ジョージ・フォアマン 「老いは恥ではない」45歳で2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった象をも倒すパンチを持つ男

ジョージ・フォアマン 「老いは恥ではない」45歳で2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった象をも倒すパンチを持つ男

1968年、メキシコシティオリンピックで金メダル獲得。 1973年、無敵のジョー・フレージャーを倒し世界ヘビー級チャンピオンになる。 1974年、モハメド・アリにノックアウトされ、やがてリングから消えた。 1994年、マイケル・モーラーを逆転KOで倒して再び世界チャンピオンなる。 アーチ・ムーアやロベルト・デュランなど40歳を超えても戦い続けたチャンピオンはいた。 しかしジョージ・フォアマンは10年間のブランクを経てカムバックし、しかも世界チャンピオンになった。 彼はその間、牧師をしていて、復帰の理由も慈善活動の費用を稼ぐためだった。 少年時代、小学校を留年し中学校を卒業できず犯罪にさえ手を染めた彼が・・・ 圧倒的な強さ、栄光、勝利、すべてを失うような敗北、そして奇跡のカムバック。 まさにアメリカンドリーム。


中学中退

ジョージ・フォアマンが育ったアメリカのテキサス州ヒューストンの5番区は、かつて「血の5番区」と呼ばれ、貧困と絶望が街を支配し、毎週、誰かがストリートファイトやリンチによってケガをしたり命を落としていた。
フォアマン家には、父と母、そして7人の子供がいた。
ジョージ・フォアマンには4人の兄姉と2人の弟がいたが自分だけ父親が違った。
彼は母親と浮気相手の間に生まれた子供だった。
父親(実父ではなく育ての親)のJ.D.フォアマンは、ジョージを自分の子供のように、むしろ他の子供よりも特別に可愛がった。
母親と喧嘩するときも決してジョージのことを武器にしなかった。
しかし何もなかったフリをすることはできなかった。
鉄道会社で働いていたが給料を家に入れず、すべて酒と道楽に使った。
母親は、コックの仕事を2つ掛け持ちし週7日働いたが、家は貧しかった。
ジョージ・フォアマンはプライドが高く、常に心に怒りを充満させ、なにかあれば誰彼なしにすぐに暴力をふるった。
学校へ朝いくフリをして、親が仕事に出た後、窓から家に入ってベッドで寝た。
そして授業が終わる頃に学校にいき、友達と帰ってくるフリをした。
単位が取れず留年し、年下の同級生と小学校を卒業した。
中学ではアメリカンフットボールと出会った。
高い理想と目標を持った指導者の下で、厳しい練習に耐えレギュラーとなった。
しかしある日、タバコをくわえているところを喫煙を嫌っていた指導者にみつかってしまう。
信頼を裏切ってしまったという自己嫌悪に陥った彼は、その後、練習にも学校にも行かなくなってしまう。
こうして中学校を卒業できないまま義務教育を終えた。

犯罪者

イライラと欲求不満にとりつかれていたフォアマンは、ある夜、仲間と建物の窓に石を投げつけ誰が1番多くガラスを割るか競争をした。
これが最初の犯罪だった。
悪事はすぐにエスカレートし、ある夜、仲間2人と公園を1人歩く男を襲い、財布を奪って逃げた。
2人が男を押さえつけ、1人が財布を盗み、後で山分けにした。
これは13歳から15歳まで2年間続いた。
この頃のフォアマンは、他人のお金を奪うことはそんなに悪いことだとは思わなかった。
186㎝84㎏の巨体でタックルし押さえつけ財布を奪った。
またケンカも絶対に負けなかった。
「いまなんていった?」
「別に」
「いいや、聞こえたぞ」
ガツーン!
「貴様何みてる」
ガツーン!
何かと言いがかりをつけては殴り倒した。
自分の行く手を阻むものは誰一人許さなかった。
5番区の乱暴者の中でもその腕力は抜きん出ていた。
みんなの怯えた目をみてフォアマンはふんぞりかえった。
中学を中退した後、いくつか仕事に就いたが、飲酒が原因による無断欠勤などで長続きしなかった。
未来に何の光もみえなかった。

職業部隊(Job Corps)

