ハリウッド映画全盛期を支えた男優列伝【ヘンリー・フォンダ編】

ハリウッド映画全盛期を支えた男優列伝【ヘンリー・フォンダ編】

前回の「ハリウッド映画全盛期を支えた男優列伝【ゲーリー・クーパー編】」の続編だが、そろそろネタ切れの感が濃厚となって来たような・・・??。それでも私の記憶を振り絞って”記録を残す”ということに主眼をおいて書いてます!!。さあ、今回もハリウッド男優について話を進めましょうか??


7.史上最高齢76歳でアカデミー賞主演男優賞を受賞するが、授賞式の5ヵ月後に死去!!

ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda、1905年5月16日 - 1982年8月12日)は、アメリカ合衆国の映画俳優、舞台俳優、製作者。愛称はハンク(Hank)。

本名	ヘンリー・ジェイズン・フォンダ(Henry Jaynes Fonda)
生年月日	1905年5月16日
没年月日	1982年8月12日(77歳没)
出生地	米国ネブラスカ州グランド・アイランド
死没地	米国カリフォルニア州ロサンゼルス
職業	俳優、映画プロデューサー
ジャンル	映画、テレビドラマ、舞台
活動期間	1935年 - 1981年

ミスタア・ロバーツ(1948年)出演時のヘンリー・フォンダ

子供の頃は内気で絵を描くのが趣味であり、新聞記者を志す!!

ネブラスカ州グランド・アイランドにて、印刷工場を営む父のウィリアム・ブレース・フォンダと母のヘルベルタ(ジェイネス)との間に生まれた。両親はクリスチャン・サイエンス教徒であった。フォンダの家系は、1500年代にイタリアからオランダに移住、1600年代にオランダからアメリカに移民してきたという。生後6ヶ月で、同じ州のオマハに移った。内気な子供で絵を描くのが趣味であった。

若い頃のヘンリー・フォンダその1(1923年)

セントラル高校卒業後、新聞記者を目指してミネソタ大学でジャーナリズムを専攻するが、20歳の時に、母親の友人であったドロシー・ブランド(俳優のマーロン・ブランドの母親であり女優で、劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の1人。1924年に長男マーロン・ブランドを出産してからは劇団の理事を務めていた。)の勧めで、アマチュア劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの舞台に出演。演劇に魅了され、役者の道を歩み始めることとなった。

若い頃のヘンリー・フォンダその2(1926年)

何箇所かの劇団を渡り歩きながらも演技の実力を磨いていったヘンリー・フォンダは1928年にユニバーシティ・プレイヤーズ・ギルドに参加、そこで将来最初のフォンダの妻となるマーガレット・サラヴァンや、同じく俳優を目指すジェームズ・スチュアートやジョシュア・ローガンと出会うことになり、翌年には『The Game of Life and Death』の通行人役でついにブロードウェイにデビューする。
1934年に『New Face』というショーで認められたことがきっかけで、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢される。この舞台の成功によってハリウッドに招かれ、1935年にヴィクター・フレミングの同作の映画版で映画デビューを果たす。 これにはちょっとラッキーな一面があり、ゲーリー・クーパー、ジョエル・マクリーなどが出演を辞退したため、舞台に出演していたフォンダが抜擢されたということだ。この後、大作や話題作などの映画に主役を含めてどんどん出演するようになり、映画スターの道を歩んで行くようになる。

ジョン・フォード監督との蜜月

ジョン・フォード(John Ford、1894年2月1日 - 1973年8月31日)は、1930年代 - 1960年代を代表する米国の映画監督であり、”西部劇の神様”と称されている。しかし実は西部劇だけではなくヘンリ・フォンダはジョン・ウェインと並びフォード映画には欠かせない主演俳優となっているのだ。例えば『若き日のリンカン』(1939年)、『モホークの太鼓』(1939年)、『怒りの葡萄』(1940年)、『荒野の決闘』(1946年)、『逃亡者』(1947年)、『アパッチ砦』(1948年)、『ミスタア・ロバーツ』(1955年)など、数年の間に数々の話題作に出演している。いかに難しい役でも完全にこなしきる力を持っていたため、フォードは安心してフォンダに役を任す事が出来たという。
しかし、月日の流れは二人の映画観を変えて行ったようで、『ミスタア・ロバーツ』の撮影開始前から演出を担当したフォードのやり方に満足できず、終いにフォンダが彼の演出が間違っていると非難したため、怒ったフォードはフォンダを殴りつけてしまいフォードとは決別、これが二人が組んだ最後の映画となったのだ。

ジョン・フォード監督

ヘンリー・フォンダの私生活は単調ではなかった!!

