「サンドニの悪夢」フィリップトルシエ監督の俊輔外し
2000年5月、横浜F・マリノスがJリーグ1stステージ優勝。
9月、シドニーオリンピックBest8。
10月、アジアカップ優勝(全6試合中、5試合出場5アシスト)
12月2日、9日、ホーム&アウェイで行われた「Jリーグチャンピオンシップ、1stステージ王者:横浜F・マリノス vs 2ndステージ王者:鹿島アントラーズ」では負けたものの、22歳の中村俊輔は、最年少でJリーグMVPを獲得した。
そして2001年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「代表でレギュラーでい続ける」
「Jリーグで1番の選手になる」
中期目標
「海外でプレー」
「ワールドカップでグラウンドに立つ、活躍する」
長期目標
「ビッグクラブでやる」
「自己表現する」
「瞬発力をつける」
「何が自分に足りないかいつも考える」
「レベルの高いところでけなされる方を選ぶ」
「自分に負けない」
「ライバルには絶対に負けない」
「300m 50~55秒 5セット」
「縄跳び」
「スクワット(ハードルジャンプ)、ダッシュ、瞬発力」
「足首チューブ」
だった。
毎年、長期目標に書いていた「海外でプレー」が中期目標に変わった。
横浜F・マリノスは主力が他チームへ移り、23歳の中村俊輔はトップ下(フォワードの後ろのポジション)で攻撃の中心となるだけでなくチームの中心にもなった。
しかし主力が抜けたのに同じようなサッカーをしようとした横浜F・マリノスは開幕から負けが多く、中村俊輔も股関節に痛みを抱え調子が上がらなかった。

3月、ワールドカップフランス大会の決勝戦が行われたサンドニ競技場で、日本代表 vs フランス代表の親善試合が行われ、中村俊輔は前半のみ出場。
雨のサンドニ競技場で、ジダン、アンリ、プティ、ビエラ、デサイーらベストメンバーがそろったフランス代表に、日本代表は0対5で敗れた。
世界のトップとの差が明らかになったショックは大きく、
「サンドニの悪夢」
といわれた。
4月25日、スペイン戦で中村俊輔は日本代表メンバーから外された。
急に4日間、休みがとれたので、高校の同級生と温泉にいった。
4日間もサッカーボールに触れなかったのは初めてだった。
5月、日本代表がワールドカップの前哨戦ともいえるコンフェデレーションズカップに挑んでいたとき、中村俊輔は川崎市の病院の無菌室にいた。
春頃から痛み出したヘルニアの具合も相当悪かったが、5月に入ると原因不明の発熱が続いた。
発疹も出てきたので病院に行くと
「大人のはしか」
といわれ、そのまま入院となった。
やがて無菌室からは出られたが安静にしていなければならなかった。
大広間のテレビで日本代表戦をやっていたが
「絶対みるもんか」
と思い病室に戻った。
しかし
「逃げてはいけない」
と思い直し病室のテレビに100円玉を入れた。
結局、2ヵ月間、サッカーに戻れなかった。
その間
「何か変えなければ」
と強迫観念にかられ、車を買い替えたり引っ越したり、寺で座禅にチャレンジしたこともあった。
7月、復帰。
10月、ヤマザキナビスコカップ決勝で、横浜F・マリノスはジュビロ磐田に勝って優勝
2001年シーズンは、
Jリーグ24試合3得点
Jカップ6試合2得点
だった。
翌2002年は、ワールドカップ日韓大会が控えていたが、2001年、中村俊輔は日本代表で1試合しか出ていなかった。
フィリップ・トルシエ監督はは、1999年のシドニーオリンピック予選では中田英寿に代わって中村俊輔を司令塔に抜擢し、2000年のオリンピック本番でも中村俊輔を起用したが、2001年は「サンドニの悪夢」といわれたフランス戦の前半のみ。
それ以降は、たとえ召集してもベンチのまま試合に出場させなかった。
必要とされなかったファンタジスタ

2002年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「肉体改造、フィジカルアップ」
「代表の数少ない試合で必ずいいプレー」
「結果を出し必要と思わせる選手になる」
「セリAでいいプレーをする」
「レッジーナで1番の選手、中心になる」
「10得点とる」
中期目標
「いいクラブに移籍する」
「セリエAの中でもトップクラスの選手になる」
長期目標
「人から尊敬され愛されるプレーヤーになる」
だった。
2002年、ワールドカップイヤーの2月、東京、渋谷の東急東横店壁面の巨大広告に日本代表オフィシャル・ユニフォームを着た中村俊輔が起用された。
しかしフィリップ・トルシエは
「ナカムラの名前スタメン候補に入っていない」
「ナカムラはフィジカルが弱い」
「このままだと彼は自宅のテレビでワールドカップを観戦することになる」
「ナカムラはマスコミが作ったムービースターだ」
「ナカムラは15番目の選手」
などとトゲのあるコメントを発した。
中村俊輔はいった。
「フィジカルの差を創造力やテクニックで埋めて勝負するのがサッカーだと思う」
そして最後まであきらめなかった。
3月、日本代表 vs ウクライナ戦で中村俊輔は後半から出場。
その夜、フィリップ・トルシエ監督は
「俊輔はワールドカップメンバーに選ばないから、その旨を本人に伝えてくれ」
と日本サッカー協会強化推進本部、加藤彰恒部長に告げた。
直後、加藤彰恒は中村俊輔を宿舎ホテルのロビーに呼んだ。
「トルシエ監督はもう呼ばないといっている。
ワールドカップメンバーに選ばれないことになりそうだけど、まだ若いし将来があるから頑張ってくれ」
中村俊輔は下を向いて
「はい」
と短く答えて部屋に戻った。
それでもわずかな可能性を信じ続けた。
日本代表としてポーランド遠征に参加。
4月、日本代表 vs コスタリカ戦に出場。
日本代表 vs スロバキア戦に出場。
5月、日本代表 vs ホンジュラス戦、前半26分、0対1の場面でペナルティエリア右側からフリーキックを決めて1対1。
前半41分、右コーナーキックを直接ゴールに決め、2得点。
3月のウクライナ戦、4月のコスタリカ戦、スロバキア戦、そして5月のホンジュラス戦と
「選手としてやるべきことはやった」

5月16日、日本代表はノルウェー遠征からパリ経由で成田に戻り、翌日はワールドカップメンバーの発表日だった。