1963年11月22日、テキサス州のダラスでケネディが暗殺され、副大統領だったリンドン・ジョンソンは第36代アメリカ合衆国大統領となった。
ジョンソンは南部出身(ケネディが撃たれたテキサス州出身のため、暗殺の黒幕説もある)だったが、南部の黒人に対する人種隔離に対し憤りを感じ、ケネディの志を継ぎ「公民権法」を成立させようとした。
また貧困問題や失業問題のために10億ドルを拠出。
キャッチフレーズは「Great Society(偉大な社会)」だった。
1964年7月2日、「公民権法」成立。
1964年8月、南ベトナムを軍事援助していたアメリカの駆逐艦が攻撃を受ける。
(トンキン湾事件)」が起こる。
ジョンソン大統領は南ベトナムを全面支援することを表明。
アメリカはベトナムへの軍事攻撃を強めていった。
1965年、1億300万ドル。
1966年、60億ドル。
1967年、200億ドル。
ベトナムの戦費はアメリカを圧迫し、アメリカ国内、そして世界中で反戦運動が活発化。
支持率が落ち込んだジョンソン大統領は次回の大統領選に出馬しない意向を示し、ベトナムは和平への道へと進んでいく。

ジョージ・フォアマンは、ジョンソン大統領の「Great Society(偉大な社会)」計画の一環である「職業部隊(Job Corps)」に入った。
これはトレーニングセンターに入り、一般教育と職業訓練を受け、1日に3度の食事、月30ドルの小遣い、月々50ドルが積み立てられ、2年のコース終了時に全額渡されるというもの。
16歳のフォアマンは、初めてヒューストンを出て、オレゴン州の郊外にあるフォート・ヴァニー・トレーニングセンターに入った。
センターは、隊員に品位ある態度と自己修練を求めたが、フォアマンは、気に入らない者がいればすぐさま殴り、自分をなめるとどうなるか教えた。

やがてフォアマンはボクシング指導者:ドク・ブローダスに出会った。
初日、ドクはいきなりフォアマンをリングに上げ、スパーリングをさせた。
相手は、モヤシのように痩せた男でフォアマンは1発で倒せると思った。
しかしフットワークを踏むモヤシ男にパンチは1発も当たらず、空振りして転ぶこともあった。
一気に間合いを詰めようと突っ込んでいくと、ジャブを鼻にもらって倒された。
フォアマンは恥ずかしくてもうボクシングジムには行かなかった。
しかしその後、センター内で警察沙汰になるような大きな暴力事件を起こした。
ついに除隊かと覚悟していたとき、ドクがかばってくれたおかげで、センターは「最後のチャンス」として除隊は見送った。
「なんでもやります。
絶対サボりません。」
そういってフォアマンはドクにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
そしてヘトヘトになるまで練習した。
数週間後に行われた試合で海軍に所属する相手を、1RでKOした。
勝ったとき、大声でわめきリングを跳びはねた。
これまでこんなに誇らしく嬉しかったことは1度もなかった。
この勝利を境にジョージ・フォアマンは変わった。
急に目の前が明るくなった。
その後も試合で勝ち続けた。
ゴングと同時にラッシュし力いっぱい殴りつけ、あらゆる角度からパンチを浴びせてダメージを与えるか、KOパンチをヒットさせ、勝負は1Rでついた。

フォアマンは、職業部隊を卒業するとジューストンの実家へ帰った。
プロボクサーになる気がなかった。
多くの友人はベトナムへ送られていたが、フォアマンはドクの口利きで徴兵を免れた。
職業部隊で身につけた技術を活かせそうな会社に書類を送り採用通知を待った。
そして友人の家で、センターにはなく2年間飲まなかった酒を飲んだ。
そして女の子を口説き始めた。
するとその女の子のボーイフレンドと兄がきた。
「俺の彼女だぞ」
フォアマンは兄弟まとめて殴った。
そして告訴された。
「ジョージ、道は1つしかないわ」
母親は示談金を支払い、ドク・ブルーダスに電話した。
「うちの息子を何とかしてください
ここから連れ出してください」
こうしてフォアマンは、職業部隊のトレーニングセンターに住み込みで働き、ジムではドクにビシビシしごかれた。
19歳のジョージ・フォアマンの目標は、1968年に開催sれるメキシコオリンピックの金メダル。
高い目標を持ち、小学生から続けてきたタバコと酒を断つことに成功した。

