井原正巳(1996-1999)

日本が初めてワールドカップ出場を決めた時のキャプテンはこの方。3人の監督の下で主将を任され国際Aマッチ歴代2位の122試合の出場記録を持つ。主将として臨んだ3回目のアジア予選では歓喜の中にいたが過去2回は涙を呑んでいる。現在はJ2アビスパ福岡の監督をされている。
・代表や所属チームの横浜では4番をつけていて代名詞みたいになっていましたが、ドーハの時は7番をつけていました。とあるクイズ番組で早押し問題として出題された際に、センターバックでは珍しい番号だからか全然正解が出ていませんでした。
柱谷哲二(1991-1995)

オフト監督が率いた1993年アメリカ大会予選、後にドーハの悲劇と言われるこの予選でキャプテンを務めていた。その前後の横山監督やファルカン監督の下でもキャプテンを任されていた。闘争心が人一倍強くピッチ上では鬼の形相で吠えていた印象が強い。しかし統率力も非常に高く、選手間での話し合いを適宜行い監督と選手の橋渡し役を行いチームをまとめ上げていた。オフト監督の元では選手にもかかわらずスタメンの相談を受けることもあったようだ。現在は花巻東高校のテクニカルアドバイザーをされている。
・オフト監督時代は本人を含め選手のほぼ全員が指導法に反発していましたが、徐々に結果が出ても最後まで反発していたラモスを孤立させなかったのはこの方がチームのまとめ役だったからではないかと思います。
加藤久(1985-1987)

1985年に行われたメキシコワールドカップ予選でキャプテンを務めた。この当時最もワールドカップに近づいた瞬間と言われた大会で、結果最終予選で敗退したが、木村和司が直接フリーキックを決め今でも伝説のゴールと言われている。主に読売クラブ(現:ヴェルディ川崎)に所属。
代表でも国際Aマッチ61試合に出場し1987年のソウルオリンピック予選までの2年間キャプテンを務めた。現役時代に異色の経歴があり、筑波大学大学院の修士課程に進学するため選手活動を休止しその後早稲田大学に籍を置き後に准教授に就任したり、1991年に日本サッカー協会の強化委員に選出されたりしていた。また執筆活動も行いサッカーの技術書を出版している。
1994年に現役引退。その後は指導と協会に携わり、現在はジュビロ磐田のゼネラルマネージャーを2014年から務めている。
・サッカー選手でキャプテンのイメージが強い人の一人で、引退してからもキャプテンと紹介されることが多いですね。経歴もですが雰囲気が知的に感じますね。
田口光久(1982-1984)

1975年に日本代表に選ばれ1982年からはキャプテンにも任命される。身長が178cmとゴールキーパーとしては小柄である。しかし実際にはさらに低く175cmであるようだ。身長が低いと相手に脅威を与えられないとの事でさばを読んでいたとの事。国際Aマッチには59試合出場し1984年のロサンゼルスオリンピック予選を最後に引退。引退後は指導者や解説者として現在でもテレビやラジオに出演されている。
・引退後はとんねるずの生でダラダラいかせてのPK対決企画で木梨憲武とコンビを組んで当時の名選手と対戦していたことでご存知の方も多いのではないでしょうか。
前田秀樹(1980-1981)

現役時代は古河電工(現:ジェフ千葉)に所属し主にトップ下(攻撃的MF)で活躍。チームメイトには後の代表監督岡田武史もいた。1976年に日本代表にされると1980年からは主将を任されるが1982年に負傷離脱するとその後はキャプテン明け渡す。約10年間選出され国際Aマッチ65試合11得点を記録した。
現役引退後は解説者や水戸ホーリーホックの監督などの指導者を務める。現在は東京国際大学のサッカー部監督に2008年から就任している。
・1993年にはテレビ東京で中継されたアメリカワールドカップアジア地区最終予選のイラク戦(ドーハの悲劇)で解説を務めていましたね。
落合弘(1978‐1980)
1966年に代表に初選出されると約14年間代表で活躍し1978年からはキャプテンも務めた。国際Aマッチ63試合9得点。元々はFWだが1969年に得点王となった年から徐々にポジションを下げ、1973年からはセンターバックも務めた。また所属チームの三菱重工でもキャプテンを務めたり9年連続で年間ベストイレブンにも選出され続けた。引退後は当時の横山監督の下で日本代表のコーチを務めたり所属していた浦和レッズでもコーチを務めるなど主に指導者として活躍している。
・60年代後半には得点王になるなど攻撃の柱でしたが、70年代半ばになってからは守備的なポジションを主に任されユーティリティプレイヤーとして活躍していましたが、日本リーグのベストイレブンや日本代表に定着したのはDFにコンバートしてからで、当時のサッカー界を引っ張っていったのはそのころからのように思います。
釜本邦茂(1975-1977)

