長友佑都  一心不乱初志貫徹切磋琢磨   前進しか知らぬ熱きサムライ

長友佑都 一心不乱初志貫徹切磋琢磨 前進しか知らぬ熱きサムライ

抜群のスピード、運動量、1対1で絶対に負けない強さを持ち、「僕から努力をとったら何も残らない 」と語る長友佑都は、元をたどればボールを持てば誰にも渡さずドリブルで攻め続け、とられると守備に戻らない四国のガキ大将。それがいつのまにか攻めに守りに1番走ってチームに貢献する世界レベルのサイドバックになった。


ガキ大将で王様

長友佑都は、1986年9月12日に愛媛県東予市(現:西条市)三芳で新聞配達店を営む裕福な家に生まれた。
体は小さかったが,運動では誰にも負けず
「俺に逆らったら許さんぞ」
というようなガキ大将だった。
幼稚園に入ると地元のアイドル的な女子がいて長友佑都も好きになった。
なんとか振り向かせたい。
「長友君、かっこええわ」
といわせたい。
長友佑都は自分のすごさを見せつけるためにサッカーを始めた。
小学生になった頃、Jリーグが始まり、ゴールを決めてカズダンスを踊る三浦知良に憧れた。
「めっちゃカッコええやん」
長友佑都はボールを持ったら基本的に離さない。
ドリブルで相手ゴールに向かい、相手ディフェンダーも勝負を仕掛けた。
ある試合では自陣からドリブルをはじめ、次々と相手をかわし、そのままゴールを決めた。
そして最高の気分に浸った。
このように完全に王様状態だったが、小学校3年生のときに1年生の弟:宏次朗がサッカースクールに入ってくると一転した。
兄はドリブル一辺倒だったが、宏次朗はボールコントロールやパスセンスも持っていた。
「長友兄弟は佑都もうまいけど弟の方が才能がある」
指導者の評価を聞いてショックを受けた。
その後、兄はフォワード、弟は中盤として一緒に試合に出たが
「宏次朗!なんでパス出さへんねん」
と試合中に怒った兄がボールではなく逃げる弟を追い回すこともあった。
弟の才能に怒り狂う長友佑都は、すでに王様ではなく(北斗の拳の)ジャギだった。

長友佑都の母親の著作

「これから母さんと麻歩と佑都と宏次朗の4人で生きていくことになったから」
地元の高校の先輩後輩だった両親が離婚。
母親は子供と共に実家がある西条市に引っ越した。
新しい家は、母親の実家の近所で、前の家より古くて小さかった。
母親は、結婚式や葬式の司会の仕事をした。
(そして3人の子供を大学へ進学させた)
以前も新聞配達店を手伝っていたが、比べ物にら七位ほど忙しくなった。
朝早く家を出て遅く帰宅するので、子供たちの夜ゴハンは、コンビニ弁当かおじいちゃんの家だった。
「こんなんイヤや。
学校にやめてっていうて」
転向した小学校で生徒名簿をみてみると、ほかの子は保護者の欄が父親の名前だったがが、長友佑都だけが母親の名前だった。
長友佑都は、それを恥ずかしがり、母親は学校に頼んで父親の名前に変えてもらった。
長友佑都は母子家庭であることを知られるのを嫌った。
恥ずかしさもあったが、何よりも
「お母さんだけで大変やねえ」
「お母さん、仕事でいないのに偉いね」
と同級生の親に同情されるのが嫌だった。
「なんでこんなボロい家に住まなアカンねん」
長友佑都は父親に対して憎しみのような嫌悪感を持った。