オリンピックでアメリカ国旗を振る

フォアマンは、国内予選を勝ち抜き、ボクシング競技のヘビー級のアメリカ代表となった。
1年前、モハメド・アリがベトナム戦争への徴兵を拒否しタイトルを剥奪された。
何人かのアメリカ代表も、オリンピックで反戦の意志を示した。
バスケットボールアメリカ代表のカリーム・アブドゥル=ジャバーも代表入りをボイコットした。
トミー・スミスは200mを19秒83の世界記録で走り優勝。
同じくアメリカ代表のジョン・カーロスは3位に入った。
トミー・スミス、ピーター・ノーマン(オーストラリア)、ジョン・カーロスはメダル授与のため表彰台に向かった。
2人のアメリカ人選手は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履いてメダルを受け取った。
スミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に纏い、カーロスはクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するためロザリオを身につけていた。
オーストラリア代表のノーマンも2人に同調し、3人共、OPHR(Olympic Project for Human Rights、人権を求めるオリンピックプロジェクト)のバッチを着用した。
後にスミスは
「もし私が勝利しただけなら私はアメリカ黒人ではなくひとりのアメリカ人であるのです。
しかしもし仮に私が何か悪いことをすればたちまち皆は私をニグロであるといい放つでしょう。
私たちは黒人であり黒人であることに誇りを持っている。
アメリカ黒人は(将来)私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう。」
と語った。
IOC(国際オリンピック委員会)会長:アベリー・ブランデージは、トミー・スミスとジョン・カーロスをアメリカ・ナショナルチームから除名。
オリンピック村から追放を命じた。
アメリカオリンピック委員会はこれを1度は拒否したものの、命令を受け入れ、スミスとカーロスは出場停止となり、オリンピックから追放された。
彼らは帰国後、非難・中傷され、家族にも脅迫文が何通も届き、長い間スポーツ界から追放された。
しかしスミスは陸上競技を続けると共に黒人の権利獲得への運動を続けた。
アメリカンフットボールチームに入団した後、大学の体育学助教授に着任。
1995年のバルセロナ世界室内陸上選手権ではアメリカナショナルチーム補助コーチに就任した。
カーロスも陸上競技を続け、オリンピック翌年に男子100mの世界記録に並ぶ記録を打ち立てた。
1970年にはアメリカンフットボールチームに入団したが、膝の怪我で1年で退団。
1977年には妻が自殺。
不遇の時を過ごした。
1985年からはパームスプリングスの学校で陸上のコーチに就任し、現在に至る。

ジョージ・フォアマンは、メキシコシティオリンピック、ボクシングヘビー級で勝ち進み、決勝戦の相手は、ソ連代表のイチオス・チェピュリス。
1969年、冷戦の真っただ中での米ソ対決となった。
フォアマンは、ガウンのポケットにアシスタントコーチがくれた小さなアメリカ国旗を押し込みリングに上がった。
そして試合に勝利したあと、四方に向け礼をするとき、その国旗を取り出して振った。

翌日、リチャード・ニクソンは大統領選挙のスピーチでいった。
「オリンピックのあの青年は我々に誇りを与えてくれた
彼は恐れることなく愛国心を表明してくれた」
さらに数週間後、ジョージ・フォアマンは、リンドン・ジョンソン前大統領と会見させてもらった。
通常なら何か贈られるべきところ、逆に盾を元大統領に贈った。
「リンドン・ジョンソン大統領へ
1968年、オリンピックヘビー級金メダリスト、ジョージ・フォアマンより
私のようなアメリカの若者に希望と威厳と自尊心を与えてくれた職業部隊の設立に感謝の気持ちを込めて」

しかし故郷では惨めな思いも経験した。
フォアマンは通った小学校で表彰式を受けた。
そして5番区を金メダルをぶら下げて歩いた。
しかし訪問先にはトミー・スミスとジョン・カーロスを称賛している人もいた。
彼らにとってフォアマンは裏切り者だった。
ある友人はいった。
「おい、兄弟たちがひどい目にあっているのに、よく自分だけ国旗が振れたな」
その後、ジョージ・フォアマンは、職業部隊の仕事に戻ったが、数ヵ月、リンドン・ジョンソンからリチャード・ニクソンに政権が移り、職業部隊のセンターは閉鎖された。

