漫画界伝説のアパート『トキワ荘』

トキワ荘ドキュメンタリー「漫画がすべてだったトキワ荘の頃」
トキワ荘ドキュメンタリー「漫画がすべてだったトキワ荘の頃」 5-1 - ニコニコ動画
トキワ荘(トキワそう)は、東京都豊島区南長崎三丁目(住居表示16番6号、完成当時の住所表記は豊島区椎名町五丁目2253番地)に1952年から1982年にかけて存在した木造アパート。昭和57年、老朽化のため取り壊され、現在は出版社が建っている。
かつての所在地:東京都豊島区南長崎三丁目16番6号
どうして『トキワ荘』に漫画家が集まってきたのか
漫画家が『トキワ荘』に集まってきたのには、いくつかの理由があった。
漫画の神様「手塚治虫」が『トキワ荘』に住んでいた事、もう1つは学童社が、自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた事、寺田ヒロオが空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」から漫画家を積極的に入居させていたなどの理由があった。
実は、トキワ荘への入居はメンバーによる選考が行われており、若手漫画家がただ集まってきたアパートではなく、当時の漫画界のエリート選抜した居住できないのが『トキワ荘』であった。そのため、一流漫画家が排出されたのも当然の事であった。

漫画少年 昭和28年6月号
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近所に『松葉』という中華料理店があり、頻繁に出前を取っていた。藤子不二雄の作品などに登場する。松葉は現在も営業を続けている。
松葉(まつば)
住所:東京都豊島区南長崎3-4-11PINE LEAF 1F
時間:11:00~15:00、17:00~20:30
定休日:月曜日
松葉 - 東長崎/ラーメン [食べログ]
『トキワ荘』に住んでいた漫画家たち
伝説となった『トキワ荘』に住んでいた漫画家はどんな人たちだったのだろうか。
手塚治虫に憧れ上京してきた組や学童社に紹介され住んでいた組、寺田ヒロオに住むことを勧められた組など色々なパターンがあったようだが、本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っている若者が集まっていた。
手塚治虫:1953年~1954年10月
誰もが知っている日本漫画界の神様。代表作は「鉄腕アトム」「ブラックジャック」など。
1952年に上京して、四谷にある八百屋の2階に住んでいたが、編集者が昼夜に問わず出入りするため、学童社の関係者に入居するように誘われて、1953年から「トキワ荘」の住人となった。
これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させることとなった。

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寺田ヒロオ:1953年12月~1957年6月
1953年、22歳の時に漫画家になるために上京し、東京都豊島区の「トキワ荘」に入居することとなる。入居当初は、向かいの部屋に手塚治虫が暮らしていた。面倒見のいいトキワ荘のリーダー的な存在として知られており、藤子不二雄Ⓐの「まんが道」などでは後輩の面倒をよく見る先輩としてのエピソードが多く描かれている。
生真面目な性格がたたったのか、段々と漫画を描かなくなっていき、1973年に絶筆。1981年4月に『漫画少年』の歴史を記録した「『漫画少年』史」を編纂・出版したが、この頃にはトキワ荘時代の仲間にも会わなくなってしまう。
1992年に死去。死去の2年前にトキワ荘の仲間を自宅に呼んで宴会をし、「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。

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藤子不二雄:1954年10月~1961年10月
藤子不二雄のコンビを組んでいた藤本弘(藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)もトキワ荘に住んでいた。
1954年に上京し、江東区森下にあった安孫子の親戚の家にあった2畳の和室に住んでいたが、手塚治虫がトキワ荘を出た後の2階の14号室に入居することになる。手塚は机などをそのままに退去したため、手塚が使った机で藤子不二雄も漫画を描いていたことになる。
後に後に藤子・Fが別に一部屋を借りて移っている。

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鈴木伸一:1955年9月~1956年6月
藤子不二雄の漫画に登場するラーメン大好き「小池さん」のモデルとなったのが、鈴木伸一である。
中学時代から漫画少年に投稿しており、中学卒業を機に上京。1955年にトキワ荘に入居する。
1956年に「おとぎプロ」にアニメーターとして入社し、そこからはアニメーションの仕事に関わることが多くなっていく。おとぎプロを辞めた後、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろう、赤塚不二夫らとスタジオ・ゼロを設立する。
1971年の事実上の解散以降は、アニメーション作家・鈴木伸一が法人格を継承・存続させて個人事務所の名称として使用。鈴木の自主作品、アニメCM制作、過去のゼロ作品の版権業務をメインとしている。

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森安なおや:1956年2月~1956年末
森安なおやは、岡山県の生まれで高校在学中に4コマ漫画が地元の新聞に採用されてデビューとなり、連載となる。高校を卒業した1953年に上京し、「のらくろ」で有名な田川水泡の内弟子となる。独立後は池袋に住み、牛乳販売店に住み込みで働いていたが、クビになってしまったため、友人で会った鈴木伸一が住んでいたトキワ荘に転がり込んだ。
トキワ荘に同居していたが、家賃の折半も払わず、出版社や寺田ヒロオからもお金を借りていたため、編集者・トキワ荘メンバーにも見放され逃げるように1956年末に退去する。
トキワ荘退去後は、色々な職を転々としながら単行本の執筆を行うが、貸本漫画家では食べて行けずに、漫画家を廃業し、キャバレーのマネージャーとして就職する。1970年1月に雑誌COMでの競作企画『トキワ荘物語』で10年ぶりに作品を発表。
1999年に死去。太平洋戦争時代の少年の成長をテーマにした長編『18才3ヶ月の雲』を20年掛けて執筆していたが、未完に終わった。

