ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)

ハリウッド製の超大作スペクタクル映画は子供心にもその凄さを感じた!!(1960年前半版)

1960年前半は、私がちょうど幼児期より青年期に成長する時期であり、また外部からの刺激を積極的に取り入れようとしていた時期と重なります。ちょうどこの頃にハリウッド製の超大作スペクタクル映画が何本も封切され、両親と一緒に映画館に見に行きましたが、あまりの臨場感に恐怖感を憶えたことも多々ありました。そんな映画を年代別に集めてみました。


’60年代初期は私の好きな歴史スペクタクル映画の宝庫だ!!

私が(1950後半版)で『十戒』や『ベン・ハー』を紹介したが、この50年代末よりの傾向として世界史に名を刻む「歴史」物を扱ったスペクタクル映画が次から次へと登場した時期であった。そして公開されれば、必ずヒットしたものだった。歴史物と言っても、古代史に基ずく物もあれば、近代のものもあった。

フランス革命の裏側を描いた歴史劇「マリー・アントワネットに別れをつげて」の一場面

1960年も暮れようとする頃、公開された『スパルタカス』(1960)!!

『スパルタカス』(Spartacus)は1960年暮の米国映画。ハワード・ファストが執筆したスパルタクスの反乱をテーマにした小説を、スタンリー・キューブリックが映画化した歴史スペクタクル映画。主役にはカーク・ダグラスが起用され、アカデミー賞俳優ローレンス・オリビエが敵役のクラサスを演じている。共演には、ピーター・ユスティノフなど。彼は、この作品で第33回アカデミー賞助演男優賞を受賞し、その他4部門の受賞を獲得した。

『スパルタカス』(Spartacus)

物語としては、紀元前1世紀、ローマ共和国が隆盛を誇っていた頃――奴隷のスパルタカス(カーク・ダグラス)はバタイアタス(ピーター・ユスチノフ)の剣闘士養成所に売られた。彼はそこで女奴隷バリニア(ジーン・シモンズ)を知った。ローマの名将クラサス(ローレンス・オリヴィエ)がバタイアスを訪ねた。バタイアスは余興にスパルタカスと親友の黒人奴隷ドラバとの真剣勝負を命じた。ドラバは試合に勝ったが、スパルタカスを殺さずクラサスに襲いかかったが殺された。クラサスはバリニアを買い本国に送れと命じた。スパルタカスは悲しんだ。彼は同僚クリクサスと共謀して反乱を起した。首領スパルタカスと奴隷の集団は、つぎつぎに貴族の所領を襲い奴隷を解放し、ベスビアスの山腹に大奴隷軍の本拠をかまえた。バリニアも愛するスパルタカスのもとに戻ってきた。ローマの政界ではクラサスとグラッカス(チャールズ・ロートン)が主動権を争っていた。グラッカスはクラサスの勢力を駆逐するため、彼の部下グラブラス(ジョン・ドール)のローマ警備隊を奴隷軍攻撃に派遣し、かわりに友人ジュリアス・シーザー(ジョン・ギャビン)を守備隊長に任命した。奴隷軍はグラブラスを撃滅し、グラブラスは単身逃げ戻った。クラサスは責任をとって引退した。奴隷軍は南海岸に迫った。グラッカスはクラサスに再起を頼み、クラサスは成功したら執政官になることを条件に引き受けた。スパルタカスは元クラサスの召使アントナイナス(トニー・カーティス)を参謀にした。彼の悲願は奴隷を解放することで、沿岸の海賊と奴隷送還の契約をした。これを知ったクラサスは海賊を買収し、奴隷軍の後方に味方を上陸させた。奴隷軍は海賊の裏切りと前後の敵に挟まれ、スパルタカスはローマへの進撃を命じた。カプア近郊の大平原で両軍は戦火を交えた。一時は優勢だった奴隷軍は逆転された。バリニアは再びクラサスの奴隷になった。スパルタカスはアントナイナスと決闘を命じられた。しかも勝ったものははりつけになるという。2人は涙をのんで戦い、アントナイナスは死に、スパルタカスは城門の外の十字架にかけられた。独裁者クラサスにも悩みはあった。バリニアは貞節を守り、クラサスの意に敢然として従わなかった。失脚したグラッカスはクラサスの弱点をつき、バタイアスに命じてバリニア母子を誘拐させた。彼は最後の職権を行使して、母子を解放し自由を与え、国外に逃してやり、自分は自殺した。バタイアスはバリニア母子と戦車に乗って城門を出た。スパルタカスは十字架の上でまだ生きていた。十字架の下に立ったバリニアは子供を高くさし上げ、自由になったことを知らせた。死の直前に、妻子の自由になったことを知ったスパルタカスは、昇る朝日に向かって走り去る戦車を、いつまでもいつまでもみつめていた。