パリのシャルル・ドゴール空港でフィリップ・トルシエ監督は加藤彰恒部長を呼び
「俺は成田行きの飛行機には乗らない」
と告げた。
加藤彰恒部はすぐに日本にいた木之元興三副本部長に電話を入れた。
「俊輔のことだろう。
逃げたいのならいいよ。
俺が発表するから」
中村俊輔の代表入りは有力とみられていた。
日本代表のユニフォームの広告塔にも起用されていたし、国内屈指の実力者だった。
「これは明日の発表まで絶対に明かすな」
そう前置きして、フィリップ・トルシエ監督はパリの空港ラウンジで、23人の名前をしゃべり出した。
加藤彰恒はあわててメモ帳を取り出した。
そしてフィリップ・トルシエ監督は通訳のフローラン・ダバディと共に空港を離れていった。
5月17日15時30分、ワールドカップのメンバー発表が生中継で始まった。
中村俊輔は自宅のテレビでそれをみた。
木之元興三がゴールキーパー、ディフェンダー、ミッドフィルダー、フォワードの順でリストを読み上げた。
高原直泰、名波浩、そして中村俊輔が選外となった。
特に中村俊輔はサプライズ選外だったが、34歳の中山雅史と31歳の秋田豊がサプライズ選出された。
(終わった)
中村俊輔は服を着替え始めた。
横浜F・マリノスのクラブハウスで記者会見が行われる。
するとチーム広報から電話がかかってきた。
「嫌だったら出なくていい」
「行きますよ」
クラブハウスには100人以上の報道陣が集まっていて
「悔しいと思ったら、また強くなれる」
「やっぱり衝撃を受けた。
試合ではよくやった。
原因はそれ以外にあると思う」
と涙をこらえながら話した。
初の自国開催のワールドカップということもあって日本中が注目していた中で、中村俊輔の落選劇は大きなニュースとなった。
「会見で僕は残念そうに肩を落としていたと思うけど、内心はトルシエ監督から解放されたという気持ちと脱力感でいっぱいだった。
悲しいという気持ちはそれほどでもなかった」
中村俊輔はトルシエ監督に対して恨み言は一切いわなかったが、1度だけ、2ページにわたってサッカーノートに不満をぶちまけた。
。
そして
「こんなことでイライラしているのは時間の無駄」
と悟り、切り替えた。
6月4日、中村俊輔は韓国へ向かった。
2日後に行われるフランス vs ウルグアイを生観戦するのが主な目的だった。
いつもならフランスチームのフォーメーションなどをサッカーノートに書くはずだが、中村俊輔はサッカーノートを持っていかなかった。
「日本でワールドカップをみて応援する気持ちにはなれなかった。
サッカーからしばらく離れないというのが本音だった」
選手としてではなくファンとして楽しむため、そして息抜きのための韓国。
とにかくアノことを思い出すようなことはしたくなかった。
落選した理由にについては自分の中で整理はついていた。
整理がついていたからこそこれ以上触れたくなかった。
同日、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs ベルギー戦が行われた。
後半12分、ベルギーのマルク・ヴィルモッツがオーバーヘッドシュートを決め先制。
2分後、小野伸二が送ったロングボールに鈴木隆行が相手DFと競り合いながら追いつき、つま先で流し込んで同点。
8分後、稲本潤一が中盤でパスカット。
そのまま持ち上がって逆転ゴールを決めた。
後半30分、日本はオフサイドトラップの崩れから失点。
2対2の引き分けで終わった。
中村俊輔はベルギー戦をテレビで観戦。
泊まっていた韓国のロッテホテルの便せんに試合の記録と自分の課題をたくさん書いた。
あえてサッカーノートを持たずにきた旅だったが、無意識のうちに紙を探して書いていた。
この便せんは封筒に入れて持ち帰りサッカーノートに挟んだ。
6月9日、横浜国際総合競技場でワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs ロシア戦が行われた。
前半は0対0.
後半6分、稲本潤一がゴール。
後半15分、ペナルティエリアにドリブルで迫る稲本潤一にロシアが確信的ファウル。
中田英寿はフリーキックを外した。
後半27分、
「守るために入ってもらうんじゃない。
相手の裏を狙ってほしい」
フィリップ・トルシエに耳打ちされた中山雅史がピッチに入った。
そしてロシアディフェンダーに激しくプレスをかけコーナーキックを獲得。
後半46分、後方からのスライディングタックルで中山雅史に警告。
直後、レフリーのホイッスルが試合終了。
日本代表のワールドカップ初勝利が決まった。
「ナカヤマはこのチームのシンボルだ。
誰もが彼に畏敬の念を抱いていた。
ピッチに立てば仲間たちの闘争心を掻き立て、練習でもいいムードをつくってチームをいい方向へ導いてくれた。
彼が他の選手に与えた影響は計り知れないほど大きい。
ナカヤマは不可欠な存在だと認識させられた」
(フィリップ・トルシエ)
6月14日、大阪の長居スタジアムで、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs チュニジア戦が行われた。
後半30分、右サイドから市川大祐がセンタリング。
中田英寿がダイビングヘッド。
ボールはゴールキーパーの股間を抜け、日本代表のH組1位での決勝トーナメント進出が決まった。
6月18日、ワールドカップ日韓大会決勝トーナメント1回戦で、グループH1位の日本はグループC2位のトルコと対戦。
前半12分、日本のバックパスの連係ミスからトルコにコーナーキックが与えられ、ウミト・ダヴァラがヘッディングシュートを決めた。
そのまま0対1で試合は終わった。
イタリア挑戦
2002年7月、イタリア・セリアA、レッジーナのパスクアレ・フォーティー会長が来日。
横浜で一晩中会議が行われ、中村俊輔の移籍が決まった。
(ペルージャ(イタリア)、プレシア(イタリア)、サンドリア(イタリア)、レアルマドリード(スペイン)、アトレチコマドリード(スペイン)なども獲得を考えていた)
最初はレンタル移籍(一時的に他のクラブに貸し出され、期間が過ぎると元のクラブに戻る)だが、活躍次第で完全移籍もありというオプション付きの契約だった。
