必殺フリーキック
中村俊輔のフリーキックは世界的に評価が高い。
海外メディアが選出するランキングにも度々選出されている。
ゲームにおいても能力値は高く設定され、15,000人以上の選手が実名で登場する「FIFA 17」ではフリーキック能力値は9位となっている。
そのフォームは独特で、体を傾け全身のバネを使って大きなパワーを生み出す。
通常、フリーキックで蹴るカーブキックは90km/hくらいだが、中村俊輔は99.7~101km/hと世界有数の高速。
回転速度は毎秒7.5回転。
25m飛ぶ間に横に3m以上曲がり、ボールの回転軸が斜めなのでゴール付近で魔法がかかったように急激に落ちる。
ボールが無回転で揺れる「ブレ球」のシュートを打つこともあるが、それはボールの中心を足を押し出すように(並進運動)1/100秒間に強く(72km/h以上で)蹴っている。
「無回転を狙うときは、足で押すようなイメージ」
(中村俊輔)
神パス、スペースを瞬時に把握する深視力
中村俊輔はまるで人と違うところをみているようなパスを出してみんなをアッといわせる。
ピッチで入り乱れる選手の位置を瞬時に把握し的確なプレーを行うには
「スポーツビジョン(スポーツに必要な視力)」
「視野の広さ」、
そしてわずかなスペースを見つける「深視力」が必要といわれている。
深視力は、選手の位置関係を立体的に認識する能力で、日本代表やJリーグのトップ選手とそれ以外の選手は「スポーツビジョン」と「視野の広さ」はそれほどでもないが「深視力」に大きな差があるという。
また
「糸を引くようなパスを次々通す人は、位置関係を俯瞰できる能力に長けている」
といわれ、中村俊輔は深視力が優れているといわれている。
自分好きのシュンくん

中村俊輔は1978年6月24日に横浜で生まれた。
7つ違いの「アンちゃん」
4つ違いの「ヨシくん」
1つ違いの「ターちゃん」
と3人の兄がいた。
「和博」「喜雅」「貴之」は父:博之がつけたが、4男は
「俊輔がいいわ」
と母:イリ子がつけた。
中村俊輔には3歳のときからの記憶があり、マーチングバンドで指揮者となって右手で棒を持って歩いたり、補助輪なしで自転車に乗れるようになり、家の近くの坂道をスピードを出して下るが面白くて仕方なく、ある日、急ブレーキをかけると体が宙に舞って顔から地面に落ちて、痛いのを我慢して帰ったが、鏡で目の上が真っ青に腫れているのをみてこわくなって泣いたことを記憶していた。
そして何気なくボールを蹴ったのは左足だった。
「手は右。
字を書くのも箸を持つのも右。
だけど足は左だった。
3歳のときからそれはわかっていた」
中村俊輔は、アルバムをみるのも好きで、4歳のときに3歳の自分の写真をみていたことも覚えている。
自分が写っているものが好きなのは今でも変わらず自分の映ったビデオをみるのが大好きである。
サッカー人生の始まり 深園(みその)サッカークラブ
4歳のときに1つ上のターちゃんと一緒に深園(みその)幼稚園に通い始めた。
幼稚園には体操クラブがあり、そこに若林可夫先生がいた。
年長組のターちゃんと一緒にツバメ組の中村俊輔も体操を習っていたが、そのうち幼稚園でサッカーチームをつくって大会に出ることになった。
チームメンバーは年長組だけで、ターちゃんは初代キャプテンに選ばれた。
練習は週3回。
時間は90分。
厳しい練習が実り、ターちゃんたちのチームは、約30チームが参加した関東幼少年サッカー大会で優勝した。
深園サッカークラブには年長組しか入れなかったが中村俊輔はいつもターちゃんたちがボールを蹴っている横で練習をみていた。
そしてボールをさわるのが大好きになっていき、幼稚園でみんながお絵かきや折り紙をしていても先生のスキをついてサッカーボールを持ってきた。
若林可夫は中村家に電話をかけた。
「もしよろしければお兄さんと一緒にサッカーをやってもいいですよ」
イリ子から話を聞いた中村俊輔は
「やったぁー」
と大喜びし次の日から正式に深園サッカークラブに入った。
それからは風邪をひいて熱があっても練習は絶対に休まなかった。
熱血の系譜

若林可夫は古沼貞雄にサッカーを学んだ。
古沼貞雄は高校サッカー界で名を知らぬ者はいないといわれるほどの名監督。
1974年の初優勝を含めて、全国大会で6度優勝、3度の準優勝。
高校総体でも優勝3度、準優勝4度。
帝京高校サッカー部で一時代を築いた。
朝早く起きて指導に当たり練習場に声を響かせた。
大雨が降ってもびしょぬれになるのを気にも留めずにグラウンドで指示を続けた。
「我々が傘をさしたり屋根の下にいたりなんか、できないですよ」
よく部員に
「サッカーって点取りゲームか点取らせないゲームか、どっちだと思う?」
と問いかけ自身の考えとして
「割合でいえば少なくとも6割は守りのゲームです」
「失点ゼロなら絶対に負けないんですよ」
「ワールドカップで優勝や準優勝、3位のチームをみてみろ。
スターはたしかにいる。
大事なのは1次リーグ、決勝トーナメントでも失点がとにかく少ない」
といった。
堅い守りをベースにした古沼スタイルで1977年の2度目の全国大会優勝は無失点で果たした。
守りの基本は
「技術を使わせないこと」
ゴールに近い場所では基本的にトラップやパスをさせない。
ペナルティーエリア内は必ずワンタッチでクリアする、相手にゴール付近でプレーさせないことを徹底した。
部員は
「失点しないためなら骨が折れてでも体を張ってゴールを隠す」
と誓った。

元来、古沼貞雄は陸上部出身。
箱根駅伝出場を夢みて東洋大学に入学したがケガで断念。
日本大学に再入学し卒業後、サッカー素人のまま指導者の道を歩み始めた。
近隣の学校の部活に参加してサッカーを学び、まったくの無名校だった帝京高校は常勝軍団と化していく。
5年後、習志野高校(千葉)をわずか3年半で初優勝させた西堂就監督と酒を酌み交わしたとき、守備の重要性に気づいた。
帝京はすでに全国大会の常連だったが、なかなか勝ち進めなかった。
「古沼よ。
お前は江戸っ子だからな。
酔った先のことは考えないだろ」
古沼貞雄は意味を理解できなかった。
「サッカーは攻撃もあれば守備もあるんだ。
守ることも考えたら帝京はもっと強くなるんじゃねえかなあ」
古沼貞雄はハッとなった。
帝京は攻撃重視、個人技優先、ある意味、自由奔放なサッカーだった。
「気持ちのいい攻撃の他にあるところに目を向けてみろ」
古沼貞雄は守備を重視した戦術に転換。
クリアなどの決まり事を徹底。
「(ボールを)取ろう、取ろうは取られのもと」
という標語をつくりカバリングの重要性も説いた。
そして守りに欠かせない体力は陸上部の経験を生かし鍛え上げた。
練習試合に負ければ、長距離ランナーだった自身が先頭に立って1時間のランニング。
技術は教えられなくても体を張る強さは伝えられた。
そして就任から9年、帝京高校は「堅守速攻」で日本一まで駆け上がった。
「サボってるヤツに着させるユニフォームはない」
「最後まで8番を追いかけろ」
「お前、帰れ」
若林可夫はスパルタで、いつも大声で怒鳴っていた。
「暗くなっても練習したい」
というリクエストが出ると自腹でグラウンドに照明をつけた。
心理学では「感情は伝染する」、またスポーツでは「熱(意)は伝染する」というが、若林可夫の気持ちは中村俊輔にも伝わり
「やってやるぞ」
「負けたくない」
「うまくなりたい」
という気持ちにさせた。
家から練習に行くときはサッカーボールを蹴りながら歩いた。
坂道が多い場所だったので上り坂では壁に当てたり、電信柱に当てたり、ガードレールの間をくぐらせたりしてボールを運び、下り坂では足の裏でコントロールしてボールを転がした。
ターちゃんが小学校に上がり年長組になると中村俊輔がキャプテンになった。
ある日、若林可夫に
「みんな、ボールを蹴ってみろ」
といわれ40人くらいが蹴ると中村俊輔が左足で蹴ったボールが1番遠くまで飛んだ。
「じゃあキッカーはお前」
こうして初めてキッカーに任命され、やがて世界最高レベルのフリーキックを持つまでになる。
中村俊輔たちのチームは、ターちゃんたちに続き2年連続で関東幼少年サッカー大会で優勝した。
サッカー症候群 サッカーが1番大事

