることで、例えば会社に新人社員で入ったとして、見場がいい人はチヤホヤされるのに見場があまりよくないとゾンザイに扱われるってあるでしょう?
でもそういうことがあるとかえって燃えるというか、自分の道は自分で切り開こうと思えるじゃない。
見場のいい人みたいに大事にされて、その状況に甘んじてしまったら、そのときはいいけど成長はあまりしないと思うの。
それに男も女もある年齢になったら必ず、中身で勝負のときが来ます。
そのときが見場のよくない人のチャンスです。
人と自分を比べないことも大切ね。
比べたらキリがないの。
『なんであの人はきれいなの』『あの人のボーイフレンドお金持ちでいいわね』なんて人と比べていいことは何もない。
私は私。
自分でやれることは自分でやっていく。
女の子たちには、そんなふうに生きてほしいわね」
1970年、帝国劇場でミュージカル「スカーレット」に出演。
このときブロードウェイのスタッフと親しくなり、
「ぜひニューヨークにいらっしゃい!」
と誘われた。
25~30歳前半の徹子は、毎日仕事、仕事で
「休まなくちゃ」
とばかり考えていた。
そして
「シワをつくらないようにしなきゃ」
「年齢にふさわしいブランド物を身につけなくちゃ」
など外見的なことよりも、どちらかというと内面的なことで焦りがあり、絵を観たり、展覧会にいったり、本を読んだり、そういう心磨きのようなことに夢中だった。
この招きを受けて、
「もっと勉強したい」
とニューヨーク留学を決意した。
1971年、NHKの朝のテレビ小説「繭子ひとり」で演じた、青森県出身の働き者の家政婦、田口ケイ役は、そのリアリさに徹子だと気づかない人も多くいた。
10月、1年間休暇をとって、38歳で渡米。
思い切って仕事を休んでニューヨークにいくと、街には仕事のない人がたくさんいて、自分を必要としてくれる人がいて、仕事があるということのありがたさに気づかされた。
「人と自分を比べることは無意味なことだけど、自分が置かれている状況がいかに恵まれているかを知ることは、虚栄心を排除するのにつながるかもしれません。
生きることは大変だし、難しいんだけど『日本はなんて自由なんだ』『自分は仕事があって人に必要とされているだけでも幸せだ』って思えれば、生活なんてつつましくてもいいんじゃない?」
1970年代のアメリカはフェミニズムが台頭していた。
20代前半は、女優という女性にしかできない仕事が多くて、あまり感じなかったが、20代後半になって、いろいろな仕事を始めると
「女だから」
と制約を受けたり、立場の弱さを感じることが多くなり
「ほんと嫌になっちゃう」
と思っていた徹子は、この運動に共感した。
一方で女性活動家たちの中には頑張りすぎて女性らしさがない人もいて
「あんなに頑張ると男の人みたいになっちゃうのかな?」
と不安になったりもした。
メリー・ターサイ演劇スタジオ、ルイジ・ダンススクールで演技やダンスを学び、モノローグ(登場人物が相手なしで心中の思いなどをしゃべるセリフ)のレッスンでは
「私、気がついていなかった。
時がこんなに早く過ぎていくなんて。
お互いの顔を見合わす暇もないくらい。
さようなら、ママのひまわりも、私の栗の木も。
さようなら。
私の小さな町。
何もかもが懐かしい・・・」
と映画にもなったアメリカの戯曲「わが町」の中の主役のエミリーという少女がつぶやくセリフを行った。
すると先生は
「セリフをいわなくていい。
代わりにABCDとアルファベットでいうだけでいい。
ただ感情だけはちゃんと込めてね」
と指示。
その後、「ABC」だけで一生懸命、「本当の幸せとは何か」という感情を伝えようとした。
やり終えると驚いたことに、先生を含め、そこにいたみんなが泣いていた。
この「本当に感情を表現できたら思いは伝わる」という体験は、後のユニセフの活動でも役立った。
世界中を回って子供たちに話しかけるとき、徹子はたいて日本語で語りかけたが、あるとき下痢による脱水症状で老人のようにシワシワになっていた女の子に症状を止める飲み物を手渡しながら
「飲まなきゃダメよ。
死んじゃうんだから」
と気持ちを込めていった。
すると女の子は、一生懸命に飲み始めた。
学校が終わった後、アフターファイブは
「絶対にウケる」
という着物姿でパーティーやディナーなど積極的に社交の場に足を運んだ。
ニューヨークで友人となったヘアメイクアーティスト・須賀勇介と
「マリー・アントワネットのような髪型
「着物と洋服、どちらにも似合う髪型」
をテーマに「タマネギヘア」を開発。
やがてこのタマネギヘアは、
「子供たちに会ったときにプレゼントするため」
にキャンディーを入れるなど小物入れとしても活用するようになった。
大事な書類や海外へ行くときにパスポートも入れることもある。
2001年、ジブリ映画「千と千尋の神隠し」が公開されると、湯婆婆のモデルはといわれた。
日本のテレビの誕生、創世記、そして現在に至るまで活躍し続け、人間ドックで受けたときに、なぜか食べ物の消化が通常より4倍早いことが発覚した徹子は、本当に優しい心を持った魔女なのかもしれない。
またこのニューヨークで
「キツいからいらない」
と外したのをきっかけに、徹子は現在に至るまでノーブラを続けている。
テレビで白いドレスを着用したとき、乳首が透けたときもティッシュを挟んで対応。
『垂れるのでは?』
と聞かれると
「胸が下がってくることを恐れるなんてことは、ある年になってくるとどうでもいいことになる」
と答えた。
38歳の徹子は、このニューヨーク滞在中、42歳の外国人男性に
「一緒にパリに来てくれないか」
といわれたが、仕事を辞める決断ができず、断った。
そして帰国後、FAXなどで連絡を取り合い、年に1~2度、海外で会うという遠距離恋愛を続けた。
徹子は彼が誰か明かさず
「別々に住んでいてたまに会うだけというなら結婚する必要もないでしょう?」
「私みたいに変なっぽい人を、変なっぽい人と思わないでみてくれた。
良い恋愛をすると、別れても、その人が死んでも、いつまでも生きていくことができる」
といっているが、この男性はブルガリア人ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg)で、彼が2012年にスイスで亡くなるまで遠距離恋愛は40年間続いたといわれている。