ふざけているようなボクシング 冗談のような強さ
ボクシングの教科書によれば、ボクサーは両腕を小さく折り畳んで脇を締めて顔面とボディーをガードし、そこから体軸(胴体、体幹)を回転させ小さなパンチを繰り出し、また元の位置に戻す。
パンチの種類は、ストレート、フック、アッパーの3種類。
両腕で6種類のパンチがあることになるが、打つ位置、角度、スピードとタイミング、ステップワーク、ポジショニングなど、体の使い方次第で無限のバリエーションが生まれるという。
しかしハメドはそんな教科書はまったく守らず、タブーとされることをことごとくやった。
股を大きく開いたワイドスタンスで立って、両腕はダラリと下げてノーガード。
ジャブは打たず、遠い間合いから、アゴを上げていきなりフックを放ったかと思えば、ノーガードでノシノシと歩いて近づき大振りのパンチをかまし、空振りすると体が流れて相手に背中を見せることもあった。
相手のパンチは、極端に大きなダッキング(体を前屈)とスウェーバック(体を後ろに反らせる)でかわす。
打ち方はムチャクチャだが、パンチはメチャクチャ強く、ワンパンチ・フィニッシュも多い、KO率84%のノックアウトアーティスト。
かつてマイク・タイソンはピーカーブーで相手に正対し、宮本武蔵の2刀流のような左右の強打を爆発させた。
ハメドについても
『ノーガードがカギ。
2本の腕をダラリと下げることで、あの独特で極端な動きとディフェンス、パンチ力が生まれている』
と分析する専門家もいる。
いずれにしてもノーガードでクネクネと上体を動かし、少し違えば自分が倒れるような紙一重で相手のパンチをかわし、戦慄のKO劇を引き起こす危険なボクサーについたニックネームは
「プリンス」
「悪魔王子」
だった。
「教科書にないボクシングのスタイルなのです。
相手は私が次に何をするかわからない。
予測不可能です。
リングの隅から隅まで、5つの異なるアプローチでファイトできます。
サウスポーもオーソドックスもできます。
様々な角度からパンチが打てます。
私にパンチを当てるのも避けるのも大変でしょう。
そして気づけば相手はダウンしているか試合は終わっている」
(ナジーム・ハメド)
ナジーム・ハメドは常に自分を信じていた。
試合前、
「(両手をそれぞれKとOと呼び)俺はKでお前を倒しOでお前を倒す」
「お前、KOされるぞ!!!」
と相手を挑発。
自信過剰はリングでも続き、顔を突き出したり、腰を振ってダンスをしたりして相手を挑発し、笑顔で楽しそうに戦った。
11歳のときに
「10年後には世界チャンピオンと億万長者になっている」
と宣言し、それを実現させた後も
「僕はレジェンドに必ずなる」
「僕は生まれながらの勝者。
王になるために生まれてきた」
「僕のモチベーションは、偉大な地位を手に入れること、伝説になることなんだ」
と欲望と大望を隠すことはなかった。

ハメドは、熱心なイスラム教徒だった。
比較的、新しい宗教で、一般的な理解度が低く、独特の戒律や作法、一部の過激派のテロ行為によって偏ったイメージが持たれる可能性の高い宗教だった。
しかしハメドは通常のインタビューやリング上でも
「勝利は神のご意思」
「すべてはinshallah(アッラーの思し召し)」
などとイスラム教徒であることを隠そうとはせず、むしろアピールしていた。
これがまた大きな魅力となった。
かつてまだ黒人への偏見が強かったアメリカで、11年間、世界ヘビー級チャンピオンであり続けたジョー・ルイスが、差別に直面する人々のヒーローだったように、
「イスラム教=危険な宗教」
「イスラム教=テロリスト」
などという誤った偏見に肩身の狭い思いをしていたアラブ系やイスラム教徒の人たちに勇気と自信を与えた。
そして多くの人々が、イスラムという民族、宗教を正しく知り、肯定的に感じるきっかけにもなった。
そんなボクシングも、ダンスも、ラップ(おしゃべり)もできるハメドのヒーローは、モハメド・アリだった。
モハメド・アリはローマオリンピックで金メダルを獲得が、黒人であるがためレストランへの入店を拒否され、メダルを投げ捨てた。
プロでも「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれた革新的で華麗なボクシングで、世界チャンピオンになったものの、信念に基づきベトナム戦争の徴兵を拒否したため、その制裁としてタイトルを剥奪された。
3年6ヵ月間、試合ができず、全盛期のキャリアを失いながらも、法廷でアメリカ政府と争い、無罪を勝ち取ったザ・ピープルズ・チャンピオン。
モハメド・アリは、常に常識と権威に挑み続け、大切なのは肌の色ではなく、心であり魂であり精神であると教えてくれた。
「歴史に残るファイターはみんな派手な戦い方をしていた。
彼らを参考にしたんだ。
『またの名はカシアス・クレイ』のビデオは大げさではなく15年間、毎日繰り返しみていた
アリはとにかくすべてが特別だ」
(ナジーム・ハメド)