小学生になると深園サッカークラブの練習は、平日の90分×週3回から、土日も練習となり、120分×週5回になった。
チームは学年ごとにキャプテンがいて中村俊輔は再びキャプテンに選ばれた。
練習場は、深園幼稚園のグラウンド。
25m×40mのグラウンドは、サッカーグラウンドの半分以下の広さで、11対11の練習はできなかったが、若林可夫は
「サッカーで11人がいっぺんにボールを持つことはない」
と1対1や2対2、多くても5対5での練習を繰り返した。
グラウンドが狭いと敵との距離が近くなった。
ダラダラしているとすぐにボールをとられてしまうので、プレーのスピードや判断の速さがついていった。
土日は試合になることもあった。
社会勉強の1つとして、試合には子供たちだけで電車やバスに乗ってでかけた。
中村俊輔は集合場所でみんなのお金を集め
「運転手さん、1人60円だから18人で1080円ね」
とバスの運賃箱に小銭をジャラジャラといれた。
グラウンドにつくと若林可夫が怖い顔で待っていて、必ず
「お前ら、ミスはしていいけどサボったらダメだ」
といった。

父:博之も、中村俊輔が幼稚園の頃から試合には必ずいきビデオで撮影し、練習でも息子を撮った。
中村俊輔はそれを擦り切れるほど何度も繰り返してみた。
そして次の日には
「昨日はあそこがよくなかった」
と練習した。
中村俊輔が小学2年生のとき、ワールドカップメキシコ大会が行われ、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナが大活躍。
イングランド戦の5人を抜きは今でも伝説となっている。
マラドーナは60mをドリブルで駆け上がり、最後はゴールキーパーまでまわしてゴール。
同じ左利きということもあって中村俊輔はその姿に夢中になった。
彼のベストプレー集のビデオを買ってもらい、何度もスロー再生してみて、次の日にグランドにいき、それと同じように練習。
最初は簡単にいかないが、毎日やっているうちにドリブルが上達していき、フェイントやいろいろなボールの蹴り方ができるようになっていった。
試合でもマラドーナのプレーを実践し、1人目立つ活躍をした。
「深園に中村俊輔あり」
といわれるようになり、ディズニーランドに遊びにいった同級生が、知らない人から
「深園の人でしょ。
中村俊輔いる?」
と聞かれたとのこともあった。
元日本代表監督であるハンス・オフトは、合宿所内にビデオルームをつくって
「選手は自分だけの世界に入ってイメージをつくり出し自分の脳にしみ込ませる。
それを選手たちが頭の中に焼きつけプレーし試合の中でそのイメージのプレーを実行する。
そのためのイメージトレーニングは重要である」
と述べている。
Jリーグのサンフレッチェ広島のバクスター監督も
「選手は自分がやるべきことを頭の中で画像としてみえることが大切だ」
といっている。
サッカーには自分のプレーに対するイメージづくりが必要で、そのためにビデオは有効だといわれている。

漫画の「キャプテン翼」にも夢中になり、翼くんや岬くんのあり得ないようなテクニックをマネるのも楽しかった。
あまりにも夢中になりすぎて漫画を読みながら歩いて怒られたこともあった
勉強は、算数が好きで国語や社会は嫌い。
どの科目もまあまあの成績だったが図工と体育は5。
4歳上のヨシくんは高校野球で甲子園に出るほど野球に打ち込んでいたので中村俊輔もサッカーの練習が休みの日に野球をすることもあった。
ポジションはサードやピッチャーだったが、野球は打順が回ってくるまで時間がかかってイライラした。
中村俊輔は、痩せて背が低く、体が小さかった。
深園サッカークラブでは、低学年、中学年、高学年と学年別に3チームあったが、中村俊輔は、1年生のときは2年生と、3年生のときは4年生と、5年生のときは6年生と、常に1学年上の選手と一緒に練習や試合をしたので上達が早かった。
しかし体格や力の差は大きかった。
「力がないから研究するんだ」
が口癖で
「小さい体で力がなくても工夫すればいいキックができるに違いない」
と小学校3年生の頃からフリーキックの研究を開始。
みんなと一緒の全体練習が終わった後、1人残ってボールを蹴った。
そして
「腰に回転をかける」
ということに気づき、軸足である右足をアウトサイドに寝かせて腰を捻る蹴り方が出来上がった。
5年生のときには、人気アイドルグループ:光GENJIをマネをしようとバク転とバク宙ができるようになった。

横浜市が小学生の選抜チームをつくることになり、本当は6年生しか入れないが、5年生の中村俊輔は特別にそのテストを受け合格した。
そして選抜チームの一員として横浜市の姉妹都市であるオデッサ(旧ソ連)の遠征に参加。
選抜チームはうまい選手ばかりで、どんなパスもうまく受けてくれたし、少々ミスをしてもカバーしてくれ、守備もやってくれた。
帰国後、中村俊輔は変わった。
楽しくやろうとしてるメンバーに
「学校でやってよ」
というなどチームメイトに対して非難を浴びせるようになった。
そして鎌倉市で行われた大会の試合中、中村俊輔はチームメイトにいった。
「なんでそんなことができないんだよ」
「それくらいかんたんでしょ」
それをみていた若林可夫は激怒。
「おい!俊輔!
お前はもう試合に出なくていい」
試合後、中村俊輔は謝った。
「すみませんでした」
「そうか、わかったか」
しかし若林可夫は1ヵ月間、中村俊輔を試合に出させなかった。
その間、中村俊輔は初めて試合中にピッチの外での雑用をやった。
「でもサッカーをやめるという気持ちは全然思い浮かばなかった。
キツいとも思わなかった。
若林先生のいわれたことをしっかりやっているとどんどん勝っていったから」
(中村俊輔)
「選抜チームから帰ってきて偉そうになってしまう子供は珍しくない。
でも俊輔はキャプテン。
例えばパスを出して受け手がミスしても『ごめん、パスが悪かった』と周りのミスを自分で受け止めるくらいでないと成長できない」
(若林可夫)
6年生になると中村俊輔のテクニックはさらに磨きがかかった。
体は小さいがボールはよく飛ぶしよく曲がった。
1度ボールを持つとめったに取られることはなかった。
そして深園サッカークラブの最後に試合で中村俊輔がゴールを決めたとき、
「ウォ~~~ッ」
若林可夫は叫びながらコーナーフラッグまで走ってガッツポーズをとった。
日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアユース

中村俊輔は中学になったら
「楽しくワイワイやろうというより、勝ちたいという集団、、本当にうまくなりたい人だけでやっていく環境がいい。
日産みたいに強いチームでサッカーがしたい」
と思っていた。
神奈川県で深園サッカークラブが勝てなかったのは日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアだけだった。
1991年4月、中村俊輔は横浜市立深谷中学校に進学。
そして競争率50倍という超難関のセレクション(クラブチームに入団するためのテスト)に合格し、日産(現:横浜F・マリノス)ジュニアユースに入った。
深谷中学でもサッカー部に入り、朝、授業が始まる前に学校で朝練。
授業が終わると学校から30分以上かかる日産ジュニアユースの練習に1番乗り。
全体練習の後は、1人でフリーキックの練習。
ゴールのバーにボールを当てたり、ゴールバーからタオルをつるして当てて落とした。
「照明消すから帰れ」
といわれてもボールを蹴った。
日産ジュニアユースの監督は野地芳生、コーチは樋口靖洋だった。
野地芳生監督はいった。
「練習で浮気をしてはいけない。
ドリブルでもフリーキックでもコツコツと毎日繰り返して同じことを練習すれば、いつかは必ず上達する。
1度やって上手くいかなかったからといって、すぐにやめてしまうのが一番よくないことだ」
樋口靖洋コーチは、日産ジュニアが深園サッカークラブと対戦したときに初めて中村俊輔を初めてみた。
その次は横浜市の選抜チームのセレクションのときで、6年生しか入れないことになっていたが、5年生の中村俊が特例で合格しするのをみた。
そして樋口靖洋は中学1年生の中村俊輔に
「僕は小さいけれど、この先どうしたらいいですか?」
と聞かれ
「身長なんてそのうち伸びるから今はテクニックを磨くのが1番。
筋トレも今はしなくていいよ」
と答えた。
練習で中村俊輔がいいパスを出すと
「そこをみてたのか!
しびれるぅ~」
とほめた。

ジュニアユースは、日産のトップチームの試合のボールボーイ(試合中にピッチのすぐ外に待機している球拾い)になることも多く、日本一のキッカーだった木村和司や日本代表の司令塔だった読売クラブのラモス瑠偉のプレーをまじかでみることができた。
背番号10を背負う木村和司のフリーキックに心を奪われ、魅せるとは何かを学んだ。
ハーフタイムに入ると木村和司に呼ばれて、ボール回しをしたこともあった。
「ひと月に3つテクニックをマスターする」
を目標にしていた中村俊輔は最高のお手本をみて練習した。
1年生でレギュラーに選ばれ、2年生になると学年別チームで10番、3年生中心のチームでも(10番ではなかったが)レギュラーに選ばれ、全国大会で優勝。
新年度のAチームの10番として選手名鑑に登録された。
つまり3年生になったら10番をつけてAチームのエースになる予定だった
ところが実際に3年生になると、今まで10番で中心選手だったのにレギュラーから外されてしまった。
理由は背が低かったためだった。
「ちょっと体を寄せられてよろけてしまったり、ホントは自分が触るつもりだったのに隣の人に触られたり身長が伸びていかないのでリーチの部分とかで大きなハンデとなりましたね」
(野地芳生監督)
中学生になると筋力トレーニングが始まりフィジカルも上げていった。
一般的に男子は中学生の頃が成長期のピークで、1年で10㎝以上伸びる子供も多かった。
しかし中村俊輔が身長が伸びなかった。
小学校では背の順番で並ぶと真ん中くらいだったが、中学になるとドンドン前のほうになっていった。
中学2年生になるとチームメイトと体格の差がハッキリ出てきた。
背が低いだけでなく体が細い中村俊輔は筋肉もなかった。
体を寄せられるとよろけてしまったり、ボールをかんたんに取られてしまったり、パスが通らなかったり、体格差のせいでいままでできていたことができなくなることもあった。
背が低いと走るのも遅かった。
中学3年生になると、チームの平均身長は170㎝くらいだったが、中村俊輔は160㎝もなかった。
10番を背負うはずだった中村俊輔は、いつしかレギュラーから落ち、試合にも出られなくなっていった。

中村俊輔が中学3年生になった1993年、Jリーグが始まった。
それに伴い「日産ジュニアユーズ」は「横浜マリノスジュニアユース」に名前が変わった。
5月15日、横浜マリノスは、国立競技場でラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディ川崎とのJリーグ開幕戦を戦った。
Jリーグに参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(ヴェルディ川崎、現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
本来、Jリーグの開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップのアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたJリーグ事務局は5月15日に開幕を遅らせた。
ラモス・ルイ、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは力強く豪快で美しかった。

ジーコは、セレソン(ブラジル代表)で10番をつけ、「神」といわれた。
現役引退後、ブラジルのスポーツ担当大臣を務めていたがJリーグが開幕する2年前に、日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役復帰。
初めて住友金属の練習グラウンドが土なのをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くのシャワールームやフィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求していった。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、シューズが散らばったロッカールームにシューズをみると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始めた。
お菓子を食べている選手をみつけると
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
普段の練習から紅白戦、サブ組の試合、すべて全力を尽くして勝つために戦う。
そんな勝利への執着心、勝利へのメンタリティをチームに植えつけた。
「常勝軍団」のはじまりだった。
5月16日、開幕戦で名古屋グランパスと対戦。
前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決めると、5分後、芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成した。
試合も5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま1stステージ(前半戦)で優勝した。

そして2ndステージで優勝したのは、ヴェルディ川崎だった。
三浦知良は、ゴールを決めるとカズダンスというゴールパフォーマンスが行った。
両足で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を押さえて右手で前方または天を指さす。
ガッツポーズや投げキッスなど、フィニッシュはバリエーションがあった。
三浦知良がゴールを決めると選手もサポーターもみんなこぞってカズダンスした。
年間チャンピオンを決めるチャンピオンシップ戦で、1stステージチャンピオンと2ndステージチャンピオンが対戦。
第1戦でヴェルディが2対0で勝った。
そして第2戦は、0対1でヴェルディが負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにアントラーズのジーコは唾を吐いた。
そして退場させられた。
2人は共に腕にキャプテンマークを巻いていた。
ヴェルディは、チャンピオンシップでも鹿島アントラーズ戦を破って年間優勝。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
「正直、ラッキーだと思ったね。
ジーコは敵にするととても怖いプレーヤー。
40歳を超えて運動量は少なくなっていたけどイザというとき決める力があったから。
そんな中でジーコが退場となりピッチを去ったのだからヴェルディの勝利にグッと傾いたなと。
僕がこのPKを外しても勝敗に影響はない。
だから楽な気持ちで蹴れた」
(三浦知良)
1993年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞に「サポーター」が選ばれた。。
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
日本は空前絶後のJリーグブーム、サッカーブームだった。

横浜マリノスジュニアユースもときどきJリーグをみにいった。
しかし中村俊輔に試合を楽しむ余裕はなかった。
「お母さん、今日は背が伸びているかな?」
と毎日、家の柱で身長を測ってもらい、毎日、牛乳を1パック飲んだ。
中村家の柱には今でも4人の兄弟の成長を記す傷が残されているが、3人のお兄さんたちもそれほど大きくなかったが、高校生になると急に成長し、みんな180㎝くらいになっていた。
母:イリ子は
「シュンも高校生になったら大きくなるわよ」
といった。
しかしそれは慰めにならなかった。
横浜マリノスジュニアユースには、毎年25人くらい中学1年生が入るが、3年後には15人くらいになった。
激しい練習と競争に毎年5人ほどチームを離れていく。
そして3年間生き残っても、高校生のユースチームに上がれるのは7、8人だった。
早ければ2年生の春休みにユース昇格を決まる子もいたが、中村俊輔は3年生になってもその話はなかった。
「練習には熱心に取り組んでいる。
テクニックもある。
けれど体が小さい」
野地芳生監督は、中村俊輔をユースに上げるかどうか迷っていた。
また中学1年から2年生くらいまでは1人1人の技術と体力アップ、そして3年生からは本格的なチーム戦術というのが横浜マリノスジュニアユースの指導方針だったが、個人技で負けない、また個人技にこだわりを持つ中村俊輔はチームとしての戦い方をするように注意されると余計にムキになってテクニックを見せつけようとすることもあった。
チーム戦術は、ワンタッチ(自分に来たボールを止めずに蹴る)やツータッチ(自分に来たボールをいったんとめてから蹴る)でパスをさばいて走ってというサッカーだったが、中村俊輔はヒールキックしてみたり、ボールを持ちすぎてチーム全体のリズムを崩してしまい途中交代させられることも多かった。
それでも野地芳生監督は中村俊輔を評価していないわけではなかった。
「サッカーに対する姿勢はまじめである。
体はいつか大きくなるはずだし、大きくなればテクニックが生きるから問題ない」
と3年生の7月に中村俊輔に
「ユース昇格OK」
と伝えた。
レギュラー以外の合格者は中村俊輔だけだった。