転校後もサッカーは続けた。
ボールを追っているときは嫌なことを忘れることができた。
小学生5年生のとき、テレビでワールドカップフランス大会をみた。
日本代表は初戦でアルゼンチンと対戦。
一瞬のスキをついて決めたガルリエル・バティストゥータのゴールが衝撃的だった。
「世界には凄い選手がおるんや!」
愛媛県でサッカーの頂点は、「愛媛FC(フットボールクラブ)」だった。
社会人チームだけでなく、高校生、中学生のチームを持つサッカークラブで、愛媛県の優秀な小学生はみんな愛媛FCジュニアユース(中学生以下)に集まっていた。
長友佑都も愛媛FC憧れていた。
「愛媛FCに行かへんかったら先はない」
とさえ思っていた。
自信はあったが、もし落ちると恥ずかしいので、神拝サッカースクールの監督と母親以外には内緒で、セレクションテストを受けるために特急列車で1時間かけて愛媛FCのある松山市にいった。
「じゃあ長友君、一緒にやってみて」
ジュニアユースチームの練習に参加することがテストだったが、それほど差を感じることもなく練習は終わった。
(やれるやん)
(受かった)
合格を確信して西条市に戻り
「愛媛FCに行くんや」
と周囲に早くいいたくてウズウズ、ワクワクしながら過ごしていたが、松山市から届いたハガキには
「不合格」
と記してあった。
悲しすぎて涙も出なかった。

リアルスクールウォーズ 西条北中学サッカー部

西条北中学でもサッカー部に入った。
しかしそこは不良のたまり場だった。
ボンタン、長ラン、短ランを着た先輩がそろっていた。
部室にはエロ本が散乱し、放課後、練習する部員はわずかで、ほとんどは繁華街に消えていった。
それをみた長友佑都は12歳にして
「俺のサッカー人生は終わった」
と思った。
そして自分も授業が終わるとグラウンドを抜け、ゲームセンターや友達の家にいって遊んだ。
自宅もたまり場となった。
授業中も最前列に座る長友佑都は、教科書もノートも出さず、なにかいわれれば教師をにらんだ。
「それがかっこいいと思っていた僕は、今思えば弱い人間だった」
長友佑都はそういうが、不良ぶってもあまり悪いことはできなかった。
1番悪いことでピンポンダッシュ。
タバコも酒もできなかった。
サッカー部顧問:井上博は、長友佑都の入学と同時にも西条中学に赴任し、その再建に乗り出していた。
「1年生は俺と一緒に北中にきた。
卒業するまでの3年間でお前らがサッカーやれるようなんとかするけえ、先輩のことは気にせんと一緒にサッカーやろうや」
長友佑都はそういわれても
(どうせ口だけやろ)
とサボった。
「佑都、ちょっと話しせえへん?」
「こないだまでサッカー大好きで毎日サッカーやってたんやろ。
どうよ、いま物足りひんちゃうん?
もっとサッカーやりたいやろ」
「小さい頃、プロなりたいいうとったやろ。
ここで諦めたら終わりやで」
井上博先生は積極的に長友佑都にコミュニケーションをとった。
「小学校から佑都の代は強かったしうまかった。
中学のサッカー部がこんな状態やけえ、サッカーへの情熱が薄れてしもてもうた。
お前らサッカーやりたいのに・・・・サッカー部がこんな状態で・・・・」
ときには涙を流しながら話した。
井上博は生徒に本気でぶつかっていくタイプの熱血教師だった。