ハメドは、花道に炎を上がったり、ゴンドラで天井から降りたり、墓場のセットからの登場したり、空飛ぶカーペットに乗ったり、王様の椅子を模した神輿に担がれたり、ワイヤーで空中に吊るされたり、様々な趣向を凝らしたド派手な入場パフォーマンスを行った。
中には試合時間よりも入場時間の方が長くなるケースもあった。
リング上の異端的なボクシングと上から目線的なパフォーマンスも加わって、いかにもクレージーだったがプライベートでは、決して変人ではなかった。
常に周囲にポジティブに接っする、知的で鋭い、デキるビジネスマンだった。
「みんなボクシングがビジネスだということを忘れている。
大きなショービジネスなのです。
私がやっているのはショービジネスです。
だから私は試合ではジョークのように振舞うんです。
ファンはそれを喜んで私の試合を観るためにお金を払う、もしくは私を憎み、私がノックアウトされるのがみたくてお金を払う。
試合が決まると入場やトラッシュトーク(対戦相手を汚い言葉で挑発する、一種のエンターテインメント)のアイデアがいくつも提案される。
私も意見を出しながらパフォーマンスを決めていた。どうやったら1人でも多くの人がみてくれるか、1枚でも多くのチケットが売れるか。
記者会見でのパフォーマンスや入場のショウを考え抜いた。
もちろん、面白い試合を見せるのが大前提だ。
でも、試合を煽って焚きつける必要が無いのなら、私はあんなことをする性格じゃない。
どちらにせよ、ビジネスなのです。
プリンスなんて作られた仮面さ。」
(ナジーム・ハメド)
しかしボクシングを娯楽ビジネスとして強調しすぎるハメドを、真剣勝負が好きなボクサーやボクシングファンは嫌悪した。
ハメドは、すさまじい注目を集め、イギリスのスポーツ選手の人気投票で、サッカーのデビッド・ベッカムと並んでトップになったこともあった。
「イギリスに新しいスターが誕生した」
と素直に喜ぶ人もいれば
「生意気」
「ナルシスト」
「不真面目」
「ふざけている」
「うっとうしい」
などと不快感を感じるアンチも多かった。
教科書から逸脱したボクシングスタイルを認めない専門家もいた
賛否両論、好き嫌いがハッキリわかれたが、まさに悪魔的な強さで勝ち続けるため、アンチもハメドが負けるまでみ続けるしかなく、みんなハメドの試合に注目していた。
ブレンダン・イングル 小さな教会から生まれたボクシングジム

ブレンダン・イングルは、18歳のときにアイルランドからイギリスのシェフィールドに移住。
ロンドンの北西約180kmに首都に次ぐイギリス第2の都市、バーミンガムがあり、シェフィールドはバーミンガムから特急電車で約1時間の地方都市だった。
ブレンダン・イングルは、プロボクサーとして15年間で19勝6KO14敗、最高でイギリス、ミドル級8位という戦績を残した。
1973年に引退後、牧師に
「子供たちが非行に走るのをなんとかしたい。
社会福祉活動をしてみないか?」
といわれ、週1回、聖トーマス教会のホールでダンス教室「 セント・トーマス・ボーイズ & ガールズ・クラブ 」を開いた。
「どうしようもない乱暴者ばかりが集まった。
ダンス教室が終わると街に繰り出してケンカをおっ始めるんだ。
大ケガする者もいたよ」
(ブレンダン・イングル)
ある日、ダンス教室が終わった後、彼らにグローブを投げた。
「そんなエネルギーがあるなら、これで殴り合え。
私がレフリーをしてやる」
この瞬間、世界で最も有名なボクシングジムの1つが産声をあげた。
ブレンダン・イングルの指導は、理路整然としていながらバイタリティに溢れ、規律を重んじながらもタブーのない自由なものだった。
リズムとタイミングを最優先したボクシングは、力がなくても相手を倒せる面白いものだった。
またブレンダン・イングルはモチベーション(動機づけ)を与えやる気を起こさせるのがうまかった。
手に負えなかった不良少年たちは黙って彼の指導に耳を傾け、ボクシングの虜となっていった。
矛盾や差別が渦巻く社会で大人への不満を鬱積させていた彼らにとって、年齢も肌の色も社会的背景も関係なく真剣勝負できるボクシングはやりがいがあり、情熱を持ってフェアに接っしてくれるブレンダン・イングルは信用できる大人だった。
ブレンダン・イングルは課題を与えながら
「お前は出来る」
と励ました。
そして彼らは教会の中にこしらえたユニークなジムで切磋琢磨した。
やがて地元の不良が集まるスパーリングクラブは、聖トーマス教会から道路を隔てた向かいに移動。
現在でもシェフィールド駅からタクシーで約15分、巨大な工場や庶民的な住宅が立ち並ぶ街を抜けていくと古びた教会風の建物があり、壁にボクシングのイラストが描かれた看板が貼られている。
それがイングル・ボクシング・ジムである。

