貴乃花光司 プロフィール
貴乃花光司は、1972年8月12日生まれの48歳で、東京都杉並区出身の元大相撲力士、元日本相撲協会理事で本名は花田光司。1988年(昭和63年)3月場所初土俵。現役時代の最高位は第65代横綱。引退後は、一代年寄・貴乃花として2004年から2は貴乃花部屋の師匠として後進の指導に当たる傍ら、2010年に日本相撲協会理事に初当選。以来4期8年、相撲教習所部長、審判部長、地方場所(大阪)担当部長、総合企画部長、巡業部長を歴任し、2018年9月場所後に退職した。退職後は、相撲の普及活動の一環として、一般社団法人「貴乃花道場」を設立、理事として活動する他、タレントや絵本作家としても活動している。
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家族
父は、元大関貴ノ花で引退後は藤島・二子山両部屋の師匠・元日本相撲協会理事で2005年に他界した花田満。母は、藤島・二子山部屋の元女将でタレント・女優の藤田紀子(花田憲子)、兄は第66代横綱でタレントの花田虎上(花田勝、現役時代は3代目・若乃花勝)。伯父には第45第横綱で初代若乃花で日本相撲協会第6代理事長で2010年に他界した花田勝治がおり、相撲一家として知られている。
相撲に関する経歴
入門前
相撲を始めたきっかけは、小学校3年時に父であり、のちの師匠となる花田満が引退しとことであり、「将来、父が果たせなかった夢(横綱になること)を果たしたい」という思いから相撲に打ち込み始めたと言われています。小学校4年次には、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱の称号を手にした。中学校は相撲が盛んな明大中野に進学、相撲部監督の武井美男から技術面などの指導を受けたことがきっかけとなり、それが現役時代の飛躍につながったとされています。
入門
1988年、当時高校2年だった兄の勝とともに各界への入門を決意。中学を卒業した同年春場所に「貴花田」のしこ名で初土俵を踏んだ。同期には兄の他、大海(のちの横綱曙)、古賀(のちの大関魁皇、現・浅香山親方)らがいる。以来、関取になるまで次々と最年少記録を打ち立ててきた。その裏で部屋での生活においては、親方夫妻の息子であることから一部の兄弟子らのやっかみもあり、数々の嫌がらせを受けてきたが、常にマイペースでトレーニングを重ねていたという。母であり当時の藤島部屋女将だった花田憲子は、「いやがらせに打ち勝つことは稽古以上に大変なこと」と当時のことを振り返っている。
関取昇進
1989年11月場所、新十両に昇進。当時、17歳2ヶ月の若さは史上初の快挙となった。今でこそよく見られる光景となったが、「出世に髷が追い付かない」といわゆる「クワイ頭」で土俵に上がった。
新入幕
それからわずか半年後の1990年5月、17歳8ヶ月の若さで新入幕を果たした。その後は怪我で一時的に十両落ちの時期があったものの、半年後には幕内に復帰した。
1991年
春場所、東前頭13枚目の地位で初日から11連勝を挙げ、優勝争いに名を連ねた。11連勝後は何度か負けがあるものの、結果は12勝3敗で敢闘賞と技能賞を受賞した。5月場所(以下・夏場所)では、前場所好成績を挙げたことから、西前頭筆頭まで番付をあげた。初日の対戦相手は父(当時・藤島)を引退に追い込んだ因縁の相手、横綱・千代の富士だった。結果は、貴花田の完勝。千代の富士は2日後の3日目に兄弟子の貴闘力に破れ、現役引退を表明した。
空前の若貴ブーム
また、この頃から兄の若花田とともに兄弟の活躍がマスコミなどでクローズアップされたことから、空前の「若貴ブーム」に日本中が沸いた。雑誌は若貴兄弟の写真が表紙を飾り、テレビ出演やCMなどに引っ張りだことなり、ワイドショーは各局揃って毎日のよう兄弟の様子を伝えていた。本場所や巡業先では、多くの女性ファンが兄弟が登場すると群がり、黄色い歓声が上がるなど騒然となったことから兄弟のみの安全を最優先に考え、ファンの接近を制限するなどした時期もあった。のちに兄の勝は、「肩身が狭く、生きにくかった」と当時の様子を振り返っている。
1992年
初場所では、14勝1敗の好成績で若干19歳で幕内初優勝を果たした。優勝パレードの旗手は兄・若花田が務めた。さらに9月場所(以下、秋場所)では、2回目の幕内優勝を飾り、同年の最年少年間最多勝を受賞した。
1993年
初場所、11勝4敗の成績を挙げ、直前3場所の成績が大関昇進の基準となったことから、場所後に大関昇進を果たし、父と同じしこ名の「貴ノ花」に改名した。1月27日行われた伝達式の口上は「不撓不屈」の四字熟語を取り入れた。また、このとき同期入門だった曙が横綱に昇進し、同じ日に伝達式を行った。同期入門で横綱と大関の同時昇進となった。翌春場所には兄の若花田が幕内初優勝を果たし、貴ノ花は大関に昇進していたが、兄の優勝パレードで旗手を務めた。この時、貴乃花が袴の裾にカメラを忍ばせていて、パレードの最中に兄と2人で撮影した満面の笑顔の写真が、のちにテレビ番組で紹介されるなどし、兄弟や家族ともに仲が良好であることから世間からは「理想の家族」とまで言われていた。さらに、7月場所(以下、名古屋場所)後には兄・若花田が大関昇進を果たし、半年間で兄弟2人が大関に昇進した。
