清原和博  愛と笑いと涙の巨人時代

清原和博 愛と笑いと涙の巨人時代

ドラフト会議で裏切られたと感じた巨人への移籍。 合理的でクールな関東の最強球団を関西系の番長が盛り上げた。


「縦縞を横縞に変えてでも…」 (吉田義男) 「思い切って僕の胸に飛び込んで来てほしい」(長嶋茂雄)

清原和博は、18~29歳まで11年間、清原は西武ライオンズに在籍し、8回のリーグ優勝、6回の日本一を経験した。
そして1996年、FA(フリーエージェント、自由契約選手となり、国内外どの球団とでも契約交渉ができる)を宣言した。
「縦縞を横縞に変えてでも…」
(吉田義男)
「思い切って僕の胸に飛び込んで来てほしい」
(長嶋茂雄)
と巨人と阪神が清原獲得に名乗りを上げた。
長嶋は、清原が入ってくれば自らの背番号であり永久欠番「3」を譲ると表明。
すると阪神の3番、八木裕も同様のことを行った。

巨人の渡辺恒雄オーナーは、清原と両親に
「ドラフトの件はお父さんお母さんにまで悲しい思いをさせて申し訳なかった」
と謝罪した。
阪神は、巨人の約3倍の契約金と倍の契約年数を提示したが、清原は夢をとり5年契約で巨人に移籍した。
背番号は「5」
ポジションはファースト。
打順は4番だった。
「清原君と勝負して負けるとは思わないがどちらを使うかで悩む長嶋監督の顔はみたくない」
と巨人のファーストだった落合博満は日本ハムに移籍した。
巨人は想像を絶する世界だった。
日々の球場入りにも何十人ものマスコミがついて、翌日の新聞では必ず一面になっていた。
試合になると球場は必ず満員で、これも他球団では考えられない現象だった。

KKコンビ復活

1997年シーズン、巨人は開幕からヤクルトに2連敗。
4月6日、絶対負けられない3戦目、先発に立ったのは桑田だった。
1995年6月の試合で右肘を負傷して以来、661日ぶりの復帰だった。
桑田はマウンドに膝をつき、右肘をプレートに置いた。
清原はそれをファーストからみていた。
(あいつはマウンドと話してるんや。
いつもそうやった。
ボールと話す奴なんや)
桑田が投げた球を、先頭打者がゴロを打ち、野手が捕球し、清原に送られた。
(これや!)
清原は西武時代に感じた違和感を理解した。
オールスターや日本シリーズで桑田と対戦したが、やはり敵として桑田をバッターボックスからみるのは何か違った。
やはりファーストから桑田をみて、一緒に守ることこそ自分の役目だった。
3回表、2対0から1点返され2対1。
ヤクルトのバントがフライになったのをみると桑田は迷わずダイビングキャッチしにいった。
観客席から悲鳴が上がった。
2年前、同球場で、同じようにフライをダイビングキャッチして桑田は右肘の靱帯を切ったのだ。
しかし桑田は躊躇しなかった。
(昔のままやな。
待ってろ。
オレが一振りで楽にしてやる)
3回裏2アウトで清原に打順が回ってきた。
そして初球を東京ドームのスタンドに叩き込んだ。
清原の移籍第1号を打ち、桑田は6回を1失点に抑えて683日ぶりに勝利投手となった。
2人はヒーローインタビューに立った。
「一生忘れられない日になりました」