ジムに窓はなく、外から中の様子はうかがえず、木製のドアを開くとブレンダン・イングルが笑顔で歓迎する。
彼は世界王者であろうが6歳児であろうが全く変わらず指導した。
教え子であり、元イギリス、Jミドル、ミドル級チャンピオンのロール・グラハムがいう
「ブレンダンは偉大な教師だった。
彼は自分を信じることの大切さを教えてくれた。
そして彼は規律を重んじた。
そこがジムであろうが家であろうが規律のもとでなければ幸せな家庭も優れたボクサーも存在し得ない」
ブレンダン・イングルはジェントルマンだったが、しかし教えるボクシングはなぜか異端だった。
東洋武術の影響を受けているともいわれているが、ジムの中はリングやサンドバッグ、パンチングボールなど一般的な設備に加え、床に赤や黄色のペンキで大小の円や線がペイントされている。
選手は、そのラインに沿って円運動と直線運動を交互に繰り返す。
この円運動と直線運動は、アップの段階から多くのメニューがあり、シャドーボクシングやミット打ち、サンドバッグ、フィジカルトレーニングもこのラインを用いる。
例えばミット打ちでは、円のラインに沿ってサークリングしながら、細かく左右にスタンスをスイッチしコンビネーションパンチを打つ。
これを繰り返していくと、左右どちらが前足になっても(右構え、左構えになっても)移動でき、パンチが打てるようになる。
また顔以外を全力で打ち合うスパーリング。
腕を後ろで組んで相手に攻めてもらいボディワークだけのディフェンスするスパーリング。
腕でのブロッキングなしでパンチを出し合い、避け合うマススパー(力を入れない、あるいは寸止めのスパーリング)
こういった独特の練習法で個性的な選手を育てた。
彼らはノーガードで、体の動きでパンチを回避。
ブロッキングに頼らないボディワークで、左右にスイッチし、ノーガードで体勢から予想外のタイミングと角度でパンチを繰り出した。
イングル・ボクシング・ジムは、ナジーム・ハメドをはじめ、 ヘロール・グラハム、 ジョニー・ネルソン、ライアン・ローデス、 ジュニア・ウィッター、 ケル・ブルック など多くの強豪を輩出した。
「どうしてそんなに自信があったのかって?
ブレンダンがお前は出来ると言い続けてくれたからだ。
世界王者にアドバイスするのと同じように、こんな俺にも時間をかけて面倒をみてくれた。
俺は見返そうと誓ったんだ。
俺をガラクタ扱いした奴らを、じゃないぜ。
実際にガラクタだったよ。
だから負けたってバカにされたって平気さ。
でも俺を評価してくれるブレンダンを侮辱する奴らだけは許せなかった。
奴らが自分達が間違っていたと思い知るまで俺は命がけで練習に打ち込んだ。
ブレンダンがどれほど優秀な指導者であるかを世界に見せつけてやるんだってね」
(元WBO世界クルーザー級王者、「ザ・エンターテイナー」ジョニー・ネルソン)
「最初にみたときから(ジョニー・ネルソンは)素質があるのはわかった。
いつもボクシングを辞めて別の仕事に就こうとうわついていたのに、めっぽう速くて、パンチも固かった。
ガラクタを宝石にした?
私は魔法使いじゃない。
宝石にかぶっていたホコリを払ってやっただけさ」
(ブレンダン・イングル)
すべての選手がノーガード戦法でKO勝利しボクサーとして大成功したわけではない。
無様に倒される選手もいたし、もちろんキチンとガードを固めて正統派のボクシングスタイルで戦う選手もいた。
いずれにしてもブレンダン・イングルは、小さな教会から生まれたジムで、奉仕の精神を持ってボクシングを伝え続けていた。
イギリス育ちのイエメン少年

1974年2月12日、ブレンダン・イングルが現役を引退した次の年、ラクダが濶歩する砂漠にイスラム教の聖典「コーラン」の声が響くアラビア半島の南端、イエメンからイギリスに渡った両親のもとに、神は天才児、ナジーム・ハメドを授けた。
生まれつきのサウスポー(左利き)だったハメドは、7歳でボクシングを始めた。
「ボクシングを始めたきっかけ?
単純明快、近所にボクシングジムがあったから。
そう、セント・トーマス教会ジム。
家から300mもない距離にあった教会の中にジムがあった「ブレンダン・イングルの家」だ。
7歳のときだったから、しばらくのあいだ世界中の教会には、ボクシングジムが併設されてるものだと思い込んでいた。
そんなのはブレンダンのとこだけだって、ずっと後になって知るんだけどね。ジムに入るとそれが自分のスポーツだと気づきました。
雰囲気、動作、手足の動き、技術がすぐにわかりました。
打って打たれない芸術、私はそのコツを知っていました」
イングラムいわく
「最初にジムに来て帰るのは最後だった」
というハメドは、11歳でイギリス学童チャンピオンとなった。
以後、18歳まで毎年、アマチュアボクシングで全国的なタイトルを獲得し続けた。
アマチュアボクシングの戦績は、67戦62勝17KO・RSC(レフリーストップコンテスト)5敗
1992年4月14日、18歳のハメドは、アマチュアでの功績が認められ、いきなり6回戦でプロデビューし、リッキー・ビアードに2R KO勝ち。
「プロ転向したのは1992年、18歳だった。
その年に開催されたバルセロナ五輪に出場してからプロ入りすべき、ともさんざんいわれたが待ち切れなかった。
11歳のときに「(10年後の)21歳で世界チャンピオンと億万長者になっている」と豪語してたから時間は限られていた」
・4月25日、ショーン・ノーマン 2RKO
・5月23日、アンドリュー・ブルーマ 2RTKO
・7月14日、ミゲル・マシューズ 3RTKO
・10月7日、デス・ガルガノ 4RTKO
・11月12日、ピーター・バックリー 判定勝ち
6戦目でキャリア40戦のベテランに判定勝ちするもデビュー後、連続KO記録は5でストップ。
デビュー年は6連勝5KO。
1993年、プロ2年目、
・2月24日、無敗のアラン・レイを2RKO
・5月26日、ケビン・ジェンキンス 3RTKO
・9月24日、元イングランドセントラルチャンピオンのクリス・クラークソンを2RKO
1994年、プロ3年目、
・1月29日、ピーター・バックリー 4RTKO
・4月9日、元ベルギーチャンピオンで、これまでKO負けのないジョン・ミセリを1RKO
それまでハメドはトップロープを飛び越えリングインしていたが、ミセリ戦からトップロープをつかんで前転してリングインするようになった。
『入場パフォーマンスの宙返り、あれは失敗したら最悪ですよね?』
「めったにないけど、正直にいうと失敗もあった。
顔面から着地する最悪はないけど、思いっきり着地バランスを崩してしまったことがあった。
ロープを使った宙返りは難しそうにみえるかもしれまいけど、実はその方が簡単なんだ。
グローブをはめているとロープをしっかり掴めないから、そこは難しいけど。
とはいっても、着地で足首を痛めるリスクはあるからね」
『そんなリスクを負ってでも宙返りをするのはどうして?』
「いつだって勝つ自信があったから少しくらい痛めたとしても関係なかった。
何よりチケットを買ってくれた観客や、テレビをみてくれているファンを喜ばせたかった」
プリンスはキングに

