10月14日、 広島戦でランディ・バースが50号、51号を放って4試合連続勝利打点(日本プロ野球新記録 )
チームもシーズン137犠打(セ・リーグ新記録)で7対3で快勝し、優勝マジックを「1」とした.
シーズン早々からマスコミが
「21年ぶりの優勝」
というフレーズを使い、ファンが騒ぎ、記者に
「優勝のプレッシャーがないですか?」
と聞かれても吉田義男監督は
「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」
優勝マジックが1となったときでさえ
「これで王手ですね」
「いよいよリーチですよ」
といわれても
「王手とリーチはどう違いますんかな?」
とトボケ続けた。
「周りは優勝、優勝と騒ぎ出したが、わたしは絶対口にしなかった。
選手、監督として経験もあったし、勝負はゲタを履くまでわからんとたたき込まれてましたからね。
だから今の選手がヒット打ったぐらいではしゃぐのはもってのほかですわ。
相手投手にも失礼だと思うんです。
勝負は厳しいですからね。
時代といえばそれまでだが、喜ぶのはナベのフタを開けた後でええんです。」
(吉田義男)
21年ぶりのリーグ優勝
10月16日午後、神宮球場周辺に大阪ナンバーの車や黄色いハッピ、頭に鉢巻きを巻いた男たちが集まり始めた。
試合前、超満員のスタンドには、すでに「阪神21年ぶり優勝!おめでとう!」の横断幕と多数のガードマンや警察官が配置された。
大歓声とトランペットマーチを浴び、阪神タイガースベンチには優勝のプレッシャーが重くのしかかっていた。
「おうおぅ、ぎょうさんトンボが飛んどるぞ。
秋やのう。
けどまだ黄色や。
もうすぐコイツらも赤くなるんやなぁ」
「カワさん、トンボは紅葉とちゃいまっせ」
「えっ、ホンマか?
コイツら赤とんぼにならんのか?」
川藤幸三のボケに大爆笑しチームは一気にリラックスした。
18時、試合開始。
2回裏、ヤクルトが1点先制。
4回表、先頭打者の、1番、真弓が33号同点ホームラン。
6回表、1アウト3塁でバースがバックスクリーン右へ52号2ランを叩き込み、3対1。
6回裏、ヤクルトが四球、ヒット、ヒットで2点を返し、3対3。
阪神タイガースはピッチャーを交代させたが、その後も打たれ、3対5。
「今日の優勝はお預けやな」
誰もが思った。
9回表、先頭の掛布が1ストライク3ボールからレフトポール直撃の39号。
続く岡田もフェンス直撃の2塁打。
バントで送って1アウト3塁。
そしてセンターフライからタッチアップした岡田が同点のホームを踏んだ。
阪神ベンチの末永正昭マネジャーは記者席へ飛び込んで聞いた。
「あのう、引き分けの場合、ウチは優勝するんでしょうか?」
一瞬の沈黙の後、
「何いうてんのや。
優勝や。
優勝に決まっとるがな!」
「ハイッありがとうございます!」
そして末永正昭マネージャーは、
「優勝やでぇー」
と叫びながらベンチに飛び込んだ。
「引き分けで優勝なんてそんなアホな話あるかい!とずっと思とった。
みんながホンマやというから、そういうもんかいなと」
(川藤幸三)
「ボクも最後まで知らなかった。
延長10回裏の最後の守りでマウンドに野手が集まったとき「どうなの?」と聞いたような。
ふとベンチをみたらカワさんがバンサイしている。
それで優勝するんだとわかったんですよ」
(掛布雅之)
「ほんま、オレも知らんかったわ。
同点のホームを踏んでベンチに帰ったらマネジャーが飛び込んで来て『優勝やでぇ!』と叫んだからわかったんよ。
ええんちゃう。あの年のオレらは勝つことしか考えてへんかったから」
(岡田彰布)
岡田彰布のいうように、阪神タイガースの凄さはそこだった。
どんなチームでも早い回に大量失点でもすればゲームを捨てる。
しかし阪神タイガースは点を取られても取り返す逆転劇を何度も繰り広げた。
