はじめに
松下幸之助と言えば《経営の神様》である。
そのノウハウや名言は今でもなおとりあげられ、老若男女問わず人生にアドバイスをくれる。
しかしさて、松下幸之助とは実際にはいかなる人だったのか?
彼が生まれた時代にいた、意外なる同年の人とは?
創業直後の松下をとりまく環境はいかなるものだったのか?
今回はそのあたりにピントをあわせてご紹介しよう。
出生

松下幸之助
Amazon.co.jp: 松下 幸之助:作品一覧、著者略歴
当たり前のように明治の生まれである。なんと芥川龍之介の2コ下ときている。
この時代は文学者誕生ラッシュとでも言うのか、詩人の西脇順三郎、芥川の親友の小島政二郎、自然主義文学の葉山嘉樹、小説家瀧井孝作、怪奇小説化江戸川乱歩――と名だたる面々が生まれている。
そのなかにぽろっとトヨタ自動車創設者の豊田喜一郎、そして松下幸之助の名前が連なっている。

江戸川乱歩
江戸川乱歩 - Wikipedia
丁稚奉公と言い切っている経歴は特殊と言えば特殊だろう。
同様の経歴を持っている人間で、似たよな例で言うとやはり本田宗一郎だろうか。
本田宗一郎は小学校を卒業後、アート金属工業に入社したのが大正時代のこと。
主な仕事は社長の子供のお守りだったと言うから、客のタバコを買いに走っていた松下幸之助とはいい勝負(?)だったかもしれない。
創業
中内功も本田宗一郎も盛田昭夫も、創業する前には別の会社での下積みや研究の時代というものがあった。
ところが松下はちょっと毛色がちがうようである。
なんともものがなしい話ではないか。
中内、本田が修行元の店主から独立を許され、盛田・井深も金銭のやりくりに困りながらも《自由闊達にして愉快なる理想工場》と標榜していたのとはだいぶ雰囲気が異なっている。
もっともこの時は扇風機の部品の大量注文を受けたことにより窮地を脱したらしいのだが、こうして見ると大企業のスタートとしてはだいぶ不安材料が多かったようである。
もっともこのあとは、無事に事業を拡大していき、《松下電気器具製作所》《松下電器製作所》《松下電器産業株式会社》と名前を更新すること数度にわたる。
戦争

リーダーになる人に知っておいてほしいこと
リーダーになる人に知っておいてほしいこと | 松下 幸之助, 松下政経塾 |本 | 通販 | Amazon
しかしここでちょっとブレーキがかかってしまう。
このシリーズではお馴染みとなっている、《戦争》との関わり方である。
戦争時にいまだ創業に至っていなかった本田、盛田とは異なり、松下幸之助はすでに創業済の身分であった。
すると当然(?)、軍部からの軍需品生産の依頼が来る。
これは、いまだに考察がまとまっていないのだが産業にとって幸福か不幸かで言えばどちらかなのだろう。
より具体的に言うと、利益であったか不利益であったか、が気になっている。
もっともそれはケースバイケースということであって、こと第二次世界大戦における日本の場合は一概に言うのは難しいのだろうという気もする。
さて松下電器の顛末から言うと、どうも手放しで喜べる軍需品生産ではなかったようだ。
というのも、ここで松下は
と《活躍》してしまったのである。
その結果、戦後にGHQによって制限会社への指定を受けてしまう。
いわゆる《財閥解体》のあおりを受けてしまったのである。
それにしても友人2名が去って一大事になっていた頃に比べると、短い間にそれだけの対象になる大企業に育っていたというのが驚きである。
ちなみに、といって補足するのはあんまりかもしれないが、このとき松下含め役員の大半が戦争協力者として公職追放処分を受けてしまっている。
この結果をもってして良い利益だったと手放しで喜べる人もそうはいないだろう。
PHP研究所

道をひらく
道をひらく | 松下 幸之助 |本 | 通販 | Amazon
戦後GHQといざこざがある一方で進めるところは進めていくのが腕の良い経営者というものだろう。
1946年、松下はPHP研究所を設立させる。
PHP研究所は電気や電子に関係した会社というわけではない。言ってしまえば出版社である。
出版社は戦後の社会に文化と倫理をもたらすという目標も持っていた。
これに感謝する人が多く、GHQへの嘆願を行ったために松下電器は制限会社指定を解除されることになる。
なお、PHPは現在も出版社として健在である。
2009年には直木賞作品を輩出したことでも知られている。
30年戦争

中内功
流通王・中内功とは何者だったのか | 大塚 英樹 |本 | 通販 | Amazon
さてここでひとつのポイントがやってくる。ダイエー、中内功と松下の間に起こった《30年戦争》である。
別名《ダイエー・松下戦争》。
松下側の立場に立つと《松下・ダイエー戦争》ということになるのだろうか。
戦争といっても当然武力衝突をしたわけではなかった。ことのきっかけは《値下げ》である。
当時、松下電器が出荷していたテレビがあった。
松下はメーカーである。よって当然、ある程度の額で売っておきたいという気持ちが発生する。
さらに業界全体の利益を目指すならば、値下げ競争などは一定の範囲内で抑えて、全員がある程度の利益を得るような状態にしておきたい――という思想があったかもしれない。これを裏付ける資料や発言はいくつかある。
これを中内功は持ち前の安売り精神で無視、小売希望価格の20%引きという大値引きをやらかした。
【創業した者、されたモノ】 《ダイエー》をつくりだした流通王・中内功の理念と功績。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
さあそこからが大変だった。
松下はダイエーに対して《出荷停止》の重い措置を取り、これに対してダイエーは《独占禁止法に抵触》の大義名分で告訴。
以後、2社は30年間に渡って《戦争》と呼ばれる争いを続けていくことになる。
松下幸之助の理念

松下幸之助
血族の王: 松下幸之助とナショナルの世紀 (新潮文庫) | 岩瀬 達哉 |本 | 通販 | Amazon
さて。
最後に松下幸之助らしい理念を、松下本人の著作である「道をひらく」から紹介しよう。
松下は「真実を知る」と題した短文のなかで、どんな苦しいこともつらいことでも、見方ひとつで辛抱したり明るくしたりすることができる、と書いている。
そしてこう続ける。
松下幸之助は、中内の《覇道》に対して《王道》を好む人であった。
他人にやさしく、自らに厳しくというバランサー的な理念をたどっていくと《誠実な理想主義者》の部分がうかびあがってくる。
そして誠実な理想主義者とは、時として現実主義者よりもより正しく現実というものを分析し得るのである。
これまでダイエーの中内功、ホンダの本田宗一郎、ソニーの盛田昭夫を紹介してきたが、彼らと松下には実はひとつの違いが存在している。
松下幸之助には、「怒ると怖かった」という逸話があまりにも少ないのである。実際はどうだったのだろうか?