平成の大横綱 65代横綱 貴乃花光司

平成の大横綱 65代横綱 貴乃花光司

この記事は、平成の相撲界を牽引してきた第65代横綱貴乃花光司について、令和となった今、日本人横綱の誕生が期待されている中、貴乃花光司が初土俵から現役力士時代、引退後親方として、2018年退職後の現在の活動までを紹介します。


貴乃花光司 プロフィール

貴乃花光司は、1972年8月12日生まれの48歳で、東京都杉並区出身の元大相撲力士、元日本相撲協会理事で本名は花田光司。1988年(昭和63年)3月場所初土俵。現役時代の最高位は第65代横綱。引退後は、一代年寄・貴乃花として2004年から2は貴乃花部屋の師匠として後進の指導に当たる傍ら、2010年に日本相撲協会理事に初当選。以来4期8年、相撲教習所部長、審判部長、地方場所(大阪)担当部長、総合企画部長、巡業部長を歴任し、2018年9月場所後に退職した。退職後は、相撲の普及活動の一環として、一般社団法人「貴乃花道場」を設立、理事として活動する他、タレントや絵本作家としても活動している。

NHKスペシャル貴乃花が夢だった [DVD]

家族

父は、元大関貴ノ花で引退後は藤島・二子山両部屋の師匠・元日本相撲協会理事で2005年に他界した花田満。母は、藤島・二子山部屋の元女将でタレント・女優の藤田紀子(花田憲子)、兄は第66代横綱でタレントの花田虎上(花田勝、現役時代は3代目・若乃花勝)。伯父には第45第横綱で初代若乃花で日本相撲協会第6代理事長で2010年に他界した花田勝治がおり、相撲一家として知られている。

相撲に関する経歴

入門前
相撲を始めたきっかけは、小学校3年時に父であり、のちの師匠となる花田満が引退しとことであり、「将来、父が果たせなかった夢(横綱になること)を果たしたい」という思いから相撲に打ち込み始めたと言われています。小学校4年次には、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱の称号を手にした。中学校は相撲が盛んな明大中野に進学、相撲部監督の武井美男から技術面などの指導を受けたことがきっかけとなり、それが現役時代の飛躍につながったとされています。

入門
1988年、当時高校2年だった兄の勝とともに各界への入門を決意。中学を卒業した同年春場所に「貴花田」のしこ名で初土俵を踏んだ。同期には兄の他、大海(のちの横綱曙)、古賀(のちの大関魁皇、現・浅香山親方)らがいる。以来、関取になるまで次々と最年少記録を打ち立ててきた。その裏で部屋での生活においては、親方夫妻の息子であることから一部の兄弟子らのやっかみもあり、数々の嫌がらせを受けてきたが、常にマイペースでトレーニングを重ねていたという。母であり当時の藤島部屋女将だった花田憲子は、「いやがらせに打ち勝つことは稽古以上に大変なこと」と当時のことを振り返っている。

関取昇進
1989年11月場所、新十両に昇進。当時、17歳2ヶ月の若さは史上初の快挙となった。今でこそよく見られる光景となったが、「出世に髷が追い付かない」といわゆる「クワイ頭」で土俵に上がった。

新入幕
それからわずか半年後の1990年5月、17歳8ヶ月の若さで新入幕を果たした。その後は怪我で一時的に十両落ちの時期があったものの、半年後には幕内に復帰した。

1991年
春場所、東前頭13枚目の地位で初日から11連勝を挙げ、優勝争いに名を連ねた。11連勝後は何度か負けがあるものの、結果は12勝3敗で敢闘賞と技能賞を受賞した。5月場所(以下・夏場所)では、前場所好成績を挙げたことから、西前頭筆頭まで番付をあげた。初日の対戦相手は父(当時・藤島)を引退に追い込んだ因縁の相手、横綱・千代の富士だった。結果は、貴花田の完勝。千代の富士は2日後の3日目に兄弟子の貴闘力に破れ、現役引退を表明した。

空前の若貴ブーム
また、この頃から兄の若花田とともに兄弟の活躍がマスコミなどでクローズアップされたことから、空前の「若貴ブーム」に日本中が沸いた。雑誌は若貴兄弟の写真が表紙を飾り、テレビ出演やCMなどに引っ張りだことなり、ワイドショーは各局揃って毎日のよう兄弟の様子を伝えていた。本場所や巡業先では、多くの女性ファンが兄弟が登場すると群がり、黄色い歓声が上がるなど騒然となったことから兄弟のみの安全を最優先に考え、ファンの接近を制限するなどした時期もあった。のちに兄の勝は、「肩身が狭く、生きにくかった」と当時の様子を振り返っている。

1992年
初場所では、14勝1敗の好成績で若干19歳で幕内初優勝を果たした。優勝パレードの旗手は兄・若花田が務めた。さらに9月場所(以下、秋場所)では、2回目の幕内優勝を飾り、同年の最年少年間最多勝を受賞した。

1993年
初場所、11勝4敗の成績を挙げ、直前3場所の成績が大関昇進の基準となったことから、場所後に大関昇進を果たし、父と同じしこ名の「貴ノ花」に改名した。1月27日行われた伝達式の口上は「不撓不屈」の四字熟語を取り入れた。また、このとき同期入門だった曙が横綱に昇進し、同じ日に伝達式を行った。同期入門で横綱と大関の同時昇進となった。翌春場所には兄の若花田が幕内初優勝を果たし、貴ノ花は大関に昇進していたが、兄の優勝パレードで旗手を務めた。この時、貴乃花が袴の裾にカメラを忍ばせていて、パレードの最中に兄と2人で撮影した満面の笑顔の写真が、のちにテレビ番組で紹介されるなどし、兄弟や家族ともに仲が良好であることから世間からは「理想の家族」とまで言われていた。さらに、7月場所(以下、名古屋場所)後には兄・若花田が大関昇進を果たし、半年間で兄弟2人が大関に昇進した。


1994年
この年は、常に横綱昇進を目指していた貴乃花。初場所は初の角番で迎えたものの14勝1敗の成績で4回目の優勝。春場所で綱取りを逃し、夏場所で再び優勝するも名古屋場所で逃しの繰り返しだった。秋場所では初の全勝優勝を飾り、日本相撲協会(以下、協会)は、場所後の昇進を横綱審議委員会(以下、横審)に諮問したが、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアしていなかったため、昇進が見送られた。続く九州場所2場所連続で全勝優勝を飾り、その後の理事会等で正式に昇進が決定した。場所後の11月23日、二子山部屋の宿舎で伝達式の口上は「不惜身命」の四字熟語を取り入れた。翌日には綱打ちが行われ後日、明治神宮にて推挙式と奉納土俵入りが行われ、第65代横綱となった。土俵入りの露払いは兄弟子の貴ノ浪、太刀持ちは兄若乃花がつとめた。

曙貴時代の到来と黄金期

1995年
貴乃花が横綱に昇進したことで、同期で1人横綱を務めてきた曙と合わせて2横綱となったことでいわゆる「曙貴時代」が到来した。新横綱で迎えた初場所は、12勝3敗の成績で前年秋場所からの3連覇を果たすも、武蔵丸等に敗れ、前年秋から続けてきた連勝記録が途絶える。この年は、夏、名古屋、秋の3場所優勝を重ね、迎えた九州場所、序盤こそ成績は振るわなかったが、中日以降は白星を重ね、兄とともに12勝2敗の成績で優勝争い名を連ねていた。しかし、ともに千秋楽の本割りで敗れたことから12勝3敗の成績となり、のちに語り継がれる「兄弟対決」が実現した。結果は、兄若ノ花の下手投げに敗れた。後日、この兄弟対決については「八百長ではないか」といった報道が一部でなされるなど物議をかもした。

1996年
初場所は、13日目まで全勝でトップと走っていたが、14日目に同期の魁皇に敗れこの場所はつ黒星となり、同部屋の兄弟子の大関貴ノ浪と1杯で並んだ。千秋楽では両者ともに14勝1敗の成績で本割りを終え、優勝決定戦となる。貴乃花にとっては、前年九州場所の兄弟対決に続く優勝決定戦、同部屋対決、二子山部屋(当時)にとっては2場所連続の優勝決定戦となったが兄弟子に敗れた。春場所以降は秋場所まで4場所連続優勝を飾った。おそらく貴乃花にとってこの時期は「黄金期」といっても過言ではないだろう。

成績不振 度重なる怪我と病気

夏場所後の1998年5月27日、二子山部屋で兄・若乃花の「横綱昇進伝達式」が行われた。これで大相撲史上初の「兄弟横綱」の誕生にマスコミの注目を集め、夏場所翌日には兄の横綱昇進を祝して特番が組まれ、若貴兄弟の歩みと横綱昇進までの軌跡が紹介されたり、その他マスコミでも大きく取り上げられ、ワイドショーやニュース番組でも大きく特集が組まれてていた。筆者は当時高校1年生で相撲にあまり興味はなかったが、「兄弟横綱」の見出が踊っていたことはよく覚えている。しかし、この時を境に兄弟間で相撲に関する価値観の違いが浮き彫りになっていく。名古屋場所では新横綱の兄とともに「兄弟横綱」として土俵に上がり、14勝1敗の成績で前年の秋場所以来の優勝を飾った。

1996年秋巡業中に背筋の肉離れを起こし、途中離脱、その後一旦九州場所への出場を明言するもその後体調を崩し、初日から全休した。これをきっかけに貴乃花本来の相撲に陰りが見え始めた。

