【小橋建太インタビュー(前編)】でご覧いただいた通り、幾多の苦難を乗り越えるというよりもどんなときも諦めない、まさに執念でプロレスラーへの道をこじ開けた小橋さん。
【小橋建太インタビュー(前編)】プロレスラーを夢見て「どんなときにも希望はある」 - Middle Edge(ミドルエッジ)
ついにたどり着いたプロレスの舞台。今回は「青春の握りこぶし」と呼ばれた熱血、全力ファイトでファンを魅了し続けた全日本プロレス時代について語っていただきます。
【小橋建太インタビュー(中編)】青春の握りこぶし「全力ファイト、自分を信じて」をご覧ください。
小橋建太さん
※前編、中編、後編全3回のインタビュー記事の最後には、小橋さんからのプレゼント情報を掲載します。どうぞお楽しみに。
無名の新人から四天王、さらにその先へ
ミドルエッジ編集部(ミド編)
とうとう掴んだプロの切符、プロレスラー小橋建太の船出は波乱万丈だったんですね。
「上京して初めて全日本プロレス事務所を訪問した日のことです。なんと大勢のマスコミが待ち構えていたんです。入団まで色々あったけどプロレスラーになるんだな~って思いましたね。週刊ゴングや日刊スポーツの編集長からも声を掛けられて話を聞かれました。ところがです、どうも話が噛み合わないんです。後で知ったのですが、マスコミのお目当ては僕ではなく田上選手(田上明)の全日本プロレス事務所訪問。大相撲の元十両・玉麒麟だった田上明がプロレスに転向するということで、その画を撮ろうとマスコミが待ち構えていたということでした。」
ミド編)
それが記念すべき最初の日だったんですね。。。
「後になってマスコミの人に“あの日に撮った写真、記念にいただけませんか?”ってお願いしたんですけど、みんな捨ててしまっていました(笑。」
「入団して“僕頑張ります!”と意気込んでも“みんなそう言うんだよね”と。散々なスタートだったかもしれないですが、だからこそ逆に“実績ある奴らに絶対に負けない、20歳までの実績はないけれどこれから10年20年努力して実績を作るんだ”と思えたのかもしれません。」
ミド編)
小橋さんの代名詞といえば”青春の握りこぶし”。全日本プロレスファンは、いつも変わらない小橋さんの全力ファイトに魅了されたものでした。
「当時、実績を引っ提げてプロレスに来ても大成しない人はたくさんいました。大切なのは常に自分自身の気持ちなんです。絶対に追いつき追い越してやる、自分にはそれが出来るんだと信じ抜くこと。だからそのために取り組むことを努力とは思わないんです。ただ為すべきことに真面目に取り組む、それだけでした。きっとその姿をファンの皆さんが応援してくれたんですよね。」
ミド編)
ファンの声援に後押しされるように小橋さんはトップレスラーへの階段を上がっていきました。超世代軍を経て全日本プロレスの最年少四天王へ。
四天王と呼ばれた時代には、どのような思いを抱いてリングに上がっていたのでしょうか。
「僕が四天王という言葉で括られるようになったのは1993年。この年の5月、札幌中島体育センター大会で四天王が揃い踏みで当時の外人四天王にシングルマッチで勝利(外人四天王:スタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス、ダニー・スパイビー、小橋選手はテリー・ゴディ選手に勝利)、そして年末の世界最強タッグリーグ戦に三沢さんとのコンビで出場して川田・田上組を破って優勝しました。ここから全日本プロレスは四天王時代に突入したのですが、はっきりいって葛藤がありました。」
ミド編)
最年少四天王のプレッシャーも感じられていましたか?
「そもそも四天王と呼ばれるようになった時点で僕は他の3人にシングルマッチで未勝利でしたから。1993年に四天王と括られるようになってシングルマッチで初めて勝ったのは3年後の1996年、田上選手を破って三冠ヘビー級王者になった試合です。それまでの3年間、僕は一度も3人に勝てない四天王だったんですよ。」