1994年5月11日、約1ヵ月後、ハメドはヨーロッパ、バンタム級チャンピオン、イタリアのテクニシャン、ビンチェンツォ・ベルステロに挑戦。
1Rと11Rにダウンさせて判定勝ち(3-0、120-109、120-107、119-110)
デビューから2年半で人生初のチャンピオンベルトを巻いた。
『専門家は、あなたは世界タイトルを1つだけじゃなくて複数獲るといってますが・・・』
「No、No.
僕は世界一の技術を持っています
誰であっても倒します。
僕はレジェンドになりたいんです。
世界タイトルは置いておいて・・・
まあ3階級王者はなかなかいいと思いますが・・
でもレジェンドになりたいんです。
必ずなります」
天狗のような発言をしながらもハメドは、毎日のトレーニングを怠ることはなかった。
「常にトレーニングしています。
いつも。
1年中トレーニングしています。
休暇なんかないです。
もし旅行にいってもトレーニングします」
しかし好きな時間に行うため夜中から朝までトレーニングすることもあった。
「彼は何時にトレーニングするかわかりません。
変な時間にトレーニングします。
23時くらいに私の家に来ます。
ジムを出るのは2時くらいです。
出るときにクラブにいた人たちを見かけます。
とてもイレギュラーです。
でも毎日トレーニングしています
変な時間ですが彼によってこれがいいんです。
チャンピオンなので問題ありません」
(ブレンダン・イングル)
1994年8月17、 初防衛戦は、元イタリア人チャンピオン、34戦、KO負けのないアントニオ・ピカルディだった。
リラックスすることを重要視するハメドは控え室にビリヤード台を入れ、入場前まで遊んでいた。
そしてヒョウ柄のトランクスで入場。
3R、3度目のダウンを奪った後はバック転でニュートラルコーナーへ移動。
アントニオ・ピカルディは立ち上がったが、レフリーが試合を止めた。
『今夜のパフォーマンスはすばらしかったです』
「ありがとうございます。
相手はグッドファイターでした。
自分のパフォーマンスに満足しています。
僕は生まれながらの勝者です。
王になるために生まれてきたのです」

1994年10月12日、ヨーロッパ、バンタム級チャンピオンとして防衛に成功したハメドは、階級をスーパーバンタム級(バンタム級とフェザー級の間、53.524~55.338kg) に上げ、WBCインターナショナル(国際間で争われるタイトルで世界チャンピオンより少し劣る)のタイトルに挑戦した。
対戦相手は、過去2度の世界挑戦があり、57戦KO負けなしのフレディ・クルス(ドミニカ共和国)。
格上のクルスは、ハメドを
「坊ちゃん」
と呼んで挑発。
多くの専門家も
「ナジーム・ハメドにとってこれまでで最も厳しい戦いになる」
と予想。
しかしハメドは圧勝した。
相手のパンチを楽に外し、階級を上げてさらにパワーアップしたパンチを打ち込み、相手を挑発し、観客にさまざまなパフォーマンスをみせて喜ばせ、6R TKO勝ち。
「試合前、彼は僕を坊ちゃんと呼びました。
そして今夜、彼は「僕が王になる」ということを知って帰ります」
ハメドは試合後のインタビューでこう語り、さらにリングサイドにいた世界フェザー級チャンピオンのスティーブ・ロビンソンをリングの上に誘った。
スティーブ・ロビンソンは、世界チャンピオンになる前に9度も負けている一方、7回も防衛に成功している名チャンピオンだった。
「彼はフェザー級としては小さい。
バンタム級の選手だと思います。
僕は本当のフェザー級なので、僕と戦うとサイズで困ると思います」
そういうスティーブ・ロビンソンにハメドは堂々とケンカを売った。
「スティーブ、信じようと信じまいと僕はスーパーミドル級(~76.204kg)からクルーザー級(~90.719kg)までいくつもりだ。
フェザー級に階級を上げるのは夢を叶えるため・・・
僕がフェザー級まで上げたとき君と対戦したら、チャンピオンは今ここに立っているよ」
『何故こだわるのですか?
たくさんの階級の中であなたを必要としていないスティーブ・ロビンソンと戦いたいのですか?』
インタビューアーが聞くと、ハメドは答えた。
「スティーブをけなしたくない。
スティーブ・ロビンソンを尊敬しています。
イギリス人ボクサーのために戦ってきました。
タイトルを4回以上防衛しています。
ベテランです。
僕は世間に自分がベストだとみせたいんです。
僕がイギリスで最強。
フェザー級で最強。
スーパーバンタムで最強。
バンタムで最強。
(カメラに向かって)世界最強になるぞ!」
1994年11月19日、WBCインターナショナル、スーパーバンタム級のタイトルを獲得して1ヵ月後、チャンピオンのハメドは初防衛戦を行った。。
挑戦者は元スーパーバンタム級チャンピオン、17勝1敗、ラウレアノ・ラミレス(ドミニカ共和国)。
試合前、チャンピオンは、
「3Rに倒す」
と宣言。
そして3R途中、一方的に攻められたラウレアノ・ラミレスが試合を放棄。
宣言通り、3R TKO勝ち。
1995年1月21日、2ヵ月後、2度目の防衛戦。
相手は、かつてスーパーフライ級で3度、世界に挑戦、元WBCインターナショナル、バンタム級チャンピオン、43戦38KO、アルマンド・カストロ。
ハメドは試合前に
「5Rに倒す」
と宣言。
しかし4R、2度ダウンを奪った後、レフリーが試合をストップした。
「彼が挑発するから4Rに倒してしまった。
賭けた人には申し訳ないけど・・」
その後も
・1995年3月4日、3度目の防衛戦で元南アメリカチャンピオン、元WBCインターナショナルチャンピオンのセルヒオ・リエンド(アルゼンチン)を2RKO
・1995年5月6日、4度目の防衛戦でエンリケ・アンヘレス(メキシコ)を2RKO
・1995年7月1日、5度目の防衛戦で元コロンビア、IBFスーパーフライ級チャンピオンのハードパンチャー、ファン・ポロ・ペレスを2RKO
と順調に防衛を重ね、通算、19戦19勝17KO。

