【ジャンボ鶴田】強すぎた怪物レスラーの足跡を辿る!数々の激闘を繰り広げた完全無欠のエース!!

【ジャンボ鶴田】強すぎた怪物レスラーの足跡を辿る!数々の激闘を繰り広げた完全無欠のエース!!

1980~1990年代の日本プロレスマットで、最強の日本人レスラーと言われたジャンボ鶴田。スタン・ハンセンや天龍源一郎、三沢光晴、そして長州力らとの激闘の記憶はいまだ色褪せることはありません。全日本プロレスの完全無欠のエースと呼ばれたジャンボ鶴田、そのナチュラルな強さを足跡とともに振り返りましょう。


【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田

ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され1980年代、トップレスラーとして活躍。
B型肝炎を発症したことにより第一線を退き、その後は桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍。

ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。
座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承。

ツールータッ (オーッ)  ツールータッ (オーッ)

みなさんご一緒に!!

ジャンボ鶴田の来歴:全日本プロレス入団

有名だった「プロレスに就職します」

1972年10月31日、全日本プロレスへの入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「プロレスに就職します」と報道された。

入団後はテキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、一緒にインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。
ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。

1973年、プロデビュー

1973年3月24日にプロデビュー。2ヶ月後にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。
さらに8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。

10月には帰国し、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー。
蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。
この抜擢については全日内外、メディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている。
60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い、ほどなく全日本プロレスNo.2の地位につく。

1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。師匠であるジャイアント馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。

ジャンボ鶴田の来歴:1970年代中盤~ライバル達との出世争い

3年連続で年間ベストバウトを受賞

1970年代中盤は、様々なライバルとの激闘を経て着実にレスラーとしての階段を上る。

1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間ベストバウトを受賞。

ライバル達との出世争い

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当時の必殺技はスープレックス

この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。

必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いた。

ジャンボ鶴田の来歴:1980年代前半~世界の鶴田へ

後に小橋建太も通った「善戦マン」の道

1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座やAWA世界ヘビー級王座に挑むもタイトルを奪えず「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更。
全日本プロレス⇒プロレスリング・ノアと歩んだ小橋建太も後に、同様の背景からタイツを黒に変更している。

また、この年の秋に来日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。

「善戦マン」~世界の鶴田へ

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ルー・テーズから必殺のバックドロップを伝授

1983年4月、再度全日に登場したルー・テーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップをマンツーマン特訓で伝授される。

全日のエースを襲名

米国遠征中の6月17日に長年就いていたUNヘビー級王座を返上。

8月31日の蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームでジャイアント馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。

年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビはこの年から新設された最優秀タッグチーム賞の初受賞チームとなった。

鶴龍コンビの結成

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1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、AWA王者のニック・ボックウィンクルに挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。

同世代「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、鶴田の穏やかな性格が災いしたとされ、鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった。

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ジャンボ鶴田の来歴:1980年代中盤~超獣コンビ、ロード・ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い

ジャンボ鶴田の底知れぬナチュラルパワー

「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。

超獣コンビ、ジャパンプロレス勢との闘い

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長州力がジャンボ鶴田を「格上」と評す

新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る。

この試合は、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。
長州は対戦前には鶴田を散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」と語った。

2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、新日・全日時代のキャラクターにとらわれず、アマレス時代の先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間ベストバウトに選出されている。

ジャンボ鶴田の来歴:1980年代後半〜1992年 天龍同盟、超世代軍との闘い

完全無欠のエースへ

鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。

特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。

1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に天龍と阿修羅・原のコンビに王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。

1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものに。全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。

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まさに怪物ばりの圧倒的強さで君臨

超世代軍の壁として君臨

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【三沢光晴】これぞプロレス!全日本プロレスのトップからプロレスリング・ノアを立ち上げたエルボーの貴公子、最強プロレスラー三沢光晴。 - Middle Edge(ミドルエッジ)

天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった。以後も三沢ら超世代軍の前に圧倒的な壁として君臨。

1991年1月19日、三冠ヘビー級王者に返り咲く。この年は三沢、川田、スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが、全て完勝といっていい内容で退けている。

「超人」ハルク・ホーガンとの対戦を望んでいたジャンボ鶴田

この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言したことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。

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ナチュラルに強いジャンボ鶴田

主な得意技

恵まれた体躯から繰り出される技はどれも強烈!!!