3週間後、日本代表が史上初の決勝トーナメント進出を果たしたワールドカップが終わった直後、中村俊輔は、成田空港から20時間かけてイタリア半島の1番南、レッジョ・カラブリアという海辺の町まで移動した。
レッジーナでの背番号は「10」だった。
「東洋のバッジョがやってきた」
イタリアのマスコミは大きく報道した。
イタリアは「カルッチョ(サッカー)の国」と呼ばれ、セリアAは「世界最強のリーグ」といわれ、サッカー選手のステータスや存在価値は高く大きかった。
イタリアのプロサッカーリーグは、8月~5月の間、20クラブがホーム&アウェイの2回戦総当たり形式で行われる。
レッジーナは、中村俊輔が来る前、2002年夏にセリエBからセリアAに昇格していた。
日本人選手のセリアA入りは、三浦知良(ジェノア)、中田英寿(ペルージャ)、名波浩(ベネチア)に続き4人目。
ワールドカップに出られなかったことについて何も語らず沈黙を貫く中村俊輔に、はるばる日本から来た記者やイタリアの記者が話を聞こうとしたが無理だった。
サッカーノートには
「自分で自分の道を開く」
と書かれてあった。
過去など1円の価値もなかった。
逆に友人や仲間は気遣っているのか連絡が来なかったので中村俊輔から電話をした。

シーズン初戦まで3ヵ月ほどあったが、レッジーナの練習は厳しかった。
日本ではケガをしないように、スネ当てをすることや、練習ではあまり激しくいかないように指導される。
しかしイタリアではスネ当てをしない選手が多く、練習でも本気モードでガチガチにやり合った。
とくに上半身はガンガンぶつけた。
中村俊輔も練習でチームメイトにファウル気味に、ボールを奪うというより体ごと寄せる感じで止めにこられた。
練習中のミニゲームでもケンカが起こるのは当たり前。
怒って練習場から出ていく選手も出た。
こうして1つのチーム内でいろいろな国の人間が熾烈なポジション争いを繰り広げた。
「ガチガチやり合わないと対等にやっていけない。
よい子や紳士では海外の激しい競争に生き抜けないと思います」
中村俊輔も練習中からガツガツやった。
当初は練習でもなかなかパスが回ってこなかったが、ボールをもらったときは、ミスをしないように安易な横パスなど選択せず、個の力でインパクトのあるプレーを意識し、実力を認めさせ、信頼を勝ち取った。
練習環境はマリノスのときは専門のスタッフがいたが、用具を自分で準備。
ロッカールームは、木の長いすが1つだけ。
シャワーは天井に1本のパイプが通り、蛇口をひねると1mおきに空いた穴から水が出た。
「うまくなるためにここに来ているんだ。
厳しい環境だと覚悟して来たんだ。
腐っている暇はない」
苦労はサッカー以外でもあった。
まず言葉。
中村俊輔は、イタリア語を勉強し、グラウンド以外でも辞書を持ち歩き、わからないときはすぐに調べた。
サッカーはコミュニケーションがとれないとできないということもあったが、日常生活でも言葉がわからないとすごくストレスがたまった。
夜、テレビをみてもわからないので、入浴剤などお風呂に凝った。
食事の苦労もあった。
町には日本食レストランはなかったので、2軒の中国料理店と1軒のイタリアンレストランを3~4日でローテーションした。
こうして24歳で海を渡った日本屈指のテクニシャンは着実に変貌を遂げた。

2002年9月15日、ペルージャ戦でイタリアデビュー。
伝統的にイタリアは守備の強いサッカーで、攻撃はパスをつなぐより後ろからロングボールを大きく蹴って前線に放り込んだ。
これまで後ろから細かくパスをつないで相手を崩していくサッカーをしてきた中村俊輔だったが、ボールは頭の上を飛んでいくことが多かった。
またイタリアのサッカーは、連携プレーより個人の力と技術でなんとかするというスタイルだった。
フィジカルが強い分、かんたんなプレーをミスなく速く強くプレーする。
パスを出した後のダッシュ、ドリブルし初めのスピードは速かった。
試合後のサッカーノートには
「力強さが足りない」
と書かれた。
イタリアのサッカーは強く、激しかった。
それはモロに中村俊輔の弱点だった。
また中村俊輔のスルーパスに対して、ロングパスに慣れたチームメイトの反応はスムーズではなかった。
「頭上をボールが飛んでいく中で、どう自分のプレーを表現していくか」
10月5日、直接フリーキックで初ゴール。
デビューから4ヵ月で5ゴールを決め、不動のレギュラーとなった。
ブレッシア戦では、ロベルト・バッジョと対決。
バッジョは、激しいプレーだけではなくテクニックと創造性でテンポよくプレーした。
ブレッシアのすべてのボールがバッジョを経由し、バッジョにボールが入った瞬間、周囲が一斉に動いた。
「バッジョのプレーをみて、自分がプレーしやすいように周りを動かす。
そのためにはどうしたらいのかを考え始めた」
そういう中村俊輔は25mのフリーキックを決めて2対2で試合を終わらせた。
ジーコジャパン 10番

2002年10月14日、2006年のワールドカップドイツ大会出場に向けてジーコが監督となった日本代表、ジーコジャパンの初戦、ジャマイカ戦に出場するため帰国。
3ヵ月ぶりのみそ汁と納豆を味わい、練習場に向かった。
そしてジーコ監督に会って、直接、背番号10のユニフォームを渡された。
「ナカムラは1発のキック、パスで流れを引き寄せることができる。
素晴らしい才能の持ち主」
とジーコは中村俊輔を高評価。
「代表に選ばれるのは光栄なことだし、選ばれるようにがんばりたい」
と中村俊輔も素直に喜び、11月のアルゼンチン戦にも出場。
こうして2002夏~2005年夏まで、イタリアでプレーしつつジーコジャパンでも多くの試合に出ることになったが、イタリア最南端から日本まで飛行機だけでも20時間。
1日がかりの移動はコンディションに影響が出ることもあった。
また日本代表メンバーとは普段一緒に練習していないので、連係プレーなどを高めるのは難しかった。
しかも中村俊輔には他の選手以上のものが要求された。

レッジーナでも日本代表とは違う難しさがあった。
セリアAのリーグ戦では、ACミランやユベントス、インテルといった世界のトップ選手をそろえた
強豪クラブとの対戦があった。
中村俊輔は対戦を楽しみにしたが、さすがに力の差は大きく、次の対戦では・・・次の対戦では・・とモチベーションを維持するのは口でいうほど簡単ではなかった。
