「とにかくスピードを上げなアカンと思う」

2009年2月、ワールドカップ最終予選が開始。
アジア3次予選を通過した10チームが2つのグループにわかれ、ホーム&アウェイ方式で計8試合行い、各グループ上位2チームがワールドカップ出場の権利を得る。
(3位はプレーオフに回る)
日本は、バーレーン、ウズベキスタン、カタール、オーストラリアと同組になった、
そして最大のライバルと目されるオーストラリアを0対0で引き分け。
バーレーン戦は1対0で勝利。
3試合を残して、ワールドカップ大会出場まであと1勝と迫った。
6月、ウズベキスタン戦の前半早々に岡崎慎司がゴールを決めた。
長友佑都は激しく体をぶつけつつ高い緊張感で攻守のバランスを保った。
「守りの気持ちだけで逃げ切ることはできない。
チャンスがあれば攻撃に転じて追加点を奪おうと意識もあった」
日本はアウェイ戦を1対0で勝利。
ワールドカップアフリカ大会出場を決めた。

その後、オランダ遠征が行われ、身体能力が高いガーナ、体が大きく屈強なオランダとの親善試合があった。
ガーナには4対3で勝ったが、オランダには0対3で負けた。
オランダ戦で長友佑都は、ペナルティエリア内でボールを受けたロビン・ファン・ペルシをマーク。
ファン・ペルシは、自分の足元深くにボールを置いた。
(その場所からはすぐにシュートは打てない)
と判断した長友佑都は強引に奪いにいかず、シュートを打つためにボールを置き直す瞬間を待って奪おうとした。
しかしファン・ペルシは置き直すことなく、いとも簡単にクルッと反転しシュートを放ちゴールを決めた。
長友佑都は、その反転スピード、テクニック、キレのよいフィジカル、今まで体験したことのない世界レベルを痛感した。
帰国後、
「瞬発力、ダッシュ力、とにかくスピードを上げなアカンと思う」
とさっそくFC東京の土斐崎浩一トレーナーとスピード強化に取り組んだ。
100mを何秒というスピードではなく、できるだけ早くトップスピードを出せるスピード、強靱でキレのあるスピード、そういったサッカーに実戦的なスピードががあれば高いテクニックも封じられると考えた。
Jリーグと日本代表で戦いながらハードトレーニングを続けた。
チームの全体練習で全員が一緒に走るときも1人、ペースを上げて走った。
チームの輪や雰囲気づくりも大切だが、ワールドカップまで時間がなかった。
周囲の空気に流されてしまうわけにはいかなかった。
2009年11月、ナビスコカップの決勝で、FC東京は川崎フロンターレと対戦。
右肩を痛めていた長友佑都は後半途中から出場した。
そしてFC東京は2対0で勝利。
これで海外移籍のために果たすべき約束は、あと1つ、「ワールドカップ出場」だけになった。
12月、ワールドカップの抽選会が行われ、日本は、カメルーン、オランダ、デンマークと同じグループリーグになった。
グループリーグで総当たり戦を行い、上位2チームが決勝トーナメントに進出できる。
ワールドカップ南アフリカ大会 エースキラー

2010年、ワールドカップイヤーとなり日本代表は1月下旬からキャンプを行った。
2月2日、ベネズエラ戦を0対0で引き分け。
その後の東アジア選手権(東アジア4カ国で行う国際大会)では、ホーム開催にも関わらず、中国、香港、韓国相手に1勝1敗1分で3位。
4月7日のセルビア戦では日本は800本ものパスをつないだが、組織的に守りを固めたセルビアのカウンター攻撃を受けて失点を重ね、0対3で惨敗。
「ワールドカップ ベスト4」
を目標に掲げる日本代表に批判と悲観論が高まった。
5月10日、ワールドカップの代表メンバーが発表された。
長友佑都はテレビで自分の名前が読み上げられるのをみた。
小学5年生のとき、フランス大会で初めてワールドカップと遭遇して以来、2002年の日韓大会、2006年のドイツ大会と夢中でみてきた。
そして2010年にその舞台に立つことになったのである。
5月24日、埼玉スタジアムでワールドカップに向けた国内最後の試合、韓国戦が行われた。
韓国の右ミッドフィルダーは、イングランドのマンチェスターユナイテッドでプレーするパク・チソンだった。
日本の左サイドバックの長友佑都としては絶対に負けられない相手だった。
しかしパク・チソンはドリブルからシュートを放って、前半早々に先制点を決めた。
その後も日本はまったく自分たちのサッカーができなかった。
後半、日本は攻めたが、試合終了間際に韓国のカウンター攻撃を受けPKを与えてしまい、0対2で敗れた。