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※以後、wikipediaの解説が詳しいため引用

バックドロップ

この技自体は若手時代から使用していた技なのだが、当時は相手の股へ手を差し込んだ抱え式のバックドロップであった(馬場やドリーのバックドロップと同じ形)。しかし1982年の夏頃から反り投げ式のバックドロップ(現在でいう投げっぱなしジャーマンのようなスタイル)をフィニッシュに使用しはじめ、そして同年秋にバックドロップの祖であるルー・テーズから「ヘソで小さく弧を描くように投げろ」とアドバイスを受け、自分の頭を相手の脇下にいれ、相手の胴を両手でクラッチしてブリッジを効かせて投げるルー・テーズ型バックドロップに磨きをかけるようになる。1983年4月にルー・テーズ杯のためにテーズが再度全日を訪れた際には本格的なマンツーマン特訓も受け、以後はジャーマン・スープレックスに代わる鶴田の絶対的な切り札となる。

最初はつま先をマットにつけたまま素早く低く叩きつける低空高速型(渕正信や蝶野正洋が使用しているタイプ)だったが、観客の見栄えを意識してか徐々につま先を流しながら高く持ち上げ落下させるスタイルに変化させていく。つま先をつけたまま低い体勢で素早く叩きつけるスタイルの低空高速型バックドロップは後のバックドロップ・ホールドへと昇華されていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA世界ヘビー級戦でバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取して以降、鶴田の代名詞と呼ばれるようになり、また、AWA世界王座奪取の決め手のなったことから「世界を獲ったバックドロップ」とも言われていた。身長2m、体重190kgの超肥満体型選手だったワンマン・ギャングも綺麗に投げてみせた事もある。
相手の受身の力量によって落とす角度を変えており、三沢光晴や川田利明に対しては、とんでもない角度で落としていた。別名「岩石落とし」。

ジャンピング・ニー・バット

普段は相手の顔の横を狙って放つが、怒った場合は真正面に向かって放つことがある。一時期は「鶴田が相手をロープに振ったら90%この技」といわれた。決まった後は右手を高々と掲げ「オー!」と叫んでアピールする事がほとんど。現在では秋山準が鶴田から直接教わったことを明言して使用し、女子でも西田夏(NEO)が習得し、仲村由佳(NEO)・里歩(我闘雲舞)へと伝承されている。バスケの経験から得た跳躍力を活かしている。

若手時代は「相手に考慮し」当たる瞬間体を横に向け太もものあたりを当てるようにしていたが、天龍との抗争からそのまま真っ直ぐ飛んで鋭角的な膝を顔面に叩き込むようになった。重要な一戦ではコーナーポスト最上段から放つダイビング式(ダイビング・ニー・アタックと呼ばれた)、ランニング式も使用し、スタン・ハンセンを失神させた事もある。

ダブルチョップ

ダブルハンマーとも。頭上から両手を揃えて相手の背中へ張り手の様に放つチョップ。超世代軍相手に放つことが多く、その威力と大きな音で場内がどよめくことも多かった。技自体は単純だが、相手に格の違いを見せ付ける色合いが強い打撃技である。

ドロップキック

新人時代に多用したが、キャリア中盤以降も印象的な場面でしばしば用いた。持ち前のバネを活かした打点の高さ、威力、タイミング、フォームの美しさ、どれも随一で若手時代は「日本人No.1のドロップキックの使い手」と評された。師匠ジャイアント馬場との初対決でこの技を繰り出した時には、あまりに高く飛び上がりすぎて足先が馬場の頭部(2m9cm)を越えてしまったこともある。

