土井のブームをもってしても政権交代には至らなかった社会党。その一方で、社会党と連携していた公明党と民社党は、野党における社会党の一人勝ち状態への不満から社会党と距離を置くようになります。その結果、2党は自公民路線へと舵を切ることとなり、1991年の地方統一選挙で社会党は敗北。土井はこの敗北の責任を取り、社会党委員長の座を降りることとなりました。
自社さ連立政権、そして少数政党化へ。
その後も社会党の退潮傾向は続き、1993年の衆議院議員総選挙では議席を半減させる大敗を喫し、ブーム以前の議席数にまで減少。そして、自民党・社会党・新党さきがけによる「自社さ連立政権」での村山富市首相の「消費税5%への閣議決定」といった、従来の社会党と真逆の政策にはかつての支持者も失望し、社会党は分裂・少数政党化への道を歩んでいくこととなります。その一方、土井は1993年から1996年にかけて、第68代・衆議院議長として活躍。メディアにその存在感をアピールしていました。
その後の土井たか子の動向は?
90年代後半以降の土井ですが、1996年9月の衆議院解散による衆議院議長退任後も社会民主党(1996年に日本社会党から改称)に在籍。1999年には中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加したり、2000年からは社会主義インターナショナルの副議長に就任するなど要職を歴任しました。その一方で、2005年の衆議院議員総選挙(いわゆる郵政選挙)にて比例近畿ブロックから出馬したものの落選。1969年以来の衆議院の議席を失いました。
事実上の政界引退、そして死去。
2005年の総選挙で落選した土井ですが、その後の選挙にも立候補せず、事実上政界から引退しました。しかしながら政治活動自体は続ける意思を示しており、2010年までは、自身の呼びかけで設立したアジア人権基金の代表理事などを務めていました。しかし、2010年代に入り体調を崩し入院、2014年9月20日、肺炎のため兵庫県の病院で死去しました。85歳でした。土井の訃報には与野党から追悼のコメントが届き、同年11月にはお別れ会が開かれました。
土井の政治家としての活動には、過去から現在に至るまで保守系の論客、革新系の論客それぞれから様々な意見が交わされているものの、共通して言えることは「70年代から90年代の日本政治史に名を刻む政治家の一人」であるという点です。今後も引き続き、彼女の政治家としての人生は研究対象になることでしょう。
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