A MAN 哀しいくらい誇り高いソニー・リストン

ジョージ・フォアマンは、ボクシングトレーナーであり、マネージャーであり、プロモーターでもあるディック・サドラーと契約した。
日本はジム制で、プロボクサーは所属ジムと契約し、ジムが試合交渉やマネジメントを行う。
アメリカは選手は、トレーナーやマネージャー、プロモーターと個人的に契約を結ぶ。
ジムはあくまで使用料を払って練習をする場所である。
ディック・サドラーの傘下には、ソニー・リストンがいた。
ジョージ・フォアマンとソニーリストンは一緒にトレーニングした。
ソニー・リストンは生まれた年さえ正確にはわからない。
服も 靴も 食べるものもなく教育を受けることもなく父親に虐待されながら育った。
その背中には鞭を打たれた傷跡が残っていた。
暴力に耐えかね逃げ出した母を追うように家を出た。
武装強盗や警官襲撃など幼い頃から犯罪に手を染め19回逮捕された。
その間に刑務所でボクシングを覚えた。
身長184cmで213cmという長いリーチと周囲38cmという大きな拳、そして放たれる殺気にたくさんのボクサーが飲まれ倒されていった。
1962年9月25日、前チャンピオン:フロイド・パターソンを1RKOし世界ヘビー級王者となる。
1963年、再びフロイド・パターソンにKO勝ち。
1964年、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)の挑戦を受け、6回終了時棄権しTKO負け。
1965年、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)にリターンマッチを挑むが、初回2分12秒でKO負けした。
リストンは「最強」の男として称えられるより「最凶」と恐れ憎まれた。
「みんな俺に勝ってほしくねぇみたいだったんだ」
無口なリストンが フォアマンに告白した。
フォアマンはリストンに同情した。
リストンは 決して 冷酷でも残酷でもなく、深く傷ついた 誇り高い男だった。
フォアマンは もし自分も運命がもっと辛かったら自分もこうなっていたかもしれないと思った。
フォアマンは貧しいながらも愛情を受けてれ大人になった。

1971年1月5日、最後の試合に負けた半年後、帰省していた妻がラスベガスの自宅のベットの下でリストンが死んでいるのを発見した。
キッチンでヘロインが見つかり、リストンの腕に注射痕があった。
死因は、ヘロインの過剰摂取、心臓麻痺、マフィアに殺害されたなど諸説ある。
いつ生まれたかもわからない男は どうやって死んだかもわからなかった。
哀しいくらい誇り高いソニー・リストンの墓碑には「A MAN」とだけ刻まれている。

キングストンの惨劇

ジョージ・フォアマンは、1969年にプロデビュー後、13連勝11KO。
1970年も12連勝11KO。
1971年には NABF(北米)ヘビー級チャンピオンになる。
1972年は5試合して、すべて2Rで終わらせた。
ここまで37勝0敗34KOのジョージ・フォアマンは、1973年1月22日、WBA・WBC世界統一ヘビー級チャンピオン:ジョー・フレージャーに挑戦した。
ジョー・フレージャーは29戦0敗25KO。
鉄壁のディフェンスの低い姿勢から伸び上がりものすごいパンチを打つ。
何より肉体的にも精神的にもタフだった。
ジョージ・フォアマンは、ジョー・フレージャーを1Rに3度、2Rにも3度のダウンさせ、TKO勝ち。
その叩き潰すような試合内容から「キングストンの惨劇」といわれた。

1973年9月、最初の防衛戦の相手はジョー・ローマンだった。
試合は東京で行われた。
ジョージ・フォアマンはラフなパンチでローマンを追い詰め、何度も殴り倒した。
倒れているノーマンにパンチを見舞うこともあった。
そしてついに立てなくなったローマンを見下ろし睨みつけ1RKO勝ちした。
日本の観客は、その圧倒的な強さに畏敬の念を抱くとともに、挑戦者にに対してまったく敬意のないチャンピオンに嫌悪感を持った。
ジョージ・フォアマンは自分の強さに酔いしれ、他人に対しては横柄で不愛想で怒りっぽい男になった。
すでに1度目の結婚をしていたが、他の女性ともためらわず一線を越えた。

ジョージ・フォアマンは、5番区のガキの頃から、自分が最強であることに誇りを持ちこだわっていた。
自分の強さに疑いを持つ人間がいたら力でわからせた。
1974年3月26日、2度目の防衛戦の挑戦者はケン・ノートンだった。
モハメド・アリの顎を砕いて完全勝利したこともあるボクサーだったが、2RTKOに下した。
ジョージ・フォアマンはリング上から、実況解説席にいたモハメド・アリに向かっていった。
「次はお前を殺るぞ」