試合翌日、長友佑都は岡田武史日本代表監督に呼び出された。
「長友です」
「入っていいぞ」
岡田武史監督は、試合の映像を編集したDVDをみていた。
「お前は前は守備から入って攻撃というプレーをやっていたじゃないか。
そのプレーはチームにとって非常に大きい効果をもたらしていた。
ワールドカップでもお前の守備は武器になるし、それを続けてほしんだよ」
長友佑都はハッとした。
(攻撃のことを考え過ぎていたのかもしれない)
ゴールを決めたり、得点に絡んだり、目立つプレーを求めている自分に気づいた。
(ワールドカップではしっかり守備をする。
その上で攻撃に出ていく)
自分の仕事を再認識した。
「初戦のカメルーン戦だけど、お前にエトーをみてもらいたい。
エトーが左でプレーしたら、右サイドバックで出てもらう」
岡田武史監督はカメルーンのエース:サミュエル・エトーのマークを指示した。
日本代表はスイスで合宿を行った。
「俺たちは下手くそなんだから、もっと泥臭くやらないと勝てない」
ミーティングで闘莉王(トゥーリオ、田中マルクス)が口火を切り、全員が思っていることを話した。
ベテランも若手も、海外組も国内組も、レギュラーも控えもない。
誰もが
「勝ちたい」
そして
「このままじゃダメだ」
「なんとかしなくちゃ」
と思っていた。
「勝つためには・・・・」
自然と話題は戦術面にもおよび
「相手のサイドバックにボールが入ったらプレッシャーへいってくれると守りやすい」
と長友佑都はいった。
選手数人が集まって話すことはあったが、全員で話すことに大きな意味があった。
立場の違いはあれ目指すものは同じ。
団結するきっかけとなった。
その後、イングランドに1対2、コートジボワールに0対2と2連敗。
「人間万事塞翁が馬」
「人間は逆境のときこそ真価が問われる」
岡田誉司監督はいった。
そして戦い方をガラッと変えた。
それまで中村俊輔を日本代表の中心に据えて、線からのプレッシングを重視したアグレッシブな戦術から、守備的な戦術にシフト。
その過程で中村俊輔は長年守り続けてきた日本代表のレギュラーポジションを失い、川口能活、楢崎正剛、稲本潤一、中村憲剛、玉田圭司らも先発から外された。
しかし彼らは練習で手を抜くことはなかった。
紅白戦後はレギュラーに
「もっとこうすればいい」
とアドバイスを送った。
チームのためにやれることは何か考え、試合に出る選手を支え、励まし、力づけた。
だからチームは不安になることはなかった。

6月14日、ワールドカップ南アフリカ大会で日本代表の初戦、カメルーン戦が行われた。
長友佑都は左サイドバックで先発。
「サミュエル・エトーに仕事をさせないこと」
が最大の仕事だった。
とにかくエトーに前を向かさないようにし、ボールを持ってゴールに向かわれても慌てず自分の間合いで対応することを心がけた。
日本は、本田圭佑を1トップ、阿部勇樹を1アンカーに1-4-1-4-1。
本田圭佑以外、全員守備という奇策に近い守備的フォーメーション。
攻撃は、カメルーンはディフェンスラインに弱点があったので、その裏を突いた。
守備陣だけでなく攻撃陣も守備に参加するため、攻撃のチャンスは少なかった。
日本代表は、労を惜しまず走り続けた。
泥臭く戦うしか勝機はなかった。
前半39分、松井大輔のクロスボールを本田圭佑がゴール。
日本は先制点を守り続け1対0で勝利した。
「守って守って守り切った。
そんなサッカーはッカッコ悪いという人もいるだろう。
でも日本が勝つにはこの戦い方しかなかった。
カメルーン戦の勝利はグループリーグ突破を有利にしただけじゃない。
ホーム開催以外、3大会出場し初の勝ち点3という日本サッカーに新たな歴史を残しただけでもない。
この勝利で日本代表は本当にひとつになれた。
ひとつになること、ひとつになれることは日本人のストロングポイント。
この強みを磨き、活かすことで世界と戦える」
(長友佑都)
6月19日、第2戦、オランダ戦でも、途中出場したエルイェロ・エリアに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなど長友佑都はエースキラーとして活躍した
また同大会からFIFA(国際サッカー連盟)が導入したレーザー計測によると、長友佑都ののトップスピードは、カメルーン戦で30.13km/h、オランダ戦では26.70km/hと、両試合共、対戦相手を含めて最速を記録した。
しかし日本はオランダに0対1で敗退した。
「ヴェスレイ・スナイデルはわずかなチャンスでキッチリとゴールしている。
しかし日本はチャンスがあったのに決め切れない。
それが世界との差である」
(長友佑都)
6月24日、デンマーク戦。
日本は引き分けでも決勝トーナメントに進出できるが、勝利を目指した。
前半17分に本田圭佑が、前半30分に遠藤保仁がフリーキックで得点。
後半も途中出場した岡崎慎司が3点を決めた。
日本は3対1で勝ち、決勝トーナメント進出を決めた。
この時点で世界のベスト16に入った。
6月29日、決勝トーナメント1回戦、日本 vs パラグアイは、120分の延長戦を終えても0対0でPK戦になった。
日本の3番目、駒野友一が蹴ったボールがゴールバーに当たり外れた。
その後、パラグアイの4番目が決め、日本の4番目、本田圭佑も決めた。
そしてパラグアイの5番目、オスカル・カルドーソが蹴ったボールがゴール左に決まった。
日本代表は敗退した。
「ありがとう」
ピッチで岡田武史監督にいわれ、悔し涙を流しながら長友佑都は答えた。
「ありがとうございました」
イタリア・セリアAへ

7月9日、FC東京とイタリアのサッカーリーグであるセリアAに所属するチェゼーナが話し合い、合意した。
セリアAには外国人選手枠に制限があったが、新しくチェゼーナの監督になったマッシモ・フィッカデンティは、何度も来日しFC東京や日本代表の試合をチェックし、極東の島国のディフェンダーを選んだ。
7月14日、長友佑都とチェゼーナが正式に契約。
プロサッカー選手はチームと契約して給料をもらっている。
契約期間中に選手が他のチームに移籍するとき、そのチームに残りの契約分に当たる金額を支払い、これを移籍金という。
FC東京と長友佑都の間にまだ契約期間が残っていたので、移籍するとなると移籍金が生じる。
毎年、セリアAでは下位3チームがセリアBに降格するが、チェゼーネは降格圏内を行ったり来たりしているチームで、移籍金は大きな負担となるため、とりあえずレンタルという形でイタリアにいき、活躍次第で正式獲得という契約だった。
イタリアは「カルッチョ(サッカー)の国」と呼ばれ、セリアAは「世界最強のリーグ」といわれ、サッカー選手のステータスは高く存在価値は大きかった。
最初は言葉の壁があった。
サッカーでは同じことは2度と起きない。
試合前になにか約束事を決めても、その通りにならない。
だから状況に応じてどういうプレーをするか選手同士ですり合わせることが必要になる。
しかしイタリア語が話せない長友佑都は、とっさにいいたいことがいえない。
でも黙っていてはコミュニケーションは深まらないので、自分がフリーな状態で待っているのにシュートしたり、パスを出さずにチャンスを潰した選手には即座に大声でアピールした。
そうやって自分と自分のしたいプレーを示した。
日本に比べ外国は自己主張が強く、生存競争が激しいプロサッカーでそれはなおさらだった。
、たとえミスをしても簡単に失敗を認めない選手も多かった。
みんな闘志むき出しで、練習中にケンカのようないい合いがしょっちゅう起こり、練習のミニゲームでも本番さながらでボールを奪い合い、激しく体をぶつけ、チャンスと思ったら迷わずシュートを打った。
少しでも弱さをみせたら自分の居場所はなくなる。
それがヨーロッパのサッカーだった。
長友佑都も遠慮しなかった。
すげー、トッティだ