1997年
前年の休場がきっかけとなり、相手を強引にねじ伏せたり、体をのしかけていく浴びせ倒しノと陸地に変化していく。この年にも春、名古屋、秋で3場所連続優勝しているものの内蔵の不調が見え始めていた。

1998年
初場所には、顔面に原因不明の発疹が現れるなどの体調不良で途中休場となり、場所後は「長野オリンピック」の開会式で横綱土俵入りを披露する予定になっていたが、欠席となり、もう1人の横綱である曙のみ土俵入りを披露した。続く春場所も肝機能障害が原因で初日から成績不振に陥り、またも途中休場に追い込まれた。その一方で兄で当時大関だった若ノ花は、初日から12連勝し、13日目に曙に敗れ黒星を喫するも、14勝1敗の成績で4回目の優勝、綱取りがかかった夏場所でも12勝3敗で優勝を飾った。優勝パレードの旗手は貴乃花がつとめた。さらに、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアし、夏場所後横綱に昇進、史上初の兄弟横綱の誕生となった。

大相撲史上初!兄弟横綱の誕生と曙若貴時代の到来

1998年夏場所の千秋楽以降、ワイドショーなどでは若乃花の横綱昇進に関するニュースが多く取り上げられたり、特番として、若貴兄弟の入門時からの歩みから若乃花横綱昇進の軌跡を描いたドキュメントが放送されるなど兄弟横綱の誕生は世間から大きく注目された。5月27日は、二子山部屋で兄の伝達式が行われ、「兄弟横綱」が正式に誕生した。兄弟横綱は大相撲史上初の快挙だった。名古屋場所の番付では曙を含めると1988年春場所初土俵の3人が横綱となった。いわゆる「曙若貴時代」の到来となった。名古屋場所では、14勝1敗で前年の秋場所以来の優勝を飾った。

兄弟横綱誕生後

1998年名古屋場所は、「曙若貴時代」が到来し、ファンは史上初の兄弟横綱の活躍に注目した。

1998年
名古屋場所では14勝1敗で前年秋場所以来の優勝、秋場所では13勝2敗で2連覇を果たすが、それ以降は2001年初場所まで約2年間優勝から遠ざかることとなった。

1999年
この年は、1996年以来怪我の不調に苦しむこととなった。初場所は、序盤から思うような結果が残せず8勝7敗に終わった。春場所は、10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めるも左肩骨折により11日目から途中休場、また夏場所は全休となった。復帰した名古屋場所で再び左手薬指を脱臼しその後は自分の相撲がとれず9勝6敗、秋場所は全休となった。九州場所では本来の調子が取り戻せずも終盤まで3敗の成績で優勝争いに名を連ね、千秋楽の武蔵丸との優勝決定戦で敗れ、11勝4敗で場所を終えた。
また、2000年以降稽古量が増えたことから、怪我や体調不良などを全く感じさせないくらい調子が上向きになり、常に優勝争いに名を残すようになる。




兄若乃花の引退!若貴時代の終焉

2000年3月16日兄若乃花が現役引退を表明した。若乃花は、1999年初場所は初日から12連勝し、優勝争いのトップにたっていたが、13日目に黒星を喫し、14日目までは13勝1敗で単独トップにたっていた千秋楽には本割で新鋭の千代大海(現・九重親方)に敗れ13勝2敗で優勝決定戦へ、ここでも千代大海に敗れ、優勝を逃した。その後は、左肩の脱臼を始め満身創痍の状態で土俵を務めてきた。春場所と夏場所の途中休場に続き、名古屋場所は全休。秋場所は序盤から崩れ、10日目の闘牙戦で左足肉離れを起こし、11日目からは怪我の影響で1勝もできず横綱としては7勝8敗の不名誉な負け越しで終わった。スポーツ紙では「引退」の2文字が踊ったが、若乃花は「現役続行」を表明した。しかし、前年の九州場所とこの年の初場所は全休。進退をかけて臨んだ春場所では5日目を終えて2勝3敗となり、その日の夜に大阪の宿舎で父であり師匠である二子山とともに記者会見を開き「体力を補う気力の限界」を理由に現役引退を表明、かつて父が名乗っていた年寄「藤島」を襲名した。この時貴乃花は、兄について「語らなくても通じ合える」関係であると語り、会見終了後に兄弟で握手を交わし、兄の労をねぎらった。これで平成の大相撲界を牽引してきた若貴フィーバーは幕を閉じた。

復活優勝への道のり

若乃花引退後は、貴乃花、曙、武蔵丸の3横綱となった。当時の貴乃花の中には、「お兄ちゃんの分まで」という思いがおそらくあっただろう。兄が引退した春場所と続く夏場所はそれぞれ二桁勝利の好成績を残した。名古屋場所では、5日目の土佐ノ海(現・立川親方)戦で上腕二頭筋を負傷、さらに7日目に大関獲りがかかっていた魁皇に切り返しで敗れ2敗目、その際に怪我が悪化し途中休場となり、秋場所は全休した。また、秋場所後の9月23日には兄若乃花の引退相撲・断髪式が行われ、兄に「切るよ」と声をかけて鋏を入れ、兄若乃花の頬を涙が伝った。復活後の九州場所では11勝4敗の2桁勝利を飾った。九州場所後の12月18日、兄・藤島が日本相撲協会を退職し、タレントおよびスポーツキャスターに転身、元巨人投手だった江川卓が司会をつとめる「うるぐす」(当時)などに出演を開始した。
翌2001年初場所には、初日から14連勝を飾り、千秋楽に1敗で追っていた武蔵丸に敗れ14勝1敗同士で優勝決定戦にもつれ込み、武蔵丸を下して21回目の優勝。この頃には全盛期の貴乃花の勢いが戻ってきていて完全復活を印象づけた。この日放送された「うるぐす」では、兄がスポーツキャスターとして貴乃花にインタビューしているところが紹介された。

最後の優勝

2001年の初場所で完全復活を印象づけた貴乃花であったが、場所後に同期の曙が引退を表明し、2横綱となった春場所も優勝争いを演じ健闘した。さらに夏場所は初日から13連勝で全勝街道を走り続けていたが、14日目に武双山に「巻き落とし」で敗れ、右膝の半月板損傷の重傷を負った。取り組み後には自力で立つことができず花道で協会関係者に車イスを勧められても断り、足を引きずりながら花道を引き上げた。本来ならば千秋楽の休場はやむを得ない誰もがそう思ったが、周囲の意見を押し切って千秋楽の強行出場に踏み切った。土俵入りでは協会専属トレーナーからテーピングやサポーターの装着を勧められても断り、痛みが残るなか自力で歩いて土俵入りを行った。しかし、土俵入りや本割りの仕切りなどでも右足を引きずっていたことから「相撲をとることは不可能に近い状態」であることは明白であり、当時の審判部長で2016年に逝去した先代九重(元横綱千代の富士)が「痛い場合は無理をする必要はない」という旨の忠告していたことも後に明らかになっている。本割りでは前日からの痛みの影響から星1つの差(2敗)で追っていた武蔵丸の早さに全くついていくことができず黒星、相星となり優勝決定戦へともつれ込んだ。優勝決定戦では豪快な上手投げで武蔵丸を敗って22回目の優勝を飾った。取り組み後の気迫のこもった形相がまるで般若とも阿修羅ともとれるような気迫のこもった表情であったことから「鬼の形相」と呼ばれた。表彰式で「内閣総理大臣杯」は当時総理大臣に就任して間もない小泉純一郎が手渡した。賞状の文言を一通り読み上げた小泉は「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」とコメントした。その後は膝の治療に専念するため長期休場を余儀なくされ、この優勝が結果として最後の優勝となった。

1年以上に渡る長期休場

2001年の夏場所を執念の相撲で優勝を飾った貴乃花。しかし、その代償はあまりにも大きく名古屋場所は当然のことながら休場。7月30日には、右膝半月板の除去手術を受けるため、フランスに渡った。帰国後も秋場所、九州場所ともに全休。2002年に入ってからも初場所から名古屋場所まで全休し、結果として7場所連続休場となり、その期間は1年2ヶ月となった。受傷当初は世間も横審も「ゆっくり治療に専念してほしい」との思いがあったものの、休場期間が1年以上に渡ることから、横審委員からも苦言を呈する者が出てきた。そのため、秋場所に再起をかけることとなった。

復活から引退へ

2002年秋場所、約1年4か月ぶりに本場所の土俵に帰ってきた貴乃花。初日こそ白星だったもののその後は度々金星を献上し、一部では引退説が囁かれていた。しかし、11日目には、この場所を新大関で迎えた朝青龍に勝利、朝青龍が花道で声をあげて悔しがる姿がテレビで流れた。中盤から徐々に調子が上向きとなり、14日目を終えて12勝2敗。千秋楽に武蔵丸に敗れ、12勝3敗の成績で場所を終えた。この場所で復調の兆しが見えていたものの、場所中に怪我が悪化し九州場所は全休となった。九州場所の期間中は宿舎に帯同し、山口県萩市で萩焼の窯元を訪れ、無心で陶芸に取り組む姿や親交がある福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の王貞治監督(当時、現・球団会長)とちゃんこを囲み、激励を受ける姿が引退後にテレビで紹介された。そして2003年初場所は進退をかけて土俵に上がることとなった。初場所では2日目に元大関の雅山の二丁投げを喰らい、その際に左肩を負傷、途中休場となったものの、5日目に再出場。8日目まで出場して6日目まで連勝するも7日目・中日ともに連敗し4勝4敗。中日の夜、貴乃花の自宅には引退を察した大勢の報道陣が詰めかけた。父で師匠の二子山が貴乃花の自宅を訪問した際、貴乃花は黙々と翌日に向けてトレーニングをしていたというが、9日目の朝、ついに現役引退を決意した。