キンシャサの奇跡

1974年10月30日、アフリカのザイール(現:コンゴ)の首都:キンシャサ市外のジャングルを切り開き建てられたスタジアムで、ジョージ・フォアマンは、元世界ヘビー級チャンピオン:モハメド・アリと3度目の防衛戦を行った。
ジョージ・フォアマンは25歳。
メキシコオリンピックボクシングヘビー級で金メダルを獲得。
プロ転向後は、ジョー・フレージャーやケン・ノートンをKOし、統一世界ヘビー級王座を獲得・防衛。
そのパンチは、「象をも倒す」といわれる。
対するモハメド・アリは32歳。
全盛期は過ぎたと思われる。
彼はベトナム戦争に反対し徴兵を拒否したことで、世界チャンピオンのタイトルを戦わずして剥奪された。
ベトナム戦争が長期化してくるとアメリカを含む世界中でベトナム戦争に反対する人が多くなり、モハメド・アリは悲劇のヒーロー、信念の人と称賛されるようになった。
そして彼は不当に奪われた世界チャンピオンのタイトルを取り戻すべくジョージ・フォアマンに挑む。
ジョージ・フォアマンは、1Rから圧倒的に攻め続け、モハメド・アリを追い込んで強いパンチを打ち込んだ。

モハメド・アリは、ロープによりかかったり、ロープの弾力を利用してジョージ・フォアマンの強打に対応する「ロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)」作戦に出た。
ロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)とは、ロープ際で防御している自分を攻め続けるまぬけ(ドープ)な相手という意味。
アリはロープを背負って、頭をリングの外に大きく出してボディーを両手でカバーした。

やがてジョージ・フォアマンの突進力は弱まっていくとモハメド・アリは、ロープ際を離れ、攻め始めた。
8R、モハメド・アリのコンビネーションパンチで、ジョージ・フォアマンは大きくよろけた。
モハメド・アリが、とどめのパンチを放つとジョージ・フォアマンの巨体が、ゆっくり倒れていった。
このジョージ・フォアマンが41戦目にして初めて敗れ、モハメド・アリが2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった逆転KO劇は「キンシャサの奇跡」と呼ばれる。

転落、登攀

世界一強かった男にとって敗北とは、タイトルだけではなく自分自身を失うものだった。
試合のことが頭から離れなかった。
あのときバックステップで後ろに下がればよかった・・・
あのときガードを上げていれば・・・
もしかしたら10カウントの前に立てたかもしれない・・・
後悔ばかりが無限に浮かんだ。
世界中が自分を敗者だと嘲り笑っているように思えた。
たくさんの車や豪邸やお金も何の助けにもならなかった。
3ヵ月間、どこにも行けず、誰にも頼れず、しかしやがてジョージ・フォアマンは世界ヘビー級のタイトルを取り戻すことを決意しトレーニングを開始した。

そしてキンシャサの敗戦後4連勝し、1976年1月24日、強打者:ロン・ライル (Ron Lyle) との死闘に挑んだ。
フォアマンは、3Rにダウンを奪われ、完全に捨て身となり、ダウンを奪い返したものの、このラウンド終了間際に2度目のダウン。
フラフラになりながらも最後の最後まで切れることがなかったフォアマン選手の執念が5Rにライルをねじ伏せKO勝ち。

ジョージ・フォアマンはジョー・フレージャーと再戦。
フォアマンは低い前傾姿勢のフレージャーに右アッパーを突き上げた。
5R、フォアマンのパンチでフレージャーがマウスピースを口から飛ばし崩れ落ちた。
エイトカウントで立ち上がった数秒後、フォアマンのパンチを浴び再びダウン。
額から血を流しながら、立ち上がろうとするフレージャーをレフリーが止めた。
5RTKOで勝ったフォアマンは、フレージャーを見下ろし野次を飛ばしてくる客を睨みつけた。
これがジョー・フレージャーのラストファイトとなった。
32勝4敗27KO。
4つの負けはモハメド・アリとジョージ・フォアマンに2回ずつ負けたものだった。

