宇梶剛士プロフィール

別名義 津村 浩
生年月日 1962年8月15日(56歳)
職業 俳優、タレント
配偶者 既婚
著名な家族 宇梶静江(母)
浦川治造(叔父)
うかじたかし(@Ukajiii)さん | Twitter
誕生 ~ 少年時代

拓殖大学第一高等学校
1962年8月15日、東京都新宿区西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)の「東京都立大久保病院」で生まれる。
3歳~5歳までは東京都小平市に、小学1~2年までは広島県安芸郡府中町で、その後は東京都国立市に転居、国立市立国立第七小学校・国立市立国立第一中学校を卒業(中学時代は一人暮らしをしていたとか)・拓殖大学第一高等学校に入学(因みに拓高は今でこそ偏差値60位ですが当時は40前後でした)。
高校時代は野球部に在籍しプロ野球のスカウトから注目されていた時期もあった様です。
しかし野球部の暴力事件から甲子園への出場停止になり、プロへの道が閉ざされてしまいました。
高校中退

八王子少年鑑別所
野球部の暴力事件が原因で逮捕からの鑑別所送りになったそうです。(鑑別所なので最長でも28日くらいだと思います)
鑑別所を出た後、高校は中退されたそうです。
暴走族時代
高校を中退後しばらく叔父のいる北海道浦河郡浦河町や二海郡八雲町で労働機会を得るも更生できず、東京家庭裁判所からの呼び出しを口実に帰京。
その後は荒れた生活を送り、当時日本最大組織とされた「ブラックエンペラー」の三多摩地区に入りました。
宇梶さんは普段は温厚なのですが、切れると死ぬほど怖い、いや死人が出る!と言われるくらい恐れられていました。
ヘッドから後に7代目名誉総長となり、同じく元暴走族のヒロミも「僕らがガキだった頃、とんでもなく有名だった人」とコメントしていますが、多摩地区のみならず当時、杉並区に住んでいた私のところにも宇梶さんの噂は流れていましたから、相当な有名人だったと思います。
余談ですが、宇梶さんはエンペラーの七代目総長でしたが、三代目総長の本間優二さんは俳優の先輩にあたります。
本間優二 | NHK人物録 | NHKアーカイブス
教習所事件・湘南事件
伝説①
族に入ったから免許証を取ろうと思ったのか、(順番が逆・・・)
宇梶さんは教習所にバイクの免許を取る為に通い出します。
ある時、教習所で、怖いもの知らずなのか、おバカなヤンキー達が宇梶さんの事をからかったそうです。
当然ボコボコにしたのですが、気が収まらなかったのか、グループトップのところまで案内させ、トップもボコボコにして、足代わりに教習所まで連日送り迎えさせたとか。
伝説②
メディアでも語られていますが、宇梶さんVS族1000人事件。
さすがに1000人というのは盛り過ぎだと思いますが、ある時、集会で湘南を流していた時、地元の族とバッティングしたそうです、相手の圧倒的多さに仲間が逃げ出し結果的に宇梶さん1人で相手することになったとか、結果20人位やったところで相手も逃げ出し1人対1000人伝説が生まれたそううです。
抗争から再び逮捕

実録暴走族抗争
族同士の抗争で再び逮捕され少年院送りとなってしまいます。
詳しく期間とかの情報が無いのですが、長期処遇でも(収容期間は原則として2年以内)なので長くても2年入ったと思われます。
少年院での生活において改心。この時に読んだチャップリンの伝記が俳優を志すきっかけとなると同時に高校復学のための勉強に励んだそうです。

世界の伝記
高校復学

「スニーカーぶる〜す」デビュー曲
少年院を出所後、明治大学付属中野高等学校定時制に復学します。
同級生には2学年下の近藤真彦、野村義男、野々村真、つちやかおり、等がいたというから、少年院は最長の2年居たのかもしれません。
その後、無事に卒業されたそうです。
付き人時代

錦野旦
高校卒業後の18歳の時に歌手の錦野旦さんの付き人をしていたそうです。
事務所の使いで「藤映像コーポレーション」を訪問したところ、(故)菅原文太さんから「お前、何者だ?歌い手か?」と呼び止められ、「いえ、俳優になりたいんですが、どうやったらなれるのかわからないので、錦野さんのところでお手伝いをしています」と答えたところ、菅原さんはすぐ錦野さんの事務所に電話をかけ、「おたくのところのでかいの、もらっていいか!」と言い、電話を切り、「ということでいいな」と言って菅原さんの付き人となったとか。
以降、菅原さんを「オヤジ」と呼んで慕っており、逝去後にはマスコミに菅原さんの追悼コメントを語っています。
デビュー

青森県のせむし男
美輪明宏さんに見出され、『青森県のせむし男』(寺山修司作)にて初舞台。
デビューから2年間ほど、同じ事務所だった(故)鶴田浩二さんから名前をもらって「津村浩」の芸名で活動をしていた時期もあるそうです。
下積みの時代
長く無名で下積みの時代が続き、売れない時期は、芸能以外の仕事をして食いつないだりもしたとか、ただ宇梶さんのポリシーが有り、役者になりたての頃は、エキストラの仕事がちょくちょく来ていたみたいですが、「私はエキストラになる為に、この世界に入ったわけではありません!」と、全て断っていたそうです。
ご本人曰く当時はチョット尖ったところがあったけど、今だったら「悪役だろうが、何でもやりますけどね。」と語られていました。
トレンディドラマから

君が噓をついた第6話
宇梶さんは意外にも1980年代後半になり多数のトレンディドラマに脇役で出演するようになると、徐々に知名度が上昇し、以降多数のテレビドラマや映画で活躍するようになります。
一方で舞台出身であることから「打打芝居」(1990年結成)、「damim」(1999年10月結成)といった演劇ユニットを主宰し、自らプロデュース公演の形で舞台を制作してきたが、2007年には「劇団」という形でしか表現できない舞台作りを追求したいとの思いから、金井良信・平野貴大らと共に「劇団PATHOS PACK」を結成。
結婚とお子様

画像はイメージです。
宇梶さんの結婚は早くて20歳の時に、ご結婚をされています。
その時に息子さんが一人誕生しましたが、22歳の時に離婚されています。
現在、宇梶さんは56歳になるので、息子さんは35~36歳くらいだと思われます。
その後、一般人の方と再婚され娘さんが生まれたそうですが、奥様やお子様についての情報は完全に非公開のようです。
ファンとしては知りたいところですが、一切情報が出てきません💦
最後に・・・
いかがだったでしょうか?
ヤンチャ時代から下積み・脇役時代から、のし上がって来た宇梶さんの活躍をこれからも期待しています。
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