1995年9月30日、21歳のハメドは、7度防衛中のWBO世界フェザー級チャンピオン、スティーブ・ロビンソンに挑戦し、8RTKO勝ち。
ハメドはスティーブ・ロビンソンにほとんどポイントを与えないまま8Rにカウンターを決めてノックアウトし、無敗のまま世界タイトルを獲得した。
『試合前から自信満々にみえました。
不安は全くなかった?』
「全くなかった。
スティーブ・ロビンソンはテレビでみてたし、大きな相手(ハメドは164㎝、ロビンソンは173㎝)だともわかってた。
何度も防衛してたが、そんなの関係ねぇ。
それであの(8R TKO)パフォーマンスだぜ。
21歳で世界チャンピオンになる、その夢が叶ったんだ」
1996年3月16日、WBCインターナショナルチャンピオンのサイード・ラワイ(ナイジェリア)を35秒でKO。
開始からすぐに右フックでダウンさせると逃げるラワルを追い、ロープ際でアッパーで仕留めた。
1996年6月8日、プエルトリコのハードパンチャー、無敗のダニエル・アリスマ(プエルトリコ)を2RTKO
ハメドは1Rにアリセアのパンチを浴びてダウンしたが、2R、2度ダウンさせた。
「一流のファイターであるか否かは、ダウンしたとき、立ち上がり、どのように立て直していくかだと思います。
私はそれをしました。
あの試合の1Rで偉大で、とても素晴らしいファイターであるダニエル・アリセアというプエルトリコ人に私はダウンを奪われました。
私は試合の6週間前に彼を2Rでノックアウトすると予言しました。
そしてその通りになりました」
(ナジーム・ハメド)
1996年8月31日、元WBC、元IBFチャンピオンのベテラン、マヌエル・メディナ(メキシコ)11RTKO
ハメドは間合いを取ってカウンターを狙うメディナに苦戦したが、11RTKO。
これまでで最長ラウンドを戦った。
1996年11月9日、無敗のレミヒオ・ダニエル・モリナ(アルゼンチン)2RTKO
1997年2月8日、ロンドンのニュー・ロンドン・アリーナでWBO世界フェザー級チャンピオン、ナジーム・ハメドとIBF世界フェザー級チャンピオン、トム・ジョンソンによる王座統一戦が行われた。
トム・ジョンソンは、11度防衛戦に成功している名チャンピオンで、長いリーチとフットワークを駆使したが、何度もボディを効かされ、8R2分27秒、自身初のTKO負け。
ハメドは、防衛に成功するとWBO、IBF統一世界フェザー級チャンピオンとなった。
1997年5月3日、ビリー・ハーディー(イギリス)1RTKO
ガードを固めるヨーロッパチャンピオンのビリー・ハーディに変則的な動きで接近しフックとアッパーで1R KO勝ち。
1997年7月19日、フアン・ヘラルド・カブレラ(アルゼンチン)2RTKO
王子に忍び寄る影

こうして1995年に世界チャンピオンになったハメドは、1997年までに世界タイトルを7度防衛。
WBOがイギリスに本部を置く新興団体だったことや、ボクシングの教科書から著しく逸脱したスタイルから、世界チャンピオンになってもハメドの実力に懐疑的な見方がつきまとっていたが、勝ち続けることでイギリス国内だけではなく、世界でも強さを疑う声も少なくなった。
しかし実際は、世界タイトルを獲得して以降、ハメドはボクサーとしての純度を下げ、チャンピオンとして行うべきボクサーライフからかけ離れた生活を行っていた。
「世界タイトルをとって3~4週間後、彼がジムに来て、「もう俺はランニングしない」といいました。
そして打つのも(パンチの練習も)やめた。
これは一体どういうことなのか私はわかっていました。
彼は思ったのです。
7歳から21歳、ずっと私といました。
14年間私と過ごしてきました。
なので彼はもうすでにすべてわかっていると思ったのです。
聴くことも認めることもやめたのです。
何故なら私の教えたものすべて、すべては訳あってつながっているから、時が経ち、そこから進化していくのです。
彼はもう学ぶことがないと思うところまできたのです。
その後、彼と会話することさえ難しくなってしまった。
その頃は彼は62kgで歩き回っていました。
まあ特に問題はありません。
でもその後、70kg近くまで体重を増やしてしまった。
そして試合後、ジムに練習再開するまで3、4、5週間までになって、トレーニングもサボったりするようになりました。
私は笑っていました。
体重を落とすために6週間、2ヵ月も苦労しなくちゃいけないことになっていました」
(ブレンダン・イングル)
それでも結果を出し続けたため、イングルは黙認し、ハメドは自分は無敵だと思い始めた。

