原田真二「てぃーんずぶるーす」でデビュー
”原田真二”さんは広島で「父は英語塾の講師、母は小学校の国語教師」という家庭に育ち、小学校高学年から音楽に興味を持ち中・高校生になると「エルビス・プレスリー、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー」などを好む洋楽志向になったそうです。
高校2年生の時に「フォーライフ・レコード新人オーディション」に応募し”吉田拓郎”さんの目に留まり3000曲の中から選ばれ合格。
オーディションに送ったデモテープは、作詞作曲・アレンジを自分でしピアノ、ギター、シンセサイザーを一人でこなした多重録音がされていたそうです。その当時の年齢は17歳!
転機となった高校2年生 デビュー前の貴重な映像をNHKの番組で紹介していました。
デビュー前!原田真二さん、高校2年生の映像発掘! | NHK番組発掘プロジェクト通信
「普通の歌手というのでは無くて、要するにシンガーソングライターというか、自分の曲で勝負して道を切り拓いていきたい、そういう願いなんです。」
高校2年生ですでに明確なビジョンをもたれている原田さん凄いですね!
デビュー前 高校3年生の夏休みにレコード会社の招待で上京し、プロのスタジオで3曲ほど多重録音をさせてもらえる機会があったが、スタジオには”吉田拓郎”さん、”井上陽水”さん、”小室等”さん、”泉谷しげる”さんら、当時のフォーライフの大御所たちが見学に来られていて大変なプレッシャーの中での初めてのレコーディングだったそうです。
1977年4月 青山学院大学経済学部第二部経済学科入学と同時に上京。
1977年10月25日 1st「てぃーんず ぶるーす」リリース。
デビュー曲は、「まず(知名度のある)自分が曲を書いて」と考えていたプロデューサー”吉田拓郎”さんと、「最初が肝心なので自作曲で勝負したいと」強く希望した原田さんとの間で意見が合わず話し合いが長引いたそうですが、最終的に吉田さんが折れて原田さんの自作曲に決定。きっと吉田さんが最初から”原田真二”に感じた「天才的ひらめき」を信じられたのではないでしょうか。
ただ、原田さんが書いていた詞がヘビーだった為 売り出しの戦略的に作詞は”松本隆”さんが担当。
作詞家・松本隆が明かす「あの曲の1行目に、僕が隠した秘密」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)
この”松本隆”さんの曲に対する想いを見事に原田さんが表現し、セールスに結びついた事で「男の子のアイドル・ボクの少年シリーズ」を「後の近藤真彦で集大成させた」と語っておられます。
1977年11月25日 2nd「キャンディ」リリース。
1977年12月20日 3rd「シャドー・ボクサー」リリース。
3ヶ月連続でシングルをリリースするという異例の「トリプルデビュー」を果たし、3曲同時オリコンベスト20入りの日本音楽史上初の快挙を達成します。
このトリプルデビューは、当時の所属事務所「アミューズ」の社長のアイデアによるものだそうですが、「どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかった」という理由です。
「アミューズ」は原田真二のために設立された
”原田真二”さんのデビュー時の所属事務所は「アミューズ」
今でこそ「サザンオールスターズ」を筆頭に人気アーテイストや俳優、タレントなど多数在籍した大手プロダクションに成長していますが、スタートは原田さんの「自分のための会社を作って欲しい」という希望で設立された会社です。
”吉田拓郎”さんに原田さんを紹介された「バーニングプロダクション」社長 周防氏がバーニングとは別の会社を作る事にし託したのが、現在「アミューズ」の代表取締役会長 大里氏。
大里氏は当時「渡辺プロダクション」を退社しミュージカルを勉強するために渡米する予定だったところに原田さんを紹介され、1ヶ月程 2人でラスベガス、ロス、ニューヨークを回ったそうです。
帰国後、渋谷区代官山のマンションの一室に新人シンガーソングライター”原田真二”の売り出しを目的に個人企業「プロデュースハウスアミューズ」として設立。
自分のために作られた会社からデビューした原田さんですが、蓋を開けてみると自身の思いとはかけ離れたアイドルのような活動、そして大里氏がキャンディーズの解散コンサートに携わった事でアーティストとしてのケアが十分にされなかった事により「アミューズ」を半年で退社。
大里氏によると・・・
「彼はしっかり外部の人に『アミューズにいたらキャンディーズみたいなアイドルタレントになっちゃうぞ』と洗脳されてたんです。」
”井上陽水”さんや「RCサクセション」が所属していた「りぼん」に移籍。
原田真二 アイドル並みの人気と実績
デビュー時から「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評された”原田真二”さんの楽曲は、フォークを基調にした当時の日本のシンガーソングライターのイメージを覆し、音楽シーンに新風を巻き起こします。