現役引退

2003年1月20日、ついに平成の大横綱・貴乃花が引退の意向を固めた、30歳での決断、15年の土俵人生だった。また、この日は奇しくも兄・勝の32回目の誕生日だった。このことが伝えられると各局ワイドショーが速報として伝え、自宅や二子山部屋などに多くの報道陣が集結。番組の大半の時間を割いて「貴乃花引退」を伝えた。また、北の湖理事長(当時)ら相撲協会関係者が当時の状況を語った。この日の午後、貴乃花は両国国技館の大広間で引退に関する記者会見を開いた。今の心境を聞かれると「非常に清々しい気持ち」と笑顔で答えた。思い出の一番には、「幕下で重量を決めた一番」と「横綱を決めた一番」を挙げた。この会見中に「心の底から納得している」と何度か語っていた。日本相撲協会は、この日の持ち回り理事会で貴乃花に「一代年寄」の称号を与え、功労金として1億3000万円を支給すると当時の高砂理事(現・参与、年寄・錦島)が発表した。一代年寄は、北の湖、大鵬に続く5例目だという。生涯成績は、764勝(幕内701勝)262敗(幕内217敗)201休、優勝22回だった。引退発表後の夕方以降はニュース番組が揃ってこのニュースを伝え、夜には各局とも通常の番組を変更し、特番が組まれた。この日テレビ朝日で放送されていた「大相撲ダイジェスト」(2003年9月放送終了)に解説として出演したのは、最大のライバルと答えた曙親方だった。番組では、引退発表までの動きが放送され、名勝負が紹介された。エンディングで曙は「たくさんの思い出を感動をありがとうございました」と今までの思い出を噛み締めるように話した。また、曙は雑誌「貴乃花栄光の軌跡」の中で、「貴乃花引退会見を見て涙が出た、今度3人(兄花田勝を含め)でお茶のみ友達として話をしましょう」とかつてのライバルを称えた。筆者は当時20歳であったが、昨日のことのように鮮明に覚えている。貴乃花の引退は国内や海外でも大きく報じられ、小泉首相などの閣僚や政界関係者、親交のあるシドニーオリンピック柔道48㎏級金メダリストの田村亮子(現・谷亮子)選手や王監督、読売巨人軍の原辰徳監督らスポーツ関係者や芸能界をはじめ日本全国の多くの相撲ファンから引退を惜しむ声が相次ぎ、海外でも相撲好きとして知られたフランスのシラク大統領(当時)がコメントを発表するなど大々的に報じられた。さらに、初場所は前年の九州場所で初優勝した大関の朝青龍がこの場所も優勝し「2場所連続優勝」。貴乃花と入れ替わりで横綱に昇進し、平成の大横綱からバトンを受け取った。朝青龍も貴乃花と同じ22歳で横綱に昇進した。

一代年寄・貴乃花として

2003年
引退直後の初場所後に行われた兄弟子・貴闘力(当時大嶽親方)の引退相撲では、横綱土俵入りを披露し、袴姿で兄弟子の髷に鋏をいれるなど3変化で話題となった。その後発表された協会の職務分掌では「委員」の待遇で親方のスタートを切った。春場所では、7日目にNHKの大相撲中継の解説として解説者デビュー、髷にスーツ姿で登場した。夏場所の6月1日に、断髪式・引退相撲を行った。断髪式には、兄・勝をはじめ、伯父の勝治ら親族、同期の大関魁皇ら約50名が鋏を入れるシンプルなものだった。止め挟は師匠の二子山が入れた。断髪式後には、子供たちから花束が手渡され、長男で現在靴職人をしている優一が「パパありがとう」と手紙を読み、涙を流す姿が印象に残っている。夜には「断髪披露パーティー」を行った。断髪式とパーティーの様子は、妻・景子の古巣であるフジテレビが中継した。断髪式前には、シドニーオリンピック女子マラソンの金メダリストの高橋尚子選手との対談も紹介された。引退後しばらくは、二子山部屋の部屋つき親方として後進の指導に当たっていた。

2004年
初場所後の2月に、父から部屋を継承し「貴乃花部屋」を創設を発表。5月11日には、元大関の現役時代の兄弟子だった貴ノ浪が現役引退を発表、師匠として弟子の引退会見に初めて同席した。さらに同時期、貴乃花部屋の部屋付で兄弟子の元安芸乃島(当時千田川、現高田川親方)が所属する二所の関一門ではなく、当時一門に属していなかった高田川部屋への移籍を貴乃花に申請したが、書類への捺印を拒否したことで、また、秋場所中には、場所が開催されている国技館内の役員室で書類の提出いかんを巡り両者が口論となり、確執が表面化した。結局・移籍関連の書類への捺印は先代の二子山が行い、北の湖理事長が「二子山が師匠である」と強調したことから高田川部屋への移籍が認められた。

2005年
1月30日に行われた「貴ノ浪引退年寄音羽山襲名披露大相撲」にて、断髪式で師匠として初めて止め鋏を入れた。4月には、貴乃花と断髪式を終えたばかりの音羽山が2人揃って年寄株に関する書類を紛失し、協会から厳重注意を受けた。同じ部屋で年寄株の書類が立て続けに紛失することは極めて異例のことであった。5月30日、父・二子山が口腔底癌のため死去、通夜は6月1日、葬儀は翌2日に「青山葬儀所」にて執り行われた。喪主は長男ということもあり、兄・勝が務めた。さらに、6月13日には、両国国技館にて日本相撲協会における「協会葬」が行われ、協会関係者であることから貴乃花が喪主を務めた。その後、テレビなどで相撲協会を批判ともとれる発言を繰り返し、役員全員から注意を受け、謝罪した。

2008年
11月に、モンゴルから来日し、鳥取城北高校に留学していたアディヤーギン・バーサンドルジが、貴乃花部屋に入門。「貴ノ岩」四股名で2009年初場所に初土俵を踏む。貴乃花にとっては、現役時代を過ごした藤島・二子山そして継承した貴乃花部屋通算して初の外国人力士となる。貴ノ岩の四股名の由来は、羽田空港で偶然居合わせた美輪明宏から「岩のよう」といわれたことだという。

2009年
1月、双子の小笠原将匡・将史(まさおき)兄弟が入門した。兄将匡は貴月芳、弟将史は貴斗志のしこ名で先に入門した貴ノ岩と共に初土俵を踏んだ。貴乃花部屋では初の双子力士となる。

2010年
1月の初場所前、2月に行われた日本相撲協会の理事選挙への立候補を表明。一門からは現職の2人に加え、新たに1人が立候補を予定していたがこれに貴乃花が加わり、4人になることから貴乃花に出馬を断念させる方針だったが、貴乃花はこれに反発し、貴乃花部屋をはじめとする間垣、大嶽、阿武松の3部屋は二所一門を離脱し、「貴乃花グループ」を結成した(後述「貴の乱」)。選挙後、貴乃花に票を投じ、当時宮宮城野部屋に所属していた安治川(元光法)が4月にこれまで所属していた立浪一門からの離脱して貴乃花グループに入ることを表明し錦島の年寄株取得を図ったが、その後、一門関係者と連絡を断ち、宮城野部屋へ姿を表さなくなったことから、事実上の破門状態となり、安治川の年寄株を元々の所有者だった安美錦に返却し、当時、現役だった元大関の雅山(現・二子山親方)から名を借りて二子山を襲名。8月6日付けで貴乃花部屋へ移籍した。

2011年
2月から明るみに出た八百長問題の影響で春場所が中止となる。貴乃花部屋の力士に該当者はいない。まら、この年の名古屋場所、同期の魁皇が引退し、「これからは相撲協会のために一緒に頑張ろう」とエールを送った。

2012年
夏場所後の5月23日に行われた名古屋場所の番付編成会議で、貴ノ岩の十両昇進が正式に決定した。貴ノ岩とともに会見に同席した貴乃花は、「涙がポロポロ出た」と笑顔で弟子の新十両への喜びを語った。貴乃花部屋では先代二子山の弟子である貴ノ浪以来、貴乃花が部屋を継承してからは初の関取となる。夏場所後には前年に引退した元大関魁皇の「引退年寄浅香山襲名披露大相撲」に出席し、断髪式で髷に鋏を入れた。式後、貴乃花は「自分達の時代が終わったと感じた。これからは今まで積もった話をしていきたい」と語った。

2013年
2組目の双子である上山剛・賢兄弟が入門。兄剛は貴公俊(たかよしとし)、弟賢は貴源氏の四股名で春場所、初土俵を踏んだ。また、12月に行われた2014年初場所の番付発表で、貴ノ岩が新入幕を果たした。貴乃花部屋初の幕内力士が誕生した。