1994年
この年は、常に横綱昇進を目指していた貴乃花。初場所は初の角番で迎えたものの14勝1敗の成績で4回目の優勝。春場所で綱取りを逃し、夏場所で再び優勝するも名古屋場所で逃しの繰り返しだった。秋場所では初の全勝優勝を飾り、日本相撲協会(以下、協会)は、場所後の昇進を横綱審議委員会(以下、横審)に諮問したが、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアしていなかったため、昇進が見送られた。続く九州場所2場所連続で全勝優勝を飾り、その後の理事会等で正式に昇進が決定した。場所後の11月23日、二子山部屋の宿舎で伝達式の口上は「不惜身命」の四字熟語を取り入れた。翌日には綱打ちが行われ後日、明治神宮にて推挙式と奉納土俵入りが行われ、第65代横綱となった。土俵入りの露払いは兄弟子の貴ノ浪、太刀持ちは兄若乃花がつとめた。
曙貴時代の到来と黄金期
1995年
貴乃花が横綱に昇進したことで、同期で1人横綱を務めてきた曙と合わせて2横綱となったことでいわゆる「曙貴時代」が到来した。新横綱で迎えた初場所は、12勝3敗の成績で前年秋場所からの3連覇を果たすも、武蔵丸等に敗れ、前年秋から続けてきた連勝記録が途絶える。この年は、夏、名古屋、秋の3場所優勝を重ね、迎えた九州場所、序盤こそ成績は振るわなかったが、中日以降は白星を重ね、兄とともに12勝2敗の成績で優勝争い名を連ねていた。しかし、ともに千秋楽の本割りで敗れたことから12勝3敗の成績となり、のちに語り継がれる「兄弟対決」が実現した。結果は、兄若ノ花の下手投げに敗れた。後日、この兄弟対決については「八百長ではないか」といった報道が一部でなされるなど物議をかもした。
1996年
初場所は、13日目まで全勝でトップと走っていたが、14日目に同期の魁皇に敗れこの場所はつ黒星となり、同部屋の兄弟子の大関貴ノ浪と1杯で並んだ。千秋楽では両者ともに14勝1敗の成績で本割りを終え、優勝決定戦となる。貴乃花にとっては、前年九州場所の兄弟対決に続く優勝決定戦、同部屋対決、二子山部屋(当時)にとっては2場所連続の優勝決定戦となったが兄弟子に敗れた。春場所以降は秋場所まで4場所連続優勝を飾った。おそらく貴乃花にとってこの時期は「黄金期」といっても過言ではないだろう。
成績不振 度重なる怪我と病気
夏場所後の1998年5月27日、二子山部屋で兄・若乃花の「横綱昇進伝達式」が行われた。これで大相撲史上初の「兄弟横綱」の誕生にマスコミの注目を集め、夏場所翌日には兄の横綱昇進を祝して特番が組まれ、若貴兄弟の歩みと横綱昇進までの軌跡が紹介されたり、その他マスコミでも大きく取り上げられ、ワイドショーやニュース番組でも大きく特集が組まれてていた。筆者は当時高校1年生で相撲にあまり興味はなかったが、「兄弟横綱」の見出が踊っていたことはよく覚えている。しかし、この時を境に兄弟間で相撲に関する価値観の違いが浮き彫りになっていく。名古屋場所では新横綱の兄とともに「兄弟横綱」として土俵に上がり、14勝1敗の成績で前年の秋場所以来の優勝を飾った。
1996年秋巡業中に背筋の肉離れを起こし、途中離脱、その後一旦九州場所への出場を明言するもその後体調を崩し、初日から全休した。これをきっかけに貴乃花本来の相撲に陰りが見え始めた。
1997年
前年の休場がきっかけとなり、相手を強引にねじ伏せたり、体をのしかけていく浴びせ倒しノと陸地に変化していく。この年にも春、名古屋、秋で3場所連続優勝しているものの内蔵の不調が見え始めていた。
1998年
初場所には、顔面に原因不明の発疹が現れるなどの体調不良で途中休場となり、場所後は「長野オリンピック」の開会式で横綱土俵入りを披露する予定になっていたが、欠席となり、もう1人の横綱である曙のみ土俵入りを披露した。続く春場所も肝機能障害が原因で初日から成績不振に陥り、またも途中休場に追い込まれた。その一方で兄で当時大関だった若ノ花は、初日から12連勝し、13日目に曙に敗れ黒星を喫するも、14勝1敗の成績で4回目の優勝、綱取りがかかった夏場所でも12勝3敗で優勝を飾った。優勝パレードの旗手は貴乃花がつとめた。さらに、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアし、夏場所後横綱に昇進、史上初の兄弟横綱の誕生となった。
大相撲史上初!兄弟横綱の誕生と曙若貴時代の到来