松井敬遠、清原勝負

1997年シーズン、巨人はリーグ4位に終わった。
清原は、ホームラン32本、打点95、打率2割4分9厘と西武時代と同レベルの成績だったが、152三振(当時のリーグ新記録)を喫した。
3番:松井秀喜と4番:清原は、「MK砲」と呼ばれたが、勝負どころで相手チームは3番の松井秀喜を敬遠し、清原勝負を選択することもあった。
「清原はチャンスに強い」
と大きな期待を寄せていたファンは凡退した清原に容赦ないヤジを浴びせた。
球場から帰る清原の車を囲み、タイヤを蹴り、ボンネットやドアを叩き、火のついたタバコを投げつけるファンもいた。
新聞は
「清原また三振」
「戦犯」
などと書きたて、清原は数字以上に期待外れの印象だった。
やがてファンは清原の応援をボイコットするようになった。
試合中、松井秀喜まで続いた盛大な応援が、清原が打席に入るとピタリと止んだ。
球場を沸かせること、感動を与えることが自分の役目と思っていた清原は目の前が真っ暗になった。
このシーズンに清原が三振の新記録をつくった理由の1つにセリーグとパリーグの野球の違いがあった。
ノーストライク、3ボールで
(ここは絶対ストレートで来るな)
という場面でも変化球が来た。
ここぞという場面でも変化球、変化球で勝負をかわされた。
最悪歩かせてもいいということだろうが、パリーグで山田久志や村田兆治、野茂英雄、伊良部秀樹らとピッチャー vs バッターのストレート真っ向勝負をしてきた清原にしてみれば
「勝てばプライドもクソもないのか」
と違和感を感じた。
清原は、寝室、洗面所、玄関、自宅や宿舎のあらゆる場所にバットを置いた。
少しでも多くバットに触れ、振った。
バットだけが唯一の武器だった。

「松井敬遠、清原勝負」
に対して、最初は苛立っていたが、やがて
「松井が敬遠されないようにオレが打つんだ」
という前向きな気持ちになった。
松井秀喜は、清原と何かが違った。
打っても打てなくても一喜一憂せず淡々としていた。
清原は打てば大いに喜び、凡退すれば凹む。
きっと松井も落ち込むことはあっただろうが、うまく気持ちと行動をコントロールして、マイナスやロスを減らすことができた。
松井は観客が1人もいなくても、同じようにプレーができるが、清原はファンの期待がないと力が出ない。
松井は、グラウンドでもそれ以外でも、いつも笑顔で紳士的。
清原は、機嫌が出た。
松井はプロとして感情を表に出さない。
清原は、モロに気持ちで戦うタイプだった。
自分の気持ちとファンの気持ちを力に変える「真っ直ぐ」な生き方にこだわった。
だからたとえ松井が50本のホームランを打っても、清原の1本のホームランに送るファンの声援には勝てなかった
1998年シーズンは、3番清原、4番松井で始まった。
清原は厳しいインコース攻めに対応するため、これまで垂直気味に立てた「神主打法」から、バットを寝かせ、バットを一握り短く握るなど打撃フォームを改造。
プライドを捨てて再起に懸けた結果、すぐに4番の座を奪い返した。
しかし左太腿肉離れなどで調子を落とし、打率.268、23本塁打、80打点、三振数は前年の半分以下という成績を残し、プロ入り13年連続20本塁打の日本記録を達成した。

肉体改造

1998年オフ、日米野球で来日したサミー・ソーサと食事したことだった。
そのときにその肉体をみて衝撃を受けた。
こうして肉体改造が始まった。
その目的は、子供の頃、河原で石を打ったときから変わらない。
より大きなホームランを打つためだった。
清原は、ケビン山崎トレーナーからトレーニングや食事の指導を受け、全身の筋肉に大きな負荷をかけて、その強化と肥大を図った。
90㎏台だった体重は、100㎏を超え、年末の格闘技イベントに出場するというウワサさえ広まった。

そして2001年シーズンは、自己最多となる121打点を上げた。
ホームラン数は29本だったが、その飛距離は伸び、東京ドームの最上段や看板を直撃させた。
ただ野球は点を入れてナンボ。
ホームランの大きさを目標にすることは非合理的でもあった。
大きなホームランも、フェンスギリギリのホームランも得点は同じ。
清原ほどのバッターなら、むしろそれを狙った方がたくさんホームランが打てるし、チームの勝利の貢献できる。
しかし清原はドデカいホームランを打つことを目指した。
それが自分の存在理由だった。
キツいウエイトトレーニングを続け、パサパサのササミだけを食べ続けた結果、ホームランの飛距離は伸びた。
筋肉が大きくなると、打球の速度も、バットのスイングスピードも、そして何より自信が増した。
しかしウエイトトレーニングに夢中になるあまり、ランニングをおろそかにしてしまった。
もちろんウエイトトレーイングで下半身も鍛えたが、やがて肉離れや左膝のケガが増えていった。
清原のバッティングの生命線は左膝だった。
左足でタイミングをとり、1度右に体重を乗せ、そこから左足を強く踏み込んで止め、バットを走らせボールに力を伝える。
スイングに大きな力を発生させようとすれば左膝にかかる負担は増えた。