2014年
これまで一門に属さない「貴乃花グループ」と言われていたが、この年、協会から助成金が支払われることが決定し、「貴乃花一門」に改称した。6月、小学生当初から相撲の稽古の影響で耳たぶが垂れてしまい、日常生活に支障が出たことから両耳を手術し、名古屋な所を休場した。
9月4日、全日本ジュニア選手権や世界ジュニア選手権で優勝経験のある兵庫県出身で埼玉栄高校3年の佐藤貴信(現・貴景勝)が入門することが報じられた。佐藤は翌5日に新弟子検査を受け、高校卒業を待たず秋場所でずっと憧れだった貴乃花のもとで初土俵を踏んだ。2人の出会いは小学4年生の時、貴乃花が開催した「相撲教室」だった。当時、貴乃花は佐藤の父である一哉さんに、「この子は強くなりますよ」と話していたことが後にテレビで紹介された。また、名前の貴信の「貴」は貴乃花に由来するという。また、この年には弟子の貴斗志を引退させたことで、これが訴訟問題に発展した。

2015年
6月20日、部屋付きだった音羽山が大阪・豊中市のホテルで急性心不全で急死。このとき、前年から体調不良で場所を休場しており、「胃潰瘍」と公表されていたが実際は「胃癌」を患っていたことや居住地が部屋のある東京都内ではなく200㎞以上離れた名古屋市だったことが明らかになった。
通夜は21日、葬儀・告別式は22日に名古屋市内で行われ、貴乃花をはじめ、部屋の親方や力士ら関係者、一門の親方や力士、名古屋場所を直前に控えていたことからすでに名古屋入りしていた一門外の親方や力士、部屋のある中野区在住で故人と長年親交があったタレントの松村邦洋らが参列した。貴乃花は兄弟子の早すぎる死に大きなショックを受けながらも、15歳の時からどんなときも一緒に闘ってきた兄弟子へ「遺志を引き継ぐ」と誓ったという。さらに5ヶ月後には懇意にしてきた理事長の北の湖が死去。これをきっかけに理事選へ立候補する遺志を固める。

2016年
春場所後の3月30日に行われた夏場所の番付編成会議で佐藤の十両昇進が正式に決定した。自身と同じ所要10場所での十両昇進となり、貴乃花部屋では、貴ノ岩に続き2人目、日本人としては初の関取となった。さらに、佐藤は12月に行われた2017年初場所の番付発表で新入幕を果たすと「貴景勝光信」に四股名を改称した。筆者は当初、部屋初の日本人関取りであることから、貴乃花の「貴」、女将の景子夫人の「景」、兄若乃花の「勝」かと考えたが、実際には憧れの武将である「上杉景勝」にちなんだものだった。光信の「光」も貴乃花の本名である「光司」の光かと思われる。また、また、入門当初からの部屋の所在地だった中野新橋から江東区内に部屋を移転した。

2017年
春場所後の3月29日に行われた夏場所の番付編成会議で、双子の上山兄弟の弟・貴源氏の十両昇進が決定した。自身の十両昇進と同じく、弟が兄よりも先に関取となった。貴乃花部屋では3人目関取誕生となり、栃木県出身者では14年ぶりとなった。また、九州場所では貴景勝が11勝4敗の好成績を残し、日馬富士と稀勢の里から金星を獲得し、殊勲賞を受賞。12月の番付発表で小結に昇進した。





2018年
初場所後の1月31日に行われた春場所の番付編成会議で、上山兄弟の兄である貴公俊の十両昇進が決定した。弟より5場所遅れての十両昇進となったが、史上初の双子関取の誕生となった。しかし、これが貴乃花にとっても貴乃花部屋にとっても最後の関取となった。春場所、貴ノ岩が怪我から復帰。この場所中、貴公俊が暴行事件を起こし、一連の責任を取り貴乃花は、6月20日をもって貴乃花一門を離脱、無所属となった。8月、秋田市内で行われた夏巡業中に一時意識を失い、病院に救急搬送される事態が起こった。秋場所には審判に復帰したが、この場所を最後に貴乃花は相撲協会を退職した。これにより一代年寄「貴乃花」の名は消え、貴乃花部屋は消滅した。所属していた親方や力士、床山ら裏方は藤島・二子山部屋時代の兄弟子で2016年まで貴乃花部屋に部屋付き「常磐山」として所属していた「千賀ノ浦」が師匠をつとめる千賀の浦部屋に全員移籍した。



私生活

新横綱の場所を終えた1995年2月、貴乃花と元フジテレビアナウンサーの河野景子さん(以下、景子夫人および景子)の婚約が明らかになり、2人は2月25日に婚約記者会見を開いた。貴乃花22歳、景子30歳で8才年上の姉さん女房だった。このとき、景子が第1子を妊娠中であることも明らかになった。以後、ワイドショーでは花嫁修行や衣装合わせなど結婚準備に関する密着映像が紹介されるなど盛り上がりを見せた。夏場所後の5月29日2人は、明治神宮で挙式、ホテルニューオータニで披露宴を行った。この様子はテレビで生中継された。挙式には親族や相撲関係者、古巣フジテレビのアナウンサー仲間ら1000人が出席した。また、9月27日には長男で現在靴職人をしている優一が誕生。2001年に長女、2003年に次女が誕生しており、3人の子供の父親となった。現役中に品川に豪邸を建設。貴乃花部屋創設当初、貴乃花は自宅から通っていた。貴乃花は途中から平日は弟子たちと寝食を共にするため部屋に寝泊まりし、週末のみ自宅に帰宅する生活。その一方で女将となった景子は、自宅から部屋へ通う生活を最後まで続けた。通常、相撲部屋では弟子たちにとって親方が父親、女将が母親の代わりとなる。相撲に関することは親方、その他日常生活に関することは女将が隅々のことまで指導するのが一般的なため、貴乃花夫妻はこれまでの相撲界の常識を覆したことになる。また、景子は女将の傍ら、講演活動で全国を飛び回っていることが多かった。しっかりとした監督体制がなされていなかったことから、後述の暴行事件が起こったのではないかと筆者は考えている。貴乃花部屋が消滅し、元弟子の貴景勝が初優勝を決めた九州場所翌日の11月26日、2人は離婚したことを発表。23年半に渡る結婚生活に幕を下ろした。

貴乃花騒動

https://www.daily.co.jp/ring/matome/2018/11/29/m_0000643.shtml?pg=2

そして誰もいなくなった…「貴乃花」騒動史/まとめ/ファイト/デイリースポーツ online

貴乃花が世間を騒がせた騒動

「世紀のカップル」といわれた宮沢りえとの婚約と破局 「貴りえ騒動」と宮沢の今

貴乃花といえば真っ先に思い浮かぶのが「景子さん」(河野景子)だろう。しかし、彼女との婚約は貴乃花にとってはじめての婚約ではなかった。それ以前に忘れてはならないのが、日本を代表する女優・宮沢りえとの婚約から破局までがセンセーショナルな「貴りえ騒動」だろう。あれから28年、貴りえ騒動を振り返る。1992年10月27日、1つのビックニュースが報じられた。「貴花田・宮沢りえが婚約」。筆者は当時小学4年生だったが、学校ではこの話題で持ちきりとなっていた。当時の貴花田は20歳、宮沢は19歳で未成年だった。2人の出会いは、対談でその後3年間に渡る交際期間があったという。この日放送された特番では、貴花田と宮沢が貴花田の兄・若花田立ち会いのもと、船上クルージングデートを楽しんだ様子が紹介された。実はこのクルージングデート以後、2人はお互いのプレゼントを交換する仲となったとも言われている。映画関係者が「結婚するから今後スケジュールは入れない」と話していたことを明かした。九州場所に出場するため福岡に滞在していた貴花田も景子後に宿舎で報道陣に取材に応じて、「2周間ほど前(10月13日頃)に電話でプロポーズをしたと話した。同日宮沢もNHKで鴻上尚史と河合美智子が司会をつとめる「もっと過激にパラダイス」に出演、河合からは祝福の花束が手渡された。本来、婚約が明らかにならなかったら映画に関するトークをする予定だったという。九州場所後の11月27日、婚約会見を行った。2人が会見場に手を繋いで入場したり、お揃いのピンクの着物で会見に臨む幸せそうな姿がテレビで放送された。しかし、それから2ヶ月後、2人が婚約を解消したことが明らかになった。1993年1月27日、この日は貴花田が市場最年少での大関昇進を決めた日だった。貴ノ花は、「連絡を取っていないし、会ってもいない、彼女への愛情がなくなりました」と答え、宮沢も2日後に会見を開き破局を認めた。これがきっかけとなり、に貴ノ花に対するマスコミのバッシングは一層強いものになりました。これまで笑顔でマスコミのインタビューに答えていた彼が、マスコミを遠ざけるようになり、「孤高の人」と呼ばれるようになったのはこの頃からであると言われている。彼の引退時の特番では、「バッシングは土俵ではねのけるしかない」と語っていたことが明らかになった。婚約破棄の理由については、直接2人の口から語られてはいないものの、2016年頃、歌手の美川憲一から「宮沢の母に頼まれて、説得した」ということが明かされた。その後宮沢は、京都のホテルで手首を切る自殺未遂騒動を起こし、同じホテルに中村勘九郎(当時、故18代目中村勘三郎)が宿泊し、飲酒などの会食をしていたことから不倫疑惑が持ち上がった。宮沢の事務所は「コップで左手首を切った」と説明、勘九郎は当時中学生だった息子の勘太郎(現・勘九郎)と小学生だった七之助が学校で「不倫の子」と言われたなど悪影響を及ぼしていたことから、会見で不倫騒動を否定した。さらには「激やせ騒動」などで世間を騒がせたが、2002年に真田広之と共演した映画「たそがれ清兵衛」でブルーリボン賞「助演女優賞」や日本アカデミー賞で「最優秀主演女優賞」を受賞するなど女優として大きく飛躍した。また、プライベートで宮沢は2009年2月にサーファーの男性との結婚と第1子妊娠を発表。5月に長女を出産するも、その離婚協議に入り、2016年に離婚が成立。その後、人気アイドルグループV6のメンバー・森田剛との熱愛が報じられ、2018年3月に森田と再婚した。

