2011年に芸能界を引退した島田紳助さん
2011年8月、暴力団関係者との交際疑惑を理由に引退を宣言した島田紳助さん。
まさに芸能界に激震が走りました。
当時、すぐに思い出せるだけでも「行列のできる法律相談所」「人生が変わる1分間の深イイ話」「オールスター感謝祭」「開運!なんでも鑑定団」「クイズ!ヘキサゴンⅡ」などの人気番組を手掛けていましたね。
その後、多くの番組は吉本興業の後輩らによっていまも支えられています。
あれから8年。
今年6月、芸能界に激震が走った吉本興業の「闇営業」関連の報道。
事態は吉本興業の企業面にも注目されていくなかで、島田さんの発言が注目されています。
島田紳助が激白「松本の発言は別問題やから。でも大崎クビにしたら会社潰れんで」 | 文春オンライン
引退後も大きな影響力を持つ島田さんの発言。
「M-1グランプリ」を生み出すなどお笑い界にとって不世出のプロデューサーであり、彼がいたからこそ身を立てることが出来たといって憚らないタレントも大勢います。
そんな島田さんですが、プロデュースやMCなどの腕はもちろんのこと、自分自身もかつては新境地を切り開く新進気鋭の漫才師だったことを憶えているでしょうか。
漫才コンビ「紳助・竜介」(1976~85年)
当時の「漫才ブーム」立役者だったお笑いコンビB&Bの後を狙い、島田洋之介・今喜多代の内弟子だった島田さんが松本竜介さんと結成した漫才コンビで「紳助・竜介」や「紳竜」と呼ばれました。
それまでの漫才師を研究し、自分たちの芸を徹底的に考え抜いた末に「若い世代にだけ受ける漫才」を目指すことに決めた紳竜。上岡龍太郎さんを師と仰いでいた島田さんと上岡さんの間に、こんなやり取りがあったとされています。
既存の芸をやらない考えから入っていった紳竜は、それまでの漫才で定番だった背広のスタイルを廃し、リーゼントヘアにつなぎの作業着という当時の不良少年のファッションスタイルで演じる「ツッパリ漫才」を考案。
「落ちこぼれの本音の会話」を代弁するスタイルで中高生から圧倒的な支持を得ることが出来ました。
なんとコンビ結成から4か月でNHK上方漫才コンテストの予選会を通過、そのまま78年3月の決勝まで勝ち残り優秀敢闘賞を受賞することに。もしかするとこのときの自身の経験が後に「M-1」の構想に至るのかもしれませんね。
時折しもツッパリ全盛期、まさにトレンドの最先端をいち早く取り込んだのが紳助・竜介だったのでしょう。
80年代荒れた!!不良中学高校生~~昭和のツッパリ編 - Middle Edge(ミドルエッジ)
その先進性について、このような評価もあります。
1980年には「THE MANZAI」が始まり、翌81年には「オレたちひょうきん族」でレギュラーに。
全国区で一気にスターダムへと駆け上がりました。
私などは、ひょうきん族で初めて「島田紳助」を知った世代です。
人気絶頂期にもかかわらずコンビ解散
人気絶頂期と同時に急速に陰りを見せ始めた「漫才ブーム」のなかで、島田さんは自らの漫才の限界を感じたとされています。その判断をさせるに至ったのが若き日のダウンタウンでした。
後のプロデュース業にも繋がるのでしょうが、先を読む力や自身の力量を冷静に分析する目線などは当時からあったのでしょう。そして引退時もそうでしたがとにかく判断が早い。
お笑い芸人としてでなく、お笑い界の人間としていまなお絶大な影響力を誇る背景には、島田さんのそうした才能が畏敬されているような気がします。