神に出会う

この後、ジョージ・フォアマンはディノ・デニスとペドロ・アゴスタに連勝。
そして1977年3月17日、ジミー・ヤング と対戦。
しかしヤングを攻め切ることができず12R(最終ラウンド)、焦って放った右アッパーをヤングにカウンターをとられダウン。
すぐに立ち上がり、ラッシュしたが、判定負け。

ジョージ・フォアマンは、ヤング戦の試合後、ロッカールームで聖書的体験をする。
頭の中で神の声がして、どこか遠くに運ばれていくのを感じた。
そこは宇宙の底の底、無以外何もない場所だった。
フォアマンは自分が死んでいくのだと思い、自分を支えてくれた人たちに感謝の気持ちを伝えていなかったことを後悔した。
そして本当に死を覚悟したとき、巨大な手が自分を抱え上げ無の世界から運び出した。
瞬間、自分が控室のベッドで寝ていることに気づいた。
トレーナー、ドクター、ボディガード、マッサージ師、兄弟、みんなが自分を囲んでみていた。
フォアマンは自分を恐ろしい場所から救い出してくれた偉大な手を思い出していった。
「おい、イエス・キリストが俺の中に乗り移ったんだ」
「だがジョージ、あんたはそんなにクリーンじゃないぞ」
「クリーンにしなきゃな」
そういうとみんなを押しのけシャワールームに向かった。
シャワーを終えると裸のままスタッフ1人1人に感謝の言葉をかけキスをした。
もし勝てばモハメド・アリと再戦しタイトルを取り戻せるかもしれないという大事な試合だったが、ジョージ・フォアマンは敗れ神と愛に出会った。
28歳だった。

牧師

神に出会ったジョージ・フォアマンは、自分の家族を抱きしめ心の底からいった。
「愛しているよ」
みんなどうして急にこんなに優しくなったのか不思議がった。
教会に依頼されて、ジミー・ヤング戦での体験を話したことをきっかけになり、ジョージ・フォアマンは熱心な牧師となり、やがて自分の教会を持った。
急激に変わったフォアマンを気味悪がって避ける人もいたが、その人気はすさまじく講演やキリスト教の普及活動を全米および海外で行った。

ジョージ・フォアマン青少年センター(George Foreman Youth and Community Center )

Youth Center - The Official Site of George Foreman(http://www.georgeforeman.com/youth_center)

1983年、ジョージ・フォアマンは、自分の教会の1ブロック離れた場所にあった倉庫を買いとり改装し、「ジョージ・フォアマン青少年センター(George Foreman Youth and Community Center )」を立ち上げた。
バスケットコートやボクシングリングがつくられ、トレーニング器具やスポーツ用具を運び入れた。

会費は年1ドル。
ルールは、スポーツマンシップとフェアプレー、そして自由だった。
多くの少年少女とその保護者が集い、スポーツだけでなく勉強や芸術を楽しんだ。
家庭に問題を抱えた子供、あるいは少年院を出たばかりの子供は、あいさつ、言葉遣い、読み書ききや算数、マナーなども教わった。
オドオドと気弱な初年が、真剣にスポーツの練習をするうちに自信を持ち、自尊心を持ち自重するようになることもあった。

挑戦

ジョージ・フォアマン青少年センター(George Foreman Youth and Community Center )は、講演料や寄付によって運営されていたが、やがてそれだけでは困難になってきた。
なんとか資金を集める方法はないかと考えたとき、ジョージ・フォアマンは思った。
「もう1度、世界ヘビー級チャンピオンになるんだ」
ジョージ・フォアマンは、もう1度、世界ヘビー級チャンピオンになるために10年ぶりに現役復帰すると発表した。
37歳。
145㎏。
25歳でジョー・フレージャーを倒し世界チャンピオンになったときより約45㎏増えていた。
この復帰には、家族を含めた世界中の人々が否定的で、不可能で、危険だといった。
信じているのはジョージ・フォアマンだけだった。