8月28日、セリアAの開幕戦で元イタリア代表のフランチェスコ・トッティをはじめ世界の有力選手がそろうローマと対戦。
(すげー、トッティだ)
長友佑都は感動を隠して左サイドバックのポジションに着いた。
そしてフル出場し、試合は0対0で引き分け、アウェイ戦だったので勝ち点1を得た。
長友佑都は、たとえ海外のクラブであってもネガティブな感情を持つことはなかった。
これまでの経験で、ネガティブさや消極的な気持ちや行動は、ムダであると学んでいた。
「自分の強みを発揮したいと思ってもチーム全体のバランスもある。
サイドバックはディフェンダーだから強引なプレーをすることで失点を招く危険性は高い。
試合の流れを読んでチームメイトの状態を確かめ彼らを活かすプレーを選択する。
そんな判断力、考えるスピードと質を上げなければ上へはいけない」
9月11日、先発すべてが強豪国の代表経験者というACミランにセリアBから昇格したばかりのチェゼーナが勝利した。
長友佑都は、21歳のブラジル代表のパトにほとんど仕事をさせずに抑えた。
「負ける気はしない」
と強気で挑んだ試合だったが、試合後、悔しがるACミランをみると
「コイツらに勝ったのか」
と興奮した。
帰宅しようと駐車場から自宅まで歩いていると
「ナガトモ、グランデ」
と熱狂したチェゼーナサポーターに囲まれ声をかけられた。、
部屋に入った後もインターフォンが鳴らして喜びを伝えるサポーターが後を絶たず、日付が変わっても歌声やナガトモコールが家の外から聞こえた。
11月21日、パレルモ戦でチェゼーナで初のアシストを決めた。
12月18日、長友佑都は、カリアリ戦までチーム唯一の全試合フル出場を続けた。
その後、翌年1月にカタールで開催されるアジアカップに出場する日本代表に召集された。
セリアAのシーズンは9月から翌年5月。
最終的に下位3チームはセリアBに降格する。
チェゼーネは降格圏内を行ったり来たりしているチームだったので、当初、長友佑都の離脱に難色を示していたが、最終的には気持ちよく送り出した。
「代表行きを認めてくれたチェゼーナのためにもアジアカップで活躍して結果を残すことが恩返しになる」
(長友佑都)
ザックジャパン

ワールドカップ後、日本代表の新監督に就任したのは、セリエAのACミランやインテル、ユヴェントスなど強豪クラブで監督経験があるイタリア人、アルベルト・ザッケローニだった。
2000年と2004年にアジアカップを制している日本代表にとって王者奪還は1つの使命だった。
また優勝すれば、2013年にブラジルで行われるコンフェデレーションズカップへの出場権を手にできる。
各大陸の王者が集うコンフェデレーションズカップは、ワールドカップブラジル大会の前哨戦でもある。
アジアカップで勝つか負けるか、その違いは大きかった。
召集された日本代表の合宿は、12月上旬にシーズンを終えたJリーガー、1月1日の天皇杯まで戦う選手、長友佑都らシーズン半ばのヨーロッパ組などスケジュールもコンディションもバラバラで、全員がそろうことなく選手間のコミュニケーションも不足のままアジアカップ本番を迎えた。
日本は、ヨルダン戦を引き分け、シリア戦も辛勝。
それでも試合を重ねるうちに意思疎通が深まり、サウジアラビア戦では、5対0で大勝。
長友祐夫は、1トップの前田僚一がボールが欲しいタイミングがわかり、左ミッドフィルダーの香川真司との連携もよくなっていた。
しかしこのサウジ戦では、松井大輔と本田圭佑が負傷欠場しており、松井大輔は試合後に帰国した。
負傷者だけでなく出場停止の選手もいた。
自然と、レギュラーもサブも関係なくチーム一丸となって戦わなければならない状況になっていった。
代表初召集の若手選手も「チームのために」と献身的に動いた。
準々決勝のカタール戦は、先制点を許した上に吉田麻也が退場。
1人少ない状況で、香川真司が2点目を決め、日本は同点に追いついた。
「イノくん、あまり上がるなとって監督がいってる」
長友佑都は、出場停止の内田篤人に代わって右サイドバックとして先発した伊野波雅彦へ指示を送った。
得点は欲しいが失点は許されない状況なので無理な攻撃参加は控えるようにということだった。
後方からパスを受けた香川真司がペナルティエリア内で粘るも相手に潰されてしまった。
するとそのこぼれ球を蹴り込み、逆転ゴールが決まった。
長友佑都は喜びながら、しかし考えた。
「誰?誰がシュートしたの?」
エッ?なんでイノ君が・・・・」
上がるなとメッセージを送ったばかりの伊野波雅彦がゴールを決めてペナルティエリアの近くにいた。
「お前からの指示は聞いていたけど来たって思って・・・・・」
長友佑都はビックリして二度見した。