作品は3時間を越える大作ですが、全然飽きを感じさせないワクワク感がありました。

『スパルタカス』出演陣の横顔紹介

カーク・ダグラス(Kirk Douglas, 1916年12月9日 - )は、米国の俳優・映画プロデューサー。
本名はIssur Danielovitch Demsky。両親はロシア移民。高校時代に演劇に興味を持ち、セイント・ローレンス大学で文学士の学位を取得。スポーツ万能で特にレスリングを得意としていた。しかしとても貧しい家庭だったため、プロレスラーやホテルのボーイ、劇場の案内係など40もの職業に就きながらの苦学生だったという。やがて俳優を目指しアメリカ芸術アカデミーに学び(同期生にはローレン・バコールがいた)、ブロードウェイに立った頃に召集され海軍に入隊。戦地で負傷し除隊後はラジオや舞台に出演。やがて製作者のハル・B・ウォリスに認められ1946年「呪いの血」で映画デビュー。以降は映画一本に仕事を絞り「チャンピオン」で主演賞候補となった。以降は「悪人と美女」、「炎の人ゴッホ」と同賞候補となり、「OK牧場の決斗」、「ガンヒルの決斗」、「スパルタカス」といった西部劇や大作などに出演。その一方では自身のプロダクション、ブライナ・カンパニーを設立。旧友バート・ランカスターと共に独立プロの先駆者にもなった。政治にも関心を示し、1960年代の出演作にもその影響が出ていると言われている。結婚はダイアナ・ダグラスと1943年に結婚。二児をもうけるが1951年に離婚し1954年に再婚した。前妻との子供は後のマイケル・ダグラスとジョエル・ダグラス。再婚者との間に生れた子供はエリック・ダグラス、ピーター・ダグラスと皆映画関係の仕事に就いた。

カーク・ダグラス(Kirk Douglas)

ローレンス・オリヴィエ(Sir Laurence Kerr Olivier, Baron Olivier of Brighton OM, 1907年5月22日 - 1989年7月11日)は、英国の俳優、映画監督、貴族。アカデミー賞を受賞し、シェイクスピア俳優としても有名。
20世紀の名優として多くの映画人から称賛される。本名はローレンス・カー・オリヴィエ(Laurence Kerr Olivier)。愛称はラリー(Larry)。舞台と映画の両方で活躍した英国を代表する男優にして演出家。善人から悪役まで幅広い役どころを演じていても、独特の優雅さを醸し出し、決して下品にならなかった名優である。
シェイクスピア劇の演出&出演で有名だっただけではなく、出演初期の『高慢と偏見』のミスター・ダーシー役や、『嵐ケ丘』のヒースクリフ役など、若い時はハンサムな役どころもものにした。1963年から1973年までロンドンのナショナル・シアターの芸術監督としても活躍。
1940年から1960年まで、ヴィヴィアン・リーと結婚していたことでも有名。その後は、劇団で活動していた女優のジョーン・プローライト?と結婚した。

なお、彼の名を冠にした演劇賞「ローレンス・オリヴィエ賞」が発足され、ウェストエンドの演劇界の最高の権威となっている。

ローレンス・オリヴィエ(Sir Laurence Kerr Olivier)

ピーター・アレクサンダー・ユスティノフ(Sir Peter Alexander Ustinov, 1921年4月16日 - 2004年3月28日)は、英国のアカデミー賞受賞俳優で、小説家、脚本家、劇作家、映画監督。大英帝国勲章受勲者。アカデミー助演男優賞を『スパルタカス』(1960年)と『トプカピ』(1964年)の2作品で獲得した。
両親はともにロシア人で、母はデザイナー、父はジャーナリストという家庭に生まれる。小学生の頃から舞台の台本を書くようになり、16歳で高校をやめてロンドン・シアター・スタジオに入る。1938年にプロ・デビューを飾り、翌年には自作の戯曲に主演するなど製作サイドとしても多彩な才能を発揮する。1940年に映画デビュー。1942年から陸軍に従軍するがその間エリック・アンブラーと共に「最後の突撃」の脚本を手掛けた。その後監督デビューも果たし、1951年には「クォ・ヴァディス」でアカデミー助演賞候補にあがる。以降国際的に活躍を続け、1978年の「ナイル殺人事件」からは名探偵ポアロとして親しまれた。また文壇界でも活躍していて長編小説を3作、短編集も2冊出版している。1990年には“サー”の称号も与えられた。二度の離婚歴有り。2004年3月、晩年を過ごしたスイスの地で永眠。享年82歳。

