ガキ大将で王様

長友佑都は、1986年9月12日に愛媛県東予市(現:西条市)三芳で新聞配達店を営む裕福な家に生まれた。
体は小さかったが,運動では誰にも負けず
「俺に逆らったら許さんぞ」
というようなガキ大将だった。
幼稚園に入ると地元のアイドル的な女子がいて長友佑都も好きになった。
なんとか振り向かせたい。
「長友君、かっこええわ」
といわせたい。
長友佑都は自分のすごさを見せつけるためにサッカーを始めた。
小学生になった頃、Jリーグが始まり、ゴールを決めてカズダンスを踊る三浦知良に憧れた。
「めっちゃカッコええやん」
長友佑都はボールを持ったら基本的に離さない。
ドリブルで相手ゴールに向かい、相手ディフェンダーも勝負を仕掛けた。
ある試合では自陣からドリブルをはじめ、次々と相手をかわし、そのままゴールを決めた。
そして最高の気分に浸った。
このように完全に王様状態だったが、小学校3年生のときに1年生の弟:宏次朗がサッカースクールに入ってくると一転した。
兄はドリブル一辺倒だったが、宏次朗はボールコントロールやパスセンスも持っていた。
「長友兄弟は佑都もうまいけど弟の方が才能がある」
指導者の評価を聞いてショックを受けた。
その後、兄はフォワード、弟は中盤として一緒に試合に出たが
「宏次朗!なんでパス出さへんねん」
と試合中に怒った兄がボールではなく逃げる弟を追い回すこともあった。
弟の才能に怒り狂う長友佑都は、すでに王様ではなく(北斗の拳の)ジャギだった。

「これから母さんと麻歩と佑都と宏次朗の4人で生きていくことになったから」
地元の高校の先輩後輩だった両親が離婚。
母親は子供と共に実家がある西条市に引っ越した。
新しい家は、母親の実家の近所で、前の家より古くて小さかった。
母親は、結婚式や葬式の司会の仕事をした。
(そして3人の子供を大学へ進学させた)
以前も新聞配達店を手伝っていたが、比べ物にら七位ほど忙しくなった。
朝早く家を出て遅く帰宅するので、子供たちの夜ゴハンは、コンビニ弁当かおじいちゃんの家だった。
「こんなんイヤや。
学校にやめてっていうて」
転向した小学校で生徒名簿をみてみると、ほかの子は保護者の欄が父親の名前だったがが、長友佑都だけが母親の名前だった。
長友佑都は、それを恥ずかしがり、母親は学校に頼んで父親の名前に変えてもらった。
長友佑都は母子家庭であることを知られるのを嫌った。
恥ずかしさもあったが、何よりも
「お母さんだけで大変やねえ」
「お母さん、仕事でいないのに偉いね」
と同級生の親に同情されるのが嫌だった。
「なんでこんなボロい家に住まなアカンねん」
長友佑都は父親に対して憎しみのような嫌悪感を持った。

転校後もサッカーは続けた。
ボールを追っているときは嫌なことを忘れることができた。
小学生5年生のとき、テレビでワールドカップフランス大会をみた。
日本代表は初戦でアルゼンチンと対戦。
一瞬のスキをついて決めたガルリエル・バティストゥータのゴールが衝撃的だった。
「世界には凄い選手がおるんや!」
愛媛県でサッカーの頂点は、「愛媛FC(フットボールクラブ)」だった。
社会人チームだけでなく、高校生、中学生のチームを持つサッカークラブで、愛媛県の優秀な小学生はみんな愛媛FCジュニアユース(中学生以下)に集まっていた。
長友佑都も愛媛FC憧れていた。
「愛媛FCに行かへんかったら先はない」
とさえ思っていた。
自信はあったが、もし落ちると恥ずかしいので、神拝サッカースクールの監督と母親以外には内緒で、セレクションテストを受けるために特急列車で1時間かけて愛媛FCのある松山市にいった。
「じゃあ長友君、一緒にやってみて」
ジュニアユースチームの練習に参加することがテストだったが、それほど差を感じることもなく練習は終わった。
(やれるやん)
(受かった)
合格を確信して西条市に戻り
「愛媛FCに行くんや」
と周囲に早くいいたくてウズウズ、ワクワクしながら過ごしていたが、松山市から届いたハガキには
「不合格」
と記してあった。
悲しすぎて涙も出なかった。
リアルスクールウォーズ 西条北中学サッカー部

西条北中学でもサッカー部に入った。
しかしそこは不良のたまり場だった。
ボンタン、長ラン、短ランを着た先輩がそろっていた。
部室にはエロ本が散乱し、放課後、練習する部員はわずかで、ほとんどは繁華街に消えていった。
それをみた長友佑都は12歳にして
「俺のサッカー人生は終わった」
と思った。
そして自分も授業が終わるとグラウンドを抜け、ゲームセンターや友達の家にいって遊んだ。
自宅もたまり場となった。
授業中も最前列に座る長友佑都は、教科書もノートも出さず、なにかいわれれば教師をにらんだ。
「それがかっこいいと思っていた僕は、今思えば弱い人間だった」
長友佑都はそういうが、不良ぶってもあまり悪いことはできなかった。
1番悪いことでピンポンダッシュ。
タバコも酒もできなかった。
サッカー部顧問:井上博は、長友佑都の入学と同時にも西条中学に赴任し、その再建に乗り出していた。
「1年生は俺と一緒に北中にきた。
卒業するまでの3年間でお前らがサッカーやれるようなんとかするけえ、先輩のことは気にせんと一緒にサッカーやろうや」
長友佑都はそういわれても
(どうせ口だけやろ)
とサボった。
「佑都、ちょっと話しせえへん?」
「こないだまでサッカー大好きで毎日サッカーやってたんやろ。
どうよ、いま物足りひんちゃうん?
もっとサッカーやりたいやろ」
「小さい頃、プロなりたいいうとったやろ。
ここで諦めたら終わりやで」
井上博先生は積極的に長友佑都にコミュニケーションをとった。
「小学校から佑都の代は強かったしうまかった。
中学のサッカー部がこんな状態やけえ、サッカーへの情熱が薄れてしもてもうた。
お前らサッカーやりたいのに・・・・サッカー部がこんな状態で・・・・」
ときには涙を流しながら話した。
井上博は生徒に本気でぶつかっていくタイプの熱血教師だった。