ドラマ:スクールウォーズのモデルとなった山口良治も、偏差値25、喫煙、飲酒、シンナー、バイクなんでもありの京都市立伏見工業高校に体育教師として赴任。
学校の廊下をバイク走ったり、教師へ暴力をふるう生徒もいた。
ある教師は怯え、ある教師はみてみぬフリをして、不良たちはやり場のない不満や憎悪を募らせ、ただ荒れていく一方だった。
山口良治が廊下を歩いていると教室から声がした。
「ポンッ」
そして笑い声が起きた。
みると授業中に生徒がマージャンをしていた。
山口良治はガラスが割れそうな勢いでドアを開けた。
「お前らなにをやっとるんじゃ、立て」
4人の生徒が不貞腐れながら立った。
「サングラスもとらんかい」
伸びてきた山口良治の手を生徒は払った。
平手打ちが飛び、サングラスをかけた生徒は倒れた。
逃げる3人をまとめて窓際に押しつぶし1人1人平手を食らわせた。
マージャンをみていた生徒6人も
「お前らも同罪じゃ」
と蹴り飛ばした。
廊下で前からバイクが走ってきたときは正直、怖かったが
(生徒を信じよう、信じよう)
と念じ続けた。
するとバイクは横を通り過ぎた。
数日後、バイクを走らせた生徒が訪ねてきた。
「ゴメンな先生。
先生だけや、俺に注意してくれたのは。
誰も俺に注意なんてしてくれへんで」
山口良治はわかったような気がした。
(コイツらは本当は寂しかったんや)
しかし以後も不良たちは山口良治にそれまで経験したことのないような屈辱と不快感を与えた。
(オレはラグビー日本代表やぞ)
(教師なんてなるんやなかった)
その度に後悔と自己嫌悪がこみ上げてきたが、最後は負けじ根性が出てきた。
(問題のない学校に教師などいらない。
教え屋がいればいいのだ。
こういう学校こそ教師が必要だ。
オレは体育教師だ。
体育教師が生徒にぶつけられるのは情熱だ。
闘志だ。
力だ。
そして信頼だ)
苦境になればなるほど、悪い状況になればなるほどより燃えてくる男だった。
そして数年後、
「信は力なり」
を旗印に京都市立伏見工業高校ラグビー部は全国大会優勝を果たした。

井上博は体育教師ではなかったが、サッカー部の生徒全員に本気でぶつかっていった。
どれだけ生徒に煙たがれ悪口をいわれても、同僚の教師に白い目でみられても、ブレずに貫いた。
冬、長友佑都はゲームセンターで遊んでいるところを井上博に見つかった。
「お前ら何しとるんじゃ」
「・・・・・・・」
「立てや」
長友佑都と友人は立ち上がった。
問答無用でビンタが飛んだ。
友人は膝から崩れ落ち、長友佑都は頬を手でおさえ下を向いた。
「お前がこんなことやってるんをみてるお母さんの気持ち考えたことあるんか。
そのゲームやってるお金は誰のおかげぞ」
この頬の傷みが長友佑都の目を覚まさせた。
「俺はお前とサッカーがやりたいんや」
といわれ、涙を流しながら黙ってうなづいた。
そしてサッカーに情熱を注ぐ日々が始まった。
「大丈夫や。
信じられる大人もおる。
あんなヤバいくらい熱い人はおらん
僕もいつか先生みたいな大人になりたい」

心のノート

長友佑都が中学2年生になったとき、井上博はサッカー部員にノートを配った。
「これはな、心のノートやけん。
何を書いてもいいけん。
とにかく毎日書いて持ってこい」
授業中ノートもつけていない長友佑都にとっては、正直、面倒くさかった。
「今日は元気で練習できました」
「ゴールを決められなくて残念だ」
当たり障りのないことを書いて提出した。
井上博はそっけない内容にも必ず熱いメッセージを書き込んで返した。
毎日書いていくうちに長友佑都はある発見をした。
(文字で書くと素直になれる)
真っ白のノートを前に1日を振り返る。
すると自覚していなかった自分の感情に気づくことができた。
また「書く」という作業も独特の作用があった。
書き始める前に気持ちを整理しなければならないし、ノートに書いた自分の気持ちを文字として読むことになるので、客観的に自分を見つめることができた。
まるで自分自身と会話するような感じだった。
現在ではパソコンや携帯電話で文字を打ち込むが、ペンで文字を書くことは、たとえ同じ文章を記してもやはり別ものである。
年賀状も手書きとプリントではまったく違う。
スポーツ選手のトレーニングやダイエットでも、目標や課題、決意を手で書くことで自分の意志を強化できるという。
長友佑都はノートを書くことが面白くなっていった。
家に戻り夕食を済ませるとノートを開く。
井上博の言葉を読み、そして自分の気持ちを書いた。
1日で何ページも書くこともあった。
「両親のやつには負けたくない」
「片親だからと同情されたくない」
いつもそんなことばかり考えていた。
それはあるときは力になったが、いつも必要以上に周囲を意識した気張った状態であり、大きなストレスでもあった。
しかしノートの向かうと素直になれた。
「もっとドリブルがうまくなりたい」
と書けば、なるためには何をしなくちゃいけないか楽しく考えられ、自然と目標が生まれてきた。
「チームが1つになることはボールを蹴ることより大切なこと」
「世界一熱い部活」
ノートには他人にみせると恥ずかしいが大切な言葉も並んだ。
中学時代に書いたこの「心のノート」が、現在の逆境にあっても決して信念がブレない長友佑都をつくったといっても過言ではない。