スープレックス

ジャーマン、ダブルアーム、フロント、サイドの4種類のスープレックスを使いこなし、特にジャーマンのブリッジは真円を描くかのごとく美しかった。しかし、鶴田のジャーマン・スープレックスは1982年のリック・フレアーとのNWA戦を最後に封印される。表向きの理由は「恐ろしい威力を誇り危険であり調節も難しいため」であったが、和田京平レフェリー曰く「ハゲるのが嫌だから」であった。ただ、鶴田のジャーマン・スープレックスはスピードを落として持ち上げて一旦止めてから投げていく、現在でいう二段モーション式ジャーマンなので、結果相手は高角度からほぼ垂直に落下する危険なタイプのものであるのは確かで、第8回チャンピオン・カーニバルの決勝で仕掛けられたディック・スレーターが首を負傷してしまったのは有名。

なお、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田が初めてで、(カール・ゴッチは『私は彼(鶴田)が騒がれる前からサルト(フロント)を使用していた』と主張しているが、ゴッチが試合でフロントを使用したという記録は少なくとも現時点では存在していない)、ジャック・ブリスコからUNヘビー級王座を奪取する決め手となったのはフロントだった。鶴田曰く「ジャーマンは1週間で習得出来たが、フロントは4週間かかった。4種類のスープレックスでは一番難しく、本当に受身の上手い選手にしか使わない」そうである。

サイド・スープレックスについては、長身の馬場を投げきる場面が印象的な映像として頻繁に流されている。

最もよく使われており得意としていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代前半は大試合で必ず見られるムーブのひとつであった。

ミサイルキック

倉持隆夫アナからはウルトラCドロップキック、もしくはジャンボ・ミサイルキックと呼ばれていた。1975年全日本に参戦したリッキー・ギブスンが公開、ドロップキックを得意技にしていた鶴田はこのミサイルキックを自分のものとした。ジャーマン・スープレックスと共に若手時代の鶴田のフィニッシュだった。スワンダイブ式が全盛の今と違い、2m近い巨体の鶴田が体を捻りながら蹴るミサイルキックの威力は高く、ミル・マスカラス、リック・フレアーといった一流どころからも3カウントを奪っている。

ジャンボラリアット

スタン・ハンセンのような一撃必殺技とは行かないが、試合の要所でこの技を使用した。キャリアが中盤になるころから使い出した技。1984年のテリー・ゴディとの一騎打ちあたりから黒いアームサポーターをしごいて放つジャンボラリアットが誕生したと言われる。鶴田のラリアットの打ち方は特徴があり、通常は下から体ごと伸び上がりながらノドを突き上げる。ただし、菊地毅のような小柄のレスラーには肘を曲げて上から体重を乗せるような打ち方をした。いずれにせよ、鶴田の身長を上手く利用した打ち方であった。また、長州力のリキラリアット同様、使用した当初は腕を痛めたポーズをとっていた。

フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)

ジャンプして相手に飛びついて、馬乗りになるような状態で背中から叩きつける。1983年4月、ルー・テーズにバックドロップを習った際に一緒に教わったもの。そのままフォールの体勢になることも多いが、トップロープに自らの喉元を打ち付ける誤爆も多かった。また長身でジャンプ力のある鶴田が使うと勢い余ってヒップドロップの形で落下してしまうこともあった。技の説得力から使用回数の割にフィニッシュムーブとなることが多かった。

パワーボム

天龍源一郎との1989年4月20日大阪における三冠ヘビー級選手権で、喉笛へのチョップを何度も食らったために怒りで我を忘れた鶴田が、その天龍に対し放った技。のちに「ジャンボ・リフト」の別名がついたそのパワーボムは超急角度かつハイスピードなもので、頭から垂直に落とされた天龍は口から泡を吹いて失神。

直後に天龍の異変に気付いた鶴田が慌ててフォールし、試合を終わらせている。(実際には鶴田のミスであり、それまではパワーボムをほとんど使用してなかったために「加減が分からずやりすぎた(鶴田・談)」)

エルボー・バット

鶴田が大きな技へのつなぎ技、反撃の糸口として使うエルボー・バットはエルボー・スマッシュと、体を半回転させて打ち込む、今でいうローリング・エルボーの形に近いものが多かった。どちらもドリー・ファンク・ジュニアの得意技で、ファンクス道場での修業中にドリーから教えられたもの。

ショルダースルー

この技はほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的なムーブである。相手の攻撃を「引き出す」ための動きだが、鶴田に比較的余裕のある状態で行われるため、やや不自然なものであることが多い。ブルーザー・ブロディとのシングル戦では、双方がショルダースルーに行こうとしては反撃で失敗する「ダブルお約束」的シーンが見られた。