「絶対に僕はうまいのにどうして試合に出してくれないんだ」
中村俊輔はどうして試合に出してもらいえないのかわからず、その不満を野地芳生監督に向けた。
練習も適当にやったり、下を向いていた。
そうすれば何かいってもらえるかもしれないとも思ったが、野地芳生監督はなにもいわなかった。
8月、長野県の白馬で、ジュニアユーズの最後の大会、ジュニアユース全国大会が行われた。
このとき中村俊輔はベンチに入っていたが、すでに背番号は10ではなかった。
大会中、毎日雨が降り、土のグラウンドは荒れた。
それは小柄なテクニシャンには不利と判断されたのか、横浜マリノスジュニアユースは優勝したが、中村俊輔がピッチに立つことなかった。
試合後、宿舎でパーティーが開かれ、ジュースかけが行われたが、中村俊輔はどうしても楽しい気分になれず、みなんが盛り上がっているなか会場の隅っこで1人ポツンと体育座りしていた。
「そんなところで何やってるんだ。
ここは優勝したお祝いをする場所で試合に出られない悔しさをみせるところじゃない」
野地芳生監督いいわれてハッとした。
こうして中村俊輔のジュニアユースは終わった。
暗い気分で家に帰った後、電話が鳴った。
白馬の大会に出ていなかった友人だった。
「白馬はどうだった?
シュンは出たの?」
「優勝したけど僕は出なかった」
「そうか・・・
僕は明日、桐光学園の練習に参加する。
シュンはどうする?」
次の日、中村俊輔は友人と2人で桐光学園の練習に向かった。
高校の練習に参加する場合、前もって横浜マリノスジュニアユースに断りを入れなくてはならなかったが、中村俊輔は連絡なしで桐光学園にいった。

桐光学園は神奈川県川崎市にある私立の学校で、校舎は新しくキレイで、グラウンドは広く、トレーニング施設も充実していた。
文武両道を重んじ、生徒は礼儀正しく明るかった。
「ここならサッカーがうまくなりそうだ」
桐光学園高校サッカー部の佐熊佑和監督は、初めて中村俊輔をみた。
練習といっても、神奈川県内の優秀な中学3年生に声をかけて次の年の入る選手をスカウトする場だった。
中村俊輔は、参加した中学生の中で1番背が低かったが、足技や相手の逆をとる動き、視野の広さはセンスを感じさせた。
しかしせっかく逆をとってもすぐに相手に寄せられボールを奪われ、遠くが見えているのはわかったが、筋力不足かパスが出せなかった。
その後、佐熊佑和監督は野地芳生監督に電話を入れた。
「中村俊輔君がうちの練習に参加しました。
うちとしては入学してもらいたいのですが、どうなんでしょうか?」
高校側としては事前にジュニアユースから推薦状をもらうのが普通だった。
驚いた野地芳生監督は父:博之に確認した。
「たしかに桐光学園の練習に参加しました」
「そうですか。
それなら仕方ないですね」
中村俊輔は、その後、いくつかの高校の練習に参加し最終的に桐光学園にいくことを決めた。
そして横浜マリノスジュニアユースを引退。
試合に出られなくなった理由を
「自分がうまいんだって勘違いしていた。
チーム戦術が変わったのに対応できず、試合に出られなくなった」
「僕は間違ったことをしてしまった。
不貞腐れてしまうなんてもったいないことをしてしまった。
と反省。
「ようしまた練習するぞ。
もったいないことをした時間を取り戻す」
と気持ちを切り替えた。
毎日、家の周りを走って、まだ入学していなかったが桐光学園の練習に参加した。
「2002年にワールドカップに出られなかったときより中3でユースに上がれなかったときのほうがよっぽど悔しかった。
そのときの思いがあるからいまも頑張れる」
桐光学園

1994年4月、中村俊輔は桐光学園に入学した直後、校庭でジュニアユースで1つ上だったタカシ君を発見。
すぐに
「タカシくーん」
と呼ぶとタカシ君はものすごい勢いで走ってきた。
「ダメだよ。
センパイじゃないとマズいよ」
その怒ったような困ったような顔に、中村俊輔は一瞬、
(えっ人違い?)
と思ってしまった。
アットホームな雰囲気のクラブチームと違い、桐光学園高校サッカー部には上下関係があった。
学校で先輩をみれば
「おはようございます」
「こんにちは」
と大きな声であいさつをしなければならず、これまで年上を「くん」づけ、年下から「シュンちゃん」と呼ばれてきた中村俊輔にとって体育会系のしきたりはとまどうことが多かった。
練習前にコーンを置いたりラインを引いたりするのは必要だからいいが、基本練習が終わると先輩の練習をみながらボール拾いをやらされるのは納得できなかった。
さらに練習後は毎日ボール磨きをやらされ、サッカーがうまくなるためにきたのに練習時間が少ないことに驚いた。
横浜マリノスユースならそんなことをせずにサッカーだけしてればよかった。

全体練習での自分の練習時間が少ないため、中村俊輔は朝練習と居残り練習を行うことにした。
横浜市戸塚区の家から学校まで90分くらいかかるため、5時に起床し、サッカーのビデオをみながら朝食を食べ、5時半に家を出る。
まだバスが出ていないので父親に駅まで送ってもらい、電車を乗り継いで学校に到着。
すぐに壁人形をセットしフリーキックの練習。
コース、距離、ボールの質などバリエーションをどんどん増やしていった。
通常より小さいミニボールでの練習もよくやった。
小さいほうが扱い方が難しく、その分テクニックがつきやすかった。
授業はまじめにノートをとって習ったことをその場で覚えようとした。
わずかな時間でもサッカーボールに触っていたいのに、テストで悪い点をとると補修や追試があるからだった。
授業の後はサッカー部の全体練習。
そして居残り練習をして、帰宅するのは22~23時。
家に着くとすぐにサッカーのビデオをみながらご飯を食べて、すぐに寝た。
高校サッカーはテクニックだけでなくフィジカルも重要なので、佐熊佑和監督は、160㎝の中村俊輔が
「すぐにレギュラーになるのは無理だろう」
と思っていた。
それでもサッカーに取り組む姿勢は目を見張るものがあった。
グラウンドに1番早くに着て1番遅くいた。
「サッカーが好きで好きでたまらないのだろう」
サッカー部は週1回休みだったが中村俊輔は1人で練習して、サッカービデオをみて、サッカーゲームをした。
学校では月一で頭髪検査があったが、色気も理髪店にいく暇がない中村俊輔はひっかかり、担任にはさみで切られた。
「先生、これで頭髪チェックOKだね」
そういってグラウンドに飛び出した。