そしてレッジーナにはセリエA残留争いという、これまた難しい問題もあった。
セリアA下位3クラブは、次シーズンからはセリエBに落ちる。
それは最大級の屈辱で、その可能性が高く
「落ちてなるものか」
とピリピリしているチームの10番を背負う日本人のプレッシャーは並大抵ではなかった。
「残留争いという地味な戦いがあった。
プレーは激しいし、ボールはつながらないし、なかなか点も獲れない。
でもそういうときに粘っていると必ず伸びる。
みえないときに人間は1番伸びる」
レッジーナのホームスタジアムは、オレステ・グラニッロで、サポーターは熱狂的だった。
チームが3連敗した後、外出した中村俊輔は
「なに負けてるんだ」
とサポーターに小突かれ、スーパーマーケットでは詰め寄られた。
車のタイヤを1個とられた選手もいた。
4連敗したときは
「お前らやる気あるのか」
と練習中のグラウンドに乱入していたサポーターもいた。
その代わり、点を決めればヒーローだった。
中村俊輔は、華麗なプレーと卓越したテクニック、そして芸術的なフリーキックで目の肥えたイタリア人を魅了した。
「ナカムラはバッジョのようなもので、FWもできるし、MFもできる。
DFを抜くこともパスも出せるんだ」
「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」
2003年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「肉体改造、フィジカルアップ」
「代表の数少ない試合で必ずいいプレー」
「結果を出し必要と思わせる選手になる」
「セリAでいいプレーをする」
「レッジーナで1番の選手、中心になる」
「10得点とる」
中期目標
「いいクラブに移籍する」
「セリAの中でもトップクラスの選手になる」
長期目標
「人から尊敬され愛されるプレーヤーになる」
だった。
2003年3月、日本代表 vs ウルグアイ戦に出場。
6月、日本代表 vs パラグアイ戦に出場。
ジーコジャパンは中田英寿と中村俊輔の2枚看板で、ピッチに中田英寿がいるときは中村俊輔は左サイドハーフ、中田英寿がいないときはトップ下がポジションだった。
コンフェデレーションズカップで日本代表はグループリーグで敗退したが、中村俊輔は、2試合出場3得点でブロンズシュー(3番目の大会優秀選手)を受賞。
2年前に5対0で敗れ「サンドニの悪夢」といわれたフランス戦では、名ゴールキーパー、ファビアン・バルテズも届かないシュートが右ポストを叩き、そのままゴールに吸い込まれる圧巻のフリーキックを決めた。
中村俊輔はよく中田英寿と比較された。
「(メディアでは)ヒデさんとも比較されたけど、どうこうっていうのはなかった。
ジーコのときのヒデさんは、特別な存在。
当時のローマは、今でいうバルサとかレアルみたいな感じで、そこでプレーできる力と経験を持つ選手は、日本代表には他にいなかった。
多分、代表でプレーするときに感じる、俺らへの物足りなさやストレスはすごかったと思う。
ヒデさんは徐々に俺たちのレベルに寄ってきてくれたけど、ヒデさんが本来のヒデさんでいられるレベルの選手が代表にはほとんどいなかった。
しかも本当ならヒデさんがトップ下をやるべきなのに、俺みたいなちょこまかした選手がトップ下をやって、ヒデさんはボランチをやった。
同じレベルではなくて、本当に申し訳ないって思っていた」
と中村俊輔は中田英寿に追いつくべく、自らのレベルを上げ、安定したプレーをすることに集中した
ジーコ監督にとって、中村俊輔と中田英寿は別格で両者を生かすためには、中村俊輔を前に出して攻撃に専念させ中田英寿をボランチへ配するしか方法がなかった。
「フィジカルの強弱などでも判断する監督なら、俺をサブにして、ヒデさんをトップ下に置いたと思う。
周囲からは『ジーコの息子』とか『ジーコに気に入られた』とかいわれたけど、そういう感覚はなかった。
ただ代表に呼ばれたら、どんな試合にも行った。
ジーコに対してというよりも日本代表に対する忠誠心というか気持ちをジーコに感じてもらえていたんだと思う。
俺、常に代表が1番だから」
8月、日本代表 vs ナイジェリア戦に出場。
9月、日本代表 vs セネガル戦に出場。
10月、日本代表 vs チュニジア戦に出場。
日本代表 vs ルーマニア戦に出場。
2003年シーズンの主な成績は
セリエA32試合4得点
イタリアカップ4試合1得点
だった。
開催国・中国を破りアジアカップ連覇

2004年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「レッジーナでスタメンをとり返す」
「自分の納得するプレーをする。
自分にしかでき兄プレーをする」
「期待を裏切っている分、サッカーでグラウンドでとり返す」
「流れの中で5点」
「フィジカルアップ、シュートの意識、タフなメンタル、ボール際の強さ」
中期目標
「自分に限界をつくらず上へ上へと目指す」
「上のクラブへ移籍する」
「いいクラブにいって10番つけてチームの中心になる」
「セリエAの中でトップクラスのプレーヤーになる」
「代表で1番うまい選手、頼りになるプレーヤーになる」
長期目標
「尊敬される選手、人間になる」
だった。
2004年2月、ワールドカップ予選開始。
日本代表 vs イラク戦に出場。
3月、ワールドカップアジア1次予選に出場。
5月、日本代表 vs アイスランド戦に出場。
6月、日本代表 vs イングランド戦に出場。
ワールドカップアジア1次予選に出場。
7月、日本代表 vs スロバキア戦に出場。、
日本代表 vs セルビアモンテグロ戦に出場。
8月、アジアカップに参加。
第1戦、オマーン戦。
2月に始まったワールドカップ予選でも同グループリーグに入っている国で最大のライバルだった。
オマーンの速いプレスに日本はボールをキープすることができずピンチが続いた。
前半34分、少ないチャンスをモノにするしかない日本は右サイドからすばやいリスタート。
左の遠藤保仁がパスを受け三都主アレサンドロへ落とし、三都主アレサンドロは中央へパス。
これは通らなかったが相手がクリアミス。
中村俊輔がすかさずボールを拾ってシュート。
この点が決勝点となった。