年間130試合で70勝すれば優勝できるとすれば60敗してもいい計算になる。
絶対負ける試合は粘らず疲労を蓄積させない方が、次の試合や年間の勝敗を考えればプラスかもしれない。
逆にすべての試合に勝とうとすれば疲労も大きくなり、1敗が1敗でなくなってしまうこともある。
だが1985年の阪神タイガースは、すべての試合で勝とうとし勝ちにいった。
「初回の5失点ぐらいは平気だったね。
必ず2、3回までに2、3点返していたし、まあ5、6回までの6点差だったら大丈夫。
さすがに10点差は僕らも諦めたけど」
(掛布雅之)
実際、何度も奇跡を起こした。
例えば5月22日、甲子園球場での広島戦で1回につかまり、衣笠の6号3ランを含め5失点。
3回にも2点を追加されて0対7。
普通なら捨て試合にするところだが虎は勝負を捨てなかった。
問答無用の猛打爆発。
引き分けなんて狙わない。
ましてや試合を捨てるなんてとんでもない。
常に勝つことを求めた。
「そらそうでんがな。
ウチは勝ち星を計算出来るチームやおまへん。
挑戦者なんです。
それを忘れたらあきまへん」
(吉田義男)
勝っても負けても一生懸命。
それがみるものを興奮させた。
延長10回裏、最後の打者が倒れると、挑戦者たちはみんな雄叫びをあげてベンチを飛び出した。
神宮球場は、あまりの歓喜によって三塁側から地鳴りのような揺れが起こった。
その瞬間を伝えるために「夜のヒットスタジオ」が放送開始を遅らせたテレビの最高視聴率は約75%。
神戸や大阪の街は、「六甲おろし)」が響きわたり歓喜するファンの熱狂で包まれた。
ブラックマヨネーズの吉田敬は、野球ファンでも阪神ファンでもないが、この夜はハッピを着て、ハチマキを巻いて、メガホンを持って大阪で女性をナンパ。
それを目撃した先輩に
「ハッピを着てナンパしたんじゃないんです。
ナンパしてハッピ着たんです。
俺は阪神の力は借りてないんです」
と言い訳した。
道頓堀ダイブ
大阪ミナミでも、優勝に沸くファンが梅田の阪神百貨店前に集まり大騒ぎしていた。
「御堂筋パレードや!」
誰かが叫んだのをきっかけに車道である御堂筋を埋め尽くし、歩行者天国ばりにパレード。
そして心斎橋までたどり着くと、夜中にもかかわらず、多数のファンが戎橋(えびすばし)から道頓堀川に飛び込んだ。
「道頓堀ダイブ」だ。
最初に道頓堀ダイブを決行したのは巨人ファンで高校生だった桂福若(落語家)。
「21年も優勝しなかった阪神が優勝するわけない」
「優勝したら道頓堀に飛び込んでやる」
と見栄を切ったのがきっかけだった。
最初に飛び込んだ男、道頓堀のパイオニアは、道頓堀ダイブをきっかけに高校を退学し、今度は落語の世界に飛び込んでいった。
「僕が最初に道頓堀に飛び込んだのですが、実は巨人ファンなんです。
高2だった1985年秋、阪神は快調でしたが、阪神ファンの友達に「阪神が優勝するわけないやろ!」といってしまいました。
「ほんなら優勝したらどないするねん!」とケンカっぽくなってしまい「道頓堀に飛び込んだるわ!」と約束したらホンマに優勝してしまった。
もともとは罰ゲームだったんです。
そして11月2日、阪神が日本一になり道頓堀にいって橋の上に立ちました。
阪神ファンだらけで「お前、はよ飛び込めや!」とかいろいろいわれて焦りましたね。
飛び込まな生きて帰られへん雰囲気になってパンツ一丁になって飛び込みました。
ジェットコースターの急降下のような感じで命がけでしたよ。
水の中は真っ暗で目を開けたらアカンと思いました。
岸まで泳いで地上に上がるとみんなに胴上げしてもらいましたよ。
まさか巨人ファンを胴上げしていると思っていなかったでしょうね。
そして僕が飛び込んだ後に何人か飛び込みました。
ミナミはお祭り騒ぎでした。
ものすごかったです。
