80年代後半に「マドンナ旋風」を巻き起こした土井たか子!
皆さんは「土井たか子」という人物を覚えていますでしょうか?主に日本社会党で活躍した政治家で、80年代後半からは「おたかさんブーム(マドンナ旋風などとも呼ばれる)」を巻き起こし、社会党の躍進の立役者となりました。この記事では、土井たか子の功績に加え、1990年前後の国政選挙についても書いてみたいと思います。

1969年、社会党から出馬した衆院選で初当選。
土井たか子は1928年、兵庫県神戸市生まれ。1945年に旧制京都女子専門学校を卒業後、同志社大学で憲法学者・田畑忍の講演「平和主義と憲法九条」に感銘を受け、田畑の指導を受けるために同志社大学に編入、その後、同大学の大学院修士課程を修了しました。その後は憲法学の講師として、同志社大学や関西学院大学などで教鞭を取っていたのですが、政界から声がかかったため、1969年の第32回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬、初当選を果たしました。

当選後、衆議院議員となった土井は女性への性差別に関する活動を活発化、男女の雇用差別といった当時の社会問題に切り込んでいきました。そして社会党の中で頭角を現し、1983年に社会党の副委員長に就任します。

1986年、社会党の委員長に就任!
1986年、中曽根康弘が仕掛けた「死んだふり解散」による衆参同日選挙で社会党が大敗したのを受け、土井は第10代社会党委員長に就任。憲政史上初の女性党首となりました。委員長となった土井ですが、そのはっきりとした物言いのキャラが国民に受け、社会党のイメージ刷新に貢献。「おたかさん」として、お茶の間の人気者となっていきます。

自民党政権と真っ向から対決!!
委員長となった土井は、お茶の間の支持を背景に当時の自民党政権と激しく対立。1987年の中曽根内閣時には「売上税法案」を巡り社公民路線(社会党・公明党・民社党)及び社民連とも協力し同法案を廃案に追い込み、竹下内閣では消費税導入とリクルート事件を追求し、竹下内閣を退陣へと追い込みました。
1989年の参院選で社会党が躍進!!
社会党が勢いを増す一方で、自民党が防戦に追い込まれる中行われた1989年の第15回参議院議員選挙では、土井は4点セット(消費税問題・リクルート問題・宇野首相の女性問題・オレンジ自由化の問題)を武器に自民党に攻勢を仕掛け、自民党の獲得議席が36議席に留まる中、社会党は46議席を獲得。宇野首相を退陣へと追い込みました。この際、土井は「山が動いた」と発言し、お茶の間での「おたかさんブーム」は最高潮に達しました。
前述の「おたかさんブーム」は1990年の衆議院議員総選挙でも維持され、社会党は躍進。「もう1つの山を動かさなければならない」を旗印に、51議席増の136議席を獲得したものの、一方の自民党も275議席(安定多数)を確保したため、他の野党との議席を合わせても政権交代には至りませんでした。

1991年の統一地方選で敗北、以後退潮傾向に。
土井のブームをもってしても政権交代には至らなかった社会党。その一方で、社会党と連携していた公明党と民社党は、野党における社会党の一人勝ち状態への不満から社会党と距離を置くようになります。その結果、2党は自公民路線へと舵を切ることとなり、1991年の地方統一選挙で社会党は敗北。土井はこの敗北の責任を取り、社会党委員長の座を降りることとなりました。
自社さ連立政権、そして少数政党化へ。
その後も社会党の退潮傾向は続き、1993年の衆議院議員総選挙では議席を半減させる大敗を喫し、ブーム以前の議席数にまで減少。そして、自民党・社会党・新党さきがけによる「自社さ連立政権」での村山富市首相の「消費税5%への閣議決定」といった、従来の社会党と真逆の政策にはかつての支持者も失望し、社会党は分裂・少数政党化への道を歩んでいくこととなります。その一方、土井は1993年から1996年にかけて、第68代・衆議院議長として活躍。メディアにその存在感をアピールしていました。

その後の土井たか子の動向は?
90年代後半以降の土井ですが、1996年9月の衆議院解散による衆議院議長退任後も社会民主党(1996年に日本社会党から改称)に在籍。1999年には中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加したり、2000年からは社会主義インターナショナルの副議長に就任するなど要職を歴任しました。その一方で、2005年の衆議院議員総選挙(いわゆる郵政選挙)にて比例近畿ブロックから出馬したものの落選。1969年以来の衆議院の議席を失いました。

事実上の政界引退、そして死去。
2005年の総選挙で落選した土井ですが、その後の選挙にも立候補せず、事実上政界から引退しました。しかしながら政治活動自体は続ける意思を示しており、2010年までは、自身の呼びかけで設立したアジア人権基金の代表理事などを務めていました。しかし、2010年代に入り体調を崩し入院、2014年9月20日、肺炎のため兵庫県の病院で死去しました。85歳でした。土井の訃報には与野党から追悼のコメントが届き、同年11月にはお別れ会が開かれました。

土井の政治家としての活動には、過去から現在に至るまで保守系の論客、革新系の論客それぞれから様々な意見が交わされているものの、共通して言えることは「70年代から90年代の日本政治史に名を刻む政治家の一人」であるという点です。今後も引き続き、彼女の政治家としての人生は研究対象になることでしょう。
土井たか子の人生を更に詳しく知りたい人はこちらで!
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