1978年 2月25日発売の1stアルバム「Feel Happy」がオリコン史上初の初登場1位。(4週連続 首位)
10代でファーストアルバムが1位を獲得した男性ソロシンガーは未だ”原田真二”さんのみ。
1978年 4月10日発売の4thシングル「タイム・トラベル」がデビュー3作を上回る自己ベストを記録。
この年の「第29回NHK紅白歌合戦」に初出場、「タイムトラベル」を歌唱。
そしてこの曲は、2011年に放送されたドラマ「僕とスターの99日」の主題歌として「スピッツ」がカバーし改めて話題になりました。
今 聴いても名曲ですよね。
1978年7月24日 デビュー1年目でかつ10代で史上初めて日本武道館単独公演。
まだ大きなホールやドームがない時代 「日本武道館」はミュージシャンにとって特別な存在で、選ばれし者だけが立てる場所でした。
その聖地へ19歳、デビュー1年目のミュージシャンが立った事だけでもセンセーショナルな出来事でした。
そんな凄い実績をもつ一方、クシャクシャのカーリーヘアにベビーフェイス、ハスキーボイスで女子中・高校生を中心にアイドル並みに人気が上がり、ファンクラブ会員は「3万人」ともいわれていました。
その人気は、本家の男性アイドル新御三家(郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さん)を追い越し、当時 洋楽のアイドル「ベイ・シティ・ローラーズ」にも対抗する程でした。
「ベイ・シティ・ローラーズ」懐かしい~☆
1978年1月から放送が始まった「ザ・ベストテン」にニューミュージック系歌手として初出演(第3回 1978年2月2日放送)
2曲が同時ランクインされた事もあり、毎回のように出演されていました。
また「月刊明星」「月刊平凡」「セブンティーン」などのメジャーなアイドル雑誌にも頻繁に登場し、アーティストでありながアイドル的な戦略で露出されていました。
この戦略が見事に当たり、ロックがアイドル化することでメジャー化し日本の音楽シーンの流れが変わっていきました。
当時 ロック御三家と呼ばれた”Char” ”世良公則&ツイスト”と共に作り上げた流れは、多くのアーティストに影響を与えています。
原田さんのルックスが可愛すぎて罪なのですが・・・笑)
アーティストとしての才能が凄いにもかかわらずアイドルとしてあつかわれる事に抵抗があった原田さんは、「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したり新人でありながら「レコード大賞」等の音楽賞への参加を辞退したりと明確なビジョンがあった為、マスコミや業界の間では「生意気」で通っていたそうです。
後に原田さんはこの頃のことを振り返り、
「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」
と語っておられます。
そんな当時の日本の音楽番組はほぼ生放送で、出演する歌手は番組専属のオーケストラの演奏で歌うのが常識だったのですが、原田さんはアーティストとしてのプライド?から自らのバンドの演奏で歌われていたので演出や時間配分などで番組スタッフと揉めることが日常茶飯事だったそうです。
新人が自分の主張を通す事は考えられない時代でしたが、番組がスムーズに放送されるようメインのスタジオとは別のスタジオにセットを組みそこから中継する。今では当たり前のようになっていますが、原田さんのアーティストとしてのこだわりから生まれたものです。
原田さんが音楽番組に出演する事によって、その他にも当時では考えられないような改善がされ後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしました。
自分だけの道を、自分の形で、自分以外のために~デビュー3年目で独立
デビュー3年目 マネージャーだけ連れてそれまで所属していたプロダクションから独立し、個人事務所(株)クライシスを設立。(1988年(株)エアーフィールドに社名変更)
レコード会社もポリドールに移籍し原田真二&クライシス(SHINJI & CRISIS)として活動を開始。
以降、TVやマスコミから距離を保ちつつアーティストとして本来の活動に専念し自らが歌う以外にも多くのアーティストに楽曲を提供、CM曲や校歌も手がけておられます。
デビューの頃のように表舞台で見かけることはありませんが、音楽界における原田さんの功績はもの凄いです。
独立後の大変な時期を振り返り原田さんは、
「普通は人気が確立されてから独立を考えますが、そういう状況じゃなく独立したので、たちまちイメージしていたものが打ち砕かれて大変な状況になった。今思えば無謀。でも、だからこそ経験できたこと、学べたことがいっぱいあった。ほとんどのアーティストは売れるまでに下積み時代があるのですが、僕にはそれがなかった。必要だからこそ通ってきた道なんだろうなあと今思う」
と語られています。
幻の「ジョン・ レノン プロデュース」計画
1980年夏 原田さんのアルバムを”ジョン・レノン”がプロデュースする話しがもちあがっていたそうです。”オノ・ヨーコ”さんを通してですがジョン本人も「おもしろそう」と興味を示し話しが進んでいる中、曲作りを始めていた原田さんが目にしたニュースで「ジョン・レノンの訃報」