ドラマ:スクールウォーズのモデルとなった山口良治も、偏差値25、喫煙、飲酒、シンナー、バイクなんでもありの京都市立伏見工業高校に体育教師として赴任。
学校の廊下をバイク走ったり、教師へ暴力をふるう生徒もいた。
ある教師は怯え、ある教師はみてみぬフリをして、不良たちはやり場のない不満や憎悪を募らせ、ただ荒れていく一方だった。
山口良治が廊下を歩いていると教室から声がした。
「ポンッ」
そして笑い声が起きた。
みると授業中に生徒がマージャンをしていた。
山口良治はガラスが割れそうな勢いでドアを開けた。
「お前らなにをやっとるんじゃ、立て」
4人の生徒が不貞腐れながら立った。
「サングラスもとらんかい」
伸びてきた山口良治の手を生徒は払った。
平手打ちが飛び、サングラスをかけた生徒は倒れた。
逃げる3人をまとめて窓際に押しつぶし1人1人平手を食らわせた。
マージャンをみていた生徒6人も
「お前らも同罪じゃ」
と蹴り飛ばした。
廊下で前からバイクが走ってきたときは正直、怖かったが
(生徒を信じよう、信じよう)
と念じ続けた。
するとバイクは横を通り過ぎた。
数日後、バイクを走らせた生徒が訪ねてきた。
「ゴメンな先生。
先生だけや、俺に注意してくれたのは。
誰も俺に注意なんてしてくれへんで」
山口良治はわかったような気がした。
(コイツらは本当は寂しかったんや)
しかし以後も不良たちは山口良治にそれまで経験したことのないような屈辱と不快感を与えた。
(オレはラグビー日本代表やぞ)
(教師なんてなるんやなかった)
その度に後悔と自己嫌悪がこみ上げてきたが、最後は負けじ根性が出てきた。
(問題のない学校に教師などいらない。
教え屋がいればいいのだ。
こういう学校こそ教師が必要だ。
オレは体育教師だ。
体育教師が生徒にぶつけられるのは情熱だ。
闘志だ。
力だ。
そして信頼だ)
苦境になればなるほど、悪い状況になればなるほどより燃えてくる男だった。
そして数年後、
「信は力なり」
を旗印に京都市立伏見工業高校ラグビー部は全国大会優勝を果たした。

井上博は体育教師ではなかったが、サッカー部の生徒全員に本気でぶつかっていった。
どれだけ生徒に煙たがれ悪口をいわれても、同僚の教師に白い目でみられても、ブレずに貫いた。
冬、長友佑都はゲームセンターで遊んでいるところを井上博に見つかった。
「お前ら何しとるんじゃ」
「・・・・・・・」
「立てや」
長友佑都と友人は立ち上がった。
問答無用でビンタが飛んだ。
友人は膝から崩れ落ち、長友佑都は頬を手でおさえ下を向いた。
「お前がこんなことやってるんをみてるお母さんの気持ち考えたことあるんか。
そのゲームやってるお金は誰のおかげぞ」
この頬の傷みが長友佑都の目を覚まさせた。
「俺はお前とサッカーがやりたいんや」
といわれ、涙を流しながら黙ってうなづいた。
そしてサッカーに情熱を注ぐ日々が始まった。
「大丈夫や。
信じられる大人もおる。
あんなヤバいくらい熱い人はおらん
僕もいつか先生みたいな大人になりたい」
心のノート

長友佑都が中学2年生になったとき、井上博はサッカー部員にノートを配った。
「これはな、心のノートやけん。
何を書いてもいいけん。
とにかく毎日書いて持ってこい」
授業中ノートもつけていない長友佑都にとっては、正直、面倒くさかった。
「今日は元気で練習できました」
「ゴールを決められなくて残念だ」
当たり障りのないことを書いて提出した。
井上博はそっけない内容にも必ず熱いメッセージを書き込んで返した。
毎日書いていくうちに長友佑都はある発見をした。
(文字で書くと素直になれる)
真っ白のノートを前に1日を振り返る。
すると自覚していなかった自分の感情に気づくことができた。
また「書く」という作業も独特の作用があった。
書き始める前に気持ちを整理しなければならないし、ノートに書いた自分の気持ちを文字として読むことになるので、客観的に自分を見つめることができた。
まるで自分自身と会話するような感じだった。
現在ではパソコンや携帯電話で文字を打ち込むが、ペンで文字を書くことは、たとえ同じ文章を記してもやはり別ものである。
年賀状も手書きとプリントではまったく違う。
スポーツ選手のトレーニングやダイエットでも、目標や課題、決意を手で書くことで自分の意志を強化できるという。
長友佑都はノートを書くことが面白くなっていった。
家に戻り夕食を済ませるとノートを開く。
井上博の言葉を読み、そして自分の気持ちを書いた。
1日で何ページも書くこともあった。
「両親のやつには負けたくない」
「片親だからと同情されたくない」
いつもそんなことばかり考えていた。
それはあるときは力になったが、いつも必要以上に周囲を意識した気張った状態であり、大きなストレスでもあった。
しかしノートの向かうと素直になれた。
「もっとドリブルがうまくなりたい」
と書けば、なるためには何をしなくちゃいけないか楽しく考えられ、自然と目標が生まれてきた。
「チームが1つになることはボールを蹴ることより大切なこと」
「世界一熱い部活」
ノートには他人にみせると恥ずかしいが大切な言葉も並んだ。
中学時代に書いたこの「心のノート」が、現在の逆境にあっても決して信念がブレない長友佑都をつくったといっても過言ではない。
「強くなろうや」

秋になると3年生が引退し、長友佑都たちがサッカー部の中心となった。
井上博は
・自分づくり
・仲間づくり
・感謝の心
をサッカー部の3本柱としたが、長友佑都のサッカーは相変わらず王様スタイルだった。
ボールを持ったら離さず、どこまでもドリブルで勝負。
ボールを奪われても守備に戻らなかった。
井上博は
「仲間のために走れ」
と注意したが、チームメイトは
「俺らが守備を頑張るからお前は点を取ってくれ」
といってくれた。
試合で負けると井上博は問うた。
「なんで負けたと思う?
どこがアカンかったと思う?」
部員たちはそれぞれ個人の課題、チームの課題をいい合った。
「よっしゃ、わかった。
足りひん思うところは練習したらエエだけや。
練習すれば伸びるんや。
あとはお前らが決めろ」
そして部員は休み時間に集まってメニューキャプテンを中心に次の1週間の練習プランを立てた。
自分で足りないところを見つけ、それを補うためにどんな練習をすればいいのか考えて練習するというやり方は、やる気を大きくした。
練習前からやることがわかっているので素早く練習に入れ、効果と結果も出た。
西条北中学サッカー部はドンドン強くなり
「全国大会出場」
が目標となった。
そのためには西条市で1位になり、愛媛県で1位にならなくてはならない。
西条北中学サッカー部は意気込みであふれていた。

3年生になる前の春休み、大阪に遠征し、ガンバ大阪ジュニアユースと練習試合を行った。
やはりプロの下部組織は強く西条北中は負けてしまった。
しかも相手はレギュラーチームではなく、しかもしかも本気で戦っていなかった。
「完全にナメられた。
あいつらチャラチャラ遊び半分やった。
遊ばれただけや」
毎日毎日一生懸命サッカーをやってきた。
手を抜いたことはなかった。
なのに本気でないサブチームに負けた。
長友佑都は思い知った。
上には上がいることを。
自分が王様でいられる場所がいかに狭くて小さいかを。
その後、西条北中サッカー部は、西条市予選の決勝で負けた。
全国大会出場どころか県大会にも出られなかった。
「もっともっと強くなろうや」
自然と練習開始時間が早まり、終了時間は遅くなり、練習量は増えた。
1本のパス、1本のシュートに気持ちを込めて蹴り、気を抜いたプレーをすれば、必ずチームメイトから怒鳴り声を浴びた。
「お前、ホンマに気合い入れてやってんのか!」
「なんであんな軽いプレーしとんじゃ!!」
「そんなこというお前かてヘボいミスしとったやないか」!
練習試合のハーフタイムではベンチで殴り合い寸前の叱咤し合いが行われた。
7月、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会の予選が開始。
全国の中学校のサッカー部とJリーグ、JFLの下部組織、クラブチームが参加するが、本戦には32チーム、四国からは2チームだけしか進めない。
長友佑都たちにとって最後の大会だったが西条北中サッカー部は県予選で敗退した。
「県3位という成績を恥じることはない。
お前らは必死になって練習に取り組んだ。
努力したことに価値があるんや」
井上博はそういって笑った。
駅伝