準決勝の相手は優勝候補の韓国だった。
前線の選手が激しく入れ替わる攻撃は迫力があり、他のチームとはレベルが違ったがウィークポイントもあった。
「右サイドバックのチャ・ドゥリを突く」
ザッケローニ監督はそういって長友佑都の仕事場である左サイドを指した。
長友佑都がボールを持ったら香川真司が動いてスペースをつくり、そこを狙うという作戦だった。
先制ゴールを決めたのは韓国だったが日本は焦らなかった。
左サイドで香川真司がボールをキープし、長友佑都がその外側を走る。
香川真司からボールを受け取った本田圭佑が、一瞬ドリブルのスピードを緩めて相手を引きつけ、チャ・ドゥリの横のスペースにパス。
そこに走ってきた長友佑都がボールを受けてペナルティエリア内に侵入。
ディフェンダーのタックルが迫る直前にパス。
それを前田僚一が決めた。
長友佑都は最初はスピードを緩め、チャ・ドゥリに裏へは走らないと見せかけ、相手がボールに気をとられているところでスピードを上げてうまく抜け出し、あとはスピードを殺さず、いいタイミングでパスを出した。
試合は1対1で延長戦に突入。
日本は1度リードしたが、終了間際に同点ゴールを決められ、決着はPK戦へ。
日本は、本田圭佑と岡崎慎司が決めて、ゴールキーパーの川島永嗣が韓国の1人目と2人目を連続で止めた。
日本の3人目は長友佑都だった。
ゴール左上隅を狙ったが外れボールはゴールを越えて飛んでいった。
それでも韓国の3人目が外し、日本の4人目、今野泰幸が決めた。

1月29日、アジアカップ決勝戦で、日本はオーストラリアと対戦した。
オーストラリアは鋭いカウンター攻撃と長身を活かした高い攻撃が特徴で、わずかなチャンスでもゴールを決める決定力もあった。
オーストラリアは前線にロングボールを蹴り込んでパワープレーを繰り返し、日本ディフェンスはそれを跳ね返し続け、オーストラリアは何本もシュートを外していた。
前半は0対0。
後半途中、日本はメンバー交代し、センターバックだった今野泰幸が左サイドバックに入り、長友佑都は1つ前の左ミッドフィルダーについた。
本来、左ミッドフィルダーは香川真司だったが、韓国戦で負傷しすでに帰国していた。
長友佑都も相手陣内に駆け上がって攻撃に参加したが得点は奪えず、試合は延長戦に入った。
延長後半4分、遠藤保仁からパスを受けた長友佑都は、相手をかわして前線へ侵入。
オーストラリアディフェンスを引きつけてから速いクロスボールをゴール前に走ってきた李忠成に送った。
李忠成は見事なボレーシュートを決めた。
アジアカップ優勝が決まった日本は、負傷帰国したチームメイトのユニフォームを手にしてピッチを走った。
長友佑都は、ロッカールームに戻り、シャワーを浴びた。
このアジアカップで全6試合フル出場(長友佑都と今野泰幸のみ)し、アジアを制覇したが、やがてその余韻と興奮が収まり、新しい闘志が心を満たしていった。
3日後には、セリアAの試合があった。
インテル入ってる?

アジアカップ開催中、ヨーロッパではサッカー選手の移籍ラッシュが起こっていた。
ヨーロッパサッカーでは、年2回、夏と冬にしか移籍が認められていなかった。
アジアカップを終えた翌早朝にカタールのドーハを発ってイタリアのチェゼーナに帰宅した翌日、2011年1月31日、長友佑都は
「昨日の夜、インテルから佑都を獲得したいと連絡があった。
今、ミラノで両クラブの会長が話し合っている。
ミラノに行ってくれ」
「インテルってインテルが?」
そして午後には車でミラノに向かった。
インテル、正式名将「インテルナツィオナーレ・ミラノ」は、1908年創設以来、セリエAで18度優勝、2005年以降、セリアAを5連覇、2009年、セリエA、欧州チャンピオンズリーグ、コッパイタリアの3冠達成、2010年12月にFIFAクラブワールドカップで世界王者になったばかりのバリバリの強豪クラブだった。
インテルは、ラファエル・ベニテス監督を解任し、数人の選手を補強し、セリアAの後半戦で巻き返そうとしていた。
長友佑都も即戦力として期待されていた。
2011年1月31日は移籍が認められる最終日で、その期限は19時までだった。
年俸、移籍金、契約内容、オプション、ミラノのクラブ事務所ではイタリア語と書類が飛び交った。
長友佑都はイタリア語で書かれた契約書を読めず、レオナルド・ンシメント・ジ・アラウージョ監督は日本に国際電話をかけ、親交のあった鈴木国弘(ジーコジャパン通訳)に通訳を依頼。
レオナルド監督がイタリア語からポルトガル語、鈴木国弘がポルトガル語から日本語へ翻訳し、長友佑都に伝えられた。
「じゃあ、佑都、ここにサインを」
長友佑都がサインしたのは締め切り数分前だった。
「我々は日本のスポンサーやサポーターを増やしたいから佑都を獲得するわけではない。
インテルの補強リストには常に各ポジション10名近くの選手の名前がある。
君の名前はワールドカップ南アフリカ大会が終わった頃からリストにあり、ずっと長友佑都という選手をリサーチしていたんだ。
チェゼーナのフィッカデンティ監督や日本代表のザッケローニ監督からもさまざまな情報を得ていた。
彼らは君に対して高い評価を口にした。
私自身も君のファイティングスピリット溢れるプレーに注目していた。
もちろん運動量やスピードも魅力だけど、どんな問題にぶつかってもへこたれない強さが君にあると考えていたんだ。
当然、まだまだ身につけなくちゃいけないことは多い。
でもまだ24歳だ。
これからインテルでどんどん成長してくれることを期待しているよ。
レオナルド監督も佑都がインテルに来ることをとても喜んでいる」
(インテルの強化責任者:マルコ・ブランカ)
通常、スピードがある選手は持久力に乏しく、持久力に優れた選手はスピードがない。
しかし長友佑都は、スピードと持久力という相反する能力を兼ね備えていた。
またそういったジョカーレ(サッカー選手)として技術や能力だけでなく、長友佑都のメンタル、どんな困難や壁にぶつかってもへこたれない精神的な強さをインテルは評価していた。

