日本を代表する名優・仲代達矢さん
仲代達矢さんのプロフィール
仲代達矢さんの経歴・エピソード
生い立ち
父親は京成電鉄のバス運転手、母親は五反田小町と呼ばれたほどの薬局の看板娘。仲代達也さんは、そんな両親の間に生まれましたが、小学二年生のときに父親が亡くなってしまい、とても貧乏な幼少期を過ごしたといいます。
小学校を卒業した仲代達矢さんは疎開先から母親の元に戻ると、母親は住み込みをしていた青山の弁護士の妾となっていて、弟が生まれていました。しかし、戦争の勢いは激化していき、空襲で住んでいた家を焼かれ、高校も通っていた中退せざるを得なくなりました。
改めて、都立の工業高校に入学して卒業。終戦して学制改革の後、中学校の用務員をしながらも、定時制の高校に通って卒業しています。
俳優デビュー
高校を卒業しても就職先には恵まれず、大井競馬場で警備員をしたり、ボクシングの三回戦ボーイをして収入を得るといった生活をしていました。この頃、解禁された洋画や観劇にはまって、頻繁に劇場に足を運ぶようになります。次第に役者を目指すようになると、1952年、俳優座附属の養成所に4期生として入所しました。
仲代達矢さんにとって、この経験は強烈に記憶に刻まれ、映画俳優としてのモチベーションに変わっていきました。
1955年には養成所を卒業。俳優座に入り、芸名を現在の『仲代達矢』と名乗り、本格的に役者としての道を歩むことになります。俳優デビュー後の仕事は順調そのもので、いきなり映画『幽霊』の主演に抜擢されました。映画『幽霊』での演技ぶりが業界人の目に止まると、次々と映画出演の話が舞い込むようになります。
スター俳優として
その背景には、舞台活動に強いこだわりがあったようで、1年の半分は演劇に専念するためでした。映画俳優としてもフリーランスで活動していたメリットは大きく、映画会社の間で結ばれた協定に左右されず、結果的には多くの作品に出演する機会を得ました。
こうして仲代達矢さんは、映画俳優としても、舞台俳優としても、確固たる地位を確立していきます。
無名塾の創立
1996年、宮崎恭子さんはガンを患い死去。残された仲代達矢さんは生きる意味を失うほどのショックを受けました。しかし、テレビ東京のドキュメント番組『ネシアの旅人』において、太平洋全域の島を回る機会があり、生きることの意味を改めて見出すことができたと言います。
その後、俳優としての仕事にも本格的に復帰されており、そのまま現在に至っています。脚本・演出を担当していた宮崎恭子さんが居ない無名塾の公演において、現在は演出家を招いたり、仲代達矢さん自身が演出も兼ねるといった形式をとっているようです。