1998年夏場所の千秋楽以降、ワイドショーなどでは若乃花の横綱昇進に関するニュースが多く取り上げられたり、特番として、若貴兄弟の入門時からの歩みから若乃花横綱昇進の軌跡を描いたドキュメントが放送されるなど兄弟横綱の誕生は世間から大きく注目された。5月27日は、二子山部屋で兄の伝達式が行われ、「兄弟横綱」が正式に誕生した。兄弟横綱は大相撲史上初の快挙だった。名古屋場所の番付では曙を含めると1988年春場所初土俵の3人が横綱となった。いわゆる「曙若貴時代」の到来となった。名古屋場所では、14勝1敗で前年の秋場所以来の優勝を飾った。
兄弟横綱誕生後
1998年名古屋場所は、「曙若貴時代」が到来し、ファンは史上初の兄弟横綱の活躍に注目した。
1998年
名古屋場所では14勝1敗で前年秋場所以来の優勝、秋場所では13勝2敗で2連覇を果たすが、それ以降は2001年初場所まで約2年間優勝から遠ざかることとなった。
1999年
この年は、1996年以来怪我の不調に苦しむこととなった。初場所は、序盤から思うような結果が残せず8勝7敗に終わった。春場所は、10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めるも左肩骨折により11日目から途中休場、また夏場所は全休となった。復帰した名古屋場所で再び左手薬指を脱臼しその後は自分の相撲がとれず9勝6敗、秋場所は全休となった。九州場所では本来の調子が取り戻せずも終盤まで3敗の成績で優勝争いに名を連ね、千秋楽の武蔵丸との優勝決定戦で敗れ、11勝4敗で場所を終えた。
また、2000年以降稽古量が増えたことから、怪我や体調不良などを全く感じさせないくらい調子が上向きになり、常に優勝争いに名を残すようになる。
兄若乃花の引退!若貴時代の終焉
2000年3月16日兄若乃花が現役引退を表明した。若乃花は、1999年初場所は初日から12連勝し、優勝争いのトップにたっていたが、13日目に黒星を喫し、14日目までは13勝1敗で単独トップにたっていた千秋楽には本割で新鋭の千代大海(現・九重親方)に敗れ13勝2敗で優勝決定戦へ、ここでも千代大海に敗れ、優勝を逃した。その後は、左肩の脱臼を始め満身創痍の状態で土俵を務めてきた。春場所と夏場所の途中休場に続き、名古屋場所は全休。秋場所は序盤から崩れ、10日目の闘牙戦で左足肉離れを起こし、11日目からは怪我の影響で1勝もできず横綱としては7勝8敗の不名誉な負け越しで終わった。スポーツ紙では「引退」の2文字が踊ったが、若乃花は「現役続行」を表明した。しかし、前年の九州場所とこの年の初場所は全休。進退をかけて臨んだ春場所では5日目を終えて2勝3敗となり、その日の夜に大阪の宿舎で父であり師匠である二子山とともに記者会見を開き「体力を補う気力の限界」を理由に現役引退を表明、かつて父が名乗っていた年寄「藤島」を襲名した。この時貴乃花は、兄について「語らなくても通じ合える」関係であると語り、会見終了後に兄弟で握手を交わし、兄の労をねぎらった。これで平成の大相撲界を牽引してきた若貴フィーバーは幕を閉じた。
復活優勝への道のり
若乃花引退後は、貴乃花、曙、武蔵丸の3横綱となった。当時の貴乃花の中には、「お兄ちゃんの分まで」という思いがおそらくあっただろう。兄が引退した春場所と続く夏場所はそれぞれ二桁勝利の好成績を残した。名古屋場所では、5日目の土佐ノ海(現・立川親方)戦で上腕二頭筋を負傷、さらに7日目に大関獲りがかかっていた魁皇に切り返しで敗れ2敗目、その際に怪我が悪化し途中休場となり、秋場所は全休した。また、秋場所後の9月23日には兄若乃花の引退相撲・断髪式が行われ、兄に「切るよ」と声をかけて鋏を入れ、兄若乃花の頬を涙が伝った。復活後の九州場所では11勝4敗の2桁勝利を飾った。九州場所後の12月18日、兄・藤島が日本相撲協会を退職し、タレントおよびスポーツキャスターに転身、元巨人投手だった江川卓が司会をつとめる「うるぐす」(当時)などに出演を開始した。
翌2001年初場所には、初日から14連勝を飾り、千秋楽に1敗で追っていた武蔵丸に敗れ14勝1敗同士で優勝決定戦にもつれ込み、武蔵丸を下して21回目の優勝。この頃には全盛期の貴乃花の勢いが戻ってきていて完全復活を印象づけた。この日放送された「うるぐす」では、兄がスポーツキャスターとして貴乃花にインタビューしているところが紹介された。
最後の優勝