2月1日、契約の翌日はメディカルチェック。
2月2日、インテルの練習に合流。
インテルの練習場は、ミラノの中心から車で1時間弱の郊外。
広い敷地内は関係者以外、立ち入り禁止で、マスコミも記者会見などのイベントがなければ入れなかった。
ピッチはもちろん、ロッカールーム、トレーニングルームも世界一のクラブにふさわしい設備だった。
イタリアだけでなく、ブラジル、アルゼンチン、オランダなど世界の強豪国、ワールドカップ出場常連国の代表選手が名を連ね、30代のベテランも多かった。
「プライド高そうやな。
溶け込むのに時間かかるやろうな。
日本人なんて相手されんのん違うか」
そんな心配は初日からフッ飛んだ。
ガチガチに緊張している長友佑都に、キャプテンのハビエル・サネッティがいきなりお辞儀をした。
そしてお辞儀を返す長友佑都にチーム全員が声をかけた。
38歳のハビエル・サネッティは、1995年にインテル加入後、16年在籍し、アルゼンチン代表でも現役で、練習でも試合でも1番エネルギッシュにプレーしていた。
「日本では30歳を超えるとベテラン扱いされるけどサネッティをみてると、そんな固定観念はなくなる。
自分に限界をつくらず挑戦し続けるサネッティの存在は、重要なことをたくさん教えてくれる」
(長友佑都)
「時々、動くクマのぬいぐるみじゃないかと思っちゃうんだ。
かわいすぎるよ。
あんなにチームのフィーリングとマッチする選手ってめったにいないんじゃないかな。
だからみんなから好かれてるんだよ」
(ハビエル・サネッティ)
長友佑都がストレッチをしていると
「なんでそんなに柔らかいんだ」
マルコ・マテラッィーが騒ぎ出し、ヴェスレイ・スナイデルは携帯電話で動画を撮り出した。
ヴェスレイ・スナイデルと長友佑は特に仲が良く、スナイデルが自宅に招いた長友とチャンピオンズリーグを一緒にテレビ観戦する様子をtwitterに投稿して話題となった。
41歳のレオナルド・ンシメント・ジ・アラウージョ監督に対して長友佑都は
「無茶苦茶、熱い!
無茶苦茶いい人!」
と感じた。
元ブラジル代表でワールドカップ優勝と準優勝を1回ずつ経験。
ジーコの誘いを受けて鹿島アントラーズで3年プレーしたこともあり、日本や日本人について好意的だった。
しかしヨーロッパにはアジアに対して偏見が存在し、アジア人選手はそれと戦ってきた歴史があることも理解していた。
「ナガトモはビッグクラブでプレーする初めての日本人だから周りの目は自然と厳しくなる」

長友佑都がまず驚いたのがシュートゲームだった。
ミニコートでのトレーニングだったが、バンバン、シュートが決まり続けた。
「打てばゴールという感じで確率は100%に近い。
こんなにシュートが決まる練習は日本でもチェゼーナでも体験したことがなかった。
シュートに対する高い意識が伝わってきた」
ヴェスレイ・スナイデルのシュートには度肝を抜かれた。
サイドからパスを受けてからのシュートだったが、それは少しズレた、普通なら蹴れないパスだった。
それをありえないような体勢から一瞬の脚の振りでゴールに蹴り込んだ。
「マジかよ」
パスをどう受け、どうシュートに持っていくか、瞬時にイメージし、その通りに身体を動かす。
判断力と技術の高さを証明するすごい一撃だった。
同じサイドバックのマイコンは、攻撃のアイデアが豊富で、周囲を活かすパスを絶妙のタイミングで出した。
わずかな一瞬も見逃さない視野や駆け引きがうまかった。
「こんな選手たちの中でやっていけるのか」
そんな弱気は足元にボールが来た瞬間に消えた。
「やってやろうじゃないか。
今は差があって当然。
ここから這い上がるだけだ」
そして練習後、ロッカールームで音楽が流れるとみんなと一緒にダンスした。
「佑都の武器は相手の懐に入っていく力だね」
チームメイトと楽しくやっている長友佑都をみてスタッフがいった。
その後、チーム合宿で
「同じ部屋にいると楽しめる」
と長友佑都と同部屋を希望する声が殺到したり、新シーズンに向けたイベントで5000人のサポーターを盛り上げるなど卓越したコミュニケーション能力をみせた。
チェゼーナでチームメイトだったジュゼッペ・コルッチは
「長友は日本人なんかじゃない。
あれはラテンの血が混ざってる。
むしろイタリア人だよ」
と語っている。
コルッチはレッジーナで中村俊輔、カターニャで森本貴幸と共にプレーした経験があった。
「最初は大人しくてまじめな選手なんだろうなって思ってた。
いわゆる一般的な日本人像ってやつだ。
礼儀正しくて物静か。
あまり輪の中に入ってこない。
いつもクールな日本人。
中村は根っからに真面目だったな。
初めて彼の声を聞いたのは半年くらい経ってからだ。
森本もそこまで賑やかなタイプじゃない。
中田(英寿)もそうなんだろう?
でも長友は違う。
ロッカールームでふざけあってたし、冗談もいい合ってた。
最初は言葉も話せなかったのにね。
今考えると、それは新たな環境への適応力だったんだと思う」
チェゼーナでは何時間もバスに乗って移動したが、インテルは国内でもチャーターした飛行機で移動した。
インテルカラーのバスが空港に入り、飛行機に横づけ。
そして向こうの空港に着くとインテルカラーのバスが待っていた。
(一体何台あるんだよ)
陸路の移動はこのインテルからのバスだった。
そしてスタジアムにつくと、ホームならサポーターの声援の中を、アウェイなら大ブーイングの中を歩いていく。
声援もブーイングも、強烈なサポーターの熱が伝わってきた。
メディアの数も多く、とにかく注目度が違った。
対戦相手はインテル戦には特別な思いで挑んできた。
そういうガムシャラな相手にキッチリ力の差をみせつける。
他の追随を許さないようなオーラを放ち、サッカーのテクニックだけでなく強靭なメンタリティを持った集団。
それがインテルだった。
またチームメイトはみんな、いつも落ち着いていた。
経験なのか余裕なのか、試合で劣勢になっても、どんなことがあっても動じなかった。
当初、長友佑都は
「あまり敏感になりすぎちゃいけないんだな。
ちょっと鈍感なくらいなほうがいいのかもしれない」
と図太さの重要性に気づいた。
2月3日、アウェイでパリ戦。
長友佑都はベンチに入ったが出場はなかった。
しかしこの試合でインテルの左サイドバック:クリスティアン・キヴが4試合出場停止処分を受けた。
2月6日、インテルはホームでセリエAのローマ戦。
6万人のサポーターに埋め尽くされたサンシーロスタジアムの正式名称は「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ」
そしてクラブカラーのネロ(黒)とアズーロ(青)のユニフォームを着用したインテルは「ネラッズーリ」と呼ばれる。
試合前のアップから
「ピッチに立たせてくれ」
と念を送り続けた長友佑都はベンチスタート。
後半30分、4対1でリードした場面でヴェスレイ・スナイデルと交代しピッチへ立った。
インテルは退場で1人少ないローマを積極的に攻め続け、最終的に5対3で勝った。
試合後、長友佑都は「お辞儀」のパフォーマンスをサポーターの前で初披露。
練習などですでにチーム内にお辞儀が浸透していた。