「駅伝やるで」
最後の試合が終わった直後、井上博はサッカー部の3年生で駅伝チームをつくるといい出した。
「なに無茶なこというてるねん」
長友佑都は反対した。
ひたすらドリブルで攻め、ボールを奪わると守備に戻らなかったのは、王様気質だけでなくスタミナ的な問題もあった。
戻りたくても体力的に戻れなかったのだ。
サッカー部で長距離を走るときも密かにサボった。
校外を3㎞走るときは、勢いよく校門を出て、サッと横道に入って隠れた。
顔や頭を水で濡らし、チームメイトが戻ってくると集団に加わった。
2年生時、学校のマラソン大会の成績は100人中50番台だった。
「佑都、お前な、上を目指したいんやろ。
だったら走れるようにならなアカン。
スタミナつけんかったら上にはいかれへんぞ」
井上博にいわれ、プロになるため強豪高校に入るつもりだった長友佑都は腹をくくった。
(やるしかないやろ)
次の日からハードなトレーニングが開始された。
400m×10本
3㎞×2本
・・・
1日に15㎞以上走った。
あまりにキツい練習に疲労骨折を起こす者もいた。
「そんなに走ったら危険」
という教師もいたが、井上博も部員もそんな声には耳を貸さなかった。
「やると決めたらやるしかない」
とにかく熱い集団だった。
長友佑都も燃えた。
チーム練習のほかに自主トレを行い、走って走って走りまくった。
「上に行くには走れるようになるしかない」
スイッチが入ると止まらなかった。
目の前に目標を置いて、それに向かって追い込んでいく。
その作業、努力が嫌いじゃないということ、努力の面白さを知った。
「佑都、どないしたん。
めっちゃ速くなってるやんか」
井上博もチームメイトも驚いた。
あんなに走るのが遅かった長友佑都が1番前を走っていた。

夏の終わりから走り始め、冬、駅伝大会を迎えた。
長友佑都のシューズは、数ヵ月の練習でスリ減っていった。
踵の部分がはがれペラペラになると、そこをハサミで切ってまた走った。
だんだんはがれてくる部分が増えて、大会前には靴の真ん中くらいまでゴムがない状態だった。
「危ないで、貸そうか?」
「新しいの買おうか?」
周囲の親切を長友佑都はキッパリ断った。
「ええねん。
この靴で走りたいから」
同情されたくなったのではない。
ただただこの爪先の部分しかゴムがないシューズで走りたかった。
ボロボロの靴には長友佑都のいろんな気持ちが詰まっていた。
共に努力した大切な仲間たっだ。
そして駅伝大会で長友佑都はアンカーで仲間が継いだタスキを背負い走った。
チームは3位になり、長友佑都は区間賞をもらった。
そして学校のマラソン大会は1位になった。
「僕は、夢や目標をかなえることだけが必ずしも成功ではないと考えている。
大切なのは、叶えるために日々努力すること。
現在の自分に満足せず、何が足りないのかを探し、それを伸ばすトレーニングをする。
そのプロセスが1番大事だと思い、僕は生きている。
夢が実現しなくても努力した後には成長した自分が待っている。
『こんなことやって意味があるのか』
『このへんでええかな』
そんな弱い心を振り切り挑戦することが大事。
そういう意味で中学時代の駅伝は、僕に努力の成功体験を与えてくれた」
「お前らヘボいんじゃ!!」

長友佑都は、サッカー選手としてまったく無名だったが、サッカー強豪高校へ進学したいと考えていた。
具体的には、長崎の国見高校、鹿児島の鹿児島実業高校、福岡の東福岡高校。
いずれも全国高校サッカー選手権大会で優勝し、多くのJリーガーを輩出していた。
中でも、1997年、1998年と全国大会2連覇を果たした東福岡高校に魅かれていた。
しかし東福岡高校は私立で授業料は公立より高額な上に、他県の高校に行くとなると下宿費なども必要になる。
長友佑都は
「東福岡に行きたい」
といえなかった。
しかし井上博も母親も長友佑都の背中を押した。
「推薦でお願いできる可能性もあるよ」
「お金のことなんかどうにでもなるんやし心配する必要はないから」
母方の祖父:吉田達雄は日本競輪学校の1期生で、その弟の吉田実は日本競輪界で一時代を築いたといわれる名選手だった。
また父方の祖父も明治大学出身の元ラガーマンだった。
「私思うんよ。
佑都は絶対アスリートに向いているって。
だからその道で勝負してほしいんよ。
もしアカンかっても別にかまへんし。
挑戦せな、失敗もできひんやろ」
こうして長友佑都は東福岡高校に行くことを決めた。
2002年3月、サッカー部で卒業する3年生を送り出す試合が行われた。
試合後、全員で輪になって
「♪負けないこと、投げださないこと、逃げ出さないこと、信じぬくこと、ダメになりそうなとき、それが1番大事♪」
と大事MANブラザーズバンドの「それが大事」が歌われた。
輪が崩れ、それぞれ部室に向かったりグラウンド整備や練習の後片づけを始めた。
「先生、1人でトンボかけたいんやけど」
長友佑都の申し出に井上博はうなずいた。
トンボを引っ張っていると3年間のいろいろなシーンが頭をよぎった。

春休みから練習に参加するため、長友佑都は中学校の卒業式の後、すぐに福岡に出発することになった。
卒業式の後、長友佑都が校門にいく、井上博やサッカー部員が見送るのために待っていた。
「がんばれよ」
「お前もな」
1人1人とハイタッチしたり、握手をしたり、肩を叩き合ったり、小突かれたりしながら、花束や手紙、写真などをたくさん受け取った。
長友佑都は立ち止まることができなかった。
学校の外へと向かう足は止められなかった。
「佑都。
頑張ってくるんやで」
という声が背中に突き刺さったときが限界だった。
「こんなん、いらんわ!
お前らヘボいんじゃ!!」
花束を放り投げ、手紙や写真も破り捨て叫んだ。
「絶対プロになるんや!
俺はビッグになってやる!!
長友革命や!!!」
松山空港まで送りに来てくれた家族にも涙はみせなかった。
手荷物検査を通り機内へ入りベルトを締め、離陸のアナウンスが流れたとき、初めて頬に涙が伝った。
「本当に申し訳ないことをしたという気持ちもある。
だって感情に任せた行動とはいえせっかくの手紙しゃ写真を破り捨てたのだから・・・・
でもそれを後悔することはない。
逆に良かったと思っている。
見送ってくれたみんなの思いが込められた手紙や写真。
うれしかった。
愛情や友情がビンビン伝わってきた。
温かい空気に包まれ幸せだった。
でももう1人の自分が囁く。
甘えたらアカン。
活躍するまでここへは戻れない。
全力で努力しかないと、
福岡へはなにも持っていきたくなかった。
大切なものは心の刻み込まれているから必要なかった。
あんなことをしたのだから中途半端な気持ちでは生きられない。
愛媛を出たあの日から、僕は毎日、毎日、そう思い闘っている」
東福岡高校

