花柳幻舟、平成の終わりとともに旅立つ
平成も残すところ後2か月、2019年(平成31年)2月28日午後5時ごろ、群馬県安中市松井田町坂本の「碓氷第三橋梁(きょうりょう)」(通称・めがね橋)下の歩道に花柳幻舟77歳(本名・川井洋子)が倒れているところを発見されました。病院に搬送され死亡が確認されました。
花柳幻舟は橋の上から真下の写真をデジタルカメラで撮影しています。橋の上には、そのカメラが入ったポシェットと傘が残されていました。めがね橋には転落防止用の高さ110センチのガードパイプがついています。撮影中に誤ったのか、何らかの原因で23メートル下の歩道に転落しました。
舞踊家の花柳幻舟とは?
花柳幻舟は西日本を回る旅芸人の役者の子として、生まれました。
生年月日は非公表。1941年~1942年の生れのようです。
2歳から舞台に立ち、16歳頃に劇団が解散。
1966年に花柳流の名取になります。
1968年に大阪・中座で「花柳幻舟リサイタル」を行いました。
◎この時に花柳幻舟は、家元制度の不条理を告発しています。
旅芸人と現代の興行
歌手の藤圭子(1951年7月5日 - 2013年8月22日)も、東北、北海道をまわる旅芸人の浪曲歌手の父とごぜ三味線の母の間に生まれています。
川端康成の短編小説。ヒロインの踊子・薫も、旅をしながら芸を見せ生計を立てています。
現在でも全国を回り芸を披露するサーカス団や、スポーツでは大相撲の地方巡業が行われています。世界的に活躍しているアーチストのワールドツアーなどを含めて、芸を職業とする人の興行形式のルーツが旅芸人です。
花柳流家元の花柳壽輔への傷害事件
1980年年2月21日に花柳幻舟は、日本舞踊の花柳流宗家家元への傷害事件を起こしています。
花柳流宗家家元三世の花柳壽輔 (3代目)は、二代目花柳壽輔の長女。本名:花柳若葉、1935年(昭和10年)1月10日 - 2007年(平成19年)5月23日。
1962年(昭和37年) 1月に三世家元襲名式、花柳流の家元になります。
1969年(昭和44年)に日本舞踊協会理事就任しました。
翌年の1980年(昭和55年)東京・千代田区の国立劇場の楽屋廊下で花柳幻舟に首を刃物で切り付けられました。
この事件で逮捕された花柳幻舟は、栃木刑務所に入所。1981年5月に四谷公会堂にて、出所報告講演会を行いました。
花柳幻舟が打倒を訴えた家元制度
花柳流家元のへの傷害事件で、花柳幻舟が世間に訴えたかったことは「家元制度打倒」です。
家元とは、その流儀の最高権威伝承者です。一般的に家元の家系で血縁により世襲されます。
華道、茶道、能楽、邦楽、日本舞踊などが家元制度により伝承されています。
歌舞伎役者は、家元制度ではなく、世襲により屋号を継承しています。
花柳流(はなやぎりゅう)は、日本舞踊の流派のひとつで、門弟は約2万人の事最大の流派です。
花柳流と他の藤間流・若柳流・西川流・坂東流は、日本舞踊の「五大流派」と言われています。
花柳幻舟が打倒を訴えた、家元制度は、江戸時代に発症した日本特有の制度です。
花柳流の歴史
花柳幻舟の芸能活動
1969年10月2日にNET(現在のテレビ朝日)放送された刑事ドラマ『五番目の刑事』に花柳幻舟は「ももきり魔」の役で出演しています。
1970年代から1990年には、六本木俳優座などで、創作舞踊や演劇作品を発表しています。
ドラマや映画にも出演しています。
花柳幻舟
ヤフオク! - 0629さ1★フォーカス昭和59/3/2花柳幻舟 愛人バン...
「花柳幻舟」写真集
ヤフオク! - 昭和50年 写真集■ 花柳幻舟■石松健男 撮影■ pi写
花柳幻舟の交友関係、羽仁五郎との交際
晩年に花柳幻舟と交際歴がある羽仁五郎は、幻舟の事を「僕のガールフレンド」と呼んでいました。
羽仁五郎(1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、マルクス主義などで知られる、歴史家で、1947年(昭和22年)から、1956年(昭和31年)まで、参議院議員をつとめました。
羽仁 五郎
花柳幻舟の爆竹事件と天皇制
家元制のルーツとなる天皇制に反対していた花柳幻舟は、1990年(平成2年)11月12日に行われた天皇即位礼祝賀パレードで、花柳幻舟が爆竹を投げたことで、道路交通法違反(路上危険行為)として、罰金4万円の有罪判決を受けました。
花柳幻舟は、罰金を拒否して、20日間東京拘置所で労役囚で服役しました。
花柳幻舟の生き方
過去に起こした事件をクローズアップされがちの花柳幻舟は、写真集1冊と14冊の著作物を残しています。
自身が体験した学校でのいじめから、小学校中退。半世紀を経て、大学を卒業、司法試験を目指します。不屈の精神と花柳幻舟の生き方が綴られています。
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花柳幻舟が訴えた家元制度と日本舞踊人口
昭和の時代には、日本舞踊を習い、舞踊家にならなくても、嫁入り道具の一つとして、履歴書に「名取」と書いて嫁いだ女性もいました。
花柳幻舟が亡くなった今も、家元制度は今も続いています。現代の子供の習い事で日本舞踊って聞かないですね。日本舞踊人口は激減していると思います。
日本舞踊を習っていたミドルエッジで、真っ先に思い出すのは、元皇族のサーヤこと紀宮様(1969年4月18日-)です。
2005年(平成17年)に黒田慶樹氏と結婚により、皇族の身分を離れた内親王、黒田清子さんの趣味が日舞です。学習院女子中高等科のクラブ活動の日舞は、現在も花柳流舞踊家の先生が稽古、指導しています。