2019年3月27日 近藤昭仁 永眠

近藤昭仁さんは、2019年3月27日午前1時23分に敗血症性ショックの為、川崎市の病院で亡くなりました。享年80。
晩年はパーキンソン病を発病し、レビー小体型認知症も併発しており、療養生活を送っていました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
黒木知宏のコメント

「苦しい状況でも我慢することを教えて頂き、野球人黒木知宏を育てていただいた近藤監督のことは、一生忘れることはありません」
七夕の悲劇と呼ばれる、プロ野球史上ワースト記録となる18連敗を経験した時の元ロッテのエース黒木知宏さんのコメントであり、連敗を経験した方だからこその重みなある発言だったと思います。
近藤昭仁の野球人生を振り返る
香川県高松市出身の近藤昭仁さんは、1938年4月1日に生まれました。
高松一高、早稲田大学、大洋ホエールズで野球選手として活躍し、コーチとして大洋、ヤクルト、西武、巨人に就任。監督として横浜、ロッテで采配を振るいました。
現役時代
プロ入りまで
高松一高へ進学した近藤昭仁さんは、1955年春季四国大会に進むが1回戦で敗退。その年の夏には北四国大会出場を賭けた県予選準決勝に進出するが敗退し、甲子園には届きませんでした。
1956年に早稲田大学に進学。二塁手としてベストナインに2度選ばれる成績を残しています。
現役時代

1960年に背番号1番として大洋ホエールズに入団。
魔術師と呼ばれた名将三原監督に見出され、ルーキーながら二塁手に定着し、終盤には一番打者として奮闘し、球団創設以来初の優勝に貢献しました。
日本シリーズではMVPを受賞し、オールスターには2回出場しました。
しかし、1972年にシピンが入団すると出場機会が減ってしまい、1973年に選手兼任コーチとなり、同年限りで現役を引退します。
指導者時代
コーチ時代
引退後、大洋に残った近藤昭仁さんは、1974~1977年まで一軍守備コーチ, 1978年は二軍守備走塁コーチ、1979~1981年までヤクルトスワローズ一軍守備走塁コーチ、1982~1986年まで西武ライオンズ一軍守備走塁コーチ、1989~1991年まで巨人ヘッドコーチを務めました。
コーチとして西武の広岡監督、巨人の藤田監督を支え、大洋時代の三原監督も含めて「3人の名将に巡り合えたことは誇り」と語っていました。
尚、巨人の原監督は「近藤さんに教えられたのは、指導者たるや、みたいな部分。『時には鬼になる必要がある』というところ」と語っていました。
横浜監督時代

大洋が横浜に球団名を改称した1993年に初代監督として就任。
石井琢朗をはじめ、佐伯貴弘、波留敏夫、鈴木尚典といった、後のマシンガン打線の中心となる若手野手を積極的に起用し、采配を振るいました。
作戦面では自らの現役時代の得意技であったバントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密な野球」を展開しましたが、近藤昭仁さんが横浜で監督を務めていた時に優勝はありませんでした。しかし、横浜は1998年に日本一になりますが、その礎を築いたのは間違いなく近藤昭仁さんであったといえるでしょう。
ロッテ監督時代

七夕の悲劇として語り継がれいるプロ野球史上ワースト記録の18連敗。
選手層も薄かったことも影響されますが、契約期間を1年残しての引責辞任となり、結果を残すことが出来ませんでした。
尚、辞任会見の席で「もっと強いチームで監督をやりたかった」という発言があった為、ロッテファンから批判を浴びたものの、後に応援団長と会食しています。
近藤昭仁の野球人生を振り返ってみて
現役時代は大洋一筋だった近藤昭仁さん。
監督時代には思った様な成果を出すことは出来ませんでしたが、野球一筋の人生だったと思います。
派手さはなかったですが、往年の野球ファンからみれば、このいぶし銀の野球は記憶に残っているのではないでしょうか?
「球界の知恵袋」といわれた近藤昭仁さん。
80年という人生を野球に捧げた立派な野球人だったと思います。