飛び込んだ後も、その場で知り合った阪神ファンと六甲おろしを歌いながら長居公園までいって、また池に飛び込みました。
快感でしたね。
そして翌日に「昨日の再現や」と学校の池に飛び込んだら退学になったんです。
公立校で退学ですよ。
それまでもだいぶ目立つことはしていたので最後のきっかけになったのかもしれないですね。
オヤジ(桂福團治、落語家)には「なんてカッコ悪いことしたんや」っていわれましたが、近所のおっちゃんには「ウチの町内から立派なヤツが出た」とか「ようやった!」ってホメられました。
「実は巨人ファンです」とはいわれへんかった」
さらに戎橋近くにあったケンタッキーフライドチキン道頓堀店(現在しない)のカーネル・サンダース像が、店員の制止もむなしく担ぎ出され、ランディ・バースに見立てられ胴上げされた後、道頓堀川に投げ込まれた。
実はこのとき「くいだおれ太郎」も狙われたが、店の営業部長が体を張って死守。
株式会社くいだおれは、戦後、焼け野原となった大阪で食堂から道頓堀にくいだおれビルを建て、「くいだおれ太郎」は大阪のマスコットキャラクターになったが、創業者:山田六郎の遺言は「支店を出すな」「家族で経営せよ」「看板人形を大切にせよ」だった。
10月22日 甲子園で行われたセリーグ最終戦、巨人vs 阪神戦。
試合前、巨人の吉村禎章は、出塁率で2位のバースに9厘の大差をつけトップ。
しかし巨人は優勝や順位争いにまったく関係がなかったこの試合に先発、フル出場させ、吉村は4打席凡退。
また試合前の時点で、バースも王貞治が持つシーズン本塁打記録にあと1本と迫っていた。
これをさせまいとしたか、巨人の投手陣は勝負を避け、バースは1安打4四球で全打席出塁。
結果、9厘の大差を1試合で大逆転させ出塁率でトップになった。
結局、足が遅く内野安打がないバースは打率が3割5分を含み、3大打撃タイトル(打率、本塁打、打点)で3冠王、そして最高出塁率、最多勝利打点、セリーグMVPを獲得。
岡田彰布もこの試合で3打点を挙げシーズン101打点。
バース、掛布、岡田、3人全員、3割30本100打点を超えた。
チームとしても219本塁打を放ち、731得点。
投手陣でも中西清起が、最多セーブ投手、最優秀救援投手。
日本シリーズ 最強の獅子 vs 虎
一方、パリーグでもロッテの落合博満が2度目の3冠王を獲得していた。
チームでみると最多得点をマークしたのは阪急。
広岡達朗監督が率いる西武ライオンズは、打線が振るわず、圧倒的な投手力で勝ちを積み重ね、優勝した。
この年のドラフトで、清原和博、桑田真澄のKKコンビが世間を賑わせたが、西武が清原和博を1位指名したのは必然だった。
広岡達朗は現役時代、吉田義男はライバルだった。
早稲田から大争奪戦の末、巨人へ入団し、ショート、レギュラーで新人王を獲得し、女性ファンも多く「貴公子」といわれた。
ファーストは「打撃の神様」川上哲治で、守備はあまりうまくなかった。
「あれくらいの球、捕れなくて何がプロだ」
広岡達朗が吐き捨てた言葉を記者が川上に伝えたことで2人の関係はギクシャクし始め、
正しいと思えば相手がコーチでもいい負かしてしまう広岡達朗は、首脳陣からも煙たがられ、川上哲治が監督となるとオフのたびにトレードの話が出るようになった。
しかし基本技術を徹底し、どんな簡単なゴロも雑に扱うことはなく可能な限り打球の正面に入って素早く送球する堅実な守備は、ますます安定感を増し、レギュラーの座を守り続けた。
吉田義男の華麗な守備と比較され
「甚だ迷惑した」
という広岡達朗は監督になると
「巨人より正しい野球をする」
とウエイトトレーニングを導入し、自身、家にも帰らずコーチらと選手を鍛え、
「麻雀・花札・ゴルフ禁止」
「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」