「強くなろうや」

秋になると3年生が引退し、長友佑都たちがサッカー部の中心となった。
井上博は
・自分づくり
・仲間づくり
・感謝の心
をサッカー部の3本柱としたが、長友佑都のサッカーは相変わらず王様スタイルだった。
ボールを持ったら離さず、どこまでもドリブルで勝負。
ボールを奪われても守備に戻らなかった。
井上博は
「仲間のために走れ」
と注意したが、チームメイトは
「俺らが守備を頑張るからお前は点を取ってくれ」
といってくれた。
試合で負けると井上博は問うた。
「なんで負けたと思う?
どこがアカンかったと思う?」
部員たちはそれぞれ個人の課題、チームの課題をいい合った。
「よっしゃ、わかった。
足りひん思うところは練習したらエエだけや。
練習すれば伸びるんや。
あとはお前らが決めろ」
そして部員は休み時間に集まってメニューキャプテンを中心に次の1週間の練習プランを立てた。
自分で足りないところを見つけ、それを補うためにどんな練習をすればいいのか考えて練習するというやり方は、やる気を大きくした。
練習前からやることがわかっているので素早く練習に入れ、効果と結果も出た。
西条北中学サッカー部はドンドン強くなり
「全国大会出場」
が目標となった。
そのためには西条市で1位になり、愛媛県で1位にならなくてはならない。
西条北中学サッカー部は意気込みであふれていた。

3年生になる前の春休み、大阪に遠征し、ガンバ大阪ジュニアユースと練習試合を行った。
やはりプロの下部組織は強く西条北中は負けてしまった。
しかも相手はレギュラーチームではなく、しかもしかも本気で戦っていなかった。
「完全にナメられた。
あいつらチャラチャラ遊び半分やった。
遊ばれただけや」
毎日毎日一生懸命サッカーをやってきた。
手を抜いたことはなかった。
なのに本気でないサブチームに負けた。
長友佑都は思い知った。
上には上がいることを。
自分が王様でいられる場所がいかに狭くて小さいかを。
その後、西条北中サッカー部は、西条市予選の決勝で負けた。
全国大会出場どころか県大会にも出られなかった。
「もっともっと強くなろうや」
自然と練習開始時間が早まり、終了時間は遅くなり、練習量は増えた。
1本のパス、1本のシュートに気持ちを込めて蹴り、気を抜いたプレーをすれば、必ずチームメイトから怒鳴り声を浴びた。
「お前、ホンマに気合い入れてやってんのか!」
「なんであんな軽いプレーしとんじゃ!!」
「そんなこというお前かてヘボいミスしとったやないか」!
練習試合のハーフタイムではベンチで殴り合い寸前の叱咤し合いが行われた。
7月、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会の予選が開始。
全国の中学校のサッカー部とJリーグ、JFLの下部組織、クラブチームが参加するが、本戦には32チーム、四国からは2チームだけしか進めない。
長友佑都たちにとって最後の大会だったが西条北中サッカー部は県予選で敗退した。
「県3位という成績を恥じることはない。
お前らは必死になって練習に取り組んだ。
努力したことに価値があるんや」
井上博はそういって笑った。