ピーター・アレクサンダー・ユスティノフ(Sir Peter Alexander Ustinov)

後の「ミッション・インポッシブル」に通じるものがある『ナバロンの要塞』(1961)

『ナバロンの要塞』(ナバロンのようさい、The Guns of Navarone)は、英国の作家アリステア・マクリーンが1957年に発表した戦争小説である。1961年に映画化され、小説・映画ともども評判となった。出演者は主役に、グレゴリー・ペック、デヴィッド・ニーヴン、アンソニー・クイン、スタンリー・ベイカー、共演には、アンソニー・クエイル、ジェームズ・ダーレン、イレーネ・パパス、リチャード・ハリスなどと豪華。

『ナバロンの要塞』(THE GUNS OF NAVARONE)

物語としては、1943年の第二次大戦下のエーゲ海。ケロス島に取り残されたイギリス兵2000人の救出作戦は、困難を極めていた。ドイツ軍の誇る、ナバロン島の2門の巨砲が、エーゲ海を行き交うイギリス艦隊を待ち受けていたのだ。
連合軍は、ドイツ軍の作戦を1週間前に察知していたため、その後の6日間が、運命を決する日々となる・・・。
登山家キース・マロリー大尉(グレゴリー・ペック)を含めた5人の男達が、イギリス艦隊を守るため、ドイツ軍の誇るナバロン島の2門の巨砲の破壊に向かう。
悪天候で物資を失い、負傷者を出し、スパイの妨害に遭いながらも目的地に達したマロリーらは、イギリス艦隊が迫る中、難攻不落の要塞に侵入する・・・。

成功の可能性がない、難攻不落の要塞破壊作戦に、一癖ある精鋭達が命をかけて立ち向うという、戦争映画としては、当時空前のスケールで製作された超大作で、戦争をテーマにした作品ではあるが、サスペンス・アクションとしても、映画史上に残るの傑作。

戦争映画の迫力に加え、多彩な登場人物の人物描写、推理とサスペンスも入り混じる、娯楽の要素が満載されたストーリーは、切れのいいJ・リー・トンプソンの演出で、見事な仕上がりを見せている。

第34回アカデミー賞では、作品賞をはじめ6部門にノミネートされ、特殊効果賞を受賞した。

『ナバロンの要塞』出演陣の横顔紹介

彼は6歳の時に両親が離婚し、薬剤師だった父と祖母に育てられた。カリフォルニア大学バークリー校で医者を目指して医学部で学んでおり、在学中はボート部で活躍したが、脊髄を痛めて選手を引退。代わって演劇に興味を持ち始め、卒業後俳優を志しニューヨークで舞台に立つようになった。その姿を見初められ、43年の「栄光の日々」でフォックスの大型新人として映画デビューを果たした。大学時代のボート部で脊髄を負傷し兵役免除となったことから、当時人材難だったハリウッドで「背が高く、高貴で美男な」ニュースターとして各社から注目を集め、5年間で12本の映画に主演するという超売れっ子になった。
「子鹿物語」の優しい父、「頭上の敵機」のパイロット、「紳士協定」の偏見に相対するジャーナリストなど、彼の好演も光るが、それらのほとんどの映画が高水準だったことも注目に値する。「頭上の敵機」ではニューヨーク批評家協会の主演男優賞を獲得する。45年から49年にかけて、「王国の鍵」「子鹿物語」「紳士協定」「頭上の敵機」と4度もアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたが惜しくも受賞はならなかった。破竹の勢いの活躍は50年代に入っても続く。海洋アクション「艦長ホレーショ」「世界を彼の腕に」でアクションを披露したかと思えば、ヘミングウェイの名作「キリマンジャロの雪」での作家役、そして「ローマの休日」の新聞記者役。誰もが認めるハリウッドトップスターだった。その後自らのプロダクションを立ち上げ「大いなる西部」「白鯨」を撮る。映画の質は評価されたのだが、興行的にはあまりパッとしなかった。しかし、すぐに「ナバロンの要塞」でまたまた大ヒットを記録。続いて62年の「アラバマ物語」ではアカデミー主演男優賞を獲得した。清潔でリベラルな人間性あふれる弁護士役はまさしくペック自身を投影したかのような役で評価が高い。その後も「マッケンナの黄金」「アラベスク」「宇宙からの脱出」「オーメン」「マッカーサー」「ブラジルから来た少年」など、代表作は数知れない。
その温厚な人柄からハリウッドスターの中でも大変に人望が高く、第17回アカデミー協会長、ハリウッド俳優組合の会長を務め、俳優救済基金を設立した。
2003年6月12日、長年連れ添った妻ヴェロニクに看取られてこの世を去った。享年87歳。
ルックス、スター性、さらに人望にも恵まれたハリウッド黄金期を飾った紛れもない大スターの1人だった。