「炭酸飲料禁止」
「ユニフォーム姿では禁煙」
「練習中の私語禁止」
など選手の食事、生活、体調も管理し、球団創設から低迷を続けていたヤクルトを1年目から初優勝、日本一へ導いた。
豪放磊落な野球で「野武士」といわれた西鉄ライオンズにも徹底した「管理野球」を布いて1年目からリーグ優勝、日本一。
翌年も連続日本一。
3年目は3位に甘んじたが、4年目の1985年は再びパリーグを制し、自身2年ぶり3度目の日本シリーズ出場を決めた。
選手は練習日、試合日とも球場から車で数分のところにある西武園競輪場に隣接する「共承閣」での合宿生活。
共承閣は、競輪開催期間中、不正防止のため、選手と外部の接触を断つための宿泊施設。
4~5人ほど収容できる部屋のドアの覗き窓は外側からのみ開閉できる。
しかし食事は豪華だった。
「アル・カポネの気分」
「いつも監視されているようで落ち着かない」
「楽しみは食べることだけ」
選手たちの反発と衝突を重ねながら、あくまで基本を忠実に「管理野球」を行い常勝軍団を育てる名将だった。
「さすがに西武には勝てんやろ」
そういう関西弁も多かった。
日本シリーズ数日前、西武ライオンズ球場での練習中、突然、スピーカーから大音量の音楽が流れた。
音響の操作ミスかと思いきや、広岡達朗監督の要望だった。
「甲子園球場の大声援は(選手たちが)経験したことないだろう。
声の連係なんか消されてしまうから少しでも慣れるためなんだ」
10月26日、日本シリーズが開幕し、獅子と虎が戦い始めた。
西武ライオンズの本拠地:西武球場にもかかわらずスタンドには多くの阪神ファンが陣取り、西武ファンと五分五分の応援合戦を繰り広げた。
西武、松沼博久、阪神、池田親興の投手戦となり、西武は8回表、工藤公康を投入したがバースがレフとスタンドへ流し打ちホームラン。
「あれなら(セ・リーグ最下位の)ヤクルトの方が怖いですよ」
完封勝利した池田親興は、西武打線の印象を質問されいい放った。
10月27日、第2戦、阪神のリッチ・ゲイルが西武、石毛宏典にソロ本塁打を浴びるもバースが逆転の3ラン。
8回裏、1アウト1、3塁で、西武、辻発彦が1塁側にスクイズ。
バースはダッシュし素手でつかみスローイングしホームで三塁走者を刺した。
シリーズ開幕前、
「阪神の弱点はバースの守備」
といっていた広岡達朗監督に
「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」
といわしめた。
10月29日、第3戦、日本シリーズは甲子園球場に舞台を移し、有料入場者数は51355人で日本シリーズ最多入場者数新記録。
スタンドのブルーの一団はレフト側スタンドの一団のみで99%が黄色。
阪神打線の打球は平凡なものでも
「ワ~ッ!」
の大歓声。
一方、西武の選手が本塁打を打っても
「シ~ン」
2回表、西武が1アウト2塁から3塁打、センター前ヒット、2ラン本塁打で4点。
3回裏、バースの3ラン(3試合連続本塁打)で阪神タイガースは1点差に追い上げる。
4回表、西武はソロ本塁打、8回にも加点し3点差と突き放した。
9回裏、途中出場の嶋田宗彦が史上初の新人初打席ソロ本塁打を放ったが、後が続かず、西武が逃げ切った。
10月30日、第4戦、甲子園は51554人を集め、昨日更新したばかりの記録を超えた。
6回表、西武は2アウトから2ランホームランで先制。
6回裏、阪神タイガースは真弓のソロで1点差。
8回裏、西武のエラーと真弓のセカンドゴロで進んだ三塁ランナーがセンターフライからタッチアップし同点。
9回表、西武が福間から2ラン本塁打を放ち勝ち越し。
西武は厳しい環境の中で西武は3、4戦と連勝し2勝2敗の五分に持っていった。
一方、阪神タイガースは本拠地での日本一胴上げの可能性が消滅。