東福岡高校は博多駅から徒歩15分くらいのところにあった。
全校生徒数2000人超のマンモス校で、サッカー、野球、ラグビーなど全国大会で活躍する部がいくつもあった。
校舎の隣に学生寮:志学館があり、長友佑都はそこに入った。
本業である学業でいくつかコースがあり、特進、特進英数など偏差値の高い大学を目指すコースもあったが、長友佑都は多くの生徒と同様、進学コースを選んだ。
高校を卒業してすぐにプロになれるかどうかわからないので、大学に進学することも視野に入れていた。
東福岡高校サッカー部は全学年合わせて150人。
福岡だけでなく九州、中国、関西、さまざまな地方から集まっていた。
毎年100人近く新部員が入るが、厳しい練習や競争についていけず退部する者も多かった。
初練習の日は雨だった。
「愛媛県西条北中学から来ました。
長友佑都です。
ミッドフィルダーです」
とまずは大きな声で挨拶。
そして
「今日は雨も降っているし走ることにするから」
とコーチに練習メニューを告げられ、3年間をサッカーに捧げようと誓っていた長友佑都は、先輩も後輩も新入部員も関係なくグングンスピードを上げて走り、トップでゴールした。

サッカー部の練習は、レギュラーのトップチームを筆頭に、レベル毎にグループ分けされ行われた。
長友佑都は下位グループに属し、練習はグラウンドの端っこの狭いエリアでのトレーニングが中心で、ボールを蹴る時間は少なく、上位チームのボール拾いをすることもあった。
先輩たちはみんなうまかった。
同級生もうまい選手が多かった。
長友佑都は、サッカー部の中でも身長が低く、体も細く、器用なテクニックもなかった。
「レギュラーになるための道のりは長いものに思えた。
でも目指すところがどんなに遠く離れていても這い上がっていくしかない」
走るときは誰にも負けないようにした。
先輩が練習の前後にストレッチをしているのをみる、すぐにマネをした。
全体練習後は自主練習を行った。
1年生がボールを思い切り蹴れるのは、このときしかなかったので夢中で蹴った。
2002年12月、トップチームが全国大会出場を決めた。
東福岡高校サッカー部には、全国大会には22名のレギュラーとは別にチームから数名の1年生がサポーターとして帯同する慣習があり、長友佑都はそのメンバーに選ばれ上京した。
はた目には雑用に選ばれただけだが、部員にしてみればサポーターに選ばれたということは努力や実力が認められた証拠であり栄誉なことだった。
またレギュラーと同じ新しいユニフォーム、ジャージ、練習着、バッグ、グラウンドコートが配られることもうれしかった。
試合はグラウンドではなくスタンド観戦だが、長友佑都は声の限り応援した。
東福岡高校は準々決勝で滝川第二高校に破れベスト8に終わった。
悔し涙を流す先輩をみて全国大会が長友佑都の目標となった。
筋トレ

このままではアカン。
このままみんなと同じようにやっても上にいるヤツらと勝負できひん。
体も小さいままや。
他の選手にはない武器を磨くほうがエエんとちゃうか?」
2年生になった長友佑都は思った。
100名を超えるサッカー部員の中で志波芳則監督に自分を認識させるためには長所を伸ばすべきだと。
すべてのことが平均的にできる選手より、足が速いとか、パスがうまいとか、誰にも負けないストロングポイントを持った選手が上にいけると。
「自分を客観的にみて、まずは武器をつくり、磨く。
その後、ウィークポイントを克服すればいい」
長友佑都にも誰にも負けない武器があった。
走力とスタミナ。
それを磨くにはフィジカルを鍛える必要があった。
それまでサッカー部で筋力トレーニングは、
「(筋トレを行うと分泌される成長ホルモンが骨端線を消すという説があり)身長が伸びなくなる」
「(筋肉が硬くなり関節可動域が狭くなり)体の動きが悪くなる」
と控えられていた。
しかし誰もやっていないということは逆に大きなチャンスだった。
長友佑都は、本を読んだり、トレーナーに聞いたりして筋力トレーニングの方法を学んだ。
まずは基本的のトレーニング種目、数種目を軽い重さを使って基本フォームの練習。
それができたら目的に合わせて、負荷(重さ)とボリューム(反復回数)を増やしていく。
大きく
「低負荷×高回数」
「高負荷×低回数」
に大別されるが、現場ではそれを融合させて行われることが多い。

長友佑都の筋力トレーニングは基本的に
「より多く、より重く」
というハードなものだった。
「キツいと感じれば感じるほどプラスになる」
と思い、重さも反復回数もドンドン増やして自分を追い込んでいった。
とにかく強くなりたかった。
ケガをしても
「弱いいうことやろ。
もっと鍛えろってことやろ。
今の量じゃ足りひんいうことや」
とさらにメニューを強化した。
1日の流れは、
5時起床。
朝食前にランニングなど筋トレ。
8時30分、登校。
ハードな練習を行う運動部の生徒が授業中に寝ることは珍しくなかったが、長友佑都は母親が必死に働いて払ってくれた授業料だと絶対に寝なかった。
その代わりに50分間の昼休みは数分で食べて爆睡した。
放課後、サッカー部の全体練習。
走る練習では、常に1番を死守し続けた。
その後、夜まで筋トレ。
こうして朝から深夜まで無我夢中で練習とトレーニングを続けた。
相変わらず走りでは誰にも負けない上に、ハードトレーニングで体を強さが増して1対1では負けなくなった。
「僕は豊かな才能を持ったサッカー選手じゃない。
だからこそ人の何倍も努力しなければ上へはいけない。
僕から努力をとったら何も残らない」
「最後まで諦めずやろうや」

3年生になると、長友佑都はサッカー部でトップチームに入り試合に先発することが増えた。
そして学校からは、志望校の提出を迫られた。
長友佑都は東京の明治大学に行きたかったが自分の成績でかんたんに入れるとは思えなかった。
サッカー部は、最後まで部活を続ける者、夏に引退し進学や就職の準備を進める者にわかれた。
長友佑都は最後までサッカーを続けたかった。
でもたとえ続けたからといっても、たとえもし全国大会に出られたからといっても、プロのなれる保証はない。
実際、高卒でプロ入りできる選手は少なかった。
受験に切り替えてより良い大学への進学、卒業、就職を目指すほうがよいかもしれなかったが、
「これからどんな人生が待っていようと今を頑張らなければ明日はない。
今を頑張ることができれば、将来、頑張れる自分になれる。
何事にもチャレンジできるん、そんな人間になりたくて今まで頑張ってきた。
だったらこれからも頑張り続けるしかない。
明治大学の指定校推薦枠に選ばれるように勉強を頑張る。
そして部活も手を抜かず続ける」
と長友佑都が選んだのは1番ハードな道だった。
夏で引退することを決めたサッカー部員たちのやる気は自然と小さくなっていったが
「最後まで諦めずやろうや」
と長友佑都は彼らにもサッカー部の一員として最後まで全力で走り切ることを求めた。
それはサッカーだけではなく彼らの人生に関わる重大事に思えたからである。
2005年1月、東福岡高校サッカー部はシード校として全国大会の2回戦から出場。
相手は、同大会4度優勝の市立船橋高校(千葉県)。
1万3500人の大観衆が見守る中、長友佑都は赤いユニフォームを着てピッチに立った。
試合は1対1で終わり、PK戦となった。
5人蹴っても決着がつかず、東福岡の6人目の蹴ったボールを相手ゴールキーパーがセーブし、長友佑都の高校サッカーは終わった。
「頑張れる自分を貫いた。
もう1度やれといわれても戻りたくはない。
それほど自分を追い込んだ3年間。
だからこそ価値のある3年間を過ごせた」
明治大学