2001年の初場所で完全復活を印象づけた貴乃花であったが、場所後に同期の曙が引退を表明し、2横綱となった春場所も優勝争いを演じ健闘した。さらに夏場所は初日から13連勝で全勝街道を走り続けていたが、14日目に武双山に「巻き落とし」で敗れ、右膝の半月板損傷の重傷を負った。取り組み後には自力で立つことができず花道で協会関係者に車イスを勧められても断り、足を引きずりながら花道を引き上げた。本来ならば千秋楽の休場はやむを得ない誰もがそう思ったが、周囲の意見を押し切って千秋楽の強行出場に踏み切った。土俵入りでは協会専属トレーナーからテーピングやサポーターの装着を勧められても断り、痛みが残るなか自力で歩いて土俵入りを行った。しかし、土俵入りや本割りの仕切りなどでも右足を引きずっていたことから「相撲をとることは不可能に近い状態」であることは明白であり、当時の審判部長で2016年に逝去した先代九重(元横綱千代の富士)が「痛い場合は無理をする必要はない」という旨の忠告していたことも後に明らかになっている。本割りでは前日からの痛みの影響から星1つの差(2敗)で追っていた武蔵丸の早さに全くついていくことができず黒星、相星となり優勝決定戦へともつれ込んだ。優勝決定戦では豪快な上手投げで武蔵丸を敗って22回目の優勝を飾った。取り組み後の気迫のこもった形相がまるで般若とも阿修羅ともとれるような気迫のこもった表情であったことから「鬼の形相」と呼ばれた。表彰式で「内閣総理大臣杯」は当時総理大臣に就任して間もない小泉純一郎が手渡した。賞状の文言を一通り読み上げた小泉は「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」とコメントした。その後は膝の治療に専念するため長期休場を余儀なくされ、この優勝が結果として最後の優勝となった。
1年以上に渡る長期休場
2001年の夏場所を執念の相撲で優勝を飾った貴乃花。しかし、その代償はあまりにも大きく名古屋場所は当然のことながら休場。7月30日には、右膝半月板の除去手術を受けるため、フランスに渡った。帰国後も秋場所、九州場所ともに全休。2002年に入ってからも初場所から名古屋場所まで全休し、結果として7場所連続休場となり、その期間は1年2ヶ月となった。受傷当初は世間も横審も「ゆっくり治療に専念してほしい」との思いがあったものの、休場期間が1年以上に渡ることから、横審委員からも苦言を呈する者が出てきた。そのため、秋場所に再起をかけることとなった。
復活から引退へ
2002年秋場所、約1年4か月ぶりに本場所の土俵に帰ってきた貴乃花。初日こそ白星だったもののその後は度々金星を献上し、一部では引退説が囁かれていた。しかし、11日目には、この場所を新大関で迎えた朝青龍に勝利、朝青龍が花道で声をあげて悔しがる姿がテレビで流れた。中盤から徐々に調子が上向きとなり、14日目を終えて12勝2敗。千秋楽に武蔵丸に敗れ、12勝3敗の成績で場所を終えた。この場所で復調の兆しが見えていたものの、場所中に怪我が悪化し九州場所は全休となった。九州場所の期間中は宿舎に帯同し、山口県萩市で萩焼の窯元を訪れ、無心で陶芸に取り組む姿や親交がある福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の王貞治監督(当時、現・球団会長)とちゃんこを囲み、激励を受ける姿が引退後にテレビで紹介された。そして2003年初場所は進退をかけて土俵に上がることとなった。初場所では2日目に元大関の雅山の二丁投げを喰らい、その際に左肩を負傷、途中休場となったものの、5日目に再出場。8日目まで出場して6日目まで連勝するも7日目・中日ともに連敗し4勝4敗。中日の夜、貴乃花の自宅には引退を察した大勢の報道陣が詰めかけた。父で師匠の二子山が貴乃花の自宅を訪問した際、貴乃花は黙々と翌日に向けてトレーニングをしていたというが、9日目の朝、ついに現役引退を決意した。
現役引退
2003年1月20日、ついに平成の大横綱・貴乃花が引退の意向を固めた、30歳での決断、15年の土俵人生だった。また、この日は奇しくも兄・勝の32回目の誕生日だった。このことが伝えられると各局ワイドショーが速報として伝え、自宅や二子山部屋などに多くの報道陣が集結。番組の大半の時間を割いて「貴乃花引退」を伝えた。また、北の湖理事長(当時)ら相撲協会関係者が当時の状況を語った。この日の午後、貴乃花は両国国技館の大広間で引退に関する記者会見を開いた。今の心境を聞かれると「非常に清々しい気持ち」と笑顔で答えた。思い出の一番には、「幕下で重量を決めた一番」と「横綱を決めた一番」を挙げた。この会見中に「心の底から納得している」と何度か語っていた。日本相撲協会は、この日の持ち回り理事会で貴乃花に「一代年寄」の称号を与え、功労金として1億3000万円を支給すると当時の高砂理事(現・参与、年寄・錦島)が発表した。一代年寄は、北の湖、大鵬に続く5例目だという。生涯成績は、764勝(幕内701勝)262敗(幕内217敗)201休、優勝22回だった。引退発表後の夕方以降はニュース番組が揃ってこのニュースを伝え、夜には各局とも通常の番組を変更し、特番が組まれた。この日テレビ朝日で放送されていた「大相撲ダイジェスト」(2003年9月放送終了)に解説として出演したのは、最大のライバルと答えた曙親方だった。