2月13日、ユヴェントスとのダービー戦で、長友佑都はベンチスタート。
ビッグクラブ同士の対戦を、ブラジルでは「クラシコ」、イタリアでは「ダービー」といい街はお祭り騒ぎとなり、一部のサポーターは殺気立つ。
「我々と敵の戦いが始まる」
こうして選手もサポーターもリーグ戦の1試合でありながらリーグの順位に関係なく絶対に勝たなくてはならない試合となる。
インテルは先制点を許し、守りを固めるユヴェントスに手を焼いた。
後半28分、長友佑都はピッチに入った。
0対1。
勝利のために得点は必要だが、失点してもいけない。
最初に自陣でボールを受けた長友佑都は、前ではなくバックパスを選んだ。
続く2本もバックパス。
ボールを失わないように慎重にプレーした。
そして0対1のまま負けた。
その後、フィオレンティーナ戦、カリアリ戦で先発したが目立った活躍はできなかった。
なかなか自分を発揮するタイミングがつかめなかった。
イタリアのメディアは、最初は長友佑都がインテルに入ったことを
「歴史的事件だ」
と派手に報道していたが、いまや
「やっぱり日本人はこの程度か」
とこき下ろした。

2月23日、欧州チャンピオンズリーグ(UCL)決勝トーナメントの1回戦で、インテルはホームでバイエルン・ミュンヘンと対戦。
長友佑都は、チームが終了間際に失点し敗れるのをベンチでみた。
欧州チャンピオンズリーグ(UCL)は、欧州サッカー連盟(UEFA、ウエファ)によって毎年9月から翌年の5月にかけて開かれる国際大会。
1次リーグは、4チーム×8組に分かれ、ホーム&アウェイの総当たり戦で行われ、各組上位2位チームが決勝トーナメントに進出する。
出場するのは欧州各国のリーグの上位ばかりで、バルセロナ(スペイン)、レアルマドリード(スペイン)、ACミラン(イタリア)、バイエルンミュンヘン(ドイツ)、マンチェスターユナイテッド(イングランド)は常連だった。
有名クラブ、人気クラブが登場する大会に世界中が注目し、優勝賞金は、640万ユーロ(1ユーロ=60円とすると約10億2400万円)
実際は、予選から決勝戦まで試合ごとに分配金が支払われるので優勝すると50億円を超える。
たとえ1次リーグで全敗しても最低5億がもらえる。
ワールドカップなどで各国の代表チームの選手が全員集まって練習する時間は短いが、クラブチームの場合、毎日同じメンバーで練習し試合をする。
そのためチームとして成熟度が高く試合のレベルが非常に高い。
優勝チームは、「欧州最強」の称号を手に入れると共に、12月に日本で行われるクラブワールドカップの出場権を得る。
お辞儀
2月27日、セリエAのサンプドリア戦で、負傷しているマイコンに代わって長友佑都が右サイドバックで先発出場。
インテルは2対0で勝ったが、まだまだ長友佑都のプレーは出なかった。
「僕はこんなもんじゃない。
もっと思い切ったプレーで自分を表現しなくちゃいけない。
結局、自分との戦いに勝たなければダメだ」
3月3日と4日は、インテルに加入して初めての連休だった。
久しぶりにのんびりしながら、自分が疲れていたことを実感した。
そしていろいろなことを考えた。
年末の日本代表の合宿から始まり、アジアカップ、イタリアに戻った直後にインテルに移籍。
以後、週2試合が続いた。
長友佑都は決意した。
「もっと自分らしくプレーしよう。
裏のスペースへのパスを要求し、サイドを駆け抜ける姿勢をチームに示さなくちゃいけない。
自分とストロングポイントや特長を出していかなければ生き残っていけない」
3月6日、ジェノア戦に長友佑都は途中出場しセリエA初得点を決めた。
得点後は、ハビエル・サネッティとお辞儀のパフォーマンス。
これを地元紙が大きく報じた
最初はゴールパフォーマンスだったが、長友佑都が得点をアシストしたときなども選手が輪になってお辞儀、長友佑都がお辞儀をすると観客がお辞儀を返すようになっていった。
「日本人に対して多くの偏見がある中、ナガトモはそれを跳ね返した」
(試合後のレオナルド監督はコメント)
東日本大震災