待ちに待ったときがついに訪れた。
急に中村俊輔の身長が伸び始めたのである。
すると当たり負けしていた相手と競り合っても負けないようになり、走スピードも上がり、フェイントも一歩が大きくなりダイナミックになった。
今まではみえていても距離があって出せなかったパスが出せるようになった。
これまでは30mが限界だったが40mくらいのパスをスパンスパンと出した。
パスのボールスピードも上がったため、最初はスルーパス(相手選手の間を通して前方に送るパス)についてこれない選手が続出した。
佐熊佑和監督は思った。
「左利きは珍しいし、ファンタジスタの卵みたいな面白さもある。
将来のために使ってみようか」
ファンタジスタとは、サッカーの国、イタリアで生まれた言葉で、ファンタジア(創造、想像力)を持つ選手、思いもつかないプレーで一瞬にしてチャンスをつくりだす特別な選手を指す。
秋、全国高校サッカー選手権大会神奈川県予選で桐光学園は、決勝トーナメント3回戦、向上高校戦を0対3で負けた。
この試合で残り時間が少なくなったとき佐熊佑和監督は、1年生の中村俊輔をピッチに出した。
負け試合の最後に出てきた選手に好きにさせてたまるかと相手は厳しくマークしたが、中村俊輔は自由自在にボールを扱ってみせた。
試合には負けたが、そのインパクトは大きかった。
1995年、春の身体測定で中村俊輔の身長は175㎝だった。
1年間で身長が10㎝以上も伸びていた。
その結果、高校2年生の中村俊輔は3年生の先輩と1対1で負けなくなった。
練習は高い意識で取り組んだ。
ボールを使った練習は大好き。
それに比べて単純でキツいフィジカルトレーニングはそんなに好きではなかったが、
「どんな練習も自分に跳ね返ってくる」
と絶対に手を抜かず常に100%の気持ちで取り組んだ。
1人でやっていた全体練習後の居残り練習に、いつしかコーチや仲間が付き合うようになった。
中村俊輔は
「これはワールドカップのときのマラドーナのフェイント」
などといってビデオをみて練習した技を披露した。
佐熊佑和監督は、ボランチ(中盤中央のポジション)を下げ気味にして守備を任せ、ボランチの前にスペースをつくってそこに中村俊輔を入れ
「自由に攻撃しろ」
といった。
自由が与えられたことで中村俊輔の創造がはじまった。
その攻撃センスは抜群で、まるで人と違うところをみているように1発のパスで流れを変え、みんなをアッといわせるプレーをした。
堅実で安定感もあるプレーで頼りがいのあると共に
「必ず何かやってくれる」
と期待させる選手だった。
さらに必殺のフリーキックもあった。
桐光学園は面白いように勝ち進み、中村俊輔は創造性とアイデアを発揮しチームの司令塔として不動のポジションを手に入れた。
夢を叶えるサッカーノート

桐光学園高校サッカー部には、フィジカル強化のトレーナーやアイシングやマッサージなどのコンディショニングトレーナーなどが外部から来ていて、大事な試合になると5、6人のサポートスタッフがベンチに並んでいた。
豊田一成はメンタルトレーニングを指導した。
呼吸法によるリラックス法、
音楽を聴いてやる気や闘志を高めるサイキングアップ法、
プラス思考法、
目標と課題の明確化、
さまざまな心身相関の理論やテクニックを教えた。
例えば、リラックス法について、なぜリラックスが大切かというと、体がリラックスしていると自然と気持ちが落ち着いて集中力が高まり、潜在能力を引き出しやすくなる。
その結果、スポーツパフォーマンス向上、その他、さまざまな能力も発揮できる。
リラックスするためのエクササイズとしてかんたんで効果的なのは深呼吸。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
例えば、3秒間、鼻で息を吸ってお腹に入れて、3秒間息を止めて、6秒間かけて吐き出す。
吸う時間の倍の時間をかけて吐くことで、副交感神経が刺激され活発化し、よりリラックス効果が高まる。
中村俊輔はリラックス法について
「緊張しているときにどうしたらリラックスできるかが重要。
先生に教えてもらっているうちにすぐにα波が出せるようになった」
といっている。

「サッカーノート」もそのうちの1つだった。
中村俊輔は、豊田一成にいわれアディダスのノートを買った。
サッカーノートの項目は
1 目標
2 ゲーム
3 トレーニング
4 メンタル
5 イメージ
6 記録
だった。
1 目標
中村俊輔は豊田一成に、最初に「短期・中期・長期目標」をわけて書くようにいわれた。
毎年1、2回、短期、中期、長期に分けて目標を設定。
短期目標は、期間は半年先くらいまでの、ちょっと頑張れば手が届くくらいの達成確率が高い小さな目標を書く。
中期目標は、1年先くらいのことを書く。
長期目標は、2年以降、長期的に思い描く自分のあるべき姿、そして達成確率が低い大きな目標を書く。
17歳の中村俊輔の短期目標を
「苦手なプレーを克服する」
「選手権優勝」
「関東ユースで東西選抜に入る」
中期目標を
「自分のプレーに満足せずに向上心を持ち続ける」
「Jに入る」
「自分に勝つ」
長期目標を
「誰からの人から尊敬される人になる」
「日本代表」
「世界に通じるプレーヤーになる」
そして当面の目標として
「冷静な判断」
「緊張性不安を克服する」
と書いた。
最初は目標を書くことに勇気が必要だった。
しかし書いてしまえば
「絶対に叶えてやる」
という気持ちがわいてきた。
「誰からの人から尊敬される人になる」という長期目標は、イタリアのロベルト・バッジョがいっていたことをマネた。
ロベルト・バッジョは、イタリアのファンタジスタで、何度も膝の手術を受けて、その度に不死鳥のように蘇り、イタリアアだけでなく世界的に熱狂的なファンを持つ選手だった。
2 ゲーム
試合前には
「どのようなプレーをするか」
を書いた。
試合後は
「攻撃面、守備面のよかった面、悪かった面」
を書き出し、10点満点中
「 点」
と数値化して評価。
そして次の試合に向けて何をしなくてはいけないか
「反省点と課題」
を明記した。
3 トレーニング
チームの練習メニュー、自主トレのメニューを書く。
全体練習や自主練習の後は、何をしたか「練習メニュー」を書いた。
書くとその練習の意図が明確になり、目的や課題がわかった。
4 メンタル
孤独や不安など自分の素直な感情を書き出すことは、大きな癒しとなった。
そして
「自信とはとにかく自分の能力や可能性を信じること」
「悔しいと思ったら、また強くなれると思う」
「気持ちで上回る」
などと自分に力を与えてくれる言葉を自分で自分に向けて書いた。
その力は大きかった。
行き詰まったとき「メンタル」の記述を見返し奮い立たせ、これだと思う言葉が見つかれば再び書いた。
だ普段の読書やテレビ、映画などで感銘を受けた言葉もサッカーノートに記録した。
5 イメージ
絵を描くための大きなフリースペースがあり、試合で有効だったシーン、フォーメーション、フリーキックや技術のイメージを描く。
また理想的なイメージ、仮想のイメージ、シーンなどを描いた。
6 記録
試合の結果、日々のトレーニング、筋力や体重の推移、新聞の記事や写真など、自分にとっていい記録だけでなく悪い記録もスクラップする。
特にプロに入った後は、
「そこにもっとうまくなるためのヒントが隠されているかもしれない」
と試合の次の日に新聞に何が書かれているかしっかりみた。