番組では、引退発表までの動きが放送され、名勝負が紹介された。エンディングで曙は「たくさんの思い出を感動をありがとうございました」と今までの思い出を噛み締めるように話した。また、曙は雑誌「貴乃花栄光の軌跡」の中で、「貴乃花引退会見を見て涙が出た、今度3人(兄花田勝を含め)でお茶のみ友達として話をしましょう」とかつてのライバルを称えた。筆者は当時20歳であったが、昨日のことのように鮮明に覚えている。貴乃花の引退は国内や海外でも大きく報じられ、小泉首相などの閣僚や政界関係者、親交のあるシドニーオリンピック柔道48㎏級金メダリストの田村亮子(現・谷亮子)選手や王監督、読売巨人軍の原辰徳監督らスポーツ関係者や芸能界をはじめ日本全国の多くの相撲ファンから引退を惜しむ声が相次ぎ、海外でも相撲好きとして知られたフランスのシラク大統領(当時)がコメントを発表するなど大々的に報じられた。さらに、初場所は前年の九州場所で初優勝した大関の朝青龍がこの場所も優勝し「2場所連続優勝」。貴乃花と入れ替わりで横綱に昇進し、平成の大横綱からバトンを受け取った。朝青龍も貴乃花と同じ22歳で横綱に昇進した。
一代年寄・貴乃花として
2003年
引退直後の初場所後に行われた兄弟子・貴闘力(当時大嶽親方)の引退相撲では、横綱土俵入りを披露し、袴姿で兄弟子の髷に鋏をいれるなど3変化で話題となった。その後発表された協会の職務分掌では「委員」の待遇で親方のスタートを切った。春場所では、7日目にNHKの大相撲中継の解説として解説者デビュー、髷にスーツ姿で登場した。夏場所の6月1日に、断髪式・引退相撲を行った。断髪式には、兄・勝をはじめ、伯父の勝治ら親族、同期の大関魁皇ら約50名が鋏を入れるシンプルなものだった。止め挟は師匠の二子山が入れた。断髪式後には、子供たちから花束が手渡され、長男で現在靴職人をしている優一が「パパありがとう」と手紙を読み、涙を流す姿が印象に残っている。夜には「断髪披露パーティー」を行った。断髪式とパーティーの様子は、妻・景子の古巣であるフジテレビが中継した。断髪式前には、シドニーオリンピック女子マラソンの金メダリストの高橋尚子選手との対談も紹介された。引退後しばらくは、二子山部屋の部屋つき親方として後進の指導に当たっていた。
2004年
初場所後の2月に、父から部屋を継承し「貴乃花部屋」を創設を発表。5月11日には、元大関の現役時代の兄弟子だった貴ノ浪が現役引退を発表、師匠として弟子の引退会見に初めて同席した。さらに同時期、貴乃花部屋の部屋付で兄弟子の元安芸乃島(当時千田川、現高田川親方)が所属する二所の関一門ではなく、当時一門に属していなかった高田川部屋への移籍を貴乃花に申請したが、書類への捺印を拒否したことで、また、秋場所中には、場所が開催されている国技館内の役員室で書類の提出いかんを巡り両者が口論となり、確執が表面化した。結局・移籍関連の書類への捺印は先代の二子山が行い、北の湖理事長が「二子山が師匠である」と強調したことから高田川部屋への移籍が認められた。
2005年
1月30日に行われた「貴ノ浪引退年寄音羽山襲名披露大相撲」にて、断髪式で師匠として初めて止め鋏を入れた。4月には、貴乃花と断髪式を終えたばかりの音羽山が2人揃って年寄株に関する書類を紛失し、協会から厳重注意を受けた。同じ部屋で年寄株の書類が立て続けに紛失することは極めて異例のことであった。5月30日、父・二子山が口腔底癌のため死去、通夜は6月1日、葬儀は翌2日に「青山葬儀所」にて執り行われた。喪主は長男ということもあり、兄・勝が務めた。さらに、6月13日には、両国国技館にて日本相撲協会における「協会葬」が行われ、協会関係者であることから貴乃花が喪主を務めた。その後、テレビなどで相撲協会を批判ともとれる発言を繰り返し、役員全員から注意を受け、謝罪した。
2008年
11月に、モンゴルから来日し、鳥取城北高校に留学していたアディヤーギン・バーサンドルジが、貴乃花部屋に入門。「貴ノ岩」四股名で2009年初場所に初土俵を踏む。貴乃花にとっては、現役時代を過ごした藤島・二子山そして継承した貴乃花部屋通算して初の外国人力士となる。貴ノ岩の四股名の由来は、羽田空港で偶然居合わせた美輪明宏から「岩のよう」といわれたことだという。
2009年
1月、双子の小笠原将匡・将史(まさおき)兄弟が入門した。兄将匡は貴月芳、弟将史は貴斗志のしこ名で先に入門した貴ノ岩と共に初土俵を踏んだ。貴乃花部屋では初の双子力士となる。
2010年