ある外国人記者が、ブレンダン・イングルジムに取材に訪れた。
他の仕事の合間を縫ったノーアポ取材だったが、ブレンダン・イングルは笑顔で記者の労をねぎらい、快く招き入れた。
記者が
「ハメドが今日、来ますか?」
と聞くとイングラムは
「わからない」
と答えた。
「写真はOK?」
「No Problem」
写真撮影の許可を得た記者は周囲のボクサーの練習風景を撮り始めた。
さまざまなクラスのチャンピオンやランカーと子供が一緒に汗を流し、ブレンダン・イングルは順番に選手のミットを受けた。
真剣で緊張感あふれる練習をしているかと思うと、ジム内を大きな飼い犬が歩いていてリラックスした空気も漂ってた。
基本的で自由な雰囲気で、大人と子供が仲良くサンドバッグやリングをシェアし、手が空いた者は他の人の練習を手伝っていた。
やがてドアが開く音がして、迷彩服の上下に大きなバッグを背負ったハメドが入ってきて、記者は思わずカメラを向けた。
「STOOOOOOP!!」
ハメドは記者を指差しながら大股で突進。
胸がぶつかるくらい近づきアゴを上げて上目遣いで、
「#$β%&γ◎§□!!!」
と一気にまくし立てたが、ボクシング同様速すぎて聞き取れない。
あまりの剣幕に記者は謝罪したが、ハメドは構わずに怒鳴り続けた。
周囲は凍りつき、イングルは肩をすくめ、記者に
「ごめんよ」
とアイコンタクト。
怒鳴り終えたハメドは、打ちのめされた記者を尻目にスタスタと歩いていき、ジムメイトとおしゃべりを始めた。
ブレンダン・イングルによるとハメドの豹変はプロ2年目から始まったという。
イングル、ジムスタッフ、ジムメイトを含め周囲にいるすべての人間が横暴な態度と罵詈雑言の犠牲者になった。
格下相手の防衛戦に、気持ちが乗らず、ロクに練習もせず体重を合わせるだけでリングに上がったこともあった。
「もう限界だ。
これ以上面倒を見切れない」
イングルが怒り、ハメドの父親がが間に入って詫びを入れたこともあった。
しかしプリンスの暴走は止まず、侮辱的な言動を繰り返し、ブレンダン・イングルに何度も
「出て行け。
ここはもうお前の来るところじゃない」
と怒られていた。
伝説のケビン・ケリー戦

ハメドがイギリスでボクシング界を席巻していた頃、アメリカではケビン・ケリーが自分が最高のフェザー級であると主張していた。
元WBC世界フェザー級チャンピオン。
47勝32KO1敗2分。
ニックネームは「フラッシング・フラッシュ(飛び立つ閃光)」
自己主張が強くてビッグマウス。
スターになる気満々で、自分を売り込むためにあらゆることをするパワフルで打たれ強いファイターだった。
「ボクシング雑誌をみてハメドについて書かれた記事を読んだ。
彼の記事ばかりだった。
500万ドルって書かれていた。
ウソだろ!
誰だコイツ?
他の誰かがハメドと戦う前に俺が戦うべきだ。
そしてすぐイギリスにいきリングサイドに座った。
そして対面さ」
(ケビン・ケリー)
1997年10月11日、ハメドは8度目の防衛戦でホセ・バディーロ(プエルトリコ)を7RTKO。
試合直後のインタービューで、
「今夜、ケビン・ケリーが来ています。
王子の技術、強さ、能力正確さ、スピードをみました」
といってリングサイドにいたケビン・ケリーをリングに招いた。
2人は並んでインタビューを受けた。
ハメドはグローブをつけたままの手をケビン・ケリーの肩に回した。
「お前を失神KOするよ」
『ケビン、それに対してコメントをください』
ケビンは口を開けてインタビューアーに応じようとするが、ハメドがすぐに横槍を入れてしゃべらせない。
「リラックス、落ち着いて、ベイビー!」
(ハメド)
「お前が落ち着け!」
(ケリー)
「お前、KOされるぞ!!!」
(ハメド)
ケビンは肩を抱き寄せてくるハメドを押しのけながらインタビューアーに応えようとする。
「いっておきますが・・・・」
しかし再びハメドが妨害。
「自分のホームで!!!」
ケビンは無視して続けた。
「・・・・ナズは素晴らしいパフォーマンスでしたが・・・・」
「ニューヨークで!!!」
「・・・・いろいろ盛り上がっているけど・・・」
「マジソンスクウェアガーデンで!!!」
「・・・・俺は本物だ!!!!」
子供のような2人の舌戦に会場は盛り上がった。
この後、対戦は2ヵ月後と決まり、お互いに準備を始めた。