兄弟絶縁に発展した洗脳騒動

1998年、夏場所後に兄・若乃花が横綱に昇進したことで、大相撲史上初の兄弟横綱が誕生した。そんな喜ばしいニュースの裏で両親・兄ともに弟の行動に頭を悩ませていたのだ。事の発端は1998年9月、貴乃花が一部スポーツ紙に「若乃花の相撲には基本がない」や「もう若乃花と話すことはありません」と兄を痛烈に批判した。それ以前に貴乃花は父で師匠の二子山との関係も良好ではなかった。また、兄の拒絶が明らかになったことから、二子山は「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言し、騒動へと発展した。

「貴乃花は洗脳されている?」(報道陣)「間違いないです。」(二子山親方)
貴乃花との関係に悩んでいた二子山は、先述のようなコメントをしたことで「洗脳騒動」へと発展した。これはフジテレビが独自に二子山のインタビューを伝えたと言われている。もともと貴乃花が治療を受けていた整体師は、現役時代から二子山が懇意にしており、2人の息子も整体院へ通っていた。しかし、2人の母で二子山の妻である女将の憲子は、整体師が治療が始まると相撲の話を始めることから困惑し、「相撲の指導はあなた(二子山)でいいのに」と貴乃花と整体師との関係に悩んでいたという。洗脳騒動へと発展した直接的な原因は、同時期に芸能界で起こった洗脳騒動に起因しているという見方もあるが、当の整体師は沈黙を貫いた。翌99年、9月場所前に行われた激励会において兄弟は和解。互いに笑顔で握手を交わしている姿が翌日のスポーツ紙で紹介した。その後一旦、騒動は沈静化した。当時について母で女将だった藤田紀子は、フジテレビの責任を指摘、独自のインタビューが騒動に発展したと結論づけた。一方、貴乃花は、「(整体師は)大変お世話になった人。騒動は母と兄の捏造である」とのちに話している。

母の不倫疑惑と両親の離婚

2000年の名古屋場所中に母で女将の憲子への不倫疑惑が一部週刊誌で報じられた。不倫の相手は医師だったという。2001年に別居し、8月1日に離婚したことが報じられた。31年にわたる結婚生活に終止符を打った。この時貴乃花は膝の手術のため、フランスに滞在中だった。憲子は離婚後、姓を花田から旧姓だった藤田に改名し、「藤田紀子」の芸名で女優としての活動を再開した。

父の死去で明らかになった兄弟間の確執とメディアでの協会批判

2005年5月30日、父(二子山)が舌癌で55歳の若さで死去。病院には訃報を知って先代の弟子で貴乃花にとっては兄弟子にあたる部屋付きの音羽山、大嶽らが駆けつけた。亡骸は同日夜に無言の帰宅をした。翌31日には兄弟が実家の貴乃花部屋でそれぞれ記者会見を行った。貴乃花が会見を行ったとき、報道陣から喪主についての質問が及んだとき、勝が務めることについて「花田勝さんです」と他人行儀の発言をしたことから、再び兄弟の確執が明らかになった。青山葬儀所で行われた通夜および葬儀・告別式で兄弟は視線すら合わせなかった。出棺の際の喪主挨拶で声を詰まらせながら参列者への感謝をのべる兄とは対照的に後ろで無表情のままたっていたのが印象的だった。さらに、葬儀後の6月中には連日メディアに出演して協会運営に対する批判を行い、役員全員から厳重注意を受けた。7月3日、父二子山の四十九日法要が都内で営まれた。さらに4日後の7日には、代理人弁護士が兄・勝るが東京家庭裁判所において遺産相続放棄の手続きを行ったと発表。これにより、父・二子山の遺産は全て貴乃花が引き継いだ。

2010年日本相撲協会理事選を巡る一連の反発「貴の乱」

2010年の初場所が開催される2日前の1月8日、貴乃花が日本相撲協会の理事選挙屁の立候補を表明した。選挙は協会に属する5つの一門からそれぞれ合計して10人の理事候補を推薦し、無投票で選ぶのが慣例となっていた。貴乃花部屋が所属していた二所ノ関一門(二所一門)では、現職の二所ノ関(元関脇金剛、2014年逝去)、放駒(元大関魁傑、2014年逝去)のほか、新たに鳴戸(元横綱隆の里、2011年逝去)を擁立し、ここに貴乃花が加わると4人となるため、37才の最年少だった貴乃花に出馬を断念する方向で調整していたが、これに貴乃花が反発。初場所中日に解説をつとめ、所信表明を行ったことを受け、一門が緊急会合を開き、貴乃花、貴乃花支持を表明した大嶽、阿武松、間垣の4つの部屋に属する親方を事実上破門とした。このとき二所一門は現職2人が立候補することが決定したことで11人が立候補する形となり、2002年以来の評議員による投票が行われた。結果、立浪一門に属する大島(元大関旭国)が落選し、貴乃花の当選が決定した。理事長となった武蔵川は貴乃花の一連の行動を厳しく批判した。このとき、兄弟子にあたる音羽山、大嶽(理事選当選直後に野球賭博問題で解雇)、元横綱2代目若乃花の間垣(2013年退職)、阿武松(元関脇益荒雄、2019年退職)らは当然のことながら貴乃花へ投票、当時大嶽の義父だった大鵬(元横綱・一代年寄)は、既に協会を定年退職していることから理事選へ出馬する貴乃花を精神面で応援し、縁の下の力持ちとして全面的にバックアップした。理事に当選した夜には、貴乃花に票を投じた親方らが大嶽部屋に集結し、大鵬に当選を報告をした。この一連の動きは「貴の乱」と称され、「相撲界の革命児」と報じられた。

日本相撲協会理事としての4期8年

貴乃花が理事に当選直後は、日本相撲協会では不祥事が山積していたが、のちにファンとの交流が盛んになり、相撲人気がV字回復を見せた。
2010年
当選後、音羽山、間垣、大嶽、阿武松ら二所一門を離脱した親方が中心となり「貴乃花グループ」を結成した。理事選から3日後の2月4日、貴乃花は臨時理事会に出席し、新弟子の教育を行う場である相撲教習所所長に就任した。奇しくもこの日、自分の引退と入れ替わりに横綱に昇進した朝青龍が初場所中に起こした暴行事件の責任をとって現役引退を表明した。新理事として早くも直面した大きな問題だった。貴乃花は朝青龍引退について「協会も本人も決断を迫られた大変な日だった」と振り返った。
また、夏場所中には、大関琴光喜ら現役力士が、阿武松部屋に所属し仲介役だった床山らの誘いを受け、元力士(幕下)が中心となり、で暴力団を胴元としたプロ野球を中心とした野球賭博に手を染めているとの報道が一部週刊誌で報じられた。その中には兄弟子で二所一門時代から苦楽をともにしてきた大嶽の名前もあった。これを受け協会は佐渡ヶ嶽(元関脇琴ノ若)、阿武松らから事情を聴くが、当初は弟子の関与を否定していた。名指しされた琴光喜本人も当初から関与を否定、夏場所14日目に受けた警視庁の事情聴取でも関与を否定していた。後日、一部週刊誌で阿武松部屋に所属する幕内力士がの野球賭博への関与と阿武松が暴力団と交際があることが報じられるが、阿武松は協会の事情聴取で関与を否定した。同じグループから起こった問題に貴乃花はさぞ心を痛めたであろう。6月に入り、当初は野球賭博への関与を否定していたが、一転して琴光喜らが野球賭博に関与していたことを認めた。野球賭博だけで29人の協会関係者が確認されたほか、掛け麻雀や横綱白鵬らが花札賭博を行っていたことも明らかになった。当初は名古屋場所の開催すら危ぶまれた。7月4日、名古屋市内のホテルで臨時理事会が開催され、琴光喜と大嶽は解雇処分、2014年に大関に昇進した豪栄道(現・武隈親方)、昨年引退した豊ノ島(現・井筒親方)ら18人の力士、理事長の武蔵川をはじめ、佐渡ヶ嶽、阿武松ら11人の親方に謹慎処分が言い渡された。そのため、武蔵川の代行を外部理事の村山弘義がつとめた。また貴乃花はその際、自分のグループから阿武松、大嶽らが野球賭博の中心となっていたことに責任を感じ、協会に退職願を提出したが慰留され、翌日宿舎で退職を撤回した。名古屋場所は予定通り開催されたが、NHKの大相撲中継が中止となる異例の事態となった。場所後、武蔵川が理事長を辞任、放駒が理事長に選任された。放駒体制では、わずか半年で審判部長に就任した。
野球賭博問題に関しては、翌年元力士3名と仲介していた人物の母親が「賭博開帳賭図利」およびその幇助の容疑で逮捕された。その後、東京地方における刑事裁判で4名のうち2名に懲役10ヶ月および執行猶予3年の有罪判決が言い渡されるなど相撲界をゆるがした大きな不祥事へと発展した。