1月の初場所前、2月に行われた日本相撲協会の理事選挙への立候補を表明。一門からは現職の2人に加え、新たに1人が立候補を予定していたがこれに貴乃花が加わり、4人になることから貴乃花に出馬を断念させる方針だったが、貴乃花はこれに反発し、貴乃花部屋をはじめとする間垣、大嶽、阿武松の3部屋は二所一門を離脱し、「貴乃花グループ」を結成した(後述「貴の乱」)。選挙後、貴乃花に票を投じ、当時宮宮城野部屋に所属していた安治川(元光法)が4月にこれまで所属していた立浪一門からの離脱して貴乃花グループに入ることを表明し錦島の年寄株取得を図ったが、その後、一門関係者と連絡を断ち、宮城野部屋へ姿を表さなくなったことから、事実上の破門状態となり、安治川の年寄株を元々の所有者だった安美錦に返却し、当時、現役だった元大関の雅山(現・二子山親方)から名を借りて二子山を襲名。8月6日付けで貴乃花部屋へ移籍した。
2011年
2月から明るみに出た八百長問題の影響で春場所が中止となる。貴乃花部屋の力士に該当者はいない。まら、この年の名古屋場所、同期の魁皇が引退し、「これからは相撲協会のために一緒に頑張ろう」とエールを送った。
2012年
夏場所後の5月23日に行われた名古屋場所の番付編成会議で、貴ノ岩の十両昇進が正式に決定した。貴ノ岩とともに会見に同席した貴乃花は、「涙がポロポロ出た」と笑顔で弟子の新十両への喜びを語った。貴乃花部屋では先代二子山の弟子である貴ノ浪以来、貴乃花が部屋を継承してからは初の関取となる。夏場所後には前年に引退した元大関魁皇の「引退年寄浅香山襲名披露大相撲」に出席し、断髪式で髷に鋏を入れた。式後、貴乃花は「自分達の時代が終わったと感じた。これからは今まで積もった話をしていきたい」と語った。
2013年
2組目の双子である上山剛・賢兄弟が入門。兄剛は貴公俊(たかよしとし)、弟賢は貴源氏の四股名で春場所、初土俵を踏んだ。また、12月に行われた2014年初場所の番付発表で、貴ノ岩が新入幕を果たした。貴乃花部屋初の幕内力士が誕生した。
2014年
これまで一門に属さない「貴乃花グループ」と言われていたが、この年、協会から助成金が支払われることが決定し、「貴乃花一門」に改称した。6月、小学生当初から相撲の稽古の影響で耳たぶが垂れてしまい、日常生活に支障が出たことから両耳を手術し、名古屋な所を休場した。
9月4日、全日本ジュニア選手権や世界ジュニア選手権で優勝経験のある兵庫県出身で埼玉栄高校3年の佐藤貴信(現・貴景勝)が入門することが報じられた。佐藤は翌5日に新弟子検査を受け、高校卒業を待たず秋場所でずっと憧れだった貴乃花のもとで初土俵を踏んだ。2人の出会いは小学4年生の時、貴乃花が開催した「相撲教室」だった。当時、貴乃花は佐藤の父である一哉さんに、「この子は強くなりますよ」と話していたことが後にテレビで紹介された。また、名前の貴信の「貴」は貴乃花に由来するという。また、この年には弟子の貴斗志を引退させたことで、これが訴訟問題に発展した。
2015年
6月20日、部屋付きだった音羽山が大阪・豊中市のホテルで急性心不全で急死。このとき、前年から体調不良で場所を休場しており、「胃潰瘍」と公表されていたが実際は「胃癌」を患っていたことや居住地が部屋のある東京都内ではなく200㎞以上離れた名古屋市だったことが明らかになった。
通夜は21日、葬儀・告別式は22日に名古屋市内で行われ、貴乃花をはじめ、部屋の親方や力士ら関係者、一門の親方や力士、名古屋場所を直前に控えていたことからすでに名古屋入りしていた一門外の親方や力士、部屋のある中野区在住で故人と長年親交があったタレントの松村邦洋らが参列した。貴乃花は兄弟子の早すぎる死に大きなショックを受けながらも、15歳の時からどんなときも一緒に闘ってきた兄弟子へ「遺志を引き継ぐ」と誓ったという。さらに5ヶ月後には懇意にしてきた理事長の北の湖が死去。これをきっかけに理事選へ立候補する遺志を固める。
2016年
春場所後の3月30日に行われた夏場所の番付編成会議で佐藤の十両昇進が正式に決定した。自身と同じ所要10場所での十両昇進となり、貴乃花部屋では、貴ノ岩に続き2人目、日本人としては初の関取となった。さらに、佐藤は12月に行われた2017年初場所の番付発表で新入幕を果たすと「貴景勝光信」に四股名を改称した。筆者は当初、部屋初の日本人関取りであることから、貴乃花の「貴」、女将の景子夫人の「景」、兄若乃花の「勝」かと考えたが、実際には憧れの武将である「上杉景勝」にちなんだものだった。光信の「光」も貴乃花の本名である「光司」の光かと思われる。また、また、入門当初からの部屋の所在地だった中野新橋から江東区内に部屋を移転した。
2017年
春場所後の3月29日に行われた夏場所の番付編成会議で、双子の上山兄弟の弟・貴源氏の十両昇進が決定した。自身の十両昇進と同じく、弟が兄よりも先に関取となった。貴乃花部屋では3人目関取誕生となり、栃木県出身者では14年ぶりとなった。また、九州場所では貴景勝が11勝4敗の好成績を残し、日馬富士と稀勢の里から金星を獲得し、殊勲賞を受賞。12月の番付発表で小結に昇進した。
2018年