グリーニー

あるとき清原は外国人選手が緑色の薬を飲んでいるのをみた。
それがグリーニーだった。
グリーニーは、疲れがとれ、集中力が高まるという興奮剤で、大リーグでは2006年から、プロ野球では2007年に禁止薬物に指定された。
清原が外国人選手に勧められ始めた頃は、まだ禁止されていなかった。
巨人には、松井秀喜、ロベルト・ペタジーニ、ドミンゴ・マルティネスなど超大型スラッガーがいて、清原はホームランの飛距離で負けたくなかった。

度重なるケガ

1999年、オープン戦で阪神タイガースの藪恵壹投手からデッドボールを受けて、左手甲を骨折。
清原は基本的に故意ではないデッドボールに怒ることはなかった。
投手が攻めた結果、デッドボールになった場合は、仕方ないと思っていたし、謝罪を受けても
「気にしないでいい」
と伝えた。
しかし1997年に藪にデッドボールを受けたときは、3本指を立てて
「3度目やぞ」
とマウンドへにじり寄り、1998年にも右手親指に受け、両軍選手が乱闘寸前のもみ合いとなった。
このときのデッドボールは5回目だが、結局、藪からはトータル6回当てられた。
このケガから復帰して間もなく、6月の広島戦でホームにスライディングしてキャッチャーと激突し右膝が反対に曲がった。
右膝側副靭帯断裂という重症を負い、このシーズンの出場試合数は86、打率2割3分6厘、本塁打数は13本とプロ入り以来初めて20本を切った。
2000年、キャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初めての2軍スタート。
渡邉恒雄オーナーは
「(清原が1軍にいないことで)勝利要因が増えたな」
と発言。
しかし7月7日、清原は代打で出場。
復帰初打席でスリーランホームランを放った。
その後も代打専門だったが、夏にはレギュラーに復帰。
「清原、がんばれ!」
何度も倒れても必ず立ち上がる清原に対しファンは声援を送った。

逆転サヨナラホームラン

「代打、清原」
長嶋茂雄監督が告げるとスタンドから割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
清原はピンチに強い。
ファンの期待や声援が大きければ大きいほど力を発揮しそれに応える。
ファンの声援が清原に力を与え、清原はそれに感謝した。
例えば、9回裏、2死満塁。
点差は3点。
他のバッターならいざ知らず、この場面で清原がすべきことは、満塁逆転サヨナラホームランか三振しかない。
そして絶体絶命のピンチを1本の大きなホームランが逆転させるのをみて観客は思う。
「人生捨てたもんじゃない!」
「あきらめたなアカン!」
実際、清原は、通算でサヨナラホームランを12本打った。
これはプロ野球1位の記録で、2位は野村克也の11本、王貞治は8本で4位、長嶋茂雄は7本で6位である。
そして2000年の日本シリーズは長嶋茂雄率いる巨人と王貞治監督の福岡ダイエーホークスのON対決となり、清原は7回目の日本一を味わった。
このシーズンは、75試合に出場し打率:.296、ホームラン:16本。
そしてモデルの木村亜希と結婚。
また禁煙に踏み切った。

番長

プロ野球において巨人は輝いている。
年俸も強さも特出している。
試合にもキャンプにも、多くのファンと報道陣がかけつける。
そして選手は街を歩けば声を掛けられる。
西武時代に普通に合コンしていた清原もそうはいかなくなった。
しかも巨人の選手は常に巨人らしさを求められる。
球団行事に出席するときは必ずジャケットにネクタイ。
茶髪やヒゲはダメ。
応援のボイコット騒ぎも巨人でなければ起こらなかったかもしれない。
そんな中で清原は、村田真一、元木大介、広澤克実など1軍選手の数名と「清原軍団」を形成。
練習中に背後からカンチョーを見舞い、「紳士たれ」な巨人軍の秩序を豪快に乱した。
そしてのびのびと野球をした。
清原は
「番長」
と呼ばれ、絶大、熱烈な人気を得た。