駅伝

「駅伝やるで」
最後の試合が終わった直後、井上博はサッカー部の3年生で駅伝チームをつくるといい出した。
「なに無茶なこというてるねん」
長友佑都は反対した。
ひたすらドリブルで攻め、ボールを奪わると守備に戻らなかったのは、王様気質だけでなくスタミナ的な問題もあった。
戻りたくても体力的に戻れなかったのだ。
サッカー部で長距離を走るときも密かにサボった。
校外を3㎞走るときは、勢いよく校門を出て、サッと横道に入って隠れた。
顔や頭を水で濡らし、チームメイトが戻ってくると集団に加わった。
2年生時、学校のマラソン大会の成績は100人中50番台だった。
「佑都、お前な、上を目指したいんやろ。
だったら走れるようにならなアカン。
スタミナつけんかったら上にはいかれへんぞ」
井上博にいわれ、プロになるため強豪高校に入るつもりだった長友佑都は腹をくくった。
(やるしかないやろ)
次の日からハードなトレーニングが開始された。
400m×10本
3㎞×2本
・・・
1日に15㎞以上走った。
あまりにキツい練習に疲労骨折を起こす者もいた。
「そんなに走ったら危険」
という教師もいたが、井上博も部員もそんな声には耳を貸さなかった。
「やると決めたらやるしかない」
とにかく熱い集団だった。
長友佑都も燃えた。
チーム練習のほかに自主トレを行い、走って走って走りまくった。
「上に行くには走れるようになるしかない」
スイッチが入ると止まらなかった。
目の前に目標を置いて、それに向かって追い込んでいく。
その作業、努力が嫌いじゃないということ、努力の面白さを知った。
「佑都、どないしたん。
めっちゃ速くなってるやんか」
井上博もチームメイトも驚いた。
あんなに走るのが遅かった長友佑都が1番前を走っていた。

夏の終わりから走り始め、冬、駅伝大会を迎えた。
長友佑都のシューズは、数ヵ月の練習でスリ減っていった。
踵の部分がはがれペラペラになると、そこをハサミで切ってまた走った。
だんだんはがれてくる部分が増えて、大会前には靴の真ん中くらいまでゴムがない状態だった。
「危ないで、貸そうか?」
「新しいの買おうか?」
周囲の親切を長友佑都はキッパリ断った。
「ええねん。
この靴で走りたいから」
同情されたくなったのではない。
ただただこの爪先の部分しかゴムがないシューズで走りたかった。
ボロボロの靴には長友佑都のいろんな気持ちが詰まっていた。
共に努力した大切な仲間たっだ。
そして駅伝大会で長友佑都はアンカーで仲間が継いだタスキを背負い走った。
チームは3位になり、長友佑都は区間賞をもらった。
そして学校のマラソン大会は1位になった。
「僕は、夢や目標をかなえることだけが必ずしも成功ではないと考えている。
大切なのは、叶えるために日々努力すること。
現在の自分に満足せず、何が足りないのかを探し、それを伸ばすトレーニングをする。
そのプロセスが1番大事だと思い、僕は生きている。
夢が実現しなくても努力した後には成長した自分が待っている。
『こんなことやって意味があるのか』
『このへんでええかな』
そんな弱い心を振り切り挑戦することが大事。
そういう意味で中学時代の駅伝は、僕に努力の成功体験を与えてくれた」