エルドレッド・グレゴリー・ペック(Eldred Gregory Peck)

デヴィッド・ニーヴン(David Niven、本名:James David Graham Niven 、1910年3月1日 - 1983年7月29日)は、英国・ロンドン出身の俳優。しゃれた髭が特徴で、都会的な紳士役で長らく人気を博し、スクリーンの粋の化身と称された。
本名はJames David Graham Niven。士官学校に入学して陸軍に入隊。マルタ島に進駐していたが、その任務に耐えきれず除隊。やがて上官だった元大佐の手助けでカナダを経てNYに渡り様々な職に就く。その後俳優を目指すようになりLAへ。エキストラを経てエドマンド・グールディング監督と知り合い、彼がサミュエル・ゴールドウィンに紹介してくれたおかげで1935年「生活への道」で本格デビューとなった。以降ゴールドウィンの作品に出演を続けるが演技の勉強をしていなかったために伸び悩む。第二次大戦中は英国陸軍の大佐として従軍。1946年に除隊してアメリカに戻った。1950年あたりから持ち前の気品とユーモアを醸し出したキャラクターで、代表作となった「80日間世界一周」や「ナバロンの要塞」、「ピンクの豹」や「007/カジノ・ロワイヤル」などで好演して人気を確立。1958年の「旅路」ではアカデミーを始め主要主演賞を獲得した。一方1952年にはディック・パウエルやシャルル・ボアイエら共に製作会社を設立してTV制作も手掛ける他、作家としての才能も発揮して自叙伝はベストセラーにもなった。結婚は2回で息子はプロデューサーとなっている。1983年、ルー・ゲーリック病によってこの世を去った。

アンソニー・クイン(Anthony Quinn, 1915年4月21日 - 2001年6月3日)は、アメリカで活躍した俳優、画家及び作家。
本名はAnthony Rudolfo Oxaca Quinn。少年時代に一家でLAに移住。しかし父が亡くなり、靴みがきから当時のボクシング・ヘビー級チャンピヨンのスパーリング・パートナーなど、さまざまな職業を経験。17歳の時、言語障害のために舌を手術し、そのリハビリをきっかけに演技に興味を示すように。36年初舞台を踏み、同年映画デビュー。これがセシル・B・デミルの目に止まり、「平原児」にインディアン役で出演。1937年にはパラマウントと契約するが以降50年代まではインディアンやギャングの一味といった役しかまわってこなかった。が、舞台『欲望という名の電車』出演中にエリア・カザンに認められ、1952年「革命児サパタ」にマーロン・ブランドと共演。アカデミー助演賞を受賞。以降はその実力を存分に発揮して共演した俳優陣を強烈な存在感で圧倒。1954年の「道」では本能を剥き出しにする主人公を演じて国際的スターとして踊り出た。その後も「炎の人ゴッホ」、「野性の息吹き」、そして彼の代表作となった「その男ゾルバ」とアカデミーにも顔を出し、「ガンヒルの決斗」、「ナバロンの要塞」などの娯楽大作でも好演。1980年後半からはTVにも出演していたが2001年3月、呼吸器疾患によってこの世を去った。結婚は3回で子供は計13人! 息子のフランチェスコとダニー、ヴァレンティナは後に俳優になった。趣味で描く絵画の腕前はプロにも匹敵することでも有名だった。

アンソニー・クイン(Anthony Quinn)

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を元にした同名のブロードウェイ・ミュージカルの映画化作品が登場(1961)!!