2005年春、勉強も頑張って指定校推薦枠に滑り込んだ長友佑都は明治大学に進学。
プロになる夢も諦めずサッカー部に入った。
明治大学サッカー部は、1921年の創部以来、大学サッカーのタイトルをいくつも獲り、たくさんのOBが実業団をプロに在籍する名門だった。
1学年20名弱の少数精鋭制で、スポーツ推薦で入学すれば入部は決まるが、長友佑都を含むそれ以外の新入生は、1ヵ月ほど練習に参加した後、部に残れるか判断された。
無事、サッカー部へ入ることが認められた長友佑都は、5時に起床し、三鷹台の自宅を自転車で出て、途中、コンビニでパンやおにぎりを買い、6㎞先の世田谷区の八幡山の練習場で行われるサッカー部の朝練に向かった。
2時間ほどの練習後、今度は杉並区永福にある和泉キャンパスへ向かった。
長友佑都は、プロのサッカー選手になれなかった場合、卒業後の就職を考え政治経済学部を選んだ。
また中学時代の井上博先生のように中学教師になる道も考え、教職免許がとれるカリキュラムも選択していた。
そのため授業数は多く、サッカー部の練習レベルも高いため、入学当初は忙しい日々を送った
椎間板ヘルニア

しばらくすると椎間板ヘルニアを発症。
おそらく一生続く腰痛との長い戦いが始まった。
椎間板ヘルニアは、背骨(腰椎)の間にある椎間板がはみ出し神経を圧迫するために痛みが生じる症状。
はみ出した部分(ヘルニア)を切除する手術もあったが、長友佑都は、運動選手として背骨にメスを入れるのは回避し、休養、安静によって自然にヘルニアが元の場所に吸収させる自然治癒を選んだ。
その結果、サッカー部の練習は休みリハビリを続けた。
「焦ってはダメ」
と思いながらも、何週間もサッカーができない生活はつらかった。
少し痛みが軽減すれば練習へ復帰し、しばらくすると痛みを再発させる。
数ヵ月間、そんなことを何度も繰り返した。
サイドバック

4年生が引退し、新チームを立ち上げなければならない秋、神川明彦監督は練習中にみんなを集めた。
「長友、ちょっとみんなの前で1対1やってみせてくれ。
みんな長友をみるんだ。
コイツは1対1の練習では誰にも負けないぞ」
1年生の長友佑都は褒められうれしかった。
そして翌日の紅白戦でミッドフィルダーからサイドバックへコンバートされた。
小学時代はフォワード、その後、ミッドフィルダーを経験したが、サイドバックの経験はなかった。
初めてのポジションでプレーした紅白戦は散々だった。
「サイドバックなんてできるわけがない」
フォワードは、相手ゴール前、最前線のポジション、ミッドフィルダーは中盤前方サイドのポジションで、どちらも攻撃のポジションだった。
サイドバックは味方ミッドフィルダーの後ろの位置。
相手ミッドフィルダーに対するディフェンスのポジションだった。
長友佑都は守備に自信がなかったし、サイドバックとしてどうやってパスを出してクロスを上げ攻撃参加するかわからなかった。
なによりも攻撃のほうがカッコよかった。
悩んだ末、
「やっぱりサイドバックはやりたくない。
監督に攻撃のポジションがやりたいと直訴しよう」
と決断した。
監督への直訴は異例のこと。
しかも長友佑都は、先発ではなかったがすでにトップチームに入っていた。
それが2軍に落とされるかもしれない。
しかし覚悟を決めて監督に自分の気持ちを告げた。
神川明彦はそれを黙って聞いていた。
(気持ちは伝わった)
長友佑都は思ったが、次の日の練習で
「今日の紅白戦のメンバーを発表する。
サイドバックは長友・・」
と神川明彦監督は直訴などなかったかのようにサラリといった。
(もうやるしかない)
長友佑都は腹をくくってサイドバックのポジションまで歩いていった。
そこからは積極的に行動した。
先輩サイドバックのプレーをみて盗み、周りを活かし周りに活かされるサイドバックになるため、闘志あふれるプレーをみせ、たとえタッチを割りそうでも全速力でボールを追いかけ、チームメイトにコミュニケーションをとり続けた。
数ヵ月後、トップチームの練習試合で長友佑都は初めてトップチームで先発出場し、1対0で勝った。
走力。
スタミナ。
1対1の強さ。
そしてチームに尽くすことができるメンタリティ。
最初は戸惑い、手探り状態で始めたサイドバックだったが、すぐに自分の武器を活かせる場所であることが理解できた。
新しいポジション、仕事についたことで、今までと違った目でサッカーをみることができ、今までと違う面白さも発見できた。
「自分の気持ちや決意、信念を通すことは大切。
でも第3者の客観的な言葉に耳を貸すことも同じように重要。
周囲の人の声を聞き、その上で考えて決意する。
考え方が違うとかわかっていないと耳をふさぐのはもったいないことなんだと、この経験を通して思うようになった。
そしてできないと決めつけるのではなく、まずはやってみる。
挑戦することで新しい可能性が広がるということも学んだ」
椎間板ヘルニア再発 「もうええわ」

2005年の秋にサイドバックに転向し、2006年に入る頃にはトップチームのレギュラーに定着しつつあったが、その矢先、腰に鈍痛が走った。
椎間板ヘルニアの再発だった。
またリハビリ生活に戻らなくてはならなかった。
「なんでやねん」
「もうええわ」
「どうせもうサッカーはできひん」
自暴自棄になってパチンコ屋に通うようになった。
数ヵ月後、2年生のなる前の春休み、長友佑都はキャプテンの金大慶(キム・テギョン)に呼び出された。
「佑都、お前に頼んだこと、やってないだろ」
1年生はグラウンド整備や寮の掃除、ボール磨きなどさまざまな雑用があった。
リハビリ中の長友佑都も例外ではなかったが、それらの仕事をサボってパチンコ屋にいっていた。
「ヘルニアが再発して大変なのはわかる。
でも俺はやるべきことはやらない選手を黙って見逃すわけにはいかない」
「すみませんでした」
長友佑都は頭を下げて部屋を出ようとした。
「お前、ちゃんとわかっていないだろう」
金大慶は、口先だけで謝る後輩を怒鳴りながら追いかけ殴った。
(なんで怒られなアカンねん)
(殴ることないやろう)
最初は思ったが家に帰る頃には逃げている自分に気がついた。
「こんなことも乗り越えられへんようでは愛媛のみんなに合わす顔がない。
ヘルニアごときに負けてどないすんねん。
俺は誰にも負けんヤツやないか」
金大慶の1発は長友佑都の目を覚ませた。
たとえプレーができなくてもチームのためにやれることに全力を尽くそうと決めた。
試合の日は駐車場で車の整理係をした後、スタンドで後輩と一緒に応援した。
体幹トレーニング 「一生モンの体幹をつくらなアカン」