3月11日、日本で大きな地震と津波が発生。
長友佑都は、そのニュースを試合のため滞在していたホテルでみた。
「ミヤギ・・・、イワテ・・・、フクシマ・・・」
テレビのアナウンサーが話すイタリア語の中に聞き慣れた日本語が混じっていた。
背中に冷たいものが走り、東京に何度も電話をかけたがつながらなかった。
「すごく揺れたけど大丈夫だから」
携帯電話にメールが届いたが、気持ちは落ち着かなかった。
悲惨な現場の映像が次々とテレビに流されていた。
陸が浸水しまるで海のようになっていた。
日が落ちて真っ暗になっても火の手が上がっていた。
東北の知り合いや実際に行ったことのある東北のあの場所はどうなっているのか。
イタリア語の放送では状況がすべて理解できず、歯がゆさが不安を増幅させ、なにもできないことにむなしさを感じた。
前々日の練習で左サイドバックのキヴが太腿を痛めたため、長友佑都はその日の夜の試合で先発の可能性があった。
だからいつまでテレビをみているわけにはいかなかった。
試合の準備、戦う準備をしなければならなかった。
「大丈夫か?」
チームメイトは声をかけられると
「うん、大丈夫」
答えたが、絶望と悲しみ、そして寒さで震えている人がいると思うと、試合に集中できるかわからなかった。
しかしピンチに立たされた人、日本のために長友佑都がやるべきことはたった1つだった。
「被災した人、日本のために僕ができるのは精いっぱいやるだけ」
試合前、アウェイのスタジアムに場内アナウンスが流れた
「ナガトモの母国、日本で震災があったことをお悔やみ申し上げます」
長友佑都は喪章をつけて日本人であることを誇りにピッチに立った。
そして試合では困難に立ち向かう大和魂、日本人の強さを示そうとした。
先制点を決めたサミュエル・エトーは、その直後、長友佑都のそばにいっていった。
「このゴールは日本のみんなに捧げるよ」
その後もイタリアでもずっと日本の震災のニュースが報じられた。
地震や津波だけでなく、原発の問題もあるという。
長友佑都は思った。
(諦めちゃダメだ。
諦めない気持ちを届けたい)
3月15日、欧州チャンピオンズリーグ(UCL)決勝トーナメントの1回戦、バイエルン・ミュンヘンとのアウェイ戦。
ホーム戦で敗れているインテルは勝たなければ1回戦敗退となってしまう。
長友佑都はベンチスタートだった。
前半3分、サミュエル・エトーが先制点。
前半21分、31分にバイエルンが得点し1対2。
後半18分、スナイデルのゴールで2対2。
後半42分、
「お前の攻撃力をみせてくれ」
というレオナルド監督の指示を受け、長友佑都がキヴと交代しピッチへ。
残り時間はわずかだが、同点のままでは負けとなる。
チームがボールをキープした瞬間、長友佑都は左サイドを駆け上がった。
ロングボールがペナルティエリア内のサミュエル・エトーへ。
長友佑都は躊躇なくエリア内に侵入し、バイエルンのディフェンダーの注意を引いた。
すかさずサミュエル・エトーがサイドへパスを出し、飛び込んできたゴラン・パンデフがゴール。
土壇場の大逆転にスタジアムは静まり返った。
4分のロスタイムを経て、インテルは準々決勝進出を決めた。
長友佑都はベンチに走っていってメッセージを書いた日の丸を掲げた。
「どんなに離れていても心は1つ。
1人じゃない。
みんながいる。
みんなで乗り越えよう。
You`ll Nevere Walk Alone.」
すると場内に「You`ll Nevere Walk Alone.」が流れ始めた。
ヨーロッパを中心に世界中のサポーターが試合前に歌う曲で、FC東京でも毎試合歌われていた。
「最後まで諦めない姿勢をみせられた。
本当に勝ててよかった。
世界が日本を心配してくれてすごくうれしい。
日本人でよかった。
ああいう場面でディフェンダーの交代はなかなかない。
チャンスをくれた監督に感謝している。
逆転ゴールは日本の皆さんへのプレゼントだと思う。
準々決勝はウッチー(内田篤人)のいるシャルケと当たりたいね。
日本人2人が試合に出れば日本の皆さんを喜ばすことができると思うから」
(長友佑都)

3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティマッチ、日本代表 vs Jリーグ選抜が大阪の長居スタジアムで行われ、長友佑都は日本代表の一員として先発。
Jリーグ選抜の三浦知良がゴールを決めた。
試合後、44歳の三浦知良は日本代表に
「お前らに任せたよ」
といった。
長友佑都は
「お前が持っているそのボールはチームメイトが懸命につないでくれたボールや。
心で蹴れ」
中学時代の井上博の言葉を思い出し
「僕らは1つのボールでつながっている」
と思った。
サッカーは1人ではできない。
誰かがミスをしたら誰かが補う。
チームのために走りチームのために体をぶつける。
そういうプレーが積み重なってゴールが生まれる。
長居スタジアムのピッチには立っていないが、地元で募金活動などを行うJリーガーもいた。
世界中のフットボーラーが、日本のために「何かしよう」と立ち上がり、思いを1つにしていた。
そしてサッカー選手は多くのサポーターの声援に励まされピッチに立っていた。
「自分がいいプレーをすることで少しでも日本のみんなに何かを伝えることができたら・・・・
それが恩返しにもなる」
余裕を持つこと