10月31日、第5戦、甲子園は入場者51430人で3日連続日本シリーズ最多入場者数新記録を更新。
阪神タイガースは、敵地で2連勝しながら甲子園で2連敗。
一気に優勝どころか王手をかけられる可能性も出てきた。
「ええか、甲子園での最後のゲームくらい、お客さんに喜んでもらおうやないか。
ワシらはチャレンジャーや。
チャレンジャーらしく気迫と気力でぶつかるんや。
ええな」
試合前、吉田義男はハッパをかけた。
1回裏、真弓明信の内野安打、ランディ・バースの四球で1アウト1、2塁。
打席は4番、掛布雅之。
「今日のカケはいい目しとる。
いくでぇ、これは」
ベンチの川藤幸三はつぶやいた。
ここまで日本シリーズ4試合でバースが3本塁打8打点なのに比べ、掛布は3安打0打点。
チームとしても猛打でセリーグの球団を震え上がらせた打線が4試合で2ケタ安打なし。
敵に傾いた流れを取り戻すためには4番の一撃が必要だった。
西武の先発は小野和幸。
1ストライク2ボールからの4球目のストレートは真ん中へ
掛布が
「タイミングがズレて詰まったが振り切ったことが良かった」
という打球はグングン伸びて一直線にセンターバックスクリーンを直撃。
特大の先制3点弾となった。
重苦しい雰囲気を打ち破った一撃だった。
眠りから覚めたように大歓声が起こり、揺れる黄色いメガホンが揺れ紙吹雪が舞った。
この後、前日、3安打だった猛虎打線に火がつき、西武の繰り出した6投手から10安打。
守っても3回表、1アウト満塁のピンチに登板した福間が、前日に決勝2ランを打たれた西岡をショートゴロに抑え、最後は中西でゲームセット。
ロングリリーフの2番手福間が勝ち投手となった。
球団初の日本一に王手をかけた。
「やっとウチらしい攻撃ができた。
これで絶対有利になったと思う。
あと2試合あるけど次の試合で決める気で戦う」
お立ち台に立った掛布雅之は日本シリーズ突入後初めて笑った。
試合終了後、再度所沢へ向かうため、チームは伊丹空港から飛行機に乗り込んだ。
空港にも多くのファンが集まっていたが、機内にも選手と一緒に攻め上ろうとする一般人の同志が20人ほどいて、「GoGo掛布」を合唱し機内は甲子園と化した。
11月2日、第6戦、西武球場の入場者数は32371人。
1回表、2アウトからバースが四球、掛布がヒット、岡田がピッチャー返しの内野安打で満塁。
試合前、甲子園は、ライトからホームへ冷たい北風が強く吹き、
今日は、左打者はかなり不利だね」
といわれていたが、長崎啓二は逆らうようにライトスタンドに満塁本塁打を放ち4点を先制。
大阪、北陽高校からドラフトで阪神に指名された長崎啓二は、高知県生まれ、大阪府大阪市阿倍野区育ちの大のトラキチだったが、一般の職に就くことを望んでいた母親の反対を受け、法政大学経営学部へ進学。
大学野球で活躍し、卒業後、ドラフト1位で大洋ホエールズに指名されプロ入り。
そして1985年、安打製造機はトレードで阪神タイガースに入った
「阪神に移籍したとき、レフトは仙ちゃん(佐野仙好)がいましたから代打での起用が多くなることはわかっていました。
その中で、ナイターの試合がある日、朝11時くらいに球場へいくと川藤幸三さんが座ってコーヒーを飲んでいた。
これは何かあるなと思い翌日さらに早くいってみると黙々と打撃練習をしていたんです。
そこで私も早く行き一緒に練習し、そのことを若手に伝えるとみんな練習に来るようになりました。
そしていつしか控え選手たちに和ができていき、狙い球などを話し合ったりするまでになりました」
阪神タイガース1年目の長崎啓二は、サヨナラ本塁打を打ったり、自打球を当て骨折したランディ・バースの代わりを務めるなど68試合に出場し、セ・リーグ制覇に貢献。
日本シリーズでは第5戦で2ランホームラン、そして第6戦1回に勝利を決定づける満塁ホームランを放った。