日本代表史上最高のストライカーと言われており1968年のメキシコシティオリンピックではチームは3位で銅メダル、自身も7得点で得点王になっている。もちろん長年にわたりチームの中心で1975年からは主将も務めた。国際Aマッチ76試合75得点(JFA記録)は歴代1位で今も破られていない。
日本リーグではヤンマー(現:セレッソ大阪)に所属し202得点を挙げJ1リーグを含めても歴代1位である。
引退後は指導者としてはヤンマーや松下電工(Jリーグ発足時のガンバ大阪)の監督を歴任している。また1995年から1期6年参議院議員務めている。
・1試合で約1得点は驚異的な記録ですね。釜本さんより出場している現役の岡崎選手やカズ選手が50点台なのと、当時の日本のレベルを考えるとなおさらのことだと思います。
小城得達(1970-1974)
東洋工業(現:サンフレッチェ広島)に所属し現役時代は守備的MF、後半はセンターバックを主に勤めていた。ロングフィードを得意とする当時日本サッカー史上最高の司令塔と言われ、プレースキックも得意で特にPKに定評があった。また、東京オリンピック及びメキシコシティオリンピックに全試合フル出場している。国際Aマッチ62試合出場11得点。
引退後は東洋工業(現マツダ)の社員として定年まで勤める。現在は地元広島県サッカー協会の会長を務めている。
・現役時代は気性が荒かったようで他の選手は小城選手が抑えるが小城選手は誰も抑えられないというようなエピソードがあるようです。
八重樫茂生(1968)

1968年メキシコシティオリンピック時の日本代表キャプテン。主にFWとして活躍し国際Aマッチ44試合出場11得点。1956年より日本代表に選出され同年のメルボルンオリンピックにも出場してきたが、35歳の時出場したメキシコシティオリンピックでは初戦で負傷しその後は試合に出場できず。年齢に加えその怪我も重なって翌年に引退。引退後は主に指導者として活躍する。
・現役時代はエースストライカーとして活躍してましたが、日本リーグ時代は古河電工、富士通(現:川崎フロンターレ)の監督、Jリーグ発足後はアドバイザーという立場でサッカー界に貢献されていたようです。
キャプテンマークとは
野球では左肩の下あたりにCのマーク、バレーボールでは背番号の下のアンダーラインがチームのキャプテンを示しているが、サッカーではどのようにキャプテンを示しているかご存知だろうか?
サッカーでは左(右)の二の腕にアームバンドを着用して示している。これは1986年のメキシコワールドカップで優勝したアルゼンチン代表のキャプテンを務めたディエゴマラドーナが着用していたことが始まりとされる。
・今では規則のように当たり前となっていますが、ちなみにJリーグではアームバンドの着用が義務付けられているのに対し、FIFAの国際ルールでは改訂されていなければ着用の義務付けはないそうです。試合によっては意外にも必ず付けなくてもいいみたいですね。1986年からなのでまだ30年余りの歴史しかないんですね。
おわりに
いかがでしたでしょうか?70年代から90年代にかけて定着した人を挙げてみましたが、キャプテンだけ見ても往年の名選手ばかりですね。現役を知らない世代でも解説者や指導者として活躍した方も多いので長きにわたり日本サッカーを支えているのだと感じました。