オリンピック以降、ボクシング用品はすべてスポーツメーカーから無償で提供されていたが、今回は自らスポーツショップに行き必要なものを選んで買った。
朝、車でジョージ・フォアマン青少年センター(George Foreman Youth and Community Center )から数㎞離れた場所まで送ってもらい、そこから走って帰る。
かつて世界チャンピオンになったときでさえ3㎞以上走ったことはなかったのに、5㎞、8㎞、10㎞と少しずつ距離を伸ばしていった。
そしてサンドバッグを打ち、ステップワークの練習、縄跳び、ミット打ち、スパーリング。
夜もルームランナーで走った。
その練習量はかつての全盛期を超えた。
プロボクサーは、試合を行う州で認可を受け、精神的・肉体的に不適格なボクサーはリングに上がれない。
ジョージ・フォアマンは、カリフォルニア州でカムバック試合を行うため、カリフォルニア州の体育委員会で審査を受けた。
メディカルチェックはクリアしていたが年齢を問題視する委員もいた。
しかし
「なぜまたボクシングがしたいのか?」
という質問に対して
「生きるため、自由のため、幸せになるためです」
というジョージ・フォアマンの答えを聞くと許可せざる得なかった。
最初はまともに相手にしないか、否定的だったマスコミも徐々に好意的な記事を書き始めた。

そして復帰戦のリングに向かうジョージ・フォアマンに、観客はスタンディングオベイション。
ジョージ・フォアマンは、これまで受けたことのない声援を受けた。
そしてスティーブ・ゾウスキーを4RTKOした。
その後も勝ち続け、復帰後24連勝23KO。
象をも倒すといわれた健在だった。
試合会場は満員となり視聴率も高かった。
記者にボクシングにおける脳の損傷について聞かれると
「俺はもうやられているんだ
だって4回も結婚したんだから・・・」
お金について聞かれたときは
「足の速い女と遅い馬のせいでなくなった」
以前のフォアマンなら絶対にいえないコメントだった。
そして彼はいった。
「俺を年寄り扱いするな。
夢を見ることができる者はなんでもできるということを教えてやる
俺は世界ヘビー級のチャンピオンになる夢をみたんだ。
誰も俺を止めることはできない。
俺は生きているし自由だ。
そして幸せになりたい。」
こうしてジョージ・フォアマンはファンに愛された。

The Battle of Ages(世代の対決)

1990年、WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオン:マイク・タイソンが、東京でジェームズ・バスター・ダグラスに敗れた。
これで期待されたジョージ・フォアマンのマイク・タイソンへの挑戦はなくなった。
同年、ジェームズ・バスター・ダグラスはイベンダー・ホリフィールドに3RKO負けした。

1991年4月19日、新しくWBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった28歳のホリフィールドは初防衛戦の相手に41歳のジョージ・フォアマンを選んだ。
この試合は'The Battle of Ages(世代の対決)'といわれた。
ホリフィールドはパンチは危険なパンチを持つフォアマンと真っ向勝負し優勢に試合を進めて行き、3Rには左右の連打でフォアマンをグラつかせた。
5R、フォアマンは重いパンチでホリフィールドに冷や汗をかかせた。
7R、ホリフィールドが左右のフックを何発ももらいフォアマンは防戦一方になった。
9R、ホリフィールドの右がカウンターでヒットしフォアマンの体が大きく崩れた。
最終12R、ホリフィールドが少し距離をとってフォアマンの攻撃をフットワークとクリンチでかわした。
判定は116-111,115-112,117-110と3者ともホリフィールドを支持した。
ジョージ・フォアマンはいった。
「俺は逃げなかった。
堂々と戦った。
恥じる必要はない。」
心配された体力も闘志も最後まで全く衰えず激闘を戦い抜いた姿に全世界が感動し、その健闘を称える声は見事に防衛を果たしたホリフィールドを上回った。

45歳で2度目の世界ヘビー級チャンピオン

その後、ジョージ・フォアマンはジミー・エリスを3RKO。
アレックス・スチュワートに判定勝ち。
ピエール・クエッツァーを8RKO。
そして1993年6月7日、WBOヘビー級チャンピオンのタイトルをめぐってトミー・モリソンと対戦。
トミー・モリソンは、映画「ロッキー5/最後のドラマ」でロッキーの弟子トミー・マシン・ガンを演じている。
この試合で24歳の若者に判定負けした44歳は、その後1年以上試合をせず引退も囁かれた。