春になり2年生になっても、腰は治まるどころか、サッカーはもちろん、自転車や歩行、寝起きでも苦痛を感じるほど悪くなった。
このままではプロのサッカー選手どころか社会人として日常を暮らすことも難しいかもしれない。
医者やトレーナーから医療やマッサージなどの通常のサービスと共にいろいろな情報とアドバイスももらった。
椎間板ヘルニアは、運動選手だけでなく多くの人が悩まされる症状なので治療法やトレーニング法もたくさん存在した。
そして長友佑都は「体幹トレーニング」に出会った。
腹筋、背筋など胴体の筋肉、「体幹筋」の強化すれば、椎間板ヘルニアの再発を防ぐだけでなく、サッカーのパフォーマンスにもプラスだという。
「一生モンの体幹をつくらなアカン」
長友佑都は決めた。
これまでのトレーニングは
「より多く、より重く」
とひたすら過負荷(オーバーロード)させていくものだったが、今回は、ケガを悪化させては元も子もないのでやりすぎは厳禁。
ヘルニアの状態をみながら慎重に行っていった。
食事も、食べるタイミングを気をつけ、いろいろな食材をバランスよく食べるようにした。
1日の終わりは風呂の中で身体を温めながらストレッチ。
ストレッチしながら小さな違和感を見逃さないようにコンディションチェックを行う。
筋肉をはじめとするフィジカルだけではなくメンタルもチェックする。
1日を振り返り、自分自身を見つめ直し、目標と現在位置のギャップを計測する。
「ヨシッ!頑張るぞ」
勇気とチャレンジ精神に満ちた朝を迎えるために静かに自分と向き合う時間は欠かせなかった。
規則正しい生活。
睡眠の質を上げる努力。
小さな努力だったが
「続けないと効果は出ない」
と習慣化させた。
体幹を鍛えるという出口らしきものは見つかったものの、一朝一夕で強くなるわけではなかったし、痛みも減ったり強くなったりした。
懸命にトレーニングを続けても、もしかしたら同じところをグルグル回っているだけかもしれなかった。
弱気になることもあった。
しかしやめるわけにはいかなかった。
「俺はここで終わるような人間じゃないけん」
意識的に強気で前向きでポジティブな考え方、言葉、態度、行動を行った。
きっと苦しければ苦しいほど、人間は成長している。
きっとピンチはチャンス。
もしそうであれば問題は自分の勝利や可能性を信じられるかどうかだった。
大学日本代表

こうして2006年の初めに椎間板ヘルニアを再発させた長友佑都は、夏にピッチへ復帰。
復帰後3試合ほどで神川明彦監督が
「別格」
というほどのプレーをみせた。
秋の関東大学リーグ戦が始まるころには右サイドバックのスタメンが定着させていた。
10月、法政大学戦で、いつもならパスを出す場面だったが、肉体も気持ちも調子がよかったので
(イケる)
とドリブルを選択。
しかし相手にボールを奪われ、そのまま得点されてしまった。
(やってもうた)
ミスを取り戻そうと奮起したが、プレーは空回りしベンチに下げられた。
これが大学時代、唯一の途中交代となった。
判断ミス、個人のプレーミス、連携ミス・・・目まぐるしく攻守が入れかわり続けるサッカーではミスがつきものだった。
そしてディフェンダーのミスは失点につながる可能性が高かった。
90分間ノーミスでプレーするのは不可能に近い。
積極的なプレーとリスクは比例し、慎重にプレーしてもミスは起こるし、慎重なプレーは消極性を生んでしまう。
「重要なのは何が起きても平常心でいること。
ミスをしても受け入れ、気持ちを切り替え、やるべきことを精一杯やる」
(長友佑都)
2006年冬、長友佑都は、2007年夏にタイのバンコクで行われるユニバーシアード大会に出場する大学日本代表に選抜された。
ユニバーシアードは2年に1度行われる世界大会で「大学生のオリンピック」といわれる。
出場すれば大学限定とはいえ日の丸を背負う日本代表となる。
「マジでこんなチームでプレーしてもエエんか?」
本田拓也(法政)、鈴木修人(早稲田)、兵藤慎剛(早稲田)、鎌田次郎(流通経済)など有名選手と一緒になった代表候補合宿で無名の長友佑都は興奮し
「絶対にメンバーに残ってユニバーシアードに出てやる」
と燃えた。
2007年1月、神川明彦監督は、後輩であり、U-22日本代表コーチだった江尻篤彦に
「どうしてもみて欲しい選手がいるので、だまされたと思って1度プレーをみに来て欲しい」
と連絡。
江尻篤彦は総理大臣杯準々決勝を視察しにいった。
これが長友佑都のU-22代表入りのきっかけとなった。
「江尻がコーチでなければ電話はできなかった。
直接話せる人がそういう立場にいることはなかなかないし、運命だった」
(神川明彦)

2007年3月、大学日本代表はフランスに遠征。
その中でフランスの強豪プロクラブ:マルセイユと練習試合があった。
相手はBチームだったが、身体能力の高いアフリカ系選手もいて、ガンガンと強く当たってきた。
しかし長友佑都のフィジカルはそれに耐え、それを跳ね返す場面もあった。
1対1で負けなかった上に、得点まで決めた。
こうして初の国際試合で大きく自信をつけることになった。
帰国後、明治大学とFC東京の練習試合があった。
FC東京の左の攻撃的ミッドフィルダーは20歳のブラジル人:リチェーリ・カンタニェーデ・デ・オリベイラ。
一瞬のダッシュ力があった。
右サイドバックの長友佑都はリチェーリをマーク。
ガツガツと体をぶつけてやり合った。
あまりにしつこいマークにリチェーリはイライラし始めた。
(よし!
平常心を失えば絶対にチャンスがくる)
長友佑都は突き飛ばされても
「なんやねん」
とやり返した。
こうしてこのサイドはまるでケンカのような攻防となった。
「明日から練習に参加してみないか?」
試合後、FC東京のスカウトに声をかけられた。
大学3年生にしてプロのチャンスが訪れた。
長友佑都がFC東京の練習に参加したのは2、3日だった。
プロはアップをいれて2時間と練習時間が短く、ボールを蹴るのは1時間くらいだったが、長友佑都は最初のジョギングから全力で取り組んだ。
そしてFC東京のJFA・Jリーグ特別指定選手に認定された。
これにより明治大学サッカー部に籍を置きながら、FC東京でも試合出場が可能になった。
そしてプロ入りに向けて大きな一歩を踏み出した。
オリンピック日本代表