初場所後の1月31日に行われた春場所の番付編成会議で、上山兄弟の兄である貴公俊の十両昇進が決定した。弟より5場所遅れての十両昇進となったが、史上初の双子関取の誕生となった。しかし、これが貴乃花にとっても貴乃花部屋にとっても最後の関取となった。春場所、貴ノ岩が怪我から復帰。この場所中、貴公俊が暴行事件を起こし、一連の責任を取り貴乃花は、6月20日をもって貴乃花一門を離脱、無所属となった。8月、秋田市内で行われた夏巡業中に一時意識を失い、病院に救急搬送される事態が起こった。秋場所には審判に復帰したが、この場所を最後に貴乃花は相撲協会を退職した。これにより一代年寄「貴乃花」の名は消え、貴乃花部屋は消滅した。所属していた親方や力士、床山ら裏方は藤島・二子山部屋時代の兄弟子で2016年まで貴乃花部屋に部屋付き「常磐山」として所属していた「千賀ノ浦」が師匠をつとめる千賀の浦部屋に全員移籍した。
私生活
新横綱の場所を終えた1995年2月、貴乃花と元フジテレビアナウンサーの河野景子さん(以下、景子夫人および景子)の婚約が明らかになり、2人は2月25日に婚約記者会見を開いた。貴乃花22歳、景子30歳で8才年上の姉さん女房だった。このとき、景子が第1子を妊娠中であることも明らかになった。以後、ワイドショーでは花嫁修行や衣装合わせなど結婚準備に関する密着映像が紹介されるなど盛り上がりを見せた。夏場所後の5月29日2人は、明治神宮で挙式、ホテルニューオータニで披露宴を行った。この様子はテレビで生中継された。挙式には親族や相撲関係者、古巣フジテレビのアナウンサー仲間ら1000人が出席した。また、9月27日には長男で現在靴職人をしている優一が誕生。2001年に長女、2003年に次女が誕生しており、3人の子供の父親となった。現役中に品川に豪邸を建設。貴乃花部屋創設当初、貴乃花は自宅から通っていた。貴乃花は途中から平日は弟子たちと寝食を共にするため部屋に寝泊まりし、週末のみ自宅に帰宅する生活。その一方で女将となった景子は、自宅から部屋へ通う生活を最後まで続けた。通常、相撲部屋では弟子たちにとって親方が父親、女将が母親の代わりとなる。相撲に関することは親方、その他日常生活に関することは女将が隅々のことまで指導するのが一般的なため、貴乃花夫妻はこれまでの相撲界の常識を覆したことになる。また、景子は女将の傍ら、講演活動で全国を飛び回っていることが多かった。しっかりとした監督体制がなされていなかったことから、後述の暴行事件が起こったのではないかと筆者は考えている。貴乃花部屋が消滅し、元弟子の貴景勝が初優勝を決めた九州場所翌日の11月26日、2人は離婚したことを発表。23年半に渡る結婚生活に幕を下ろした。
そして誰もいなくなった…「貴乃花」騒動史/まとめ/ファイト/デイリースポーツ online
貴乃花が世間を騒がせた騒動
「世紀のカップル」といわれた宮沢りえとの婚約と破局 「貴りえ騒動」と宮沢の今
貴乃花といえば真っ先に思い浮かぶのが「景子さん」(河野景子)だろう。しかし、彼女との婚約は貴乃花にとってはじめての婚約ではなかった。それ以前に忘れてはならないのが、日本を代表する女優・宮沢りえとの婚約から破局までがセンセーショナルな「貴りえ騒動」だろう。あれから28年、貴りえ騒動を振り返る。1992年10月27日、1つのビックニュースが報じられた。「貴花田・宮沢りえが婚約」。筆者は当時小学4年生だったが、学校ではこの話題で持ちきりとなっていた。当時の貴花田は20歳、宮沢は19歳で未成年だった。2人の出会いは、対談でその後3年間に渡る交際期間があったという。この日放送された特番では、貴花田と宮沢が貴花田の兄・若花田立ち会いのもと、船上クルージングデートを楽しんだ様子が紹介された。実はこのクルージングデート以後、2人はお互いのプレゼントを交換する仲となったとも言われている。映画関係者が「結婚するから今後スケジュールは入れない」と話していたことを明かした。九州場所に出場するため福岡に滞在していた貴花田も景子後に宿舎で報道陣に取材に応じて、「2周間ほど前(10月13日頃)に電話でプロポーズをしたと話した。同日宮沢もNHKで鴻上尚史と河合美智子が司会をつとめる「もっと過激にパラダイス」に出演、河合からは祝福の花束が手渡された。本来、婚約が明らかにならなかったら映画に関するトークをする予定だったという。九州場所後の11月27日、婚約会見を行った。2人が会見場に手を繋いで入場したり、お揃いのピンクの着物で会見に臨む幸せそうな姿がテレビで放送された。しかし、それから2ヶ月後、2人が婚約を解消したことが明らかになった。1993年1月27日、この日は貴花田が市場最年少での大関昇進を決めた日だった。貴ノ花は、「連絡を取っていないし、会ってもいない、彼女への愛情がなくなりました」と答え、宮沢も2日後に会見を開き破局を認めた。これがきっかけとなり、に貴ノ花に対するマスコミのバッシングは一層強いものになりました。