「お前らヘボいんじゃ!!」

長友佑都は、サッカー選手としてまったく無名だったが、サッカー強豪高校へ進学したいと考えていた。
具体的には、長崎の国見高校、鹿児島の鹿児島実業高校、福岡の東福岡高校。
いずれも全国高校サッカー選手権大会で優勝し、多くのJリーガーを輩出していた。
中でも、1997年、1998年と全国大会2連覇を果たした東福岡高校に魅かれていた。
しかし東福岡高校は私立で授業料は公立より高額な上に、他県の高校に行くとなると下宿費なども必要になる。
長友佑都は
「東福岡に行きたい」
といえなかった。
しかし井上博も母親も長友佑都の背中を押した。
「推薦でお願いできる可能性もあるよ」
「お金のことなんかどうにでもなるんやし心配する必要はないから」
母方の祖父:吉田達雄は日本競輪学校の1期生で、その弟の吉田実は日本競輪界で一時代を築いたといわれる名選手だった。
また父方の祖父も明治大学出身の元ラガーマンだった。
「私思うんよ。
佑都は絶対アスリートに向いているって。
だからその道で勝負してほしいんよ。
もしアカンかっても別にかまへんし。
挑戦せな、失敗もできひんやろ」
こうして長友佑都は東福岡高校に行くことを決めた。
2002年3月、サッカー部で卒業する3年生を送り出す試合が行われた。
試合後、全員で輪になって
「♪負けないこと、投げださないこと、逃げ出さないこと、信じぬくこと、ダメになりそうなとき、それが1番大事♪」
と大事MANブラザーズバンドの「それが大事」が歌われた。
輪が崩れ、それぞれ部室に向かったりグラウンド整備や練習の後片づけを始めた。
「先生、1人でトンボかけたいんやけど」
長友佑都の申し出に井上博はうなずいた。
トンボを引っ張っていると3年間のいろいろなシーンが頭をよぎった。

春休みから練習に参加するため、長友佑都は中学校の卒業式の後、すぐに福岡に出発することになった。
卒業式の後、長友佑都が校門にいく、井上博やサッカー部員が見送るのために待っていた。
「がんばれよ」
「お前もな」
1人1人とハイタッチしたり、握手をしたり、肩を叩き合ったり、小突かれたりしながら、花束や手紙、写真などをたくさん受け取った。
長友佑都は立ち止まることができなかった。
学校の外へと向かう足は止められなかった。
「佑都。
頑張ってくるんやで」
という声が背中に突き刺さったときが限界だった。
「こんなん、いらんわ!
お前らヘボいんじゃ!!」
花束を放り投げ、手紙や写真も破り捨て叫んだ。
「絶対プロになるんや!
俺はビッグになってやる!!
長友革命や!!!」
松山空港まで送りに来てくれた家族にも涙はみせなかった。
手荷物検査を通り機内へ入りベルトを締め、離陸のアナウンスが流れたとき、初めて頬に涙が伝った。
「本当に申し訳ないことをしたという気持ちもある。
だって感情に任せた行動とはいえせっかくの手紙しゃ写真を破り捨てたのだから・・・・
でもそれを後悔することはない。
逆に良かったと思っている。
見送ってくれたみんなの思いが込められた手紙や写真。
うれしかった。
愛情や友情がビンビン伝わってきた。
温かい空気に包まれ幸せだった。
でももう1人の自分が囁く。
甘えたらアカン。
活躍するまでここへは戻れない。
全力で努力しかないと、
福岡へはなにも持っていきたくなかった。
大切なものは心の刻み込まれているから必要なかった。
あんなことをしたのだから中途半端な気持ちでは生きられない。
愛媛を出たあの日から、僕は毎日、毎日、そう思い闘っている」

東福岡高校

東福岡高校は博多駅から徒歩15分くらいのところにあった。
全校生徒数2000人超のマンモス校で、サッカー、野球、ラグビーなど全国大会で活躍する部がいくつもあった。
校舎の隣に学生寮:志学館があり、長友佑都はそこに入った。
本業である学業でいくつかコースがあり、特進、特進英数など偏差値の高い大学を目指すコースもあったが、長友佑都は多くの生徒と同様、進学コースを選んだ。
高校を卒業してすぐにプロになれるかどうかわからないので、大学に進学することも視野に入れていた。
東福岡高校サッカー部は全学年合わせて150人。
福岡だけでなく九州、中国、関西、さまざまな地方から集まっていた。
毎年100人近く新部員が入るが、厳しい練習や競争についていけず退部する者も多かった。
初練習の日は雨だった。
「愛媛県西条北中学から来ました。
長友佑都です。
ミッドフィルダーです」
とまずは大きな声で挨拶。
そして
「今日は雨も降っているし走ることにするから」
とコーチに練習メニューを告げられ、3年間をサッカーに捧げようと誓っていた長友佑都は、先輩も後輩も新入部員も関係なくグングンスピードを上げて走り、トップでゴールした。

