【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田
ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され1980年代、トップレスラーとして活躍。
B型肝炎を発症したことにより第一線を退き、その後は桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍。
ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。
座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承。
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みなさんご一緒に!!
ジャンボ鶴田の来歴:全日本プロレス入団
有名だった「プロレスに就職します」
1972年10月31日、全日本プロレスへの入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「プロレスに就職します」と報道された。
入団後はテキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、一緒にインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。
ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。
1973年、プロデビュー
1973年3月24日にプロデビュー。2ヶ月後にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。
さらに8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。
10月には帰国し、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー。
蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。
この抜擢については全日内外、メディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている。
60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い、ほどなく全日本プロレスNo.2の地位につく。
1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。師匠であるジャイアント馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。
ジャンボ鶴田の来歴:1970年代中盤~ライバル達との出世争い
3年連続で年間ベストバウトを受賞
1970年代中盤は、様々なライバルとの激闘を経て着実にレスラーとしての階段を上る。
1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間ベストバウトを受賞。
ライバル達との出世争い
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当時の必殺技はスープレックス
この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。
必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いた。
ジャンボ鶴田の来歴:1980年代前半~世界の鶴田へ
後に小橋建太も通った「善戦マン」の道
1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座やAWA世界ヘビー級王座に挑むもタイトルを奪えず「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更。
全日本プロレス⇒プロレスリング・ノアと歩んだ小橋建太も後に、同様の背景からタイツを黒に変更している。
また、この年の秋に来日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。
「善戦マン」~世界の鶴田へ
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ルー・テーズから必殺のバックドロップを伝授
1983年4月、再度全日に登場したルー・テーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップをマンツーマン特訓で伝授される。
全日のエースを襲名
米国遠征中の6月17日に長年就いていたUNヘビー級王座を返上。
8月31日の蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームでジャイアント馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。
年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビはこの年から新設された最優秀タッグチーム賞の初受賞チームとなった。
鶴龍コンビの結成
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1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、AWA王者のニック・ボックウィンクルに挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。
同世代「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、鶴田の穏やかな性格が災いしたとされ、鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった。
【天龍源一郎】「生ける伝説」馬場・猪木からピンフォールを奪った唯一の日本人レスラー
ジャンボ鶴田の来歴:1980年代中盤~超獣コンビ、ロード・ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い
ジャンボ鶴田の底知れぬナチュラルパワー
「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。
超獣コンビ、ジャパンプロレス勢との闘い
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長州力がジャンボ鶴田を「格上」と評す
新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る。
この試合は、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。
長州は対戦前には鶴田を散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」と語った。
2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、新日・全日時代のキャラクターにとらわれず、アマレス時代の先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間ベストバウトに選出されている。
ジャンボ鶴田の来歴:1980年代後半〜1992年 天龍同盟、超世代軍との闘い
完全無欠のエースへ
鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。
特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。
1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に天龍と阿修羅・原のコンビに王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。
1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものに。全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。
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まさに怪物ばりの圧倒的強さで君臨
超世代軍の壁として君臨
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【三沢光晴】これぞプロレス!全日本プロレスのトップからプロレスリング・ノアを立ち上げたエルボーの貴公子、最強プロレスラー三沢光晴。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった。以後も三沢ら超世代軍の前に圧倒的な壁として君臨。
1991年1月19日、三冠ヘビー級王者に返り咲く。この年は三沢、川田、スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが、全て完勝といっていい内容で退けている。
「超人」ハルク・ホーガンとの対戦を望んでいたジャンボ鶴田
この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言したことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。
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