これまで笑顔でマスコミのインタビューに答えていた彼が、マスコミを遠ざけるようになり、「孤高の人」と呼ばれるようになったのはこの頃からであると言われている。彼の引退時の特番では、「バッシングは土俵ではねのけるしかない」と語っていたことが明らかになった。婚約破棄の理由については、直接2人の口から語られてはいないものの、2016年頃、歌手の美川憲一から「宮沢の母に頼まれて、説得した」ということが明かされた。その後宮沢は、京都のホテルで手首を切る自殺未遂騒動を起こし、同じホテルに中村勘九郎(当時、故18代目中村勘三郎)が宿泊し、飲酒などの会食をしていたことから不倫疑惑が持ち上がった。宮沢の事務所は「コップで左手首を切った」と説明、勘九郎は当時中学生だった息子の勘太郎(現・勘九郎)と小学生だった七之助が学校で「不倫の子」と言われたなど悪影響を及ぼしていたことから、会見で不倫騒動を否定した。さらには「激やせ騒動」などで世間を騒がせたが、2002年に真田広之と共演した映画「たそがれ清兵衛」でブルーリボン賞「助演女優賞」や日本アカデミー賞で「最優秀主演女優賞」を受賞するなど女優として大きく飛躍した。また、プライベートで宮沢は2009年2月にサーファーの男性との結婚と第1子妊娠を発表。5月に長女を出産するも、その離婚協議に入り、2016年に離婚が成立。その後、人気アイドルグループV6のメンバー・森田剛との熱愛が報じられ、2018年3月に森田と再婚した。
兄弟絶縁に発展した洗脳騒動
1998年、夏場所後に兄・若乃花が横綱に昇進したことで、大相撲史上初の兄弟横綱が誕生した。そんな喜ばしいニュースの裏で両親・兄ともに弟の行動に頭を悩ませていたのだ。事の発端は1998年9月、貴乃花が一部スポーツ紙に「若乃花の相撲には基本がない」や「もう若乃花と話すことはありません」と兄を痛烈に批判した。それ以前に貴乃花は父で師匠の二子山との関係も良好ではなかった。また、兄の拒絶が明らかになったことから、二子山は「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言し、騒動へと発展した。
「貴乃花は洗脳されている?」(報道陣)「間違いないです。」(二子山親方)
貴乃花との関係に悩んでいた二子山は、先述のようなコメントをしたことで「洗脳騒動」へと発展した。これはフジテレビが独自に二子山のインタビューを伝えたと言われている。もともと貴乃花が治療を受けていた整体師は、現役時代から二子山が懇意にしており、2人の息子も整体院へ通っていた。しかし、2人の母で二子山の妻である女将の憲子は、整体師が治療が始まると相撲の話を始めることから困惑し、「相撲の指導はあなた(二子山)でいいのに」と貴乃花と整体師との関係に悩んでいたという。洗脳騒動へと発展した直接的な原因は、同時期に芸能界で起こった洗脳騒動に起因しているという見方もあるが、当の整体師は沈黙を貫いた。翌99年、9月場所前に行われた激励会において兄弟は和解。互いに笑顔で握手を交わしている姿が翌日のスポーツ紙で紹介した。その後一旦、騒動は沈静化した。当時について母で女将だった藤田紀子は、フジテレビの責任を指摘、独自のインタビューが騒動に発展したと結論づけた。一方、貴乃花は、「(整体師は)大変お世話になった人。騒動は母と兄の捏造である」とのちに話している。
母の不倫疑惑と両親の離婚
2000年の名古屋場所中に母で女将の憲子への不倫疑惑が一部週刊誌で報じられた。不倫の相手は医師だったという。2001年に別居し、8月1日に離婚したことが報じられた。31年にわたる結婚生活に終止符を打った。この時貴乃花は膝の手術のため、フランスに滞在中だった。憲子は離婚後、姓を花田から旧姓だった藤田に改名し、「藤田紀子」の芸名で女優としての活動を再開した。
父の死去で明らかになった兄弟間の確執とメディアでの協会批判
2005年5月30日、父(二子山)が舌癌で55歳の若さで死去。病院には訃報を知って先代の弟子で貴乃花にとっては兄弟子にあたる部屋付きの音羽山、大嶽らが駆けつけた。亡骸は同日夜に無言の帰宅をした。翌31日には兄弟が実家の貴乃花部屋でそれぞれ記者会見を行った。貴乃花が会見を行ったとき、報道陣から喪主についての質問が及んだとき、勝が務めることについて「花田勝さんです」と他人行儀の発言をしたことから、再び兄弟の確執が明らかになった。青山葬儀所で行われた通夜および葬儀・告別式で兄弟は視線すら合わせなかった。出棺の際の喪主挨拶で声を詰まらせながら参列者への感謝をのべる兄とは対照的に後ろで無表情のままたっていたのが印象的だった。さらに、葬儀後の6月中には連日メディアに出演して協会運営に対する批判を行い、役員全員から厳重注意を受けた。7月3日、父二子山の四十九日法要が都内で営まれた。さらに4日後の7日には、代理人弁護士が兄・勝るが東京家庭裁判所において遺産相続放棄の手続きを行ったと発表。これにより、父・二子山の遺産は全て貴乃花が引き継いだ。