1994年11月5日、イベンダー・ホリフィールドに勝ち、WBA・IBF世界ヘビー級チャンピオンとなったマイケル・モーラーが初防衛戦にジョージ・フォアマンを選んだ。
フォアマンにとって復帰後3度目のタイトル挑戦。
サム・クックの「天使のハンマー」と「ジョージ」コールが鳴り響き、フードをかぶったジョージ・フォアマンが入場。
マイケル・モーラーはラップミュージックに乗って入場した。
モーラーはヘビー級チャンピオン史上初のサウスポーだった。
試合は序盤から一方的なモーラーペース。
毎ラウンド、ポイントで勝った。
フォアマンは打ちまくられ、顔が大きく腫らせたが、ダウンは拒否。
リングに根が生えたような圧倒的なタフネスで立ち続け、しぶとく獲物を狙い続けた。
とても勝機はないようにみえたがフォアマンはまったくあきらめなかった。
10R、打っても打ってもビクともしない相手に散漫になり始めたモーラーにフォアマンの右が炸裂。
象をも倒す拳をまともにもらったモーラーは立ち上がることができなかった。
劇的な逆転KOでジョージ・フォアマンは20年ぶりに世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
勝利の瞬間、フォアマンはコーナーポストの前で跪き、神に感謝した。
45歳9カ月での戴冠は、最年長王座獲得記録となった。
(2011年にバーナード・ホプキンス(ライトヘビー級)が46歳4カ月で更新)

老いは恥ではない

メキシコシティオリンピックで金メダルを獲ったのが1968年。
「キングストンの惨劇」でジョー・フレージャーを倒し世界チャンピオンになったのが1973年。
「キンシャサの奇跡」でモハメド・アリに8Rノックアウトされたのが1974年。
ジミー・ヤングに負けてリングから消えたのが1977年。
そしてマイケル・モーラーを逆転KOで倒して再び世界チャンピオンになったのが1994年。
フォアマンはいった。
「老いは恥ではない
あきらめず挑戦し続ければ輝き続けられる」

関連する投稿


ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

179㎝、84㎏。スピードも、テクニックもなく、不屈のブルドーザーのように突進するファイトスタイルで49戦49勝43KO、引き分けさえない全勝無敗のパーフェクトレコードを持つ世界ヘビー級チャンピオン。


 内藤大助  イジメに克ち、イジメっ子にリベンジ

内藤大助 イジメに克ち、イジメっ子にリベンジ

日本フライ級、東洋太平洋フライ級、WBC世界フライ級チャンピオン、42戦36勝3敗3分、勝率85.7%、KO率63.9%。恐ろしく強いボクサーなのにオネエを疑われるほど柔和、かつ元イジメられッ子。中学時代に凄絶なイジメに遭い、20歳でジムに入門し、 22歳でプロデビュー。そして24歳で全日本新人王になった後、イジメっ子と再会する。


漫画『はじめの一歩』が「ワンダ モーニングショット」と初コラボ!「ファミリーマートのはじめの一歩缶」が数量限定で発売!!

漫画『はじめの一歩』が「ワンダ モーニングショット」と初コラボ!「ファミリーマートのはじめの一歩缶」が数量限定で発売!!

ファミリーマートにて、講談社「週刊少年マガジン」で連載中の『はじめの一歩』と、アサヒ飲料のロングセラー商品「ワンダ モーニングショット」がコラボした「はじめの一歩×ワンダ モーニングショット ファミリーマートのはじめの一歩缶」が1月28日より全国のファミリーマート約16,200店にて発売されます。


漫画家・森川ジョージの麻雀優勝記念緊急企画!『はじめの一歩』の麻雀回(3話分)が無料公開中!!

漫画家・森川ジョージの麻雀優勝記念緊急企画!『はじめの一歩』の麻雀回(3話分)が無料公開中!!

「週刊少年マガジン」で『はじめの一歩』を連載中の漫画家・森川ジョージが、11月27日に放送された麻雀対局トーナメント『麻雀オールスター Japanext CUP 決勝戦』にて優勝を飾りました。それを記念し、『はじめの一歩』の麻雀回が「マガポケ」にて現在無料公開中となっています。


「CRONOS」より実録やくざ映画の金字塔『仁義なき戦い』とのコラボアイテムが発売決定!!

「CRONOS」より実録やくざ映画の金字塔『仁義なき戦い』とのコラボアイテムが発売決定!!

株式会社ワールドフィットが展開する、ミニマルでありながらスタイリッシュ且つ独創的なデザインが特長の“フィジタル パフォーマンス クロージング(※)”を提案する「CRONOS(クロノス)」より、名匠・深作欣二監督による実録やくざ映画の金字塔『仁義なき戦い』とのコラボレーションアイテムが発売されます。


最新の投稿


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。