第2戦、タイ戦でも中村俊輔はゴールを決めた。
決勝戦、中国戦ではスタジアムは反日感情が吹き荒れ、君が代はブーイングのアレンジがついた。
完全アウェイムードの中、ジーコジャパンはピッチに立った。
中村俊輔は日本の全3得点に絡む大活躍。
日本代表は大会2連覇。
中村俊輔は、全6試合出場2得点。
ベストイレブンおよび大会MVPに選ばれた。
そしてイタリアへ戻ってセリアAの3シーズン目をスタートさせた。
10月、ワールドカップアジア1次予選に出場。
2004年シーズンの主な成績は
セリエA16試合2得点
イタリアカップ2試合出場
だった。

イタリアのリーグ戦と日本代表の招聘も受け続け、恥骨炎や膝の負傷などケガも繰り返した。
そのためレッジーナでの出場試合数は激減した。
「2004年はイタリアにいた3年間の中で最もつらい時期だった。
レッジョ・ディ・カラブリアには娯楽施設もほとんどなく、海で遊ぶくらいしか余暇の過ごし方がなかったので、家でノートに向き合う時間も多かった。
孤独と戦い、自分の心に耳を傾けていた」
伝統のビッグクラブ:セルティック

2005年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「セリエA残留」
「ワールドカップ予選突破」
中期目標
「スペインでいいプレーをする」
「代表で中心になる」
長期目標
「尊敬されるプレーヤーになる」
だった。
「スペインでいいプレーをする」
とスペインリーグへ移籍したいという意思を表明した。
2005年2月、ワールドカップアジア最終予選に出場。
5月、セリエAのシーズンが終わり、中村俊輔は33試合2得点。
(これがイタリア最終シーズンの成績となった)
6月、ワールドカップアジア最終予選に出場し、ジーコジャパンはワールドカップ本大会出場を決める。
コンフェデレーションズカップで日本代表はグループリーグで敗退したが、中村俊輔がブラジル戦でみせたロングシュートとフリーキックは世界中の人々を驚かせた。
「ワールドカップで世界をアッといわせたい」
というジーコ監督にとって理想的な選手だった。
7月、スペインのチームからオファーが来たが条件面で折り合わず、中村俊輔はスコットランド・プレミアリーグのセルティックに移籍。
背番号は「25」だった。
イギリスの正式名称は、「The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)」
略して「UK」
イギリスは
・イングランド
・ウェールズ
・スコットランド
・北アイルランド
という4つの国の連合国である。
スコットランドはグレートブリテン島の北部約1/3を占め、人口は約509万人。
首都はエディンバラだが、セルティックのホームであるクラスコーはスコットランド最大の都市で、1960年代に造船業で栄え100万人以上が、現在でも60万人以上が住んでいる。
歴史的な建造物が多くあり、年間300万人の観光客が訪れる。
グラスコーダ大学は、有名な学者を多数誕生させた。
14世紀、ジェームズ・ワットは蒸気機関を発明し産業革命を飛躍的に進歩させ、「W(ワット)」はエネルギーの単位になった。
19世紀、ウィリアム・ケルビンは絶対零度(-273.15度)を発見した。
科学だけでなくサッカーでも1982年に史上初の国際試合が行われた。
そのときスコットランド vs イングランドは0対0で引き分けた。
ホームスタジアム:セルティックパークは、1888年に
「収益は貧しいアイルランド移民のために」
とアイルランド人の牧師:ブラザー・ウォルフリッドによって設立された。
アイルランド出身の人やアイルランドにルーツを持つ人々は自然とセルティックを応援するようになり、以来、120年以上、現在に至るまで、熱狂的なサポーターと応援、クラブの理念は崩れることなく続いている。
セルティックは、1967年にイギリスのクラブで初めて欧州チャンピオンズカップ(欧州チャンピオンズリーグ(UCL)の前身)で優勝。
2003年にはUEFAカップ(ヨーロッパ各国のリーグ上位クラブなどが参加して争われるカップ戦)準優勝、2004年もUEFAカップ、ベスト8。
そして2005年7月、中村俊輔がやってきた。
グラスコー空港は、300人以上のマスコミやサポーターが押しかけた。
スコットランドのプロサッカーリーグは、イングランドに次いで世界で2番目の長い歴史を持つ。
8月から5月にかけて12のクラブが全38節の試合を行う。
第1節から33節は3回総当たり戦。
その後、上位6チーム、下位6チームの2つのグループに分かれ、グループごとに1回の総当たり戦でトータルの順位を決める。

イングランドに次いで世界で2番目の長い歴史を持つスコットランドのプロサッカーリーグは、8月から5月にかけて12のクラブが全38節の試合を行う。
第1節から33節は3回総当たり戦。
その後、上位6チーム、下位6チームの2つのグループに分かれ、グループごとに1回の総当たり戦でトータルの順位を決める。
欧州各国の代表選手が揃い、毎年、スコットランド・プレミアリーグで優勝を争うセルティックは、練習もレベルが高くハードだった。
アップからかなり走り、練習からミスをするような選手はいなかった。
ハードな練習とトレーニングでたとえ筋肉痛のまま試合に出てもパフォーマンスを落とすことは許されない。
少しでも調子を落とせば、活きのいい代りが何人も控えていた。
中村俊輔はとにかくケガをしないように気をつけた。
家で大腿を温めてから練習に行き、雪と氷と泥の練習場は体が冷えるからと大好きな居残り練習もできず、あわててクラブハウスの中に戻った。
移籍数日後、練習でフリーキックを誰が蹴るかコンテストが行われ、中村俊輔は10本中10得点を決めフリーキッカーとなった。
ゴードン・ストラカン監督は、マンチェスターユナイテッドで活躍した名選手だった。
1m70cmの小さな体で最強の名門チームで8年間もプレーできたのは、試合の流れの読みと気の利いたパスを出せたからで、自分と似ている中村俊輔をすぐにレギュラーチームに入れた。
練習で、ゴードン・ストラカン監督は、必ず5対2のパス回しを行った。
ビブスの色で5対2にわかれ、同じ色の人にパスを出してはいけない、パスを出したら違うゾーンに移動するなどいくつかのルールがあった。