ヘンリー・フォンダは生涯で5度結婚している。最初の妻で女優のマーガレット・サラヴァンとは1931年に結婚するも1933年に離婚。次は1936年にニューヨークの裕福な弁護士と死別し間もないフランシス・シーモア・ブロカウと結婚し、ピーターとジェーンの二人の子供を儲けたが心身を病み1950年に精神病院で自殺してしまった。フォンダは子供達を動揺させないために母親は心臓発作で死んだと教えたという。同年、以前から交際していたオスカー・ハマースタイン2世を継父に持つ舞台関係者のスーザン・ブランチャードと3度目の結婚をし、養女を一人取るが3年後に離婚。1957年、ロスチャイルド家の親戚でイタリアの男爵令嬢でもあるユダヤ人のアフデラ・フランチェティと4度目の結婚をし1961年に離婚。1965年に結婚したスチュワーデス兼モデルだった最後の妻シャーリー・アダムスとは彼の死まで一緒であった。フランシスとの間に生まれたジェーンとピーターは父親の後を追って俳優になるが、母親の死の真相を知った二人と父親の関係は次第に悪化し、ジェーンとピーター共に俳優として成功した後も、過激な振る舞いでマスコミを賑わせて一時期フォンダを悩ませた。のちに和解にいたるまで長い時間を要した。

1950年、ジェーンが12歳の時、母親がニューヨークのビーコンにあるクレイグハウス精神病院で治療を受けている間に自殺をしてしまった。当時父のヘンリーは子供達を動揺させないために、母親が心臓発作で亡くなったと教えていたが、間もなくして、ある雑誌に母親が喉をカミソリで切ったという記事を読んでしまう。また、その3ヵ月後に後妻のスーザン・ブランチャード(以前から交際していたオスカー・ハマースタイン2世を継父に持つ舞台関係者)を迎えた父に反発し、以降その関係は時代を追うごとに悪化の一途を辿っていった。

1943年、娘のジェーン・フォンダと

女優でありながら”反戦闘士”としてブラックリストに載せられたジェーン・フォンダに纏わるよもやま話【前編】 - Middle Edge(ミドルエッジ)

私的にヘンリーフォンダの映画を推選すると・・・?!

ヘンリー・フォンダが出演した映画の中で皆様にぜひ一度は見て頂きたい映画をご紹介したいと思うのだか、中には”ネタバレ”もあるのでご注意下さい。

その1.『怒りの葡萄』(1940年)

『怒りの葡萄』(いかりのぶどう、The Grapes of Wrath)は、1940年に制作された米国映画。モノクロ。1939年に発表されたジョン・スタインベックの同名小説の映画化作品である。
同年の第13回アカデミー賞ではジョン・フォードが監督賞を、ジェーン・ダーウェルが助演女優賞を受賞、他に作品賞、主演男優賞、脚色賞、編集賞、録音賞の5部門がノミネートされた。

監督	ジョン・フォード
脚本	ナナリー・ジョンソン
製作	ダリル・F・ザナック
出演者	ヘンリー・フォンダ
    ジェーン・ダーウェル

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一家で国営キャンプに潜んだが、彼を追う保安官が姿を現わし、トムはまた一人逃亡の旅に出る・・・。再会を信じ、彼を送り出す母の逞しい言葉で映画は締めくくられ、やるせない余韻を残す。

ヘンリー・フォンダは、この作品において7年間の契約を20世紀FOXと結び、この映画で不正と戦う正義の男というイメージが定着してしまう。だが、その契約の取り付けて間もなく”浮気”が発覚し妻を自殺に追いやり、娘のジェーン・フォンダとの確執が生まれてしまう。何とも皮肉な話だ。

劇場公開時の際のポスター

その2.『荒野の決闘』(1946年)

『荒野の決闘』(こうやのけっとう、My Darling Clementine)は1946年の米国映画。ジョン・フォード監督による西部劇映画の古典的な作品である。主演はヘンリー・フォンダ。”OK牧場”の銃撃戦を題材としている。詩情溢れる西部劇の傑作として名高い。

監督	ジョン・フォード
脚本	ウィンストン・ミラー
   サミュエル・G・エンゲル
原作	スチュアート・N・レイク
  『WYATT EARP FRONTIER MARSHAL』
製作	サミュエル・G・エンゲル
出演者	ヘンリー・フォンダ
    リンダ・ダーネル