デビュー前からのテーマとして「世の中にやさしい気持ちを復活させるため」に音楽活動を続けているという原田さんは、「そういう意味ではジョンとまったく同じ方向にあるので、出会わせてもらっていたら、なにかが生まれていたかもしれなかったのに」と悔やまれたそうです。
原田真二のライフワーク~平和を祈る音楽活動~
デビューから音楽のテーマは「LOVE & PEACE、HAPPINESS」純粋に音楽の持つ力を信じていて、音楽を通してメッセージを発信し平和に貢献したい。
広島県出身の原田さんが通われていた小学校は川向いに原爆ドームがあった為、平和教育を普通に授業で学ぶうちに平和に対する意識が高くなられたそうです。
2000年~「自然環境・心の環境問題」をテーマにしたチャリティーイベント「鎮守の杜コンサート」を定期的に開催。
2005年 チャリテーイベントをサポートする趣旨のNPO法人「ジェントル・アース(Gentle Earth)」を設立。
2011年の東日本大震災以降、毎月被災地に入りライブを5年連続開催。
2013年 国連の平和教育に関する「ハイレベルフォーラム」に参加。
2015年 仙台で行われた「国連防災世界会議」で演奏。
ニューヨークでは毎年平和を祈る「ピースコンサート」を開催し、9.11のセレモニーも開催。
その他 国内外、大小問わず平和・環境イベントやチャリティーを数多く開催されています。
最新のインタビューで熱い思いを語っておられます。
「どうにかして世界に届けたい。それが天命」音楽の力を信じて行動し続ける【原田真二さんインタビュー】
コロナ禍の2年間は、毎年ニューヨークで開催されていた「ピースコンサート」はオンラインで開催されていました。
生で音楽を届ける事ができない苦しさの反面、ニューヨークでやっていることがロンドンにも繋がっていたり色んな可能性が生まれる事を経験し、オンラインでの活動にも意欲を燃やされています。
そして、
「平和への思いを強く持っているアーティストって、世界中にいるんですよ。コロナ禍が収束したらそういうアーティストたちを集めて、本当に影響力のあるピースコンサートを行っていきたいです。」と、どこまでも強く「平和」を願われている原田さんです。
2022.03.21(月・祝日)17:00〜 Sound@Space Vol.1「Message for You」
◆会場 下北沢Half Moon Hall
ニコラス・エドワーズ配信イベント「Back To Basics Vol.7」ゲスト出演
◆配信 3月27日(日)13:00~4月2日(土)23:59
原田さんの最新情報はこちらから▼
Shinji Harada – Official web site
原田真二と 松田聖子の関係
時代を先取りしたセンセーショナルなデビュー、以降も日本の音楽シーンに多大な影響を及ぼされた”原田真二”さんの消し去りたい過去・・・
”松田聖子”さんとの「ダブル不倫」騒動
2000年から原田さんがプロデュースを手がけられていた”松田聖子”さんが、2度目の結婚のお相手と離婚を発表された事によりプロデューサーとして近い立場にいた原田さんが、「新恋人」としてマスコミに取り上げられ「ダブル不倫」と大騒ぎになりました。
当事者のお2人は完全否定され決定的な証拠はなかったのですが、原田さんは1982年に結婚された元モデルの奥様と離婚され、しばらくこの噂はくすぶり続けていました。
原田さんによると、
「ハワイで聖子さんのアルバムのジャケ写撮影をしている時テロが発生。飛行機が飛ばず1週間くらい足止めになった。そこでランチミーティングをしていた写真を撮られて『世界が大変な時に隠れて密会』みたいに報じられた」
平和に関する音楽活動を大切にされている原田さんは「僕の活動も知らないで、最も不本意なことでした」と強い言葉で語られているので、純粋に音楽を通じてのパートナーだったのではないでしょうか。
ただ、聖子さん的にはファンクラブに入るほど”原田真二”さんのファンだったようですし、「スキャンダルも芸の肥やし」にされている感のある方なので、マスコミに狙われたのかなと思います。
原田真二の息子「翔音」もアーティスト
”原田真二”さんには離婚された奥様との間にお2人の息子さんがおられ、お2人とも音楽の道へ進まれています。
長男「翔音(ショーン)」さん、次男「聖野(セイヤ)」さん
お2人で父”原田真二”さんのライブに参加されていた事もあります。
翔音さんは、ミュージシャン以外にも発音専門英会話スクール「発音ラボ」を立ち上げ校長兼講師として又、ボイストレーナーとして”松田聖子”さん他アーティストのボーカル、発音指導など様々な活動をされています。
講師 - 発音ラボ
原田家にはアメリカへ移住された親戚が多い事や、原田さんのお父様が中学校、高校、大学講師として英語を教え、自宅で英語塾をされていた事もあり日常的に「英語」がある環境だったそうです。
又お2人の息子さんインターナショナルスクールを卒業されているので、翔音さんの現在の活動は幼少の頃から身についた「英語」と父”原田真二”さんから受け継いだ音楽的才能が存分に発揮されていますね。