あかんかったらオレがいうたる

2001年7月18日の阪神戦で桑田は2ヵ月ぶりに先発した。
しかし阪神打線にめった打ちにされて、6回で降板させられた。
試合後、ホテルに帰ると清原は桑田の部屋を訪ねた。
桑田はユニフォーム姿のままベッドに座り込みうなだれていた。
(こいつやめる気やな)
「とりあえず着替えろよ」
「うん」
しかし桑田はなかなか着替えようとしない。
「お前、まさか変なこと考えてんちゃうか?」
「いやあ・・・」
「お前がやめるときはオレが打席に立つ。
それでお前の球があかんかったらオレがいうたる。
あんな阪神に打たれたくらいで結果を出すな。
そんな格好しとらんで、はよ風呂入れ」
翌年、桑田は復活し、4年ぶりの2桁勝利、15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲った。
清原もこのシーズンは、巨人との5年契約の最終年で前年度までの成績から更新が危ぶまれていたが、開幕から大きなケガをすることなく打ち続けた。
特にチャンスに打ち、最後まで打点王を争った。
打率.298、29本塁打、121打点の好成績で年棒アップと4年契約を勝ち取った。

vs 松坂大輔

2002年は、故障のため出場試合は55試合だけだった。
しかし日本シリーズ第1戦で、松坂大輔から150mの特大ツーランホームランを、第3戦で、張誌家から同点ホームランを打った。
そしてチームは、4勝0敗のストレート勝ちで日本一に輝いた。

堀内恒夫監督

2003年、松井秀喜がヤンキースに移籍し、清原は原辰徳監督に指名され4番に復帰した。
それもシーズン後半にはやがてロベルト・ペタジーニに奪われ、5番になった。
結局114試合に出場し、打率.290、26本塁打。
10月には初めて内視鏡を膝に入れて半月板を除去する手術を受けた。
しかし心は折れていなかった。
「膝の故障を完全に治して4番の座を取り戻す」
巨人は3位に終わり、原辰徳は監督を辞任した。
そして2004年、巨人は、新監督に堀内恒夫が就任。
そしてタフィ・ローズと小久保裕紀を獲得。
清原、江藤智、ペタジーニと合わせて、かつて他球団で4番を打った打者を4人もそろえた「史上最強打線」を形成。
そして
チーム本塁打:259本
打点:719
長打率:.483
出塁率:.339
という成績を残した。
しかし投手陣は打たれ、チーム防御率はリーグ最下位。
3位でシーズンを終えた。
またこの年の3月4日、長嶋茂雄が脳梗塞で倒れ入院した。
清原も8月にデッドボールで右手の指を骨折し戦列を離れ、打率2割2分、打点27、ホームランは12本だった。
安打数23本中、12本がホームランという奇妙な成績だった。
かつて巨人軍のエースで、態度がデカくて口が悪く
「悪太郎」
と呼ばれた堀内は、清原とうまくいかなかった。
監督就任早々から報道陣に
「清原を『番長』と呼ぶな」
と訴えた。
しかし清原人気は一向に衰えず、各メディアも「番長」のニックネームを使い続けた。
2人の確執の発端は1998年、札幌円山球場でのことだった。
雨天下の練習で選手にランニングを命じたコーチ陣はベンチ裏で弁当を食べていた。
それを知った清原がコーチ室にどなり込み、当時ヘッドコーチだった堀内に文句をいった。
すると一緒にいた川相昌弘が堀内に殴られた。
堀内は監督になると清原を2軍からスタートさせ、清原軍団の解散を目指した。
しかしそうした試みは失敗し、清原との軋轢を深め、両者の関係は修復不可能なまでになってしまった。

悔しい思いをピアスに

2004年のシーズンオフ、オリックスブルーウェーブと近鉄バッファローズが合併し「オリックスバッファローズ」が誕生。
監督には仰木彬が就任した。
同時期、清原は、長嶋一茂から
「来季の巨人軍に清原君の居場所はない」
「西部の堤さんが心配していて、そんな扱いをするなら西武に戻してくれといってきている」
といわれた。
長嶋一茂は清原和博は2つ上。
長嶋一茂は1996年に巨人を去り、1997年に清原が入団した。
「一茂さんは球団の人なんですか?」
「この話は僕が巨人軍から預かっている」
(なんで球団は、そんなことを一茂さんにいわすんや。
なんで直接オレに話さんのや)
カチンときた清原は、球団の幹部に直接電話した。
こんな裏口から押し出されるようなやり方は納得できなかった。
移籍するにしても、引退するにしても、出るときは正面玄関から、胸を張って堂々と出ていきたかった。
「僕が事務所に行きます」
「それはまずいよ」
「どうしてまずいんですか」
「とにかくまずいんだ」
「僕は行きます」
「いやホテルで会おう」
清原は球団事務所に乗り込んだ。
自分を残すのか、放り出すのか、ハッキリ聞きたかったが、要領の得ない返答ばかりで結局、うやむやになってしまった。
この直談判はマスコミに報道され騒動化した。