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石ノ森章太郎:1956年5月~1961年末
「仮面ライダー」の生みの親である石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)もトキワ荘に住んでいた。
高校在学中に手塚治虫の口利きにより漫画家デビューしていた石ノ森は、高校卒業と同時に姉と2人で上京し、トキワ荘に住んだ。
1958年にトキワ荘のマドンナ的存在となっていたに同居していた姉が急遽してしまう。それでも、石ノ森はトキワ荘に住み続け、売れっ子作家になった後でも遅い時期まで住んでいた。
1964年に「サイボーグ009」の連載が開始され、スター漫画家への道を歩んでいく。1971年には、特撮映像作品と原作の両方を担当する。これが、「仮面ライダー」である。
1998年に死去。没後、勲四等旭日小綬章、全作品に対して第27回日本漫画家協会賞文部大臣賞、マンガとマンガ界への長年の貢献に対して第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られている。

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赤塚不二夫:1956年5月~1961年10月
「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が大ヒットしたギャグ漫画の王様、赤塚不二夫は中学卒業後に働きながら漫画少年に投稿していた。1954年頃に父親の友人の紹介で化学薬品工場に勤めていた。投稿していた漫画が石ノ森章太郎の目に留まったことで、石ノ森章太郎の上京に合わせてトキワ荘に移り住んだ。
のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入ったそうで、赤塚との結婚を進めていた。途中、キャバレー店員になることも考えた時期もあったが、寺田ヒロオからの援助もあり漫画家を続けた。
石森や水野英子との合作などを発表し、石森の推薦により「まんが王」に連載が決まった。1961年にアシスタントだった女性との結婚が決まったため、トキワ荘を退去する。
その後、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」が大ヒット。次々にアニメ化もされていき、一躍国民的な漫画家となっていく。
2008年に死去。赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるほどの漫画家であった。

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よこたとくお:1958年~1961年
よこたとくおは、福島県出身の漫画家。
中学時代に「毎日中学生新聞」に漫画を投稿し入選、上京し働きながら「漫画少年」誌に投稿をしていた。石森章太郎が主宰する「東日本漫画研究会」の「墨汁一滴」に参加。
1958年に退去した鈴木伸一の部屋に入居する。1959年からは雑誌「少女クラブ」にギャグ漫画『アンコさん』を連載開始する。1961年にトキワ荘を赤塚不二夫と同時期に退去し、トキワ荘のちかくにあるアパートに住む。隣室は赤塚不二夫であった。
その後、親交のあった石ノ森章太郎の誘いを受け、学習漫画の作画を担当する。これを契機に学習漫画を多く手掛けるようになり、学習漫画界の第一人者として活躍。
2009年に行われた記念碑『トキワ荘のヒーローたち』除幕式に鈴木伸一や水野英子らと参加している。

まんが 建築工事の積算〈躯体編〉
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水野英子:1958年3月~1958年10月
日本の女性少女漫画家の草分け的存在である水野英子もトキワ荘に住んでいた。トキワ荘に居住した漫画家としては、紅一点で貴重な存在である。
1955年に15歳で漫画家デビューすると、1958年の長編連載「銀の花びら」で人気となる。この頃に石ノ森章太郎、赤塚不二夫との合作を発表している。この合作のため、下関から上京し、石ノ森章太郎と赤塚不二夫が住んでいたトキワ荘に入居することとなった。
しかし、同年10月に故郷の祖母を心配させまいとトキワ荘を去り一旦帰郷する。翌年の春に再び上京し、雑司が谷の下宿先からバスでトキワ荘に通い住人と交流を続けていた。
トキワ荘が多くのメディアに取り上げられるようになってきたため、当時の創作活動や日常生活の様子を正確に伝えようと、入居から退去までの出来事を『トキワ荘日記』として、自費出版している。

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山内ジョージ:1960年9月~1962年3月
漫画家としてはトキワ荘最後の住人とされるのが、山内ジョージ。
中国の大連で生まれ、戦後に宮城県登米市に引き揚げる。引き揚げた先の登米市で中学校2年生の時、小野寺章太郎(石ノ森章太郎)と知り合うこととなる。
漫画家を志し上京後にトキワ荘に移り住んだ。石森章太郎や赤塚不二夫のアシスタントを経て独立し、現在は漫画家で動物文字絵作家として活動している。
「トキワ荘最後の住人の記録: 若きマンガ家たちの青春物語」を2011年に執筆しており、自身を二軍選手に例え、師匠格の石ノ森や赤塚などを一軍としながら、トキワ荘に移り住んだ時代の事を記している。

トキワ荘最後の住人の記録: 若きマンガ家たちの青春物語
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