サッカー部の練習は、レギュラーのトップチームを筆頭に、レベル毎にグループ分けされ行われた。
長友佑都は下位グループに属し、練習はグラウンドの端っこの狭いエリアでのトレーニングが中心で、ボールを蹴る時間は少なく、上位チームのボール拾いをすることもあった。
先輩たちはみんなうまかった。
同級生もうまい選手が多かった。
長友佑都は、サッカー部の中でも身長が低く、体も細く、器用なテクニックもなかった。
「レギュラーになるための道のりは長いものに思えた。
でも目指すところがどんなに遠く離れていても這い上がっていくしかない」
走るときは誰にも負けないようにした。
先輩が練習の前後にストレッチをしているのをみる、すぐにマネをした。
全体練習後は自主練習を行った。
1年生がボールを思い切り蹴れるのは、このときしかなかったので夢中で蹴った。
2002年12月、トップチームが全国大会出場を決めた。
東福岡高校サッカー部には、全国大会には22名のレギュラーとは別にチームから数名の1年生がサポーターとして帯同する慣習があり、長友佑都はそのメンバーに選ばれ上京した。
はた目には雑用に選ばれただけだが、部員にしてみればサポーターに選ばれたということは努力や実力が認められた証拠であり栄誉なことだった。
またレギュラーと同じ新しいユニフォーム、ジャージ、練習着、バッグ、グラウンドコートが配られることもうれしかった。
試合はグラウンドではなくスタンド観戦だが、長友佑都は声の限り応援した。
東福岡高校は準々決勝で滝川第二高校に破れベスト8に終わった。
悔し涙を流す先輩をみて全国大会が長友佑都の目標となった。

筋トレ

このままではアカン。
このままみんなと同じようにやっても上にいるヤツらと勝負できひん。
体も小さいままや。
他の選手にはない武器を磨くほうがエエんとちゃうか?」
2年生になった長友佑都は思った。
100名を超えるサッカー部員の中で志波芳則監督に自分を認識させるためには長所を伸ばすべきだと。
すべてのことが平均的にできる選手より、足が速いとか、パスがうまいとか、誰にも負けないストロングポイントを持った選手が上にいけると。
「自分を客観的にみて、まずは武器をつくり、磨く。
その後、ウィークポイントを克服すればいい」
長友佑都にも誰にも負けない武器があった。
走力とスタミナ。
それを磨くにはフィジカルを鍛える必要があった。
それまでサッカー部で筋力トレーニングは、
「(筋トレを行うと分泌される成長ホルモンが骨端線を消すという説があり)身長が伸びなくなる」
「(筋肉が硬くなり関節可動域が狭くなり)体の動きが悪くなる」
と控えられていた。
しかし誰もやっていないということは逆に大きなチャンスだった。
長友佑都は、本を読んだり、トレーナーに聞いたりして筋力トレーニングの方法を学んだ。
まずは基本的のトレーニング種目、数種目を軽い重さを使って基本フォームの練習。
それができたら目的に合わせて、負荷(重さ)とボリューム(反復回数)を増やしていく。
大きく
「低負荷×高回数」
「高負荷×低回数」
に大別されるが、現場ではそれを融合させて行われることが多い。

長友佑都の筋力トレーニングは基本的に
「より多く、より重く」
というハードなものだった。
「キツいと感じれば感じるほどプラスになる」
と思い、重さも反復回数もドンドン増やして自分を追い込んでいった。
とにかく強くなりたかった。
ケガをしても
「弱いいうことやろ。
もっと鍛えろってことやろ。
今の量じゃ足りひんいうことや」
とさらにメニューを強化した。
1日の流れは、
5時起床。
朝食前にランニングなど筋トレ。
8時30分、登校。
ハードな練習を行う運動部の生徒が授業中に寝ることは珍しくなかったが、長友佑都は母親が必死に働いて払ってくれた授業料だと絶対に寝なかった。
その代わりに50分間の昼休みは数分で食べて爆睡した。
放課後、サッカー部の全体練習。
走る練習では、常に1番を死守し続けた。
その後、夜まで筋トレ。
こうして朝から深夜まで無我夢中で練習とトレーニングを続けた。
相変わらず走りでは誰にも負けない上に、ハードトレーニングで体を強さが増して1対1では負けなくなった。
「僕は豊かな才能を持ったサッカー選手じゃない。
だからこそ人の何倍も努力しなければ上へはいけない。
僕から努力をとったら何も残らない」