最初は豊田一成に提出しなければならなかったので義務感でいわれたとおりにつけていた。
(豊田一成は
「次はハットトリックだ」
など前向きになる言葉を書いて返した)
しかし続けていくうちに効果や結果が出ると積極的になった。
「文字で書くことで自分の目で確認できるし、頭の中で整理することができる。
目標を書いておくと後でみたときにできていないとか、目標がそれているとか、進歩していないとかがわかる。
それで反省もできる。
自分のためになる。
とにかく日記を書くと落ち着くし後でみると楽しいというのもある」
(中村俊輔)
練習や試合が終わり、グラウンドを出てロッカールームに帰ってきたときにはもうノートに書かなくてはいけないことが頭の中に浮かんでいた。
ノートの後ろのほうには、メモやオフの予定がビッシリ書かれた。
毎朝6時前に家を出て自主的にやっていた朝練。
部活後、独り残っていやっていた夜練。
そしてサッカーノートをつけること。
やっていることすべてよかったんだと思えるようになった。
1人で静かにノートに向き合う時間は欠かせないものとなった。
サッカーノートはプロになっても続いた。
高校2年生のときに書き始めたサッカーノートは、15年後、31歳になる頃には11冊にもなった。
「サッカーノートをみられるくらいならヌードを披露したがまだマシ」
基本的にノートは監督にもチームメイトにも誰にもみせず他人にはいえない自分の気持ちや悔しさ、不安、弱点、そして夢や野望、目標と課題などを書いた。
基本的に「目標を達成するためのノート」なので、漠然としたことは書かずハッキリとした意思や意志が書かれた。
そして少しずつオリジナルの書き方も加わっていった。
試合前に「どうプレーするか」、試合後に「課題」を書くことは変わらなかったが、イメージ画を描いたり、気になる選手やチームのプレーも書くようになった。
書く頻度も、毎日必ずというわけではなく、書きたいことや課題が見つかると書くというになり、2ヵ月間まったく書かないこともある。
「若いときはうまくいってることが崩れるのが怖くて書いていた。
もしかしたらもう書かなくても大丈夫なのかもしれない。
でも好きで書いてしまう。
いろいろなことをイメージするのが好きで、計画といってもいい。
細かく計画したことがその通りにいくのが快感だから。
フリーキックのイメージ画が試合で実現化したこともある。
年間目標もそうだけど1年にわずかしかないオフの計画を綿密に立てて、それを計画通りに実現させたときも充実感がある」

1995年10月、中村俊輔は、神奈川県少年サッカー男子選抜チームに選ばれ国体(国民体育大会)に出場。
12月、高2の中村俊輔は全国高校サッカー選手権大会に初出場。
1回戦、東福岡に1対2で負けた。
試合後、サッカーノートに、中村俊輔は試合全体の自分の点数を10点満点中「7.5点」とした。
攻撃でよかった点は
「前半、多数のスルーパスが出せた」
「後半は視野が広がった。
ドリブルなどで切り崩せた」
悪かった点を
「後半、運動量が減ってしまった」
とし攻撃面の自分の点数は「8点」
守備面のよかった点は
「相手のバックラインで追い込めた」
悪かった点を
「運動量が減った」
とし守備面の自分の点数は「6点」と評価。
試合後の反省点と課題は
「決定力不足-シュートは決めるもの-練習のときから気をつかう」
「運動量を増やす(質)」
「2タッチ、ダイレクトを増やす」
「最後まであきらめない」
とした。
大会後、1回戦負けにもかかわらず、中村俊輔は優秀選手に選ばれ選ばれた。
そして日本高校選抜チーム入りと年明けのニューイヤーユース大会、ヨーロッパ遠征参加が決まった。
日本高校選抜チームは、全国高校サッカー選手権大会の優秀選手で構成され、隔年でスイスかドイツで開かれる国際ユースサッカー大会に参加する。

1996年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「筋力アップ」
「自分の納得するプレーをする」
中期目標
「オリンピック代表」
「マリノスの軸、MF、ゲームメーカーになる」
長期目標
「日本代表の軸になる」
「海外でプレーし世界に通じるプレーヤーになる」
「人に尊敬される人になる」
だった。
1996年1月、日本高校選抜としてニューイヤーユースサッカーに出場。
3月、日本高校選抜としてヨーロッパ遠征に参加。
日本高校選抜監督で暁星高校サッカー部の林義規は
「相手がいてこそ上達できるのだから相手をリスペクトしなくてはならない。
だからこそ曖昧な気持ちではなく100%で相手にぶつかっていけ」
といった。
チームは3年生が多く2年生の中村俊輔が出場できたのは、トーナメントに入る前の試合だけだったが学ぶことは多かった。
ドイツの選手は体が大きくガツガツ向かってきたが、日本の選手のほうが速くてうまかったので勝った。
中村俊輔はサッカーノートに
「ボールがくる前に周りをみて予測し対応する」
と書いた。
また
「右足を使う-神経を通わす」
とも書いた。
左足と同じように蹴れるようになることを目指して、練習で積極的に右足で蹴り、右足の指で床に置いたタオルをつかんで寄せていく「タオルギャザー」というトレーニングも始めた。
そして日本は1973年から続くこの遠征で初めて優勝を成し遂げた。
1996年8月、インターハイ(全国高校総合体育大会)で桐光学園は準決勝で帝京に敗退。
その後、高校3年生の中村俊輔には、ベルマーレ平塚(現:湘南)、ジュビロ磐田、ジェフユナイテッド市原(現:千葉)、横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)など多くのJリーグチームからスカウトが来た。
中村俊輔は、
「自分の目でしっかり確かめたい」
といくつかのクラブの練習に参加した。

またU-19日本代表の山本昌邦監督から
「合宿に参加してほしい」
と誘われた。
チームで高校生は中村俊輔1人だった。
10月、韓国で行われたアジアユース選手権に参加。
アジアユースはアジアサッカー連盟が主催する19歳以下のナショナルチームによる大会。
優勝チームと上位数チームは、翌年のU-20 FIFAワールドユース選手権の出場権を得る。
山本昌邦監督率いる日本代表は、シリア、中国、カタール、インドとグループリーグを戦い、決勝トーナメントの準決勝で韓国に敗れ、UAEとの3位決定戦にも負けて4位に終わった。
11月、桐光学園は全国高校サッカー選手権大会神奈川県予選を制した。
1997年1月、桐光学園は全国高校サッカー選手権大会に出場し決勝戦進出。
決勝戦の相相手は市立船橋(千葉)だった。
神奈川県勢初の全国大会優勝が期待された桐光学園は、いきなり2点をとられ、桐光学園は1点を返したが1対2で負けた。
2月、U-20日本代表オーストラリア遠征参加。
「桐光学園での3年間はで努力の仕方を学んだ。
特に1年生のときは今の基礎をつくった時期だと思う。
闇雲に努力してもダメ。
自分に何が足りないかを知って何をしないといけないかを知る。
練習を選ぶことの大切さを1年生のときに覚えた」
中村俊輔は、プロになり、海外で活躍するようになってからも、オフには必ず桐光学園に顔を出した。
フラリと現れ職員室に入り
「こんにちは!」
とあいさつした。
横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)

中村俊輔は、卒業後の進路をどこにするか考えた。
ジュビロ磐田には同じ左利きの名波浩、ベルマーレ平塚(現:湘南)には日本の司令塔、1つ上の中田英寿がいた。
出場チャンスがありそうで、よく知っているトリコロール(フランス語で3色)カラーの横浜マリノスに行くことを決めた。
運命的な出会いを果たしたのは、小学生のときに父親に連れられて三ツ沢公園球技場のコンクリート席に座り、JSL(日本サッカーリーグ)の黄金カード、日産自動車vs読売クラブ戦を目にしたのが始まりだった。
「読売はラモスさんたちがいてみんなテクニックがあった。
自分のプレースタイルから考えると読売のほうなんだけど、でも日産のカラーが好きだったね。
みんな紳士っぽくみえて、団結心があってね。
自分勝手なプレーがなくて、全員で勝利を目指していく感じに惹かれていった。
小学校の中学年ぐらいだったけど、あれが自分の原点なのかなとも思う」
1997年3月、横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)に加入。
背番号は「25」だった。
Jリーグは1993~1996年まで、背番号は試合ごとに決めるルールだったが、中村俊輔が入った1997年から年間を通して変わらない固定番号制に変わった。
そして新加入の選手は年齢順でつけるのが通常だったが、高卒の中村俊輔は大卒の選手を差し置いて1番小さい数字「25」を与えられた。
横浜マリノスには、キャプテンの井原正巳を含めて、川口能活、城彰二、小村徳男らを含めて日本代表選手が何人もいた。
練習場で川口能活に
「お、中村君だね。
これからよろしく」
と声をかけられた中村俊輔は直立不動で答えた。
「よろしくお願いします」
マリノス4年目、すでに不動の守護神として君臨していた川口能活はピッチの内外で中村俊輔をフォローした。
「1年目のときに同じ個人トレーナーの元へ誘ってくれたのも能活さんだったし、紫色のフェアレディZで送り迎えもしてくれて……いや、スカイラインだったかな。とにかく助手席ですごく緊張したのをいまでも鮮明に覚えている。
能活さんがいなかったら、いまの僕も多分いないと思う」
中村俊輔は
「迷惑をかけられない」
と必死で練習した。
実際、日本代表で歴代最多の122試合出場の井原正巳や2位の川口能活らから学ぶことが多かった。
彼らは真のプロフェッショナルで、練習態度はもちろん、日常生活そのものが違っていて、みんなサッカーを中心に生きていた
実力者の先輩たちとパス1つでもミスできないプロのプレッシャーで中村俊輔は磨かれていった。