ちなみに、ジョン・フォード監督作品の西部劇映画の中でも『駅馬車』と並んで、最高傑作と評されている。『駅馬車』が動の西部劇なら、『荒野の決闘』は静の西部劇との声もある。

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無法の荒野に生きるワイアット・アープにとって、クレメンタインのような東部の淑女を目にしたのは、生まれて初めてだったのかもしれず、片や、東部から無法の荒野に流れてきたドク・ホリディにとって、チワワは、ひょっとすると初めて出会った西部の女なのかもしれない。西部の男と東部の女に、東部の男と西部の女の組合せ。同じ監督の『駅馬車』 (1939 年) では決して相容れないものとして描かれていた はずなのが、この映画では 「東部」 との和解なのだろうか?リンゴ・キッドも荒野へと去って行った訳ですが、その意味合いが非常に対照的です。

ワイアット・アープを演じたヘンリー・フォンダは、『怒りの葡萄』 (1940 年) でも「静かな怒り」を見事に演じていたが、この映画では、それ以上に複雑な感情を、ちょっとした仕草や表情で実に雄弁に表現していて、これが名優というものかと感服する。

『荒野の決闘』の開始部分

その3.『12人の怒れる男』(1957年)

『十二人の怒れる男』(じゅうににんのいかれるおとこ、12 Angry Men)は、1957年製作の米国映画で、原作はレジナルド・ローズ。
「法廷もの」に分類されるサスペンスドラマ・サスペンス映画で、密室劇の金字塔として高く評価されている。ほとんどの出来事がたった一つの部屋を中心に繰り広げられており、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」という説を体現する作品として引き合いに出されることも多い。

監督	シドニー・ルメット
脚本	レジナルド・ローズ
製作	レジナルド・ローズ
   ヘンリー・フォンダ
出演者	ヘンリー・フォンダ
    リー・J・コッブ
    エド・ベグリー

制作費は約35万ドル(当時の日本円で約1億2600万円)という超低予算、撮影日数はわずか2週間ほどの短期間で製作された。

12人の怒れる男/評決の行方 [AmazonDVDコレクション]

日本で裁判員制度が始まった現在こそ、より多くの人に観ていただきたい作品であると感じる。決して他国の話ではなく、正に日本でも誰もが裁判員に選任される時代になり、そのための恰好の事前
研修ビデオになりうる作品ではないか??。

本作品における陪審員にヘンリー・フォンダが入っていたことで、最終的な結論が大きく左右されていたように、日本でも裁判員にどのような人が入るかによって結果が大きく左右されることもあり得るのだろう。
「疑わしきは罰せず」という裁判上の基本原則からすると、本作品は妥当な論理展開にはなるが、素人感情からすると、やはり本当のところ、それでいいのかなという疑念を抱かざるをえない。

『十二人の怒れる男』の一場面

その4.『黄昏』(1981年)【最後】

『黄昏』(たそがれ、原題: On Golden Pond)は、1981年製作の米国映画。湖畔の別荘を舞台に、人生の黄昏を迎えた老夫婦とその娘、彼女の結婚相手の連れ子の心の交流を描く。

監督	マーク・ライデル
脚本	アーネスト・トンプソン
製作	ブルース・ギルバード
製作総指揮	マーティン・スターガー
出演者	キャサリン・ヘプバーン
    ヘンリー・フォンダ
    ジェーン・フォンダ

『黄昏』(1981年) [DVD]

ジェーン・フォンダが不仲だった実父ヘンリーのために用意した作品で、スクリーンの裏側でも映画同様の葛藤が行われていた。念願かない、父と娘の絆は現実でも虚構でも復活し、ヘンリーはオスカーを受けて5ヵ月後に永眠。映画を観る事の素晴らしさが、フィルム上のものだけでない事を痛感させられる名編である。ぜひ1度は”観る価値あり”の映画の中の1本である。

80歳の誕生日を迎えるフォンダとキャサリーン・ヘップバーンの老夫婦の支えあう愛情が暖かい。長年心の行き違いを見せていた父ヘンリー・フォンダと娘ジェーン・フォンダの父娘の葛藤と、それが次第に解けていく心地よさを感じずにはいられない。
老境や死にかかわる言葉が、さりげなくちりばめられていて、美しい画面と、深い人生への哀歓・・・。

『黄昏』の一場面

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