試合2週間前、ハメドは
「アメリカを征服してやる」
といってアメリカに移動し、トレーニングを継続。
スパーリングパートナーを務めたヘビー級ボクサー、クリフトン・ミッチェルは
「彼はパワーがすごい。
パンチはとても重い」
とコメント。
ハメドはクリフトンミッチェルと12Rスパーリングをした後、ミット打ちを7R行った。
アメリカに初お披露目のハメドに用意された試合会場は、なんとニューヨーク、マンハッタン8番街のMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)。
「アメリカでは軽量級のビッグファイトはない」
「アメリカではアメリカ人かメキシカンしかスターになれない」
という定説を覆した。
すでに試合1ヵ月から、マンハッタン中心、「世界の交差点 (Crossroads of the World)」に建つタイムズスクエアに大広告が掲げられ、ニューヨークの至る所にポスターが貼られ、マイケル・ジャクソンがハメドのトレーニングを表敬訪問するなど、宣伝に7桁のドルが費やされていた。
フェザー級の「フェザー」は「羽毛」という意味だが、軽量級の試合では、かつてないほどの巨額だった。
(しかし実際のファイトはそれを上回った)

ケリーのファイトマネーは45万ドルとキャリア最高の額。
一方で、HBO(アメリカでボクシング中継といえばSHOWTIMEかHBOといわれるほどメジャーなケーブルテレビ局)は、ハメドをアメリカに呼び出すために2度イギリスにいき交渉し、6試合1200万で契約。
1試合200万ドルは、当時のフェザー級トップクラスの約10倍。
またハメドには最先端の前衛的なファッション写真家による演出も行われるなど、ニューヨークのボクシングジムで育ったケリーにかけた金額とは桁が違った。
「ハメドに巨額のマーケティング費用がかけられて少し裏切られたような気がしました。
ボクサーとしてのメガファイト、みんなに興味をもってもらうために私は2度もイギリスにいきました。
そしてハメドがアメリカにやってきた。
俺とハメドを同列に扱って欲しい。
ハメドだけをフューチャーしないでくれ。
俺はニューヨーカーだ。
ハメドは俺の街にきているんだ。
イライラしたね。」
(ケビン・ケリー)
フェザー級(~57.15kg)のケリーは、スーパーライト級(~63.503kg)でハメドのようなスピードと瞬発力を持つサウスポーボクサー、ザブ・ジュダーとスパーリングを重ね、毎回、負かし流血させた。
一方、ハメドサイドは、公開練習中に、イングルとハメドがケンカするハプニングがあった。
すでに予定の12Rを過ぎてもハメドは練習をやめようとはせず、14Rを消化。
さらに20Rまでやろうとしてイングルと口論となった。
「もう2Rやったじゃないか?
もう十分だ」
「いや全然足りない」
「もうやめなよ。
台無しになってしまうじゃないか」
「台無しになんかしない」
「何のために20Rやりたいんだ。
この時点でスタミナが増えるわけがない」
周囲に嫌なムードが漂った。