1961年に公開された映画『ウエスト・サイド物語』は、日本でも大ヒットを記録し日本の配給収入だけでも13億円を突破する大ヒット作となりました。
シェイクスピアの代表作である『ロミオとジュリエット』を元にして映画化された『ウエスト・サイド物語』(1961)は、アカデミー賞に11部門ノミネート(うち10部門で受賞)したミュージカル映画である。
ロバート・ワイズとジェローム・ロビンスが共同で監督をつとめ、出演に、ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ラス・タンブリン、リタ・モレノ、ジョージ・チャキリス、その他。公開から50年以上たった今でも語り継がれる名作映画である。

『ウエスト・サイド物語』(West Side Story)

物語の舞台は1950年代のニューヨーク・ウェストサイド。若者で溢れるこの街でポーランド系アメリカ人の少年非行グループジェット団とプエルトリコ系アメリカ人の少年非行グループシャーク団が毎日のように勢力争いを繰り広げていました。
きっかけさえあれば今にも爆発しそうな空気のなかでのダンスパーティー、そこで一目で愛し合うようになった二人、マリア(ナタリー・ウッド)はシャーク団の首領ベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹であり、トニー(リチャード・ベイマー)はジェット団の首領リフ(ラス・タンブリン)の親友だった。しかし、ジェット団とシャーク団はついにぶつかってしまった。マリアの必死の願いにトニーは両者の間に飛びこんで行ったが、血気にはやる彼らはトニーの言葉に耳をかそうとしなかった。そしてリフはベルナルドに刺されて死んだ。親友リフの死に我を忘れたトニーはベルナルドを殺してしまった。ベルナルドの恋人アニタ(リタ・モレノ)に責められてもトニーを忘れられないマリアは、トニーの高飛びに同意する。シャーク団のひとりチノはベルナルドの仇を打とうとトニーをつけ狙い、警察の手ものびてくる。アニタはマリアの愛の深さを知り、トニーと連絡をとるために街へ出ていくがジェット団に倒された怒りからマリアはチノに殺されたと言ってしまう。絶望して夜の町へ飛び出したトニーの前へ拳銃を構えたチノが現れた。急を聞いて来たマリアの腕の中で、トニーは絶命してしまった。

『ウエスト・サイド物語』出演陣の横顔紹介

ナタリー・ウッド(Natalie Wood、1938年7月20日 - 1981年11月29日)は、米国の女優。
本名はNatasha Nikolaevna Gurdin。ロシア系3姉妹の次女。妹、ラナ・ウッドも女優。4歳の時、ロケに訪れたアーヴィング・ピシェル監督と知り合い、そのオシャマな性格が気に入られ、“Happy Land ”にわざわざワン・シーン追加までしてくれて出演。監督は“いずれ必ず迎えに来る”と約束。そしてその4年後、本当に迎えが来てユニヴァーサルと正式契約し「離愁」で映画デビュー。翌年「三十四丁目の奇蹟」に愛くるしく出演して一躍有名になる。スタジオ内の高校を卒業後、55年「理由なき反抗」でジェームズ・ディーンの恋人役を演じて子役から転進。演技面でも評価されアカデミー助演賞にノミネートされた。以降もトップ・スターの名を欲しいままにして「ウエスト・サイド物語」、「草原の輝き」など、多くの作品に出演。70年代に入るとさすがに出演作は少なくなったものの、持ち前の美貌は衰えていなかった。恋の噂も有名で、レイモンド・バー、プレスリー、デニス・ホッパーなどと話題になり、57年、ロバート・ワグナーと結婚。62年離婚後はウォーレン・ベイティと婚約するが破局。製作のリチャード・グレグソンと69年再婚して一児をもうけるが離婚。72年ロバート・ワグナーと再び結婚して一女の母となった。しかし「ブレインストーム」撮影中の81年、ボートから転落して水死。同作は脚本変更を余儀なくされて後に完成した。

ナタリー・ウッド(Natalie Wood)

