チャウシェスク大統領のプロフィール

まずはチャウシェスク大統領のプロフィールからご紹介します!
名前:ニコラエ・チャウシェスク
生年月日:1918年1月26日
没年:1989年12月25日
出身地: ルーマニア王国、オルト県スコルニチェシュティ
政党:ルーマニア共産党
家族:妻と子供3人
農家の子供として生まれたチャウシェスクは、11歳の時に首都のブカレストで働き始めます。
その時にまだ誕生したばかりだった共産主義という思想に浸かり始めたのでした。
共産主義は非合法の国も多かった時代、1932年にルーマニア共産党に入党します。
そして何度逮捕されても諦めず、共産主義実現のために働き続けたのでした、
日本でも戦前、戦中の共産主義者は「アカ」として虐げられてきましたが、世界的に見ても迫害されていたのですね。
1945年にルーマニアはソ連に占領され、ソ連の傀儡政権としてルーマニア共産党政権が誕生したのです。
チャウシェスクは、政権のナンバー2として活躍していったのでした。
ソ連に占領されたことが、チャウシェスクの運命を大きく変えていくことになります。

私生活では1943年に刑務所で出会った、エリナ・チャウシェスクと1946年に結婚しています。
ルーマニア共産党のナンバー2として働いていたチャウシェスクですが、1965年に友人でもあり最高指導者だったゲオルデ・デシが死去。
後継者としてチャウシェスクに白羽の矢が立ったのです。

とうとう最高指導者となったチャウシェスクですが、意外にも最初から悪政だった訳ではありません。
ソ連の傀儡政権でありながら、親玉のソ連とは距離を置き、アメリカやヨーロッパと交流し、援助を取り付けたり、交流を持ったりしていました。
また1968年のチェコ事件ではチェコスロバキアへの派遣を拒否し、ソ連を公然と批判しています。
そのためルーマニアは共産主義国として初めて、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が承認した国家でもありました。
IMFやGATTにも加盟し、ルーマニアはもっとも開かれた共産主義国家と言っても過言ではなかったのです。
日本との関係では昭和天皇とも会談していました。

意外にも開かれた外交を行っていたチャウシェスクですが、妻エレンの暴走もあり、負のループに囚われていく事になります。
1971年に中華人民共和国の毛沢東と親交を結んだエレナは、毛沢東の妻の江青が政治に影響力を持っていると知ると、自分も同じような役割を持つ事を望んだのでした。
博士号を持っていたエレナは、自分の科学者としての権威を高めようと、他人に自分の名義で書かせた100以上の論文を発表し、名誉博士号の収集に熱中します。

ゴーストライターを公然と雇う大統領夫人もどうかと思いますが、エレナの行動の中でもっとも悪名高かったのは、人口中絶の禁止です。
子供好きとして有名だったエレナは、避妊と堕胎を禁止し女性に5人以上の子供を産む事を義務付けました。
そしてその事が大量のストリートチルドレンを産む原因となったと言われています。
「人が多いと国が発展する」と勘違いしてしまった為のようですが、完全な人権侵害ですよね。
北朝鮮や中国を訪問したチャウシェスクも、個人崇拝を求めるようになっていき、多くの有能な政治家が国外に亡命していきます。
ビートたけしがネタにしていた美貌の体操選手の「コマネチ」も、アメリカに亡命しています。
独裁者から夜の付き合いと愛人強要されたコマネチさんの悲劇|NEWSポストセブン
コマネチは後に、チャウシェスクの次男のニクから性行為を強要されていたことを告白しています。
また西側から反ソ連の一匹狼と考えられ、ルーマニア経済開発のため、融資を受けてきたチャウシェスクでしたが、この融資がルーマニアの財政を破綻させる原因となってしまったのでした。
多額な債務を返済するため、憲法を改正してルーマニアは将来、外国から融資を受けられないようにしてしまいます。
多額の債務の返済のため、あらゆる農産物や工業用品の輸出を行い、食料は配給制になってしまいました。
食料や暖房費にも事欠き、停電が当たり前になっていく国民生活。
そんな日常に国民の不満は蓄積していったのでした。
革命とチャウシェスクの最後

1989年に入り、東欧革命の波がルーマニアにも波及することを怖れ、チャウシェスクは、ソ連のゴルバチョフに軍事介入を要請しますが、ゴルバチョフに拒否されてしまいます。
その後全国規模で暴動が勃発し、軍隊による弾圧を行おうとしますが、国防大臣ミリャは拒否したのでした。
その後ミリャが不審の死を遂げた事で、それまでチャウシェスクに忠誠を誓っていたルーマニア国軍も反旗を翻します。
同年12月に起きたルーマニア革命で政権は完全に失脚し、チャウシェスク夫妻は逃亡しました。
逃亡先のトゥルゴヴィシュテで、革命軍によって即決で死刑判決を受けたチャウシェスク夫妻はそのまま銃殺刑に処せられたのです。
当時遺体の映像がテレビで流れていて驚愕しましたが、生存説を打ち消すために公開したとのことでした。
1989年12月25日。
享年71歳。
ワルシャワ条約機構加盟国の中で唯一処刑された、国家元首となってしまいました。
エレナの引きつった顔が印象的です…。
まとめ
今回は「ルーマニアの独裁者!公開銃殺されたチャウシェスク大統領の生涯と最後とは?」についてご紹介しました。
途中までは悪政ではなかったのに、道を間違えてしまった事が人生の分岐点になってしまったチャウシェスク夫妻。
日本では昭和から平成に変わった1989年は、世界情勢も激変した年となりました。
これからの時代はみんな平和で暮らせるように、願わずにはいられません。