「新人の頃、川口さんや井原さんや小村さんというプロフェッショナルな人をみていてマリノスにきて本当に良かったと思った。
グラウンド以外での人間性をみられたことが勉強になった。
日本代表ではなかったけど永山邦夫さんがいつも100%の力を出せるよう準備しているのも勉強になった」
そういう中村俊輔は、毎日、練習前に1994年のワールドカップで優勝したブラジルのビデオをみた。
そのときのブラジルはキーパー以外の10人のフォーメーションが4-4-2とマリノスと同じだった。
また同じ左利きのジーニョの動きに注目した。
練習では、178cm、65kgと身長は問題なかったが細いため、コンタクトプレーでは圧された
30m走はチームでビリから4番目と足も遅かった。
が、抜群の攻撃センスをみせた。
グラウンドでの練習後は、室内で筋力トレーニングをしてマッサージをして、さらにビデオを何本もみてから帰った。
中村俊輔は、練習は絶対にサボらなかった。
妥協や怠惰を恐れ、努力を怠ると置いていかれるような気持になった。
「1日もサボることはできない。
1日くらいいいだろうと練習をサボる、暴飲暴食をする。
たしかに1日くらいなら次の日の練習に影響しないかもしれない。
けれどそれはいつかすべて自分に跳ね返ってくる。
毎日規則正しく過ごしている人といつか大きな差がついてしまう」
3月8日、ナビスコカップ、ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)戦で、中村俊輔は先発しプロデビュー。
試合は引き分けだったが、高卒ルーキーとは思えないプレーをみせた。
4月16日、ガンバ大阪戦、4点リードされた後半10分から出場し、Jリーグ公式戦デビュー。
4月23日、京都パープルサンガ(現:サンガFC)戦で1点リードされた後半から出場。
後半6分、味方からのセンタリングをフリーで受けヘディングで折り返し、山田隆裕の弾丸シュートにつなげ、1対1。
「胸でトラップし直接シュートを狙うことも考えたが、相手が寄せてきたのでパスに切り替えた」
その後も、2点目、3点目をアシストし、3アシストで逆転勝利に貢献した。
5月、ベルマーレ平塚戦、後半41分、1対4の状況で、右45度の角度から23mのフリーキックを決め、プロ初得点。
その後、U-20日本代表のマレーシア遠征に参加した。
6月、マレーシアで開催されたU-20 FIFAワールドユース選手権(20歳以下のナショナルチームによる世界選手権)に出場。
1つ上の宮本恒靖や柳沢敦と共に日本の司令塔となって戦った。
日本は1次リーグで、スペイン、コスタリカ、パラグアイと同組に入り、初戦のスペイン戦を1対2、第2戦のコスタリカ戦を6対2で快勝、最終戦のパラグアイ戦を3対3で、リーグ2位で決勝トーナメント進出。
決勝トーナメント1回戦、オーストラリア戦を1対0。
(FIA(国際サッカー連盟)主催大会決勝トーナメントで日本初勝利)
準々決勝で身体能力の高いガーナ代表1対2で敗れ、ベスト8に終わった。
中村俊輔にとって初めての世界大会だった。
そしてスペイン、コスタリカ、オーストラリア、ガーナ、国ごとにサッカーが違うことを知った。
7月、コダックオールスター出場。
12月、天皇杯3回戦に出場。
1997年シーズンの主な成績は
Jリーグ27試合5得点
Jカップ3試合出場
Jリーグ新人賞受賞
だった。
19歳で日本代表に初選出

1998年、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「代表のスピードに慣れる」
「マリノスのレギュラー」
「筋トレ、食事に気をつける」
中期目標
「オリンピック代表に入り続ける」
「Jで結果を出す」
長期目標
「日本代表に入り続ける」
「海外でプレーする」
「尊敬されるプレーヤーになる」
だった。
1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばし、前年にジョホールバルの奇跡で出場権を得た日本代表は6月のワールドカップフランス大会に向け、準備を進めていた。
2月、19歳の中村俊輔は、
「他の選手にないものを持っている」
と岡田武史監督によって日本代表に初選出され、オーストラリア遠征に参加。
キャンプ初日のミーティングで戦術やポジショニング、そして29人の参加者は合宿後、20人に絞られることが説明された。
当時の日本代表は、中田英寿がピッチ上のリーダーで、三浦知良や北澤豪、名波浩らがチームの色をつくっていたが、その現場は6月の本大会に向けてピリピリしていた。
中村俊輔は日本代表のハードな練習には慣れていけたが、北澤豪、中田英寿、名波浩ら同じ中盤の選手の判断スピードや技術で叶わないと感じた。
しかし岡田武史監督は、練習試合で中村俊輔をボランチで起用。
そのパスセンスは、すでにワールドカップのピッチに立つ姿を想起させ、中盤をどう形成するか考える材料となった。
2月14日、1番年下なこともあってかなり緊張していた中村俊輔は、肉離れを起こした。
2月15日、オーストラリア戦が行われた。
この合宿の29人の参加者の中で、中村俊輔を含めて4人が新メンバーだった。
柳沢敦、増田忠則もその中に含まれていたが、オーストラリア戦で出場の機会を得た。
その後、別メニューとなった中村俊輔は、三浦知良に声をかけられ、スッと肩の力が抜け
「さあやるぞ」
と前向きな気持ちになれた。
「初めて代表に召集されてコンディションもできてないのに張り切りすぎたのかもしれない。
ただそのテクニックは当時からずば抜けていて若くても十分に代表でやれる選手だとみていた。
だからこそリラックスして普段通りの力を発揮できるよう声をかけたんだ」
(三浦知良)
2月21日、ダイナスティカップに出る日本代表のメンバーが発表されたが、中村俊輔は外れた。
サッカーノートに
「実力がないだけ」
と書いたが、おそらく実力ではなく肉離れが理由だった。
11月、Jリーグでハットトリック(1試合3得点以上)達成。
12月、アジア大会にU-20日本代表として出場。
前年のワールドユースチャンピオンであるアルゼンチン戦で、中村俊輔はゴールを決めた。
しかしU-20日本代表はグループリーグ敗退。
1998年シーズンの主な成績は
Jリーグ33試合9得点
Jカップ4試合1得点
だった。
横浜F・マリノスの10番