2007年6月、翌年の北京オリンピックのアジア2次予選の突破を決めたU-22日本代表の反町泰治監督は、マレーシア戦は、主力を温存し新しい選手を試すことにした。
そしてベンチに入る18名の選考合宿に22名を招集したが、長友佑都も含む7名が初招集だった。
2日間の合宿初日は、流通経済大学との練習試合。
長友佑都は前半はミッドフィルダー、後半はサイドバックで出場。
そしてマレーシア戦では右サイドバックとして先発。
前半にダイビングヘッドで先制ゴール。
後半もペナルティエリア内でファウルを受けPKによる3点目呼び込んだ。
結果は残せたが、まだ上にはU-22日本代表の主力選手がいたし、オリンピックまでの1年間でやるべきことはたくさんあった。
しかし目標は1つ。
「オリンピックで勝つ!」
2007年7月、ナビスコカップ準々決勝で、FC東京の選手として途中出場ながらプロデビュー。
明治大学の神川明彦監督にサイドバックに転向させられてから、椎間板ヘルニアをとの闘いを経て、ユニバーシアード、オリンピック、Jリーグとステージをレベルアップさせてきた。
しかし長友佑都の日常は変わらず、目標と課題を明確化し、それに向けて練習、体幹トレーニング、食事、ストレッチ、睡眠を繰り返した。
「今日1日を妥協せずに過ごすこと。
「自分のスタンスにブレがないか確かめながら階段を昇る」
2007年8月、バンコクでユニバーシアード大会が行われた。
4大会連続優勝が期待された日本代表は準々決勝で敗れ5位。
長友佑都は、椎間板ヘルニアが再発したため最後の試合の15分だけの出場に終わった。
帰国後、2ヵ月間リハビリを行った。
その間に北京オリンピックアジア最終予選が始まった。
大学の同級生たちは就職活動を行っていた。
練習もできない長友佑都の心は焦った。
「体脂肪率5%まで鍛え上げたのに、どうして腰が痛み出すんや。
この腰ではプロは無理ちゃうか」
井上博のような教師になることも考え、大学1年生から教職試験に必要な単位を取得していた。
サッカーとの両立は大変だったがやり通した。
井上博が勤めている中学校で教育実習を行う予定だったが、U-22代表候補に選ばれたためいけなかった。
「就活始めたほうがええんとちゃうか」
そう考えてしまう自分にガッカリした。
FC東京

2007年10月末、リハビリを終えて復帰し、11月にはU-22代表に選ばれたが試合出場はなかった。
「プロで戦うメンタルができていない。
もっと鍛えなくちゃいけない。
身体も技術も、精神面も」」
そんなことを考えているときにFC東京からプロ契約のオファーを受けた。
明治大学卒業後ではなく、2008年から契約したいという。
特別指定選手でなく正式にプロとなれば明治大学サッカー部は辞めなければいけない。
もちろんプロにはいきたかったが、最後まで一緒に戦わず、途中で仲間を捨てて新チームへいくことには罪悪感があったが
「長友、何を悩んでいるんだ。
お前はFC東京にいった方がいい。
日本サッカー界を考えたら当然のことだ」
「俺たちだって嬉しい。
佑都が決めたことなら俺たちは応援する」
神川明彦監督もチームメイトも背中を押してくれた。
神川明彦監督は、長友佑都のプロ入りについて、以前から密かにFC東京と話し合っていた。
「FC東京の練習に参加させたときから、北京オリンピックのこともあるし、4年生のときにプロ契約が結べればいいと思っていました。
長友は勉強も頑張っていたから3年生の間にほとんどの単位が取れていたことも有利に働きました」
こうして長友佑都は、3年生でサッカー部は退部し、大学には籍を残したままプロとなった。
後年、明治大学は卒業し、母親の苦労に応えた。
卒論は「イギリス文化研究」
教育職員免許状取得のために必要なのは教育実習を残すのみだった。
2008年1月、長友佑都はFC東京でプロ1年目のシーズンをスタートさせた。
FC東京の監督はこのシーズンから城福浩に変わった。
「何事もスタートダッシュ。
何事も最初。
何事も第1印象」
長友佑都は新監督へのアピールも含めて、最初の練習から100%の力を出した。
椎間板に対して体幹トレーニングを行っていたが、
「体幹を支えている尻を強くすればもっと椎間板が安定るんじゃないか」
とFC東京の土斐崎浩一トレーナーにアドバイスを受けて臀部の強化トレーニングも行った。
FC東京に加入後間もなく、8月の北京オリンピックに向けて10日間のオリンピック日本代表のアメリカ合宿に参加。
北京オリンピック日本代表は、24歳以上の選手(オーバーエイジ)3名を含む18名。
この18名に入るべく、長友佑都は、FC東京同様、1対1の強さ、スピード、スタミナという自分の武器で勝負した。
2008年3月8日、FC東京は、ホームの味の素スタジアムで、Jリーグ開幕戦を迎えた。
長友佑都は、前年までレギュラーだった金沢浄を押しのけ先発出場。
3月15日、3月20日も先発出場しポジションを譲らなかった。
国立競技場で行われたオリンピック日本代表 vs アンゴラ代表戦でも先発。
先制点をアシスト。
岡田武史監督は
「前へ上がっていく選手はいるけど戻ってくることもできる長友は、今までいないタイプの選手。
こういう選手がサイドにいたら楽になる」
と評価した。
内田篤人

4月17日、オリンピック日本代表合宿に招聘され、3つしかないオーバーエイジ枠での代表入りを決めた。
代表の中で同じサイドバックの内田篤人がいた。
長友佑都は1986年生まれ。
内田篤人は1988年生まれ。
2歳差の2人は好対照だった。
長友佑都は、驚異的な身体能力と気持ちの強さでガツガツ守ってガンガン仕掛け我が道を切り開いていく。
内田篤人は、スピードあふれるドリブルと高い技術に加え、ゲームコントロールに長けていた。
「篤人の能力にどれだけ羨んだか。
代表のときも俺が何も考えず好き放題やってるとき、篤人はいつもバランスをとってくれてた。
長友さんの好きにやっていいッスよって。
後輩に気を遣わせてたんやと気づくダメ先輩」
内田篤人は、県大会1回戦負けレベルの中学校に入り、自身が3年生のときは地区予選で敗退し県大会にも出れなかった。
にも関わらず、高校受験制度の変更によってサッカーの強豪であり進学校でもある清水東高校にスポーツ推薦で入学できた。
以後、U-16日本代表早生まれセレクションのスタート、U-16日本代表のサイドバックの選手不足、新しく鹿島アントラーズに就任したパウロ・アウトゥリ監督の新人起用、名良橋晃のケガなど、実力に加え幸運にも恵まれた。
それに比べ長友佑都は、小学校のときに愛媛FCジュニアコースのセレクションに不合格。
中学では不良のマネ事をして、2年生までサッカーに打ち込まなかった。
東福岡高校もスポーツ推薦ではなく一般入試で入学し、朝晩、自主トレに明け暮れレギュラーとなった。
東福岡高校という強豪校のスタメンでありながら、小柄な体格もあって大学のスポーツ推薦にはひっかからず、勉強でも努力して明治大学に入学。
ジュニアコースには不合格。
高校、大学はスポーツ推薦ではなく勉強で合格していた。
内田篤人は、176㎝、62㎏。
アマゾンのカレンダー売り上げランキングでAKB48に次いで2位になったこともある痩身のイケメン。
長友佑都は、171㎝、68㎏、体脂肪率5%の筋肉の塊。
内田篤人は、寡黙だが素直で前向きな姿勢が人の目を引き、選ばれる立場だった。
長友佑都は、華麗なテクニックがない上に小柄なので注目を浴びることはなかったので、ひたすら自分のストロングポイントを磨きアピールした。
内田篤人は、選ばれる立場だったのでアピールする必要はなかった。
選ばれたポジションでいかに活躍するか、チームに貢献するかを考え実行していた。
「どちらかというと自分を知ってもらうことを重視していた。
内田篤人はこういうスタイルでこういうプレーができるよッて。
それは普段の生活でもそう。
オレはいいヤツだから、静かでいいヤツだから話しかけないでって。
僕は(長友)佑都さんみたいにガンガン輪に入っていくタイプじゃないからね。
なるべく目立たないようにしていた。
チームメイトの性格もよくみていた。
コイツは文句いうな。
コイツは人のせいにするなって」
そういう内田篤人は、監督やチームメイトにアピールするのではなく一歩引いたところからチーム全体を客観し、チームのために何ができるか、貢献できるかを考え実直に実行していった。
北京オリンピックで長友佑都と内田篤人は、左右のサイドバックとしてコンビを組んだ。
日本代表