「これが技術向上につながるのか?」
最初は疑問だったが、毎日やっていると狭いスペース内での同じようなパス回しにいろいろな工夫が生まれてきた。
そして中村俊輔はこれまで使わなかった右足のアウトサイドが使えるようになった。
「ナカは技術面ではチームでNo.1だ。
他にもマクギーディやブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」
(チームメイトのドナーティ)
8月28日、ダンファームリン戦で中村俊輔は初ゴールを決めた。
9月、日本代表 vs ホンジュラス戦に出場。
10月、日本代表 vs ラトビア戦に出場。
日本代表 vs ウクライナ戦に出場。
11月、日本代表 vs アンゴラ戦に出場。
ワールドカップドイツ大会 グループリーグ敗退

2006年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「セルティックでスタメンで出場し続ける」
「代表で自分のプレー、納得のいくプレーをする」
「常に向上心を持つ、上をみる、足を止めない」
中期目標
「ワールドカップでプレーする」
「スペインでプレーする」
「代表で10番」
長期目標
「自分で限界をつくらない」
「人から尊敬されるプレーヤー、人間になる」
「トッププレーヤーになる」
だった。
中期目標に「スペインでプレーする」と書かれた。
スペインに行きたいという気持ちは変わらなかった。
2006年2月、日本代表 vs ボスニアヘルツェゴビナ戦に出場。
5月、日本代表 vs ドイツ戦に出場。
同月、セルティックはスコットランド・プレミアリーグ優勝。
プレミアリーグと下位リーグのクラブも参加して国内チャンピオンを決めるCISカップでも優勝。
中村俊輔は、スコットランド・プレミアリーグ33試合6ゴール9アシスト。
6月、日本代表 vs マルタ戦に出場。
ワールドカップドイツ大会に参加。
初めてのワールドカップに中村俊輔がサッカーノートに書いたテーマは
「我慢と忍耐」
だった。
ジーコジャパンは「史上最強」といわれた。
ワールドカップ日韓大会でベスト16に進出したメンバーがそろい、各メンバーは経験を積み成長し、年齢的にも多くの選手が20代半ばから後半だった。
中村俊輔はそのチームにあって、中田英寿と共に絶対的な存在だった。
予選のグループリーグで日本は、オーストラリア、クロアチア、ブラジルといずれも強豪国と同組に入った。
初戦のオーストラリア戦は、中村俊輔のフリーキックで先制。
そして1対0のまま試合は進み、勝利を目前にした試合終盤の後半39分、途中出場のティム・ケーヒルに同点ゴールを決められた。
うだるような暑さの中、オーストラリアに執拗にロングボールを蹴られて守備に追われた日本はかなり疲弊していた。
リードしている間は維持できた気力や集中力が同点にされて切れてしまった。
その後、わずか数分で2ゴール決められ、1対3。
衝撃的な逆転負けだった。
試合後、中村俊輔はピッチでしばらく呆然としていた。
「もっとできたような、でも限界だったような・・・」
グループリーグの対戦相手からして、決勝トーナメントに駒を進めるためには、オーストラリアには絶対に勝たなければいけなかった。
そういう相手に、しかも逆転で敗れたショックの大きさは計り知れなかった。
続くクロアチア戦は決定的なチャンスがあったものの、それを生かせずにドロー。
結果が出ない中、中田英寿と中村俊輔、両エースに批判が集中した。
中村俊輔は`らしい`プレーがなかった。
2年前のアジアカップで優勝しMVPに選ばれたときのようなキラッと輝くプレーがなかった。
調子が上がらない中村俊輔は、日本が勝てない原因のひとつに挙げられた。
「俺自身は『なんでそこまでいわれるのかなぁ』『わりとやれているじゃん』って思っていた。
ただ、結果が出なかったからね。
やっぱりチームが勝てなかったのは自分の責任。
それは周囲からいわれたからではなく、10番ってそういうものだし、その責任は重く受け止めていた。
チームを勝たせる責任が10番の選手にはあるし、俺を信用してくれたジーコに『もっといい思いをさせてあげたかったなぁ』って思った」
大会前と大会中、2度風邪を引いて発熱もあった。
クロアチア戦の前は点滴を打って大事には至らなかったが、練習を途中で切り上げている。
左足の親指の爪も割っていた。
「確かに風邪を引いて熱が出て体調も崩した。
でもそこで体力が落ちたとかそれはないよ。
点滴を打ってもらって回復していた。
試合に出て90分間プレーしても体力が落ちた実感はなかった。
俺は、熱があったからとか、風邪を引いたから悪いプレーをしたわけじゃない。
メディアなどではそういうことで結論づけされたけど、俺が、みんなが期待するようないいプレーができなかったのは、単純に実力がなかったからだよ」
最終戦のブラジル戦では、力の差をみせつけられて1対4で敗れた。
ブラジル戦が終わったあと、中田英寿がピッチ上で倒れ、中村俊輔はあふれる涙を堪え切れずに泣いた。
この後、中田英寿は現役引退を発表した。
もともとサッカー大国のブラジルには畏怖の念を抱いていたが、同じピッチで本気になって戦うと、チームとしても、個人としても、絶望的になるような差を感じた。
それは1対4というスコア以上の差だった。
「大会までしっかり準備して、100%でやってきたけど、ブラジルにはまったく歯が立たなかった。
個も、チームも敵わない。
もう次元が違ったね。
サッカーというものがDNAに染みついている。
本気で勝ちたいと思うなら、環境から変えないとダメでしょ。
サッカーが1番の国だし、国民のみんながサッカーに興味を持っている。
そういう場所にいたら、自然と強くなるよ。
それにサッカーのスタイルにブレがない。
世界は3バックが主流になって、サイドバックでも、サイドハーフでもない選手が出てきたけど、ブラジルはずっと4バックが基本。
しかも、どんどんいいサイドバックが出てくる。
そうやってブレずに継続していくことの大切さを、ブラジルはみせてくれた。
日本は監督によってサッカーが変わるからね。
それじゃ、この先も勝てない。
自分の力不足とともに、そのことをすごく強く感じた」
前回大会以上の成績が期待された日本だったが、1分2敗でグループリーグ敗退に終わった。