1997年12月19日、試合当日、ハメドは非常にリラックスし、グローブをはめてウォーミングアップするまですべて順調だった。
そして
「渡らねばならない困難な橋がある。
とてもタフで困難な試合だ。
それでも私はどんなに過酷であろうがその橋を渡る。
最後はいつも私が勝利する。
予言をすればケビンはストップされる。
途方もない正確さと力強さでストップされるだろう。
ギフトは誰にももたらされない。
うーん、4ラウンドか5、6ラウンドに俺が倒して勝つだろうな。
ケビンに伝えておくれ。
まばたきすら禁物だってね」
とKO予告。
そして入場するためにバックヤードに移動したとき、アクシデントは起こった。
照明が落ち、ウィル・スミスの「Men In Black」の音楽が鳴り、白いスクリーンの裏でダンスするハメドのシルエットが浮かぶ。
実物は初めてのアメリカの観客は大歓声。
会場以外でも250万世帯がライブ観戦していて、アメリカ中がイギリス生まれのイエメン人を待った。
しかしこのとき入場に使う機材にトラブルが発生していて、ハメドはハメドだけに数分間、シャドーボクシングやダンスを続けるハメとなった。
入場曲が流れて4分後、やっとスクリーンが割れ、ハメドが姿を現した。
紙吹雪、ライト、スモーク、そして観客の声援が交錯する花道をハメドはダンスしながら進んだ。
そしてリングに到着し、トップロープをつかんで前転してリングインしようとしたが、再びアクシデント。
リングロープが異常に高かった。
「オー・マイ・ガー。
ロープが高い。
どうやってフリップしろというんだ。
少し落ち着かなくてはなりませんでした。
やるしかないと気づき、やりました」
前転でリングインし、着地に成功したハメドは、そのまま女の子走りでケリーに接近していき、顔を近づけ挑発。
結局、入場に7分以上かかった。
「これはファッションショーか、それとも何かの表彰式か?
リングロードはサーカスのようでした。
最初に素早く入場したケビンは、この間、ずっと待たなくてはなりません。
実際は6、7分だったようですが、それは15分くらいに感じたことでしょう。
ケビンの耳からは煙が出ているようでした。」
(TV解説者)
「ハメドのリングウォークはアホくさいお遊びだと思っていた。
奴はそういうのが好きなんだ。
だから全く気にしないようにしていた。
マヌケが来たぞ、オヤツの時間だ、リングにおいでくらいの挑発をした。
実際、ハメドは少し慌てていたよ。
何の妨害にはならなかった。」
(フィル・ボルジア、ケビン・ケリーのトレーナー)
試合が始まった。
1R、共にサウスポー、共にハードパンチャー。
まずは右ジャブを打ち合った。
ケビン・ケリーの右リードパンチが鋭く伸び、ハメドの顔面を跳ね上げる。
いつもなら目いっぱいに上体を反らしてかわすハメドが大きくバックステップ。
残り1分、ハメドはフリッカージャブを出し、コーナーに詰め、連打。
そして右ストレートを打った次の瞬間、倒れたのはハメド。
落ち終わりを狙ったケリーの右がハメドの顔面を捉え、豪快なダウンを奪った。
あと2回ダウンを奪えば試合は終わる。
その後もケビンの右は何度もハメドの顔面を捉えた。
ハメドは上体反らしで体が伸び切ったところに右をもらい、バランスを崩された。
しかしダウンはしなかった。
「ハメドは圧倒的に窮地に立たされたけど彼はとても柔軟な男だ。
ハメドは柔軟でパンチの威力を吸収する。
とてもアクロバティックでパンチの威力を吸収してしまうんだ。
あの能力はすごい」
(ケビン・ケリー)
2R、ケリーはいきなりオーソドックスにスイッチし左フック。
アゴを打たれたハメドは、両グローブをキャンバスにタッチさせた。
レフリーが入って来る前に立ち上がったのでケリーはもう1発、右フックを入れ、ハメドはグローブを再びキャンパスにつけさせ、2度目のダウンを奪った。
手をついては立ち上がり、手をついては立ち上がりを繰り返し、解説者に
「ヨーヨー王子」
といわれたハメドは、すぐに立ち上がり、攻め返し、パンチを当ててケリーを倒した。
レフリーは「スリップ」と判断。
ポイントは失わなかったがプライドを刺激された
ケリーが前に出た。
ハメドは巧みにケリーを前に出させて罠を張り、タイミングを合わせて、右でアゴを打ち抜いた。
(ミスった!)
ケリーはグローブで上げ、ハメドにウィンク。
立ち上がった時点で残り時間1分。
ケリーはダメージを回復させることなく、すぐに攻め始め、それをラウンド終了まで続け、ハメドは何発か被弾。
3R、ケリーは前にプレッシャーをかけながら重いパンチを当てた。
試合前に立てていた作戦は捨てた。
「キャリアの中ではじめてゲームプランを無視した試合でした。
プランでは、7Rか8R、彼を十分弱らせてからノックアウトして試合を終わらせるつもりでした。
私たちのスタイルはとてもよく似ていました。
私がスイッチすればハメドもスイッチする。
左と左、そして両手・・・互いにたくさんの特徴を持っていました。
だから私はよく考えていました。
自分ならどうやって自分自身を打ち負かすか。
どうすれば自分に勝てるか・・・
それは敵意です。
敵意が強ければ強いほどベストが発揮できる。
敵意という感情が能力を最大限に引き出すと思って戦いました」
(ケビン・ケリー)
「ゲームプランはハメドを降参させることでした。
トコトン痛めつけ、棄権させることでした。
派手なノックアウトは必要ない。
ハメドの心を折るだけで十分でした。
もうたくさんだ、これ以上戦えないと」
(フィル・ボルジア、ケビン・ケリーのトレーナー)
ハメドも下がりながらいいパンチを当てて、このラウンド中、両者共にダウンはなかった。
3R終了後、ブレンダン・イングルは
「打ち合うな!
当てて距離をとれ。
コツコツ当てろ」
と指示。
4R、ハメドの制空権内に遠慮せずに踏み込み、パンチを振るうケリー。
ハメドは、ブレンダン・イングルの指示通り、打ち合いに付き合わず、軽いパンチを返した。
そのパンチにカッとなったケリーは、ケンカモードに突入。
ラフでワイルドなパンチを繰り出し始めた。
その迫力満点の大きなパンチに、ハメドは落ち着いて対応。
その圧力に後退させられ、ロープを背負い、もみ合いとなったがケリーを押し返し、ロープ際を脱出。
次の瞬間、低いダッキングから伸び上がるような左でケリーを横倒しにしてダウンを奪った。
これでお互いに2度ずつダウンを奪い合った。
ダメージがあるケリーにハメドはトドメを刺しにいったが、直後、ケリーの右のカウンターでバランスを崩し、片方のグローブを一瞬、マットにつけた。
「スリップ」かとも思われたが、レフリーは「ダウン」と判断し、立っているハメドにカウントを始めた。
この時点で、ケリーはハメドから3度ダウンを奪い、ハメドはケリーを2度ダウンさせていた。
再開後、2人は休まず打ち合った。
ハメドをコーナーに追い詰めたケリーは
「左をぶちかますつもりだった」
だったが、追いつめられたハメドはわずかにスペースができた瞬間、先に左を出しダウンを奪った。
ケリはーカウント10と同時に立ち上がったが、レフリーは試合を止めた。
4R 2分27秒TKO勝ち

4Rで両者合わせて6度というダウンの応酬。
最後までどちらが勝つかわからないクレイジーでスリリングな展開。
この試合は、1997年度の「Fight of The Year」に輝いた。
ハメドは3度、ダウンしモロさを露呈しながらも、熱いハートを持つタフガイであることを証明した。
解説者としてリングサイドにいたジョージ・フォアマンは
「王子は本物だ」
といった。
敗者となったケビン・ケリーは、再戦を望んだが叶わなかった。
その後、40代前半まで戦い続け、60勝10敗2分の記録を残し引退。
ラスベガスでトレーナーとなった。
72戦のプロキャリアでハイライトはハメド戦だった。
「人々の記憶に残る試合になりました。
そしてそれは私の人生になりました。
街を歩いていると「ケビンと王子」とよく声をかけられます。
今日になっても人々は私にそう語り、試合について熱く語り出すんです」
(ケビン・ケリー)
後編「ナージム・ハメド Fall of the Prince 王子の転落」に続く