チャリティマッチの翌日、長友佑都はイタリアへ戻った。
そしてセリエAで首位を争っていたインテルとACミランが直接対決。
長友佑都はベンチスタートで出場機会がないまま、チームは0対3で敗れた。
続く欧州チャンピオンズリーグ(UCL)決勝トーナメント準々決勝、ホームで行われたシャルケ(ドイツ)戦で、長友佑都は途中から出場したが、インテルは2対5で大敗した。
長友佑都は、インテルに入ってから
「自分らしいプレーができない」
と悩んでいた。
これまでできていたプレーもできなくなっていた。
相手のプレスが速くなっていることもあったが、これまでみえていた場所がみえなくなり、視野が狭くなっていた。
世界一のクラブのプレッシャーは過去に経験したことのないものだった。
レベルの高いチームの中で練習から一瞬も気を抜くことができなかった。
足りない技術は居残り練習して磨いた。
壁を破ろうと思いつく限りの試行錯誤とトライを繰り返した。
それでも
「今のままでは上へはいけない」
という思いは消えなかった。
ACミラン戦、シャルケ戦という重要な連戦中も、数日滞在した日本のことを思い出された。
被災し家や家族、職を失い、未来に大きな不安を抱えながら懸命に生きようとする人をみて、その心が感じられた。
「まずは心があり、考え、行動する。
人は心で動いている。
大切なのは心なんだ」

またインテルにはサッカーで成功した人間が多くいたが、中でもハビエル・サネッティやサミュエル・エトーなどは、恵まれない子供や貧しい人たちを助けるためのボランティア活動を行っていた。
長友佑都は感心させられ、彼らが大きな結果を残せるのは、高い技術やフィジカルだけなく、素晴らしい心を持っていることが、その理由であると思った。
「彼らは自分のことだけを考えて生きているわけじゃない。
その心の余裕、大きさを痛感した。
だからブレないし、何があっても動じない」
これまで長友佑都は常に
「やってやる」
と熱意、集中力、無我夢中、強い思い、信念、努力、継続などをテーマに生きてきた。
しかしいくら頑張り、頑張り続けても、なにかあるとすぐに不安になったり、イライラしたり、カリカリしたりしてしまった。
つまり心に余裕がなかった。
「熱くなりすぎることで余裕がなくなり周りがみえなくなる」
自分が直面していた問題は、走力、1対1の強さ、フィジカルなどではなく、サッカー選手として、人間として乗り越えなければいけない精神的な壁であり、それを打開するには
「心に余裕を持つ」
ことと悟った長友佑都は、サッカーも練習も、日常の生活も、すべてに余裕を持つことを心がけた。
キエーボ戦で先発したときは、今までになかった心に余裕があった。
プレーにもその余裕が影響し、みえなかった場所がみえた。
視野が格段に広がっていた。
1つ1つのプレーに自信が宿り伸び伸びとやれた。
そしてインテルは2対1で勝った。
「いい仕事ができたという達成感より、壁を乗り越えるカギをみつけたという喜びがあった」
日本男児

欧州チャンピオンズリーグ(UCL)決勝トーナメント準々決勝、シャルケ(ドイツ)とのアウェイ戦がドイツのゲルゼンキルヘンで行われた。
インテルは1週間前のホーム戦で2対5で敗れたため、この試合で4点差以上の勝たなければならなかった。
長友佑都を先発で出場し、シャルケの内田篤人との日本人対決も注目された。
長友佑都は、エトーと共に左サイドで高いポジションをとって内田篤人のいる右サイドにプレッシャーをかけた。
内田篤人は基本的にエトーをマークし、とにかく自由にさせないように辛抱強く守りながら、流れや状況によって長友佑都にも対応した。
インテルのボール保持率は63%と攻め続けた。
シャルケは、相手にボールを持たれても引き過ぎないようにラインの高さを維持しゲームをコントロール。
そしてチャンスになるとシンプルなサイド攻撃から前線のフォワードに合わせた。
内田篤人もエトーと長友佑都を封じつつ機をみてスルスルと駆け上がりチャンスに絡んだ。
シャルケは効率よく2点を奪い、インテルはセットプレーからの1点のみで1対2で敗れた。
非常に難しいシチュエーションの中、長友佑都は両チーム最長の距離を走り、ガンガン攻めたが、決定的な仕事はできなかった。
内田篤人はゲーム終盤に左足を痛めたが、チームがすでに3枚の交代札を使っていたので最後まで戦った。
厳しい状況下でもへこたれず立ち向かうタフネス。
コツコツと努力を積み重ねる粘り強さ。
他人のために汗をかく献身的姿勢。
より向上したいと学ぶ勤勉さ。
そして何より他人をリスペクトする思いやりや優しさ。
2人は日本人の強さをヨーロッパにみせつけた。
長友佑都は、負けて悔しかったが悔いはなかった。
「心に余裕を持つこと」の重要性を認識した後は、どんなプッシャーも力に変えることができ、プレッシャーを楽しむことができた。
改めてセリエAや欧州チャンピオンズリーグ(UCL)をインテルのユニフォームを着て戦える幸せを感じた。
5月22日、セリエAのカターニア戦で、長友佑都は2得点目を挙げた。
イタリアのスポーツ紙:ガゼッタ・デッロ・スポルトは
「インテルに欠けていた闘争心に飢えている象徴的存在」
と評した。

6月6日、著書「日本男児」が、オリコン本ランキングでスポーツ選手としては初となる売上1位を獲得。
イタリア語に訳された「Un ragazzo giapponese」も出版された。
7月1日、当初はシーズン終了までのトレードレンタル移籍だったが、5年契約でインテルへ完全移籍。
12月10日のフィオレンティーナ戦、12月13日のジェノア戦で2試合連続ゴール。
12月18日、チェゼーナとのアウェー戦で、試合前にチェゼーナサポーターから「ユウト」コールが起こり、長友佑都はお辞儀で応えた。
12月21日、レッチェ戦では2アシスト。
ESPNSTAR.comは、「2011年度世界のディフェンダートップ5」で長友佑都をランクインさせた。
2011~2012年シーズン、インテルは2度監督を交代した。
交代当初は起用されないこともあった。
しかし最終的に長友佑都はレギュラーを獲得した。
「とてもシンプル。
夢を持叶えるためにトレーニング、努力ができるかだけ」
「技術やフィジカル、戦術眼、さまざまなものが求められるが、1番大切なのはメンタル。
ブレない信念、確固たる自信、大きな心」
(長友佑都)