「最後まで諦めずやろうや」

3年生になると、長友佑都はサッカー部でトップチームに入り試合に先発することが増えた。
そして学校からは、志望校の提出を迫られた。
長友佑都は東京の明治大学に行きたかったが自分の成績でかんたんに入れるとは思えなかった。
サッカー部は、最後まで部活を続ける者、夏に引退し進学や就職の準備を進める者にわかれた。
長友佑都は最後までサッカーを続けたかった。
でもたとえ続けたからといっても、たとえもし全国大会に出られたからといっても、プロのなれる保証はない。
実際、高卒でプロ入りできる選手は少なかった。
受験に切り替えてより良い大学への進学、卒業、就職を目指すほうがよいかもしれなかったが、
「これからどんな人生が待っていようと今を頑張らなければ明日はない。
今を頑張ることができれば、将来、頑張れる自分になれる。
何事にもチャレンジできるん、そんな人間になりたくて今まで頑張ってきた。
だったらこれからも頑張り続けるしかない。
明治大学の指定校推薦枠に選ばれるように勉強を頑張る。
そして部活も手を抜かず続ける」
と長友佑都が選んだのは1番ハードな道だった。
夏で引退することを決めたサッカー部員たちのやる気は自然と小さくなっていったが
「最後まで諦めずやろうや」
と長友佑都は彼らにもサッカー部の一員として最後まで全力で走り切ることを求めた。
それはサッカーだけではなく彼らの人生に関わる重大事に思えたからである。
2005年1月、東福岡高校サッカー部はシード校として全国大会の2回戦から出場。
相手は、同大会4度優勝の市立船橋高校(千葉県)。
1万3500人の大観衆が見守る中、長友佑都は赤いユニフォームを着てピッチに立った。
試合は1対1で終わり、PK戦となった。
5人蹴っても決着がつかず、東福岡の6人目の蹴ったボールを相手ゴールキーパーがセーブし、長友佑都の高校サッカーは終わった。
「頑張れる自分を貫いた。
もう1度やれといわれても戻りたくはない。
それほど自分を追い込んだ3年間。
だからこそ価値のある3年間を過ごせた」

明治大学

2005年春、勉強も頑張って指定校推薦枠に滑り込んだ長友佑都は明治大学に進学。
プロになる夢も諦めずサッカー部に入った。
明治大学サッカー部は、1921年の創部以来、大学サッカーのタイトルをいくつも獲り、たくさんのOBが実業団をプロに在籍する名門だった。
1学年20名弱の少数精鋭制で、スポーツ推薦で入学すれば入部は決まるが、長友佑都を含むそれ以外の新入生は、1ヵ月ほど練習に参加した後、部に残れるか判断された。
無事、サッカー部へ入ることが認められた長友佑都は、5時に起床し、三鷹台の自宅を自転車で出て、途中、コンビニでパンやおにぎりを買い、6㎞先の世田谷区の八幡山の練習場で行われるサッカー部の朝練に向かった。
2時間ほどの練習後、今度は杉並区永福にある和泉キャンパスへ向かった。
長友佑都は、プロのサッカー選手になれなかった場合、卒業後の就職を考え政治経済学部を選んだ。
また中学時代の井上博先生のように中学教師になる道も考え、教職免許がとれるカリキュラムも選択していた。
そのため授業数は多く、サッカー部の練習レベルも高いため、入学当初は忙しい日々を送った

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