リチャード・ベイマー(Richard Beymer, 1939年2月21日 - )は米国出身の俳優。本名はGeorge Richard Beymer Jr.、別名をディック・ベイマーともいう。
父親は画家で、10歳で児童劇団に入る為、両親と共にハリウッドに移住し、子役として映画やテレビに出演する。巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作『終着駅』でモンゴメリー・クリフトと共演を果して注目を浴びる。1961年に『ウエスト・サイド物語』の主人公トニー役で有名になるも、以後あまり目立った活躍はない。1974年に自作自演の映画『The Interview』がマンハイム映画祭で賞をとるも、俳優としての活躍の場は減る一方で、一時は写真家に転身したり行方不明になったりして完全に表舞台から姿を消していたが、テレビ映画に活躍の場を求め、1990年に米国で放送開始され、爆発的人気となった『ツイン・ピークス』でベンジャミン・ホーン役を演じカムバックを果した。
2007年には自伝『Impostor: Or Whatever Happened to Richard Beymer?』を出版した。

リチャード・ベイマー(Richard Beymer)

ジョージ・チャキリス(George Chakiris, 1934年9月16日 - )は、米国のダンサー、歌手、俳優。
ギリシャ移民の子としてロング・ビーチで育つ。高校時代からダンサーを志し卒業後にLAで会社勤務をしながらダンスを学び、ダンサーの一員として「ショウほど素敵な商売はない」や「ホワイト・クリスマス」に出演。その後ジュディ・ガーランドやジェーン・マンスフィールドのラスベガスのショーに参加。舞台『ウエスト・サイド物語』のツアー・キャストのジェット団のリーダー役に抜擢されてロンドンで公演。映画の時は主人公、ベルナルドに扮してはじけるような踊りでアカデミー助演賞を受賞。しかし以降はベルナルドのイメージを払拭することが出来ず映画では低迷。舞台を中心に活躍した。日本での公演も多い。

ジョージ・チャキリス(George Chakiris)

年が明けた1962年は歴史超大作が3本も公開される!!

まずは、『エル・シド』ですね!!

『エル・シド』(原題:El Cid)は、1961年制作のイタリア・米国合作の映画。アンソニー・マン監督。主演は、チャールトン・ヘストン、ソフィア・ローレン。
11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シドことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)の生涯を描いた歴史超大作スペクタクル作品。

『エル・シド』(El Cid)

物語としては、狂信的な回教徒ベン・ユーサフ(ハーバート・ロム)は、アフリカからヨーロッパ侵略の機会を窺っていた。彼はムーア人の諸公を煽動しては、カスティール国境の村を脅かした。ある小競り合いの折、ムーア人の大公たちはカスティールの若き武将ロドリーゴ(チャールトン・ヘストン)に捕らえられたが、彼の思いやりから全員釈放された。感激した大公の1人は彼にエル・シドの称号を贈った。だが、ムーア人を釈放したことから、彼は王をはじめ恋人シメン(ソフィア・ローレン)からさえ非難を受けた。そのことでエル・シドと争ったシメンの父ゴルマスは、彼の剣にかかって死んだ。息をひきとる父から復讐を頼まれたシメンは苦しんだが、父を殺された憎しみは愛を押し流すのだった。それからのエル・シドは、戦うごとに勝利を勝ち取り勇名を馳せるのだったが、ことごとにシメンが自分をおとし入れようとするのを知り心が重かった。だが、シメンを思いきれないエル・シドは、王に彼女との結婚を願い出た。婚儀の日、心を固く閉ざしたままのシメンは夫にすべてを許さないことこそ復讐と、翌朝修道院へこもってしまった。そのころ、王の急逝により王子サンチョとアルフォンソ(ジョン・フレイザー)の間で王位継承の争いが起こった。やがて王位に就いたアルフォンソは、事の真相を知るエル・シドを追放しようとはかった。追われたエル・シドは寂しく城を旅立ったが、彼の偉大さを知ったシメンは後を追った。それから数年、エル・シドは再び勇将として返り咲いた。一方、バレンシアでは、ベン・ユーサフが侵略に余念がなくアルフォンソ王にも挑戦してきた。旗色の悪くなった王は、エル・シドを呼び戻した。彼の働きでバレンシアは陥落し、エル・シドはバレンシアの大公から王冠を受けた。城外ではベン・ユーサフの率いる一隊が待ちかまえていた。やがてエル・シドの軍と戦闘が始まり、愛馬にまたがり指揮するエル・シドは胸に矢を受けた。英雄エル・シドはついに生涯を閉じたのだが、その翌朝馬上にまたがる彼の勇姿をみた敵は浮足立った。彼の遺言により死体が馬上にすえられていたのだ。かくて戦いは勝利に終わり、スペインの国土からは侵略者が一掃された。そして、エル・シドの名は歴史の流れに輝かしく残ったのであった。