2011年
初場所後の2月2日、前年の野球賭博問題に関する一連の操作で、警視庁が関与した力士から押収した携帯電話の中から、過去に消去されたデータを復元した結果、八百長に関与した力士13人の名前が明らかになった。相撲協会は関与したとされる力士らから事情聴取を行ったものの、力士らは関与を否定した。協会ないに調査委員会を設置した。また、協会は電子メールの内容まで公表した警視庁に対し批判的の意見をのべたものの、警視庁が公表した理由は「公共および公益性の観点」からだったと言う。理事長の放駒は会見で「協会存亡の危機」と述べ、謝罪した。大相撲における八百長に関する疑惑は以前からあったものの、大々的に報じられたのはこのときがはじめてだった。この騒動を受け、同月6日には例年3月に大阪で行われる春場所の中止が決定した。本場所の中止は戦後初の事だった。同時期に貴乃花・景子夫妻は、一部週刊誌て報じられた「自身の八百長に関する疑惑や相続の問題」に関する一連の記事について名誉を傷つけられたとして提訴していた裁判の「控訴審」が東京高裁で行われた。この時、担当裁判官から「八百長問題との関連性」について聞かれた代理人弁護士は、きっぱり否定したとされる。もちろん、控訴審の日程は、八百長問題が明らかになる前から決まっていたとされる。この年の名古屋場所、1988年春場所初土俵で唯一土俵に上がっていた同期で大関だった魁皇が現役引退を表明。貴乃花は「これからは相撲界のために一緒に頑張ろう」とエールを送った。

2012年
初場所後に行われた理事選に立候補し、再選。2期目がスタートした。職務分掌では地方場所(大阪)担当部長に就任、場所前にはなんばグランド花月の吉本新喜劇に出演して場所をPRした。
夏場所後には前年に引退した元大関魁皇の「引退年寄浅香山襲名披露大相撲」に出席し、断髪式で髷に鋏を入れた。式後、貴乃花は「自分達の時代が終わったと感じた。これからは今まで積もった話をしていきたい」と語った。

2014年
初場所後の理事選で3期目の当選。この時、審判部長をはじめ、協会常勤の総合企画部長などの5つの部長職を任された。この年から日本相撲協会が公益財団法人に移行される。また、懇意にしていた北の湖が理事長に再選され、相撲人気回復のための改革がスタート、この年の本場所が大入りが続いた。また、春場所後に横綱に昇進した鶴竜に雲竜型の土俵入りを披露した。

2016年
初場所後の理事選で4期目。協会執行部のナンバー3である巡業部長に就任した。また前年、理事長北の湖が急死したことより改選となった理事長選挙で貴乃花は立候補を表明、春場所前には気合いをいれて坊主頭にしていたことが話題となった。春場所後に行われた理事選では、八角との元横綱同士の決選投票となり、八角6・貴乃花2で八角の圧勝となった。


貴乃花一門の歴史

2010年に実施された理事選で貴乃花を支持した親方と大嶽、阿武松、間垣の4つの部屋で「貴乃花グループ」を結成した。

2012年
元小結旭豊が師匠をつとめる立浪部屋が新たにグループに加わった。

2013年
間垣部屋師匠の間垣が、健康上の理由で春場所を最後に協会を退職、弟子および裏方は、元横綱旭富士が師匠を務める伊勢ヶ濱部屋へ移籍。その中には、のちに大関に昇進した照ノ富士もいた。

2014年
に貴乃花グループにも協会からの助成金が支給されることが正式に決まり、「貴乃花一門」に改称した。既存の出羽海、時津風、二所ノ関、高砂、伊勢ヶ濱と並び6つの一門となった。

2016年
元関脇舛田山の千賀ノ浦が4月に定年を控えていたことから、貴乃花部屋の部屋付きだった元小結・隆三杉の常磐山が千賀ノ浦部屋継承が決定。常磐山と千賀ノ浦の名跡交換を行い、千賀ノ浦部屋は貴乃花一門に移籍した。

2017年
秋巡業中に発生した日馬富士による貴ノ岩への暴行事件で貴乃花を支持した錣山部屋、湊部屋が合流。両部屋は一門には所属していなかったものの、系列の部屋となった。

2018年
前年の暴行事件や貴公俊の暴行事件などの影響から貴乃花は、4月に「看板を下ろしたい」と申し出、了承されたことから、6月20日付けで貴乃花は一門から離脱した。これにより貴乃花一門は消滅した。その後、一旦は「阿武松一門」創設などが検討されたが、名古屋場所後に行われた理事会にて、「すべての親方が時津風、出羽海、二所ノ関、高砂、伊勢ヶ濱の5つのいずれかの一門に所属しなければならない」旨の決定がなされたことから、大嶽、阿武松、千賀ノ浦と系列の錣山、湊の5部屋は二所ノ関一門へ、立浪部屋は出羽海一門へ移籍となった。

横綱日馬富士による弟子・貴ノ岩への暴行事件とその対応から理事解任まで

2017年11月14日、横綱日馬富士が弟子の貴ノ岩にたいしてビール瓶で殴るなどの暴行を働いたことがマスコミで報じられた。この場所貴ノ岩は初日から休場していた。事の発端は秋場所、都内のバーで先輩にあたる元力士らと口論になったことだった。その後、秋巡業中に鳥取県内で母校の鳥取城北高校関係者や横綱白鵬(以下、白鵬)をはじめとするモンゴル人力士らが会食、その際、貴ノ岩がスマートフォンをいじるなどの態度の悪さに日馬富士が激怒し、貴ノ岩をビール瓶で殴り暴行を加えたものだ。その際、白鵬が仲裁に入ったことも後日協会の聴取などで明らかになった。
その後、秋巡業を終え力士らは九州場所のため福岡入りした。貴ノ岩は場所前の11月2日、貴ノはは部屋の宿舎がある福岡県田川市の市長を貴乃花や部屋の関取らと表敬訪問し、「二桁勝てるように頑張りたい」と抱負を語っていた。その3日後の5日に福岡市内の病院に入院、その際、怪我の後遺症とも言える「脳震盪」等で2週間前後の安静加療を要するという診断書が協会に提出され、九州場所を初日から休場した。事件が明るみに出たのは、それから2日後の14日(九州場所3日目)だった。この日、朝稽古を終えた日馬富士は、報道陣の取材に応じ「大変申し訳ない」と謝罪、この日からの九州場所の休場が決定した。その後、師匠の伊勢ケ濱(元横綱旭富士)とともに謝罪のため貴乃花部屋を訪問した。日馬富士・伊勢ヶ濱が到着したとき、貴乃花は会場である福岡国際センターに向かうため、車に乗り込んでいたが、2人の姿に気づいてもそのまま車を発進させた。2人は事前に連絡をしていなかったが、気配に気づきながら貴乃花が車を発進させたことが結果として謝罪拒否となった。日馬富士はのちにこの行動(謝罪拒否)されたことが、「現役引退」につながったが自著で振り返った。協会は当初、この問題については把握していたものの貴ノ岩が最後まで秋巡業に参加していること、通常通り相撲がとれていることなどから大事として認識していなかったが、このとき貴乃花は既に鳥取県警へ被害届を提出していた。この後、警察と協会に提出した診断書の相違や「ビール瓶で殴った」とされる報道を白鵬が否定するなど当初の報道との食い違いが見られ、貴ノ岩や師匠の貴乃花から具体的な説明がないことから、混迷した。事態を重く見た協会は、「協会への報告なしに鳥取県警へ被害届を出したこと」や「日馬富士、伊勢ヶ濱の謝罪に応じなかったこと」など貴乃花にたいして不信感を抱いた。貴乃花は自身や貴ノ岩への協会聴取について「警察が捜査中」であることを理由に断っているなど、貴乃花と八角をはじめとする協会執行部の対立の構図が浮き彫りになった。日馬富士は場所中にも鳥取県警の事情聴取に応じるなど操作に協力してきたが、先述の貴乃花部屋へ謝罪に行った際の貴乃花の態度を目の当たりにし、「親方やおかみさんに迷惑をかけた」という理由から11月29日、福岡の伊勢ヶ濱部屋宿舎で会見を開き、現役引退を表明した。貴乃花は日馬富士が貴ノ岩にたいして「礼儀と礼節を忘れず生きていってもらいたい」と言った言葉に、「話にならに」と怒りをにじませていたと言う。その後、12月3日に長崎県大村市からスタートした巡業には巡業部長として帯同しない事が決定、広報部長の春日野(元関脇栃ノ和歌)が代行した。貴乃花が巡業に同行しない背景には、11月28日に福岡市内で事件を受けて開催された協会内の危機管理委員会の講話の中で「貴乃花親方が巡業部長なら巡業に参加したくない」という白鵬の発言があったと見られる。それから1ヶ月後の12月28日に開かれたに本相撲協会の臨時理事会にて貴乃花が師匠としてまた巡業部長として、被害届を出した旨の報告を怠ったこと、協会の聴取に一貫して非協力的な態度を取り続けたことから「忠実義務違反」の名目で解任決議がなされ、年明けの2018年1月4日に正式に承認されたことで、人気を1ヶ月残したまま、2010年から約8年間つとめた相撲協会理事を解任された。