2008年5月18日、長友佑都は、日本代表(年齢制限なしのフル代表)合宿に初招集された。
イビチャ・オシムが脳梗塞で倒れ、岡田武史が後を引き継ぎ監督となっていた。
日本代表として集まる選手は、練習やトレーニングだけでなく食事や日常の態度など、すべての面で意識が高く、その放つオーラに圧倒された。
「ずっとこのグループの一員でいたい」
自然と欲が出た。
合宿はわずか数日だったが貴重な時間となった。
「ワールドカップ」という、これまでは遠すぎてボンヤリしていた目標も少しだけ鮮明になった
その後、長友佑都はオリンピック日本代表としてフランス遠征に参加する予定だったがキャンセルし、5月24日のキリンカップ、コートジボワール戦に先発し、日本代表デビュー。
試合前、日本代表の10番、中村俊輔に
「1度ボランチに当ててから大きく俺のほうに蹴れ。
顔を上げて遠くをみるようにすればいい」
とアドバイスされた。
6月、日本代表は、ワールドカップ南アフリカ大会アジア3次予選で、オマーン、タイ、バーレーンと同組になり、ホーム&アウェイ方式で計6試合行い、4勝1敗1分でグループ1位で通過した。
日産スタジアムでのオマーン戦で長友佑都は先発し、負傷交代したが、チームは3対0で快勝。
5日後、敵地で行われた試合は、気温36度、湿度47%の中で行われ、前半11分にオマーンに先制された。
しかし後半8分、遠藤保仁がフリーキックを決めて、1対1に終わった。
長友佑都はオマーン戦の負傷で、日本代表のタイ遠征で試合には出場できなかった。
7月、Jリーグ、鹿島アントラーズ戦で復帰。
なんとか北京オリンピック代表発表には間に合い、オリンピック日本代表として北京行きのチケットを手に入れた。
北京オリンピック

2008年8月7日、北京オリンピックで日本は、アメリカ、ナイジェリア、オランダが同じグループリーグに入った。
そして総当たり戦を行い上位2チームが決勝トーナメントに進出できる。
予選リーグ第1戦は、アメリカ戦だった。
ナイジェリア、オランダに比べてアメリカは格下だった。
実際、前半は日本ペースで進んでいたが、後半開始直後、日本の左サイドバック:長友佑都が、アメリカの右サイドバック:マーベル・ウィンに抜かれ、そこからゴールを決められた。
マーベル・ウィンは、大リーガーの父を持ち、すでにアメリカのフル代表でもプレーをしている要注意選手だった。
その後、守備を固めたアメリカに日本はゴールを奪えないまま試合は終わった
予選リーグ第2戦:ナイジェリア戦で、長友佑都は先発から外された。
そして日本は1対2で敗退。
予選リーグ最終戦:オランダ戦で、長友佑都は先発したが、またも自分のサイドを破られてしまいPKを与え、日本は0対1で負けた。
こうして北京オリンピックで日本は予選リーグ敗退で終わった。
北京オリンピックの最終戦から7日後、2008年8月20日、9月にワールドカップ最終予選を控える日本代表がウルグアイと親善試合を行った。
しかしピッチは敵に支配され、なにもできずに1対3で完敗した。
長友佑都は後半から出場。
オリンピックの名誉挽回のチャンスだったがウルグアイのハイプレッシャーに
「またミスをしたらどうしよう」
と弱気に支配されてしまった。
ブレた心

Jリーグデビュー、オリンピック日本代表、日本代表、長友佑都はプロ1年目でステージをどんどん高くなった。
そして北京オリンピックや日本代表戦の不出来について、
「気持ちが消極的になったからプレーも消極的となった」
と分析。
初めての大舞台で注目度も高く「負けるか、勝つしかない」とピッチに立ったが「ミスはしたくない」という思いもあった。
「ミスを恐れてのプレーは何も得られないばかりか、そんなプレーをするくらいならピッチに立つ意味すらない。
たとえミスがあってもいいから躍動するプレー、自信を持って前に進むことが重要。
積極的なプレー、チャレンジした結果のミスなら学びもある」
また準備不足もあった。
プロはアマチュアに比べ1つ1つのプレーの責任が大きかった。
そして真剣勝負の高い緊張感から解放されていないまま次の試合はやってきた。
ピッチに立てば闘志が、練習不足、睡眠不足、休養不足などの不安をかき消したが準備不足でいいプレーができるわけがなかった。
「また試合や。
セーブしたほうがええかな」
そんな守りの姿勢で練習やトレーニングを続けていくと気持ちが弱くなってしまい、ミスを恐れ、批判を恐れ、メンタルはブレた。
苦しい日々だったが、
「顔を上げなければ」
「前を、上を向かなければ終わってしまう」
と無理やりポジティブな自分を演じるしかなかった。

「僕のメンタルはブレまくっていた」
長友佑都は素直に認めた。
そして
「どうすれば強い気持ちが手にできるのか?」
と考えた。
出した答えはシンプル。
「練習するしかない」
もっともっと強くなるためには練習しか考えられなかった。
自信満々、積極的な気持ちで試合に臨むためには日々の練習しかない、自信を持てる努力、準備をすると
「あと1本」
「あと1回」
「あと1分」
と練習で自分を追い込めば気持ちは自然と前を向いた。
またオリンピックや日本代表で
「Jリーグでやれても世界相手だとまだまだアカン」
と痛感した長友佑都は、全体練習後や全体練習がない午後に土斐崎浩一トレーナーと自主トレーニングを始めた。
この自主トレは長友佑都の気持ちを原点に戻してくれた。
ただただ走った中学時代。
寝る間も惜しんで筋トレに励んだ高校時代。
「もっともっと」
と鍛えることしか知らない。
それが長友佑都だった。
「努力は裏切らない。
努力すれば成長できる。
成長に限界はない。
そのことを僕は成功体験として過去に学んだ。
だからこそ真っすぐ、迷いなく努力できる。
それも僕のストロングポイントなのかもしれない」
次第に心のブレはなくなった。
2008年11月、ワールドカップアジア最終予選、カタール戦で先発復帰。
また前年、Jリーグで12位だったFC東京は6位になり、長友佑都はJリーグ優秀選手賞と優秀新人賞を獲得した。