中村俊輔は全3試合にフル出場し1得点に終わった。
「チームは監督、スタッフ、選手、フロントがお互いに尊敬し合うからこそ犠牲精神が生まれるんだと思う。
それは2002年のチームにもあった。
ゴンさん(中山雅史)、秋田(豊)さんを招集してチームの一体感を大事にして、みんな勝利に向かって明るくサッカーをしていた。
団結心があって戦っていたのはテレビの映像からも感じられたし俺も直前までいたチームだからこそ、よくわかった。
そのチームに自分が参加できなかったことが、すごく残念だった。
たとえサブでもあのチームにいれたら、大きな経験になったと思う。
トルシエのチームは、犠牲心を持って日本のために戦える集団になっていた。
でも、ドイツのときは、それが欠けていた。
チームのためにじゃなくて、『自分が』になってしまった。
それが、トルシエのチームや、南アフリカW杯のチームと異なる結果になった最大の要因だと思う」
日本が進めなかった決勝トーナメントの決勝でイタリアとフランスが対戦。
PK戦の末にイタリアが1982年以来の優勝を遂げた。
伝家の宝刀で赤い悪魔を倒す

スコットランド・プレミアリーグ開幕前にセルティックは、イングランド・プレミアリーグのエバートンとの強化試合が行った。
中村俊輔は、ワールドカップドイツ大会以後、初のフル出場。
セルティックは1対0で勝った。
7月29日、スコットランド・プレミアリーグ開幕戦、キルマーノック戦で中村俊輔はフリーキックを決め、セルティックは4対1で勝った。
しかし大差の勝利とは裏腹に、セルティックの状態は決して良くなかった。
シーズンオフに主力が移籍してしまい、代わりに入った選手とはコンビネーションを合わせる時間が足りなかった。
スコットランド・プレミアリーグでも欧州チャンピオンズリーグ(UCL)でも、中村俊輔は、チームでただ1人、フル出場を続け、チームの中心となり、セルティックはスコットランド・プレミアリーグで2連覇に向けてトップを走り続けた。
9月、欧州チャンピオンズリーグ(UCL)の1次リーグが始まった。
欧州サッカー連盟(UEFA、ウエファ)によって毎年9月から翌年の5月にかけて開かれる国際大会。
1次リーグは、4チーム×8組に分かれ、ホーム&アウェイの総当たり戦で行われ、各組上位2位チームが決勝トーナメントに進出する。
出場するのは欧州各国のリーグの上位ばかり。
バルセロナ(スペイン)
レアルマドリード(スペイン)
ACミラン(イタリア)
バイエルンミュンヘン(ドイツ)
マンチェスターユナイテッド(イングランド)
などの有名クラブ、人気クラブが登場する大会に世界中が注目する。
優勝賞金は、640万ユーロ(1ユーロ=60円とすると約10億2400万円)
予選から決勝戦まで試合ごとに分配金が支払われるので、実際に優勝すると50億円を超える。
たとえ1次リーグで全敗しても最低5億がもらえる。
ワールドカップなどで各国の代表チームの選手が全員集まって練習する時間は短いが、クラブチームの場合、毎日同じメンバーで練習し試合をする。
そのためチームとして成熟度が高く試合のレベルが非常に高い。
優勝チームは、「欧州最強」の称号を手に入れると共に、12月に日本で行われるクラブワールドカップの出場権を得る。
セルティックは、マンチェスターユナイテッド(イギリス)、ベンフィカ(ポルトガル)、FCコペンハーゲン(デンマーク)と同組になった。
9月14日、セルティックは、マンチェスターユナイテッドと7万4000人が入った彼らのホームであるオールドトラフォードスタジアムで対戦。
中村俊輔は初めて欧州チャンピオンズリーグ(UCL)のピッチに立った。
マンチェスターユナイテッドは、世界のビッグクラブ。
ウエイン・ルーニー
ライアン・ギグス
クリスチアーノ・ロナウド
など有名選手がそろっていた。
プロサッカー選手はチームと契約して給料をもらう。
契約期間中に選手が他のチームに移籍するとき、そのチームに残りの契約分に当たる金額を支払い、これを移籍金というが
「マンUの選手の移籍金1人分はセルティックの11人分の年俸」
といわれた。
多くの人がセルティックが勝てるわけがないが思ったが、中村俊輔は
「サッカーは何が起こるかわからない」
「気持ちで相手を上回る」
「攻撃も守備も両方頑張ってよく動いてよく走ろう。
チーム全体でベストの力を出せれば勝てるかもしれない」
と世界最高峰の戦いに挑んだ。
そして前半43分、1対2の場面で、セルティックはゴール正面やや右側、22mの位置でフリーキックを得た。
キッカーは、中村俊輔。
ゴールキーパーは、ファンデルサール(オランダ代表)
蹴る直前、中村俊輔はファンデルサールが体の重心を左に寄せているのに気づき、その逆を突いた。
そして193㎝のファンデルサールが一歩も動けないほど芸術的なキックを決めた。
試合は、これで2対2と同点となったが、その後、セルティックはマンチェスターユナイテッドに3点目を奪われ、2対3で敗北した。
しかしイギリスの新聞は、中村俊輔を10点満点で7点と評価。
テレビは、バルセロナのロナウジーニョ、アーセナルのロシツキー、ローマのトッティ、チェルシーのバラックと共に中村俊輔のフリーキックを「スーパーゴール」として紹介した。
その後、セルティックは、ホームで、コペンハーゲン(デンマーク)、ベンフィカ(ポルトガル)に連勝した。
10月、スコットランド・プレミアリーグ、タンディユナイテッド戦。
0対1でリードされた前半44分、同点ゴール。
後半3分、FWのヘッディングのこぼれ球を押し込み2点目。
後半13分、左足でゴール左上に叩き込み3点目。
8年ぶりのハットトリックを達成。
「ハットトリックしたけど反省点ばかり。
ここ数年はプラスのことをサッカーノートに書かなくなった。
プラス面は体と頭が頑張っているから大丈夫だと。
でも反省点というのは残りにくいから書き留めないといけない。
いいことを書いてうぬぼれる自分が怖い。
それも書かない大きな理由だ」
(中村俊輔)
11月21日、セルティックは、マンチェスターユナイテッドをホームで迎え撃った。
「クリスチアーノ・ロナウドをマークしろ」
試合前に中村俊輔はゴードン・ストラカン監督から指示を受けた。