タックル

この技も、ほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。コーナーに投げた相手に向かってタックルをかけるべく頭から突進するがキックを食らうかもしくは自爆。決まったことは数えるほどしかない。

場外でヘッドロックから鉄柱攻撃

この技もまた、ほとんど反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。場外で相手をヘッドロックにかかえたまま相手の頭部を鉄柱に打ち当てるべく突進。頭を抜かれて自分が鉄柱に体当たりする。

キチンシンク

ロープに振り、戻ってきた相手の腹部に膝蹴りを入れる。2、3回ほど行うのが常だった。特に川田利明の受けっぷりは見事であった。見ている者に最も痛みを感じさせる技とも言われた。長州が全日に参戦していた直後から鶴田も使い始めた事から、長州に影響を受けたものと思われる。

拷問コブラツイスト

通常のコブラツイストと異なり、かけた相手の頬・側頭部を上から押さえつける。川田との拷問コブラ合戦は名場面の一つ。また、菊地毅はこの技を文字通り「押し潰される」ように受けた。

レッグ・ラリアット

対ブルーザー・ブロディ用秘密兵器、という触れ込みで開発された。木村健吾の技とはまったく違い、ジャンピング・ニーバットが横に流れた形。膝ではなく、脛が相手の首にヒットする。見た目がほとんどジャンピング・ニー・バットと変わらないことからあまり評判が良くなかったのか、数回使っただけで封印された。

逆エビ固め(ボストンクラブ)

キャリア前半では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技として多用していた。キャリア終盤時は体格差のある菊地毅へ決めた形が片仮名の「コ」に見えることから「コの字固め」とも呼ばれていた。馬場の「試合終了間際に攻めている方が強くみえる」という教えに沿って、残り時間が30秒を切ってから仕掛けることもよくあった。

ジャンボホイップ

アトミック・ドロップの要領で抱え上げ、前方へ放り投げる荒技。菊地毅が主な犠牲者。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行くことも。

ランニング・ネックブリーカー・ドロップ

走りこんで相手の首に腕を掛けそのままマットに相手の後頭部を叩きつける。師匠馬場の必殺技であった。

延髄斬り

相手の延髄めがけてジャンプをしながらハイキックを入れる。天龍が多用していた技でもある。鶴田の場合は軸足を掴まれた状態から放つキャッチ式延髄斬りをここ一番で効果的に使っていた。

ビッグブーツ

相手レスラーに向かってフロントキックをぶちかます。福沢朗アナは十四文キック、若林健治アナはジャンボ・キックと呼称していた。ライバルのブルーザー・ブロディが死去したことで折角威力のある技であるし、ファンがブロディを忘れることがない様にと使う様にした。事実、試合でヘビー級レスラーをも吹っ飛ばしていた。1989年4月20日の三冠へビー級選手権では、天龍をパワーボムで失神させる前に、この技で天龍の歯をへし折っている。また、馬場とのコンビではダブル・フロントキックをよく使っていた(実況では三十文キックとも呼ばれた)。

パイルドライバー

ドリル・ア・ホール式で、相手の頭を股間に挟み込んでリングへ脳天を叩きつける。技の妨害を受ける心配がない場合は挟み込んだ体勢で四方に身体を向けてアピールしてから落とすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様何らかの工夫をしていたのか、決まった時の衝撃音が非常に大きかった。

痙攣

相手選手の攻撃を受けダウンした状態のとき(主にうつぶせの場合)ピクピクと痙攣するシーンも大一番ではよく見られた。似た技(?)で関節技をされている際に「足バタバタ」というのもある。「鶴田が痙攣してたり、足をバタバタさせている内はまだまだ余裕がある」というのは全日ファンの間では暗黙の認識だった。(鶴田が痙攣状態からそのままピンフォールを奪われたのは1988年3月のブロディとのインター・ヘビー級選手権くらいで、これらのムーブのあと何事もなかったかのように涼しい顔で反撃に出るのがほとんどだった。

ジャンボ鶴田の最強バックドロップ

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