「俺を必要としてくれた阪神に、恩返しができた」
1回裏、西武はソロ本塁打で1点を返したが、阪神は2回表、真弓のソロ本塁打、5回表、掛布の犠牲フライ、7回表、バースのヒット、9回表、掛布の2ランホームランで点差を広げ、ゲイルが西武打線を7安打3失点に抑え完投。
阪神タイガースが西武ライオンズにに9対3で圧勝し、日本一を決めた。
「日本シリーズは下馬評も芳しくなかったし、西武に勝てると思わなかった。
ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれました。
晴天で風が強い日でした。
3勝2敗で敵地に乗り込んだ第6戦は初回2死満塁で長崎(慶一)が逆風の中で満塁ホームランを放って一方的に勝つんです。
デーゲームの試合後は夕日が差し込んだ。
わたしの指示でトレーナーをはじめ裏方ら、すべてに招集をかけたんです。
「一丸」「挑戦」「当たり前のことを当たり前にやれ」とうるさくいい続けた。
選手は“また監督いうとるで”といった感じだが、最後は信頼関係につながったと思います。
だから全員集合で写真を撮りたかった。
日本一で慰安旅行の話になった際、フロントと2軍は沖縄というので、それは違うといいました。
お金の出し方は別にして、全員でハワイに行った。
ファンも含めて飛行機7機ぐらいで9泊10日の大名旅行ですわ」
(吉田義男)
セ・リーグ新記録となる219本塁打などの猛打が注目されたが、犠打もセ・リーグ新記録。
完投できる投手が少ないので細かな継投を駆使。
豪快さと手堅さを併せ持った采配で正力松太郎賞を受賞した。
「あとで正力亨(巨人オーナー)さんとゴルフでご一緒したときに「こんな前例作ってもらっては困るやないか」と叱られましたわ。
正力賞の賞金500万円は選手会に配った。
自分がもらったんではないですから。
逆転勝ちも多かったので、こっちは苦しいけどファンは喜んでくれた。
阪神フィーバーは社会現象にもなったんです。
わたしの天国でしたわ」
「毎日ファンに夢をみさせた大変な人。
人間はライバルがいないと進歩しない。
吉田さんには大変感謝しています」
日本シリーズ終了6日後、広岡達朗が監督退任を発表。
知らせを聞いた西武の選手たちは大きな歓声を上げた。
それは厳しい管理野球から解放される喜びだったが、この中から、東尾修、石毛宏典、伊東勤、秋山幸二、渡辺久信、田辺徳雄、大久保博元、工藤公康、森繁和、辻発彦など10人が後に監督となり、多かれ少なかれ「広岡野球」を継承している。
Curse of the Colonel カーネル・サンダースの呪い
1986年、前年の日本一チームは、開幕戦で3連敗。
その後、掛布雅之がデッドボールで右手首骨折、エース格の池田親興も踵を骨折するなど故障者が続出。
唯一、バースだけが好調をキープし2年連続3冠王となった。
チームは夏頃まで巨人、広島と首位を争ったが脱落して3位でシーズンを終えた。
1987年、開幕前に掛布、バースが相次いで交通違反。
4月後半に7連敗を喫し最下位に転落。
6月、掛布が腰痛で2軍落ち。
チーム打率.242の打線で最下位を独走。
最終的に4年ぶりにリーグ優勝した巨人に37.5ゲーム、5位の大洋にも15ゲーム離され、球団ワーストの勝率.331で9年ぶりの最下位に終わった。
阪神タイガースは、2年前の優勝が嘘のように低迷にあえいだ。
シーズン中、バースが雑誌のインタビューで吉田義男監督批判を行い、打撃コーチ補佐の竹之内雅史も吉田義男と采配などで対立し退団するなどチームの雰囲気は悪かった。
試合終了後、ロッカールームから出たときに向けられたカメラのフラッシュに嫌気がさした吉田義男は
「傘さしたろか?」
とつぶやいたが、翌日のスポーツ紙には