普段、私たちはスペインの歴史などに触れたことすらなかったのだから、子供心にもそれは新鮮に写ったと思います。

『エル・シド』出演陣の横顔紹介

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年10月4日 - 2008年4月5日)は米国出身の俳優、社会運動家。身長191cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。
本名はJohn Charles Carter。12歳の時に両親が離婚。母(旧姓チャールトン)が再婚し、義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るようになる。高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、ノース・ウエスタン大学で演劇を専攻。1944年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディアと結婚。直後に空軍に従軍して無線技師となる。除隊後に妻と共に劇団を旗揚げし、1947年、ブロードウェイ・デビュー。やがてTVで活躍し始め、ハル・B・ウォリスに認められて、1950年「虐殺の街」でスクリーン・デビュー。その2年後に「地上最大のショウ」に出演。以降“ミケランジェロの彫刻のような素晴らしい肉体”とセシル・B・デミルに絶賛され、「十戒」、「ベン・ハー」などのスペクタクル大作や歴史劇のヒーローとして絶大なる人気を獲得し、アカデミー主演賞に輝いてその後はスター街道を走り続ける事となった。1966年からは俳優組合の会長に5年間就任。1971年には「アントニーとクレオパトラ」で監督にも挑戦。俳優仲間からの人望も厚く、ハリウッドでの政治的リーダーとして強い影響力を示し、1977年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与されている。1998年からは全米ライフル協会の会長にもなった。近年も話題作への関わり合いが多い。ハリウッドの有名俳優としては珍しく離婚歴もなく、息子のフレイザーは監督になった。2002年、アルツハイマーの兆候があることを告白。治療に当たっていたが2008年に帰らぬ人となってしまった。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston)

ソフィア・ローレン(Sophia Loren イタリア語: [soˈfiːa ˈlɔːren], 英語: [soʊˈfiːə ləˈrɛn], 1934年9月20日 - )は、イタリアの代表的な女優である。アレッサンドラ・ムッソリーニは彼女の妹アンナ・マリアの娘である。
本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ(Sofia Villani Scicolone)。母妹と共にナポリで貧しい生活を送る。当時から素晴らしいプロポーションだったが50年、“海の女王コンテスト”で12人の中に選ばれ、その賞金で演劇学校に通う。その後残りの賞金でローマに移住。同年「クォ・ヴァディス」で映画デビュー(エキストラ)。しかし依然生活は厳しく、ヌードで映画出演したり、モデルになったりしていた。だが次第に運も味方につき、「ナポリの饗宴」に出演してイタリアで火が着き始め、55年「河の女」の野性的な魅力で世界的にも名前が知られるようになる。そしてそれを見たスタンリー・クレーマーによって57年「誇りと情熱」でハリウッドデビュー。以降、演技面でも実力を発揮して数々の賞を受賞。イタリアを代表する大女優となった。現在でもその美貌は決して失われてはいない。57年、下積みの頃から知り合いであり、良きアドバイザーだったプロデューサーのカルロ・ポンティとメキシコで結婚。しかしローマ・カトリックの布教されていないメキシコでの、既婚者だったカルロの離婚と結婚を教会は許可せず、逆にカルロを重婚罪で告訴、戸籍上は不成立となった。その後長い同棲生活の末、66年パリで結婚成立。イタリアの上告裁判でも重婚罪は却下された。以降二人とイタリアの関係はあまり良くないと言われている。68年に長男、73年に次男を出産している。

私は彼女の映画と言えば、『エル・シド』も勿論印象深いのですが、1970年の『ひまわり』が一番印象に残っています。

ソフィア・ローレン(Sophia Loren)

次に、『西部開拓史』ですね!!

出演陣や製作スタッフの超~豪華さにぶっ飛んだ映画「西部開拓史(How the West Was Won)」は私の映画概念を完全崩壊させた - Middle Edge(ミドルエッジ)

’62年の最後の超大作は『史上最大の作戦』だ!!!