1999年、サッカーノートに書いた目標は、
短期目標
「Jリーグで優勝(中心で)」代表のスピードに慣れる」
「オリンピック代表に入る 」
中期目標
「代表で試合に出続ける」
長期目標は
「外国でプレーする」
今
「ダイレクトプレー」
「ボールキープ」
「ミドルシュート」
だった。
1999年3月、横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併し「横浜F・マリノス」が誕生し、中村俊輔の背番号は「25」から「10」に変わった。
6月、シドニーオリンピックアジア1次予選にU-23日本代表として参加。
オリンピックサッカーには年齢制限があり、オリンピック開催年の1月1日時点で23歳以下の選手に資格があった。
7月、たらみオールスター出場。
8月、ラモス瑠偉引退試合出場。
10月、シドニーオリンピックアジア最終予選、U-23日本代表に参加。
監督はフル代表監督と兼任するフィリップ・トルシエ。
中澤佑二、宮本恒靖、明神智和、遠藤保仁、稲本潤一、中田英寿、福田健二、小野伸二、そして中村俊輔らを擁するU-23日本代表は「歴代最強」といわれ、1次予選を含め予選10連勝。
11月6日、U-23日本代表は国立競技場でカザフスタンと対戦。
予選初のリードを許し前半を終了。
後半25分、中田英寿のパスを平瀬智行が頭で合わせ同点。
後半41分、センターサークル付近でボールを受けた中村俊輔はトラップで一瞬の間を置くようにみせかけ、虚を突くようにすぐに左足一閃。
約35mの低弾道パスを対角線上に打ち込み、走り込む平瀬智行にピタリと通した。
平瀬智行はそのままペナルティエリア内に侵入しゴールを決めた。
試合はその後、中村俊輔がフリーキックを決めて3対1で逆転勝利。
「勝ててよかったです」
ヒーローインタビューに呼ばれ答える中村俊輔は目が潤んでいた。
試合の前日に亡くなった祖父のことを思い出してこらえることができなかった。
続くタイ戦では、中田英寿に代わって司令塔に抜擢され、6対0で快勝。
日本は2大会連続6回目のオリンピック出場を決めた。
1999年シーズンの主な成績は
Jリーグ26試合出場7得点、
Jカップ4試合出場
Jリーグベストイレブン
だった。
シドニーオリンピックBest8、JリーグMVP

2000年、オリンピックイヤーにサッカーノートに書いた目標は
短期目標
「代表に入り続けるためにJで活躍する」
「マリノスで中心になる。
ゲームをいつもつくる」
中期目標
「代表でレギュラーになる」
「ベストイレブンになる」
長期目標
「外国でプレーする」
「日本代表で10をつけてプレーする」
「尊敬されるプレーヤーになる」
「フィジカルアップ」
「ゲームをつくる」
「どんなヤツでも勝ってポジションを獲る」
「あきらめたらそこで負け」
「争うことで自分をレベルアップする。
争いから逃げない」
「強気でいく」
「このままで立ち止まれない。
追い込まれても逃げない。
そこから勝つ」
「21(歳)だから、これから人間伸びなければ」
「満足しない」
「負けは許されない」
「気持ち」
だった。
2000年2月、アジアカップ予選に日本代表として参加。
シンガポール戦で日本代表デビュー。
ブルネイ戦で、日本代表初得点。
スロバキア戦では、0対1でリードされた前半9分、25mのフリーキックは5枚の壁を越えてゴールポストの右内側に当たって落ちた。
1998年に日本代表合宿に召集されて以来、試合には出られなかったが、オリンピック日本代表の中心選手となって、その本大会直前に、それは叶った。
中村俊輔はまだ21歳だったが、さらに年下の小野伸二や稲垣潤一も代表入りしていた。
ワールドカップ日韓大会まであと2年。
日本代表として外国チームと戦う前に日本人同士のレギュラー争いに勝たなくてはいけなかった。
5月、横浜F・マリノスが10勝5敗でJリーグ1stステージ(Jリーグでは、1993~2004年まで前期、後期のチャンピオンを決めていた)優勝。
1995年以来、5年ぶりのステージ優勝だった。
6月、ハッサン2世杯(モロッコで行われる国際トーナメント)にモロッコ、フランス、ジャマイカ、日本の4チームが参加。
中村俊輔は、名波浩、稲本潤一、中田英寿らと共に日本の中盤の一角を担った。
日本は1998年のワールドカップ王者:フランスに2対2でPK戦の末敗れ、3位決定戦で4対0でジャマイカに勝った。

2000年後半、サッカーノートに書いた目標は
短期目標
「自分のプレーを見せつける」
「コンフェデに出る、代表に入る」
「楽しむ(負けず嫌いを出す)」
中期目標
「自分のプレーに満足せず向上心を持って努力し続ける」
「海外のチームからオファーがくるようにする」
「代表での自分のポジションを確立させる。
中心になる。
10をつける」
長期目標
「人から尊敬されるプレーヤー、人間になる」
「世界のトッププレーヤーになる」
「日本代表で10をつけてプレーする」
心
「いつも危機感を持って試合をしろ」
「目標に向かって全力で取り組め」
「上に行くためにはJでアピールしろ」
「弱みをみせるな」
「アシストよりゴール」
「気持ちのみえるゲームを」
「自信とアイデアにあふれたプレー」
「自分から攻める気持ち」
「アピールし続ける」
「1試合1試合目標を立てる」
「どんなヤツでも勝ってポジションを獲る」
「あきらめたらそこで負け」
「争うことで自分をレベルアップする。
争いから逃げない」
「争いに勝つ」
「ゲームで自分が1番目立つようにする」
「周りのうるさい声はプレーで黙らせる」
「モチベーションを上げる」
だった。
2000年8月、たらみオールスター出場。
9月、シドニーオリンピックが開催され、サッカー競技には各大陸で行われた予選を通過した16チームが参加した。
日本は、予選グループリーグ戦を、南アフリカに2対1、スロバキアに2対1、ブラジルに0対1で、メキシコオリンピック以来32年ぶりに決勝トーナメントに進出したが、準々決勝でアメリカにPK戦の末に敗れ、ベスト8となった。
中村俊輔は全試合に出場し得点に絡んだ。
左サイドでのプレーが多かったが、ブラジル戦では中田英寿に代わって得意の真ん中でプレーした。
10月、レバノンで行われたアジアカップに日本代表として参加。
開幕戦、サウジアラビア戦では、名波浩と中村俊輔がポジションチェンジを繰り返しながらボールを動かし崩していった。
前半26分、中村俊輔が左サイドから逆サイドに振り、森嶋寛寛が折り返し、柳沢敦が詰めて先制。
後半8分、中村俊輔-柳沢敦-名波浩とつないで3点目。
終了間際のオウンゴールを含め4対1で快勝した。
第2戦、ウズベキスタン戦、8対1。
第3戦、カタール戦、1対1。
準々決勝、イラク戦、4対1。
準決勝、中国戦、3対2。
決勝、サウジアラビア戦、1対0.
日本代表は、中村俊輔、稲本潤一などのオリンピック代表の若手と名波浩などの経験豊かな選手がかみ合い、1992年の広島大会以来の2度目の優勝。
中村俊輔はこの大会で全6試合中、5試合出場5アシスト。
ベストイレブンに選ばれた。
12月2日、9日、ホーム&アウェイで、Jリーグの1stステージ王者:横浜F・マリノスと2ndステージ王者:鹿島アントラーズが戦って年間王者を決める「Jリーグチャンピオンシップ」が行われた。
「どうしても勝ちたい」
という気持ちがあまりにも強かったため、負けてしまったとき中村俊輔の頭は真っ白になってしまった。
2000年シーズンの主な成績は
シドニーオリンピック、ベスト8
アジアカップ優勝。
オリンピック日本代表と日本代表を掛け持ちしつつJリーグ30試合5得点
Jカップ4試合1得点
JリーグMVP(22歳、最年少)
だった。
プロ1年目は毎日の練習が刺激的で、2年目でほぼ全試合に出場し、3年目で背番号10になり、4年目でJリーグMVP。
着実にJリーグの頂点に近づいていき
「極端なことをいうと試合では何でもできるという感覚」
で試合も練習も70%の力を出せばできるし勝てるというぬるま湯のような状況だった。
中村俊輔は環境を変えなければと考えるようになっていた。
小野伸二がオランダのフェイエノールトへ、稲本潤一がイングランドのアーセナルへ、高原直泰がアルゼンチンのボカ・ジュニアーズへ、同年代の選手が海外に移籍するのをみて
「いずれは・・」
と思った。