「貴乃花親方が巡業部長なら巡業には参加しない」

https://www.asahi.com/articles/ASKCZ7GBWKCZUTQP02Q.html

白鵬、講話で「貴乃花親方が巡業部長なら行きたくない」:朝日新聞デジタル

理事解任後

2018年1月4日に理事を解任された貴乃花は、役員待遇委員に降格し、指導普及部副部長となった。その後、初場所の2月2日に行われる理事選への立候補を表明した。理事は解任されても、立候補は認められている。しかし、一門は貴乃花ではなく、初当選時から行動を共にしてきた阿武松を擁立することで1本化する方向で動いており、貴乃花に出馬辞退を迫るも、これを貴乃花が一蹴。結局、貴乃花、阿武松2人が一門から立候補、他の一門と合わせて合計11名となったため協会員による投票が行われることとなった。結果、貴乃花は2表の得票数で落選。前年から続いている弟子の貴ノ岩が被害者の暴行事件における一連の行動による悪いイメージを払拭できなかった。理事選落選後の2月7日には、テレビ朝日系列でこの騒動に関する約2時間にわたる特番が放送され出演して思いを語り、さらに同じ週にはフジテレビ系の「グッディ」(2020年9月放送終了)に出演し、2005年以来の協会批判を繰り広げた。いずれの番組の出演も協会の承諾なしに出演したこと、さらに2月16日に行われた不祥事再発防止の研修会を欠席したことで、貴乃花に対する厳罰および懲戒を求める声が相次いだ。その後、力士や親方は春場所のために大阪へ移動するが、大阪移動後も貴乃花に関する報道が連日のスポーツ紙を賑わせた。場所2日前の3月9日に行われた年寄総会を欠席。同日、一連の事件に関する協会の対応について、内閣府の公益認定委員会に告発状を提出したことを明かしている。

貴公俊の暴行事件

2018年春場所中日の3月18日、弟子の貴公俊が付き人に暴行を働いた事実が明らかになった。この日、付け人が取り組みの時間を間違えたことが暴行の理由だった。貴公俊は、取り組み後に付け人の貴西龍にしたく部屋で複数回暴力を働いた。貴乃花は、この日は会場から離れていたという。その後協会から連絡が入り、貴乃花と貴公俊は翌日、協会関係者に謝罪した。なお、貴公俊は翌9日目から休場、夏場所は出場停止処分を受け全休した。その後、6月に大阪府警に書類送検され、同月13日には起訴猶予処分を受けた。

平年寄に降格 一兵卒として

春場所後の2018年3月28日、前年九州場所からの貴乃花の行動や弟子の暴行事件など貴乃花の責任を重く見た協会は、貴乃花へ理事会出席を要請した。その席で、一門の親方週からは、「勝手な理由で休む(会場にいないなど)はダメだ」という苦言があり、他の一門の親方週からは厳しい意見や質問、苦情など批判が相次いだ。親方衆の中には、貴乃花に対して「契約解除」を求める声も上がったという。また、貴乃花はこの日の人事で再び審判部に配属となり、理事選落選による協会の慣例から役員待遇から一旦委員に降格、翌29日に、暴行事件の影響も手伝って「平年寄」に降格した。横綱経験者が平年寄に降格することは極めて異例の事態であった。さらに、5月2日の理事会では、
3月に内閣府に提出した告発状が協会幹部に公開され、「事実と異なる」旨の指摘を受けると「間違っている点については改善する」と話した。6月20日付けで貴乃花一門が消滅し、無所属となった。同じ一門だった阿武松から一門属するよう説得されるも貴乃花は断固として拒否した。

退職届の提出と年寄引退を表明

2018年9月25日午後、衝撃の情報が伝わった。「貴乃花親方が日本相撲協会に退職届を提出」。このニュースは各局のワイドショーで速報として伝えられた。それから2時間後の午後5時、弁護士同席のもと記者会見を開いた。直接の理由は、3月に内閣府に提出した告発状のことで夏巡業中の8月7日に協会が依頼した外部弁護士より「告発状は事実無根に基づいてなされたもの」と結論付けられた書面が届き、貴乃花は「事実無根ではない」と否定するも、後日改めて「事実無根であると認めなければ、親方を廃業せざるを得ないという有形無形の要請をを受け続けた」とし、協会で「すべての親方はいずれかの一門に所属しなければならない、一門に所属しない親方は部屋を持つことはできない」決定され、「一門所属の条件として告発状の内容は事実無根であると認めることなどを要請されたが、貴乃花は「それを認めることができない」とした。また、部屋の力士や部屋関係者に迷惑がかかることから、力士、床山および世話人を「千賀ノ浦部屋に移籍することになった」と表明した。このとき実際に提出したのは、「引退届」で親方には引退という制度がないことから書類不備などの理由で同日中に受理されなかった。

日本相撲協会退職

会見翌日の9月26日、貴乃花部屋の弟子を受け入れる予定の千賀ノ浦部屋師匠の千賀ノ浦が貴のは部屋に所属する力士や床山などの裏方を受け入れるための署名捺印をするため、貴乃花部屋を訪問した。貴乃花が会見を行った前日のことを千賀ノ浦は、電話でのやり取りだったと説明。この日はじめて了承した形となった。その後貴乃花および千賀ノ浦が提出した書類に不備が見られたことから、退職届は再び不受理となり、正式な書類を提出したのは、9月29日だった。週明けの10月1日に臨時理事会が開かれ、「貴乃花の退職」と「力士らの千賀ノ浦部屋移籍」が正式に決定し、貴乃花はこの日をもって入門から約30年間所属した日本相撲協会を退職した。これにより貴乃花部屋は消滅した。貴乃花は部屋消滅後も現在の部屋跡地に居住している。

貴乃花部屋の弟子たちの反応とその後

秋場所後、貴乃花部屋の弟子たちにとって、師匠の退職は恐らく衝撃的なものだったであろう。貴乃花も会見で「泣き出す子もいた」と言っていたことからもその状況が手に取るように伝わってくる。弟子たちは、会見から3日後の9月28日、部屋でささやかなお別れ会を開いていた。参加した人によると女将である景子も涙を流していたという。このとき貴景勝は両親が電話やLINEなどで連絡しても連絡がなかったという。貴乃花の退職が決定した翌日の10月2日、弟子たちは貴乃花部屋から千賀ノ浦部屋に引っ越した。車に乗り込んだ際、貴源治が涙を流しハンカチで顔を覆っている姿が映された。暴行事件の被害者となった貴ノ岩は、福岡県行橋市ないのホテルで「巡業先で忘れ物をした」として付け人の貴大将に暴行を加えた。この事実は翌日報道された。貴大将の母親は元サッカー日本代表でサッカー解説者の松木安太郎と従兄弟同士であり、松木もレギュラー番組で当時の様子を語っていた。貴ノ岩は、事件の責任を取り巡業を途中休場した。しかし、7日に責任をとる形で現役引退を表明した。貴景勝は千賀ノ浦部屋所属としてはじめて迎えた九州場所で、初日から6連勝、その後御嶽海、高安に敗れるものの場所中は好調を維持し、13勝2敗の成績で初優勝を飾り、翌2019年春場所後に大関に昇進した。貴乃花の退職がなければと思うと悔やまれる。貴源治は2019年名古屋場所に新入幕を果たした。現在も十両の地位で相撲を取り続けている。貴公俊は千賀ノ浦部屋移籍後に四股名を「貴ノ富士」に改称。十両の地位で相撲を取り続けていたが、秋場所前の2019年8月下旬に再び付け人に暴行を加え、秋場所は出場停止処分となるが、10月に協会に引退届けを提出し、現役を引退。現在はプロレスラーとして活躍している。

貴乃花との関わり
18年九州場所前に宿舎のある田川市で行われたイベントに妻・景子とともに出席。旧貴乃花部屋の弟子たちもイベントに参加した。さらに九州場所で貴景勝が初優勝を決めたときには、支援者と田川市内で見守っていたという。その後スポーツ紙に「あたらな鍛練を始めよ」とエールを送った。さらに19年春場所で大関昇進を決めたときには、「健闘を祈る」と関係者を通じてエールを送った。
また、18年の冬巡業で付け人に暴行を加え現役を引退した貴ノ岩に対しては、「今後10年は会わない」「言語道断」と切り捨てた。自身が貴ノ岩を守り、協会を退職した直後のことで怒りに満ちていたと推察される。それ以降の弟子と貴乃花の関わりは伝わってきていない。

相撲協会退職後の貴乃花の活動

相撲協会退職前の2018年8月頃より、日本サッカー協会会長の川渕三郎氏らが発起人となり、「貴乃花応援会」が発足、それ以降は貴乃花部屋の公式サイト以外に、同会の公式サイトでもブログを更新するようになる。さらに貴乃花部屋の宿舎がある田川市で「田川応援大使」を引き続きつとめ、地元ファンとの交流を続けている。退職後、何度か自民党衆議院議員で元文部科学大臣の馳浩と何度か面会を重ねていたことから、「政界進出」と報道された。現に馳は貴乃花に翌19年の参議院議員選挙への出馬を打診したというが、貴乃花は政界進出を否定した。

2019年
2月2日、貴乃花は名古屋市内のホテルで「貴乃花応援会」を開催。一部では「政治資金を集めるために開催した」と報じられたが、この場でも貴乃花は改めて政界進出を否定した。さらに同月18日には、芸能事務所「Megu Entertainment」と業務提携を締結したことが報じられた。3月には、六本木ヒルズで子供たちに相撲を教える普及活動を開始。さらには絵本作家としても活動することを発表した。5月10日には、相撲普及活動の一環として「一般社団法人貴乃花道場」設立を発表。「相撲道に由来する伝統文化を通じての青少年の育成」を目的としている。6月、ふるさと納税サイト「ふるなび」のイメージキャラクターに就任し、現在もCMに出演している。それ以外にも国内での相撲普及活動の他、海外でも講演活動を行い相撲の魅力を広めるなど活躍の場を広げている。