「傘刺したろか?」
と報道された。
シーズン終了後、吉田義男の退任と村山実の就任に決まると「祝」という見出しを付けた在阪のスポーツ紙もあった。
まるで21年ぶりに優勝に導いた功績がなかったような扱いだったが、球団は退任にあたり吉田義男の背番号を、藤村富美男、村山実に次いで3人目の永久欠番に指定した。
吉田義男は
「天国(優勝)と地獄(最下位)を体験した」
と「天地会」という親睦会をつくった。
このように1985年以降、阪神タイガースは、急激に弱体化し、冬眠しないはずの虎が穴にこもるように暗黒期を迎えた。
その原因は、優勝時に胴上げされた末、道頓堀川に投げ込まれたカーネル・サンダース像の呪いではないかと囁かれ始め、一部のファンは像が回収されるまで優勝は無理だと信じた。
1988年3月、ABCテレビの「探偵!ナイトスクープ」は、初回放送で「道頓堀に沈んだカーネル・サンダースを救え!」を企画。
槍魔栗三助(やりまくり さんすけ)探偵が、街で広まる「カーネル・サンダースの呪い」の伝説を追い、像を探し出し呪いを解こうとした。
翌4月も、このネタを2回放送し、計3回中2回、ダイバーが川に潜り1m²ずつ移動しながら数十m²にわたり川底をしらみつぶしに捜したが発見できなかった。
以後、呪いはより定着し、サンダース像は、阪神ファンの集いに貸し出されたり、ハッピを着せられたりした。
2002年6月24日、サッカーFIFAワールドカップ日韓大会、日本vsチュニジア戦が大阪の長居スタジアムで行われ、2対0で日本が初めて決勝トーナメント進出を決めた。
例によって大阪ミナミの戎橋は人で埋め尽くされお祭り騒ぎとなった。
そしてサッカー日本代表のユニフォームを着たサポーターが笑顔で道頓堀川に落ちていった。
2003年7月、阪神が首位を独走する中、大阪府知事:太田房江は
「マジックを順調に減らしている阪神と今回の清掃が無関係とはいわないが、大阪への注目度を上げるためきれいにしたい」
とし
「飛び込み奨励ではない」
とクギをさしつつ、ボート上から網でゴミをすくうなど道頓堀川の清掃作業を行った。
道頓堀川は、川側面に歩道を設ける工事が実施中で、橋には川は汚染が深刻であるため飛び込みを止めるようにと警告する看板が掲げられた。
その水からは100mmℓ当たり18000個以上の大腸菌が検出され、海水浴場の「不適」基準の18倍以上という調査結果が出ていた。
「一般細菌の数は1mmℓに660個。
なかなかハッキリとした例は難しいですが、例えばトイレの便器には10cm²あたり83個、便座には50個の一般細菌があるんです。
だから、飛び込むということは、便器に顔をなすりつけているようなものですね。」
(日本分析化学専門学校の報告)
同校副校長の佐藤智子氏
9月15日、阪神タイガースのセリーグの優勝が決まるかもしれないこの日、道頓堀川の戎橋には機動隊などの警察官300人が配置された。
それでも14時半、試合開始30分後、1人目が阪神勝利を確信しフライングダイブ。
星野仙一監督率いる阪神タイガースがリーグ優勝を決めると
「危険だからやめなさい!」
という警察の制止にも耳を貸さず、
「優勝!」
「最高!」
「飛び込まずにいられまっか」
と16日未明までに延べ5300人を超えるファンが道頓堀川に飛び込み、18年分のうっぷんを晴らした。
パリのセーヌ川のアルマ橋から川に飛び込んだり、ロンドンのトラファルガー広場で噴水に飛び込んだファンもいた。
ダイブ後は、体や服から異臭を放ち、タクシーにも乗れず銭湯にも入らせてもらえない上、2人が頭に軽傷、3人が救急車で搬送された。
2009年3月10日、道頓堀川の新戎橋(しんえびすばし)の下流約5m水深2mのヘドロの中からカーネル・サンダースの上半身が、翌日には下半身と右手が発見され、24年を経て救出された。