クリスチアーノ・ロナウドは、高速フェイントから、ボールが足に吸いついて離れないような高速ドリブルをしかけ、そのシュートは鋭く落ちた。
中村俊輔は、そんな勢いに乗れば誰も止められないような選手の守備をしながら攻撃ではセルティックの中心となった。
走る量もセルティックの中で最も多かった。
1試合で12~13㎞、多いときは14㎞も走ったが、この試合はおそらくそれを超えた。
後半36分、0対0の場面で、2ヵ月前のオールドトラフォードと同様、中村俊輔はゴール正面やや右の位置からフリーキックが与えられた。
しかし距離が30m近くあった。
中村俊輔が得意な距離は20~25mだった。
「絶対に決めてやる」
そしてすぐに蹴るコースとスピードを決めた。
狙ったのはゴール右上。
ムチのようにしなった左足を振り抜くとボールは思った通りの軌道を描いて飛んでいった。
壁の上を抜け、マンチェスターユナイテッドのゴール右上にズドンと入った。
「GOOOOOOOOOOOOOALl!!!!!!」
6万人を飲み込んだセルティックパークが揺れた。
喜びでスタジアムのあちこちでサポーターたちが抱き合った。
涙を流すサポーターもいた。
そしてみんな拍手を送った。
耳の奥が痛くなるほどの大歓声を受けながら中村俊輔はユニフォームを胸をつかんで
「セルティックは最高」
とアピール。
鼓膜だけでなく胸も震えていた。
セルティックは1対0で勝利し、史上初めてのUCL決勝トーナメント進出を決めた。
「ヘディングはできない。
タックルはできない。
だがそれがどうした。
彼は天才だ」
(ゴードン・ストラカン監督)
ビッグキリングを果たしたチームは選手もスタッフもサポーターも大騒ぎだったが、中村俊輔は1人、スタジアム内のジムでクールダウンのトレーニングを行った。
試合後、ストレッチ、自転車漕ぐ、軽い筋トレなどを1時間ほどやるのは日課になっていた。
それはマンチェスターユナイテッド戦でも例外ではなく,次の戦いはすでに始まっていた。
欧州チャンピオンリーグ決勝トーナメントには、ACミラン(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、レアルマドリード(スペイン)、マンU(ユナイテッド)、チェルシー(イングランド)、リバプール(イングランド)、リヨン(フランス)などの16クラブが進出。
抽選の結果、セルティックは1回戦でACミランと対戦することになった。
中村俊介はレッジーナ時代に何度もACミランと対戦したが、手も足も出ず1度も勝てなかった。
どのポジションも世界のトップレベルの選手がいて強かった。
しかしレッジーナとセルティックでは少し格が違う。
しかもこちらのホームでの対戦である。
「やれる」
中村俊介は思った。
世界の頂点との差

2007年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「セルティックでレギュラーでゲームに出場し続けていいプレーをする。
7点9アシ以上」
「フィジカルを上げる」
「もっとうまくなる」
「代表で10番をつけてレギュラーでい続けて1番になる」
「アジアカップで存在感をみせる。
ゴールに絡む働きをする」
中期目標
「アフリカW杯で大活躍する」
「日本で1番うまい選手になる」
長期目標
「尊敬されるプレーヤーになる」
だった。
2007年2月20日、欧州チャンピオンリーグ決勝トーナメント1回戦、セルティックはホームでACミランと対戦した。
ACミランは、1980年代後半から1990年代初めにかけて、フリット、ファンバステン、ライカールトのオランダトリオで黄金時代を築いた。
1990年のトヨタカップ(クラブワールドカップ)で来日し大ブームとなった。
中村俊輔はレッジーナ時代に何度も対戦し手も足も出なかった。
ACミランのアンチェロッティ監督は、
「セルティックで危険なのはナカムラだ。
ゴール前でフリーキックを与えてはいけない」
と注意した。
それでもフリーキックのチャンスは2度あった。
前半40分、右45度からフリーキックはゴールキーパーにセーブされた。
後半14分、ゴール正面左から、5枚の壁を大きく左から巻くように蹴ったが、
「当てる感じでカーブをかけてフワッとさせたかったけどボールが滑った」
とカーブがかからずゴール左側に抜けてしまった。
ACミランのカカー(ブラジル代表MF)からボールを奪ったときに左大腿を痛めていて、わずかな感覚のズレがミスにつながった。
しかし守備ではACミランのゲームメーカーであるピルロ(イタリア代表)を抑え切り、試合は0対0で終わった。
欧州チャンピオンズリーグ(UCL)では2試合の勝ち星が同じで、さらに得点も同じ場合、アウェイでの得点が多いほうが勝ちとなる。
2週間後のアウェイでの第2戦で、0対0なら延長戦に入り、1対1以上の引き分けならセルティックの勝ちとなる。
もちろん勝てば文句なしで準々決勝に進むことができる。
3月7日、セルティックは、ACミランとミラノのサンシーロスタジアムで対戦。
試合はACミランペースで進んだ。
2月25日のインバーネス戦で左手の小指を亀裂骨折しギブスをつけた中村俊輔は、シードルフらに厳しくマークされ自由にボールを操れなかった。
しかし守備は何とか踏ん張って0点に抑えていた。
0対0のまま延長戦に突入。
延長前半3分、カカーに40mをドリブルで運ばれ左足でシュートを決められた。
中村俊輔は延長の前半が終わった時点で交代。
セルティックは0対1で敗れた。
ACミランはこの後も勝ち進み7度目の欧州チャンピオンズリーグ(UCL)優勝を飾った。
中村俊輔は欧州チャンピオンズリーグ(UCL)で世界の頂点のレベルを知り、自分との差や課題を知った。
サッカーノートには
「セルティックに来てからの2年間で、判断の速さや、判断するときの種類が増えていると感じた。
守備のときに試合の流れを読む目も成長したと思う。
「シュートまで持っていくドリブルの形やスピードはまだない。
今までは中盤でのボール回しなどに頭を使っていたけど、これからはゴール前でシュートに持っていく形を身につけないと」
「もっともっとサッカーがうまくなりたい。
この経験をこれからの成長につなげよう」
と書かれた。
世界の頂点との差。
それは追いつける差なのか、追いつけない差なのか。