2020年
4月より、神奈川歯科大学の特任教授に就任することを3月5日に発表した。

2021年
1月上旬、2019年に日本テレビなどで家族の絆を描いたデビュー作「光のテーブルとっても大切なカエルのおはなし」が紹介され、日本テレビの公式サイトで公開された。その後出版社と交渉に入ったものの、挿し絵を担当したイラストレーター鉄拳や絵本作成を企画した日本テレビからそれぞれ20%の印税を求められるなど契約面から出版社と合意に至らず、本の出版が頓挫したことが報じられた。










相撲協会退職後にも度々報じられる家族との確執

貴乃花と言えば、兄勝(若乃花)との絶縁騒動が世の中に知られているが、それ以外にも母、妻、息子との確執が報じられている。

母との確執
母で元女将、現在はタレントとして活動している藤田紀子(以下、藤田)との絶縁は14年以上にも及んでいるという。きっかけは亡き夫が貴乃花に藤田に関するデタラメなことを吹き込んだことだったといい、それを藤田が鵜呑みにしてしまったことだと、所属事務所の生島企画室のYouTubeチャンネルで語っている。以前から藤田は貴乃花の弟子・貴ノ岩が日馬富士から暴行を受けたときや貴乃花が相撲協会を退職したときにもワイドショーにテレビ出演し、涙ながらに語るなど母親としての思いが伝わる場面があった。

兄との確執
兄・勝とは、現役時代の1998年と父が死去した2005年に確執が表面化した。かつてはなかがよかった兄弟間の根深い確執に勝は、「もう2度と会うことはない」と話している。

母・兄との和解を受け入れるも…
相撲協会退職後の2019年3月、日本テレビで放送された「ザ発言X~勝負の一日」にて母や兄との和解を希望する一面があった。兄・勝のことを「お兄さん」と読んで思いを語り、母紀子についても語った貴乃花、これがきっかけとなったのが前述の絵本だった。それ以前の貴乃花の発言を巡り、母や兄も驚いた様子だったという。ここでも「政界進出が関係しているのでは」と噂された。しかし、2021年現在も和解に至っていない。

妻・景子との関係
1995年、妻・景子との結婚を発表した貴乃花。その後1男2女をもうけ、引退後には貴乃花部屋の師匠夫妻として部屋での稽古の様子の他、時折、夫婦揃ってテレビ出演するなどおしどり夫婦として知られていた。部屋のホームページでは親方、女将ともに弟子たちの様子をアップするなど良好な部屋運営がなされていると印象づけた。しかし、2017年6月に行われた元巌雄が師匠の山響部屋の落成式に次女を除く家族4人で出席した際に、貴乃花だけ別の席にいたことなどから周囲が異変を感じたと週刊紙で報じられた。また、2018年8月の夏巡業中に秋田県で貴乃花が意識を失って救急搬送されたときも見舞うことがなかった。さらに9月25日に行われたいわゆる「年寄引退会見」を開くことも景子は知らされていなかったという報道がありこの時点で夫婦関係はすでに破綻していたと考えられていた。貴乃花部屋消滅後の同年11月3日に行われた田川市内のイベントに景子も参加したが、薬指に指輪がなかったことも報じられている。先述の通り、11月26日に離婚が報じられた。翌日、貴乃花は日本テレビ系の情報番組「スッキリ」で離婚の真相を語っている。その後、景子には2020年12月、映画監督で実業家のジャッキーウーとの再婚が報道された。これを受け貴乃花は「幸せでいてくれたら」と元妻にエールを送っている






息子優一との関わりと勘当
貴乃花にまつわる近年の家族の話題といえば、なんといっても靴職人でタレントの息子・優一との関わりだろう。優一は父と同じ力士としての道を歩まず、中学卒業後に修行のためイタリアに渡った。帰国後の2016年頃から「靴職人」という肩書きタレントとして活動している。優一は2017年頃から現在の父の所属事務所と契約し、ラジオ番組も持っていた。同時期には高砂一門の八角部屋に所属する陣幕親方の娘と結婚した。2018年に本業の靴職人の仕事で納期遅れなどの問題が起こり、その際に事務所との契約を解除された。契約解除の背景には、父である貴乃花が「本業をおろそかにし、顧客などの関係者に迷惑をかけたこと」を理由に解除を申し出たことがあった。貴乃花は当初から靴職人と芸能活動の両立には反対だったという。同年、両親の離婚から1ヶ月も経っていない12月に離婚。芸能活動は事務所との契約解除後も続けている。靴職人やタレントの他、YouTuberとして活動していた時期もあった。昨年9月に歌手デビュー。その後父・貴乃花はSSK株式会社のCM記者発表で妻・景子の再婚の質問の次に優一の歌手デビューについて聞かれると、「勘当している」と親子の関係をたっていることを明かした。その理由については「愛車のバイクを売却した」など数多くのことが言われているが真相は明らかになっていない。一方で優一も反論するなど徹底抗戦を見せている。

最後に

今回、平成の大横綱貴乃花のこれまでの歩みついて記事を執筆しました。父は元大関で名大関とまで言われた貴ノ花、伯父は「土俵の鬼」といわれ日本相撲協会理事長まで務めた元横綱初代若乃花という相撲一家に生まれ、1988年に兄弟揃って入門。その家柄から「角界のサラブレット」と呼ばれ若貴兄弟は入門当初から注目されてきた。また、平成3年以降は「若貴フィーバー」が起こり、千代の富士引退後の相撲界を牽引してきた。その人気ゆえに兄弟の行くところには常にマスコミ関係者がいた。当初は、インタビューに饒舌に答えていた貴乃花だったが、1993年いわゆる「貴りえ騒動」のバッシング以来、相撲のこと以外でマスコミの取材に応じることがなくなった。それ以外にも、1998年の「洗脳騒動」や引退後にも兄弟間の確執が露呈したり、彼の行動は常にマスコミの注目の的となっていた。相撲協会退職後にもプライベートなことでマスコミを賑わせている。世間はいつもこうしたマスコミが報じる騒動だけが先行して注目されている感じが見える。貴乃花の実績を見ても、現役時代には、最年少記録を積み重ね横綱にまで上り詰め、優勝22回という輝かしい成績を残した。引退後も一代年寄として師匠として協会の理事として相撲人気回復につとめてきた実績があることは
記憶にとどめておきたい。今後の貴乃花に期待することとしては、道場を設立し、海外でも活動を行っていることから、相撲協会とは別の視点で海外へ相撲の魅力を伝えてもらうこと、多くの子供たちや外国人に相撲の魅力を伝えていただきたいと思う。

関連するキーワード


相撲 貴乃花 横綱 兄弟

関連する投稿


女子プロレスラーから相撲部屋の女将さんへ!二度の癌を乗り越えた【西脇充子】

女子プロレスラーから相撲部屋の女将さんへ!二度の癌を乗り越えた【西脇充子】

全日本女子プロレスの全盛期に堀田祐美子選手とのタッグチーム「ファイヤージェッツ」で活躍した西脇充子さん。引退後に経験した闘病生活や、人気力士の大関・魁皇との結婚についてまとめてみました。


曙太郎追悼!GAORA SPORTSで特別番組『GAORA名勝負集』『全日本プロレス激闘プレイバック』が放送決定!!

曙太郎追悼!GAORA SPORTSで特別番組『GAORA名勝負集』『全日本プロレス激闘プレイバック』が放送決定!!

GAORA SPORTSにて、今年4月に死去した曙太郎さんを追悼し、全日本プロレスやDRAGONGATEなどでの活躍を振り返る特別番組『追悼 曙太郎さん GAORA名勝負集』『追悼 曙太郎さん 全日本プロレス激闘プレイバック』が放送されます。


【追悼・曙】どんな相手にも強かった最強横綱!強豪力士との対戦成績負け越しゼロ!

【追悼・曙】どんな相手にも強かった最強横綱!強豪力士との対戦成績負け越しゼロ!

皆さんにとっての "歴代最強横綱" は誰でしょうか?大鵬?千代の富士?北の湖?貴乃花?白鵬?筆者個人的には、物心ついて見始めた輪湖時代から今日に至るまで、全盛期のみで見た場合、最強と思った横綱は "曙" です。客席まで吹っ飛ばすあの強烈な突き押しは衝撃的でした。そんな曙の記録を振り返ります。


若貴、きんさんぎんさん、冬彦さん、ストⅡ…1992年(平成4年)を特集した『なつかしカタログ日本1992』が好評発売中!

若貴、きんさんぎんさん、冬彦さん、ストⅡ…1992年(平成4年)を特集した『なつかしカタログ日本1992』が好評発売中!

三栄より、1992年(平成4年)を特集した書籍『なつかしカタログ日本1992』が現在好評発売中となっています。価格は990円(税込)。


【追悼】2023年下半期、惜しくもこの世を去った著名人を振り返る

【追悼】2023年下半期、惜しくもこの世を去った著名人を振り返る

2023年下半期、今年も昭和を代表する多くのスターがお亡くなりになりました。寺沢武一さんなど、今年の下半期に亡くなった方々を振り返ります。


最新の投稿


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。