2004年11月23日、ファン感謝デーで挨拶している最中、ファンから「清原コール」を起こされ、堀内恒夫新監督は激怒した。
「監督が挨拶しているのにそういう失礼なことをする。
これはもう巨人ファンとは呼べない」
これ以外にも、試合中に「清原出せ!コール」や、「清原信者」という看板がスタンドに上がった。
清原と東京ドームの一体感はすごかった。
2004年11月30日、
清原は球団に
「一選手が球団に押しかけ直談判などもってのほか」
と謝罪を要求され、清武球団代表と共に会見を行った。
「泥水を飲む覚悟で戦う」
巨人の選手として来年も戦うことを誓い、球団に迷惑をかけたことを詫びた。
しかし腹の中は煮えくり返っていた。
球団事務所に押しかけたことを少しも悔いていなかったし、自分が悪いとも思っていなかった。
悔しくて悔しくて、この悔しさをカラダに刻み込むために、刺青を入れようとした。
そしてそれをみるたびに悔しさを思い出したかった。
入れ墨は母親の反対にあって断念したが、代わりに耳に穴をあけてピアスをした。
自分を曲げてでも巨人に残って最後まで戦い抜こうと思った清原だった。

ヘルメット

2005年シーズン開幕時、清原は4番だった。
4月14日のホームランで、ホームランを打った投手の数が200名に到達した。
(史上初)
2005年5月11日、1点を追う11回裏、9回に同点ソロホームランを放った清原に再び同点アーチの期待がかかる場面。
しかし147㎞/hのデッドボールが頭部を直撃し倒れた。
清原は、すぐに立ち上がり、ヘルメットをたたきつけた。
「謝れ!
こっちに来て謝れ」
マウンドに向かったがローズが制され、怒りをこらえて1塁まで歩いた。
このデッドボールで、西武時代から愛用してきたヘルメットが壊れた。
それは野村克也が西武の現役時代に使っていたもので、西武に入団したとき、自分の頭に合うヘルメットがなく、何気なく野村のヘルメットをかぶると驚くほどフィットしたので、そのまま愛用していた。
巨人に移った後も黒く塗って使い続けた、20年以上も一緒にやってきた相棒だった。
同じ団体競技だが、野球にあってサッカーにないのが、ピッチャーとバッターの1対1の勝負。
あくまでチームの得点を競うゲームでありながらも、格闘技的な勝負も含まれることがその特徴であり魅力の1つである。
清原は徹底的に内角を攻められても
(当てられるもんなら当ててみい)
という気迫をもって勝負に挑んだ。
野茂や伊良部のように清原とは正々堂々勝負をするピッチャーもいるが、通常は長打を打たれるよりはデッドボールの方がよい。
そして196球も清原にぶつけた。
清原は2019年の時点で死球王である

ハイタッチ拒否事件

2005年8月4日、広島市民球場で行われた広島戦。
試合前、左膝痛で3試合ぶりに復帰した清原は打順が7番であることを山本功児ヘッドコーチから伝えられた。
今シーズン、開幕時は4番だったが、故障の度に5番、6番と下がり、ついに西武入団1年目、1986年以来19年ぶりの7番となった。
清原は激怒。
ベンチでおもむろに携帯電話をかけ
「今日な、7番やで!
7番! 
阿部(慎之助)より下や!」
と、これ見よがしに大声で話した。
そして4回、バックスクリーン左上段へ130mの22号ホームランを放った。
ベンチ前に迎え出た堀内監督、コーチ、ナインとハイタッチをせずにベンチに座った。
「怒りの1発や!」
そしてチームは逆転で負けた。
「足のことがあるから楽なところで打たせてやろうと思った」
(堀内監督)
「7番に置いて何が悪いんだ!」
(山本ヘッドコーチ)
欠場明けで走れる状態ではなく、途中交代の可能性が高い清原を7番に置くのは妥当な判断ともいえる。

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