1967年2月5日「ザ・タイガース」のリードボーカルとしてデビュー
1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー
セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気爆発、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な美貌の持ち主である沢田は、一躍国民的アイドルとなった。
タイガース時代の衣装は当時の新進気鋭のデザイナー、コシノジュンコさんが担当していた。
ジュンコさんにしては地味かも
胸のロゴが ブティック コシノ ジュンコ
NHKの朝の連続ドラマで「カーネーション」というドラマがありましたが、そのドラマの中でコシノジュンコさんとジュリーがモデルとなったシーンがあった。
1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、特に1970年代から1980年代前半にかけてはスーパースターとして日本のポップス界を牽引した。
1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート
『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に!日本のアーティストが現れたのは彼らが最初で最後
米国「ローリングストーン (Rolling Stone)」の第28号の表紙
1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。
日本人として初の日本武道館単独公演
ソロになってからのジュリーがスゴイ!
1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得。
この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。
「男性のアクセサリー」や「化粧」、「バンドサウンド」を日本の一般家庭に浸透させ、歌謡曲とロックを融合させたのが沢田である。
ジュリーの斬新なスタイリングの数々
これらの斬新なファッションはスタイリストとして参加した早川タケジによるものである。
沢田研二-ハーケンクロイツのつながり - エルペディア【Wikipedia】
沢田研二が演れば邪道ではなく王道になる。 それが沢田研二!
「憎みきれないろくでなし」ポーズ ポスター
沢田研二 恋のバッド・チューニング (1980)
元ネタが「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングだったり「地球に落ちてきた男」のデヴィッド・ボウイだったりディートリッヒだったり。数え上げればキリがない。
http://d.hatena.ne.jp/snksnksnk/20120728/1343452842沢田研二 - 晴れのちBLUE BOY (1983) - 前世紀遺跡探訪 <80s-バブル終焉>
香港では、『日本のデヴィッド・ボウイ』と称されている
「夜のヒットスタジオ」での伝説の畳バージョンの「サムライ」その1
1980年2月29日に同じシチュエーションで写真集「水の皮膚」を発売した。この写真集は男性歌手として初めてのオールヌード写真集
「声の色気では断トツの日本人ナンバーワン」として、音楽界の識者たちから歌のうまい歌手総合第5位にランクイン。
B'zの稲葉浩志やDER ZIBETのISSAYをはじめとして、吉井和哉、河村隆一、清春、BUCK-TICKの櫻井敦司、福山雅治、ZIGGYの森重樹一、エレファントカシマシら、ジュリーの楽曲をカバーする歌手は後をたたない。
1989年に三代目市川猿之助(現・市川猿翁)演出のスーパーオペラ「海光」の主演スサーノ役、1993年に「漂泊者のアリア」で日本のオペラ歌手藤原義江役を演じ、さらに音楽劇ACTシリーズでは『愛の賛歌』『 バラ色の人生』などシャンソンまで歌いこなしている。
現在の沢田研二 「50になってもロックン・ローラーでいたい」
30歳以降の沢田研二の歴史はダイエットの歴史だった
「ジュリー」であるためには太ってはいけないというプロ意識が当時すごく強かったという。
沢田研二 - 晴れのちBLUE BOY (1983) - 前世紀遺跡探訪 <80s-バブル終焉>
沢田研二は「素材」としてはとんでもない逸材で、あらゆる前衛と冒険と先取りを平然とやってのけた。
http://d.hatena.ne.jp/snksnksnk/20120728/1343452842沢田研二 - 晴れのちBLUE BOY (1983) - 前世紀遺跡探訪 <80s-バブル終焉>
ジュリーの衣装やスタイリングは、ファッションそのものとして視覚的に楽しむことができます。時間が経過した今だからこそファッション界や他の芸能人の方との人間関係など、時代背景を踏まえて楽しむことができるのでしょう。音楽的にもファッション的にも当時のジュリーは、新しいものを取り入れ業界を変えてきた人物でした。彼の行動力と斬新な発想を取り込み自分のスタイルを築きあげてきたパワーを見習いたいものですね!
新しいものの方が古いものよりも優れていると思いがちですが、時間とともに生まれる価値というものもあるのも確かなことです。