『史上最大の作戦』(The Longest Day)は、1962年の米国映画。モノクロ。20世紀フォックスが製作・配給。第二次世界大戦における連合国軍のノルマンディー上陸作戦(作戦名は「オーバーロード作戦」)の詳細を描いたコーネリアス・ライアンによるノンフィクション「The Longest Day」(邦題:「史上最大の作戦」)を原作に製作された戦争映画である。出演はジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ジャン=ルイ・バロー、ロバート・ライアン、リチャード・バートン、ロバート・ミッチャム、ショーン・コネリー、ロッド・スタイガー、ロバート・ワグナー、ジェフリー・ハンター、リチャード・ベイマー、ポール・アンカ、メル・ファーラー、などなど当時を代表とする米英仏独の俳優たちが一同に顔を揃えている。

『史上最大の作戦』(The Longest Day)

物語としては、1944年6月、フランス、ノルマンディー。第二次世界大戦は佳境に差しかかろうとしていた。この地では、司令官ロンメル率いるドイツ軍が、英仏海峡を挟んで戦機をうかがう連合軍の攻撃に備えている。敵には人数で圧倒されているが、天候を味方につけて堅固な防御態勢を敷いていた。一方英国では、アイゼンハワー司令官率いる連合軍が、ノルマンディー上陸作戦の日であるDデイを何日にするか最終的に絞り込んでいた。こうして6月6日の早朝、連合軍の空挺部隊が降下したのを皮切りに、いよいよ熾烈を極めた上陸作戦が始まるのだった…。
1944年6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦に材を取ったコーネリアス・ライアンのノンフィクションを基に、名プロデューサー、ダリル・F・ザナックが製作費36億を投じて作り上げた一大戦争パノラマ。米・英・仏・独のトップスター総出演と、大画面いっぱいに展開される戦場の再現は、映画的興奮に満ち溢れ、至福と驚嘆の3時間である。
ラストの上陸シーン空撮は何回見ても”凄い”の一言だ。特に飛行機で上空から見たシーンは圧巻である。今ならCGでコピペしてこの映像を作っちゃうのかな~といらんことも考えたりします。これだけカネがあるのに、どうしてカラーフィルムで撮らなかったのかは不思議であるという人々もいるのであるが、私個人の意見としては、戦争という”惨たらしさ”を薄め、”虚しさ”や”空虚感”を強調するために、わざと白黒にしたのではなのかと思っている。さて、真相は??。

この映画に出演した”スター級俳優”があまりにも多いため、ここでは、その中でも”超”が二つ程付くスター級俳優を紹介することとしよう。

『史上最大の作戦』出演陣の横顔紹介

ジョン・ウェイン(John Wayne,1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、米国の俳優、映画プロデューサー、映画監督。「デューク」(Duke)の愛称で呼ばれた。本名はマリオン・ロバート・モリソン(Marion Robert Morrison)。
この映画では、米国陸軍第82空挺師団第2大隊長であるベンジャミン・バンダーボルト中佐を演じており、その存在感はたいしたものである。

彼は高校時代にいつも連れていた犬の名前から“デューク”のニックネームが付く。南カリフォルニア大学に入学後、フォックス撮影所でアルバイトをしている時にジョン・フォード監督と知り合う。1930年、「ビッグ・トレイル」の主役に抜擢され、芸名をデューク・モリソンからジョン・ウェインに改名。1939年、フォード監督の「駅馬車」に出演して人気を確立。以降、西部劇の人気スターとして活躍する傍ら、「拳銃の町」など製作者としても活動。マネー・メイキング・スターの常連として名を連ねるようになる。1960年代に入ってからはガンに侵された体と戦いながらも出演を続け、1969年「勇気ある追跡」にて念願のアカデミー主演男優賞を受賞。その後も活躍を重ね、1976年の「ラスト・シューティスト」で自らを封印して事実上の引退。結婚は3回。長男のマイケルは映画プロデューサーとして父の作品にも関わり、パトリック、ジョン・イーサンの二人は俳優になった。度重なる手術後まもなく、周囲の反対をよそにアカデミー作品賞のプレゼンターとして授賞式に参加し、その二ヶ月後の6月11日に永眠した。墓標には“彼は醜く、強く、誇り高い男だった”と刻まれている。

ジョン・ウェイン(John Wayne)

ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum, 1917年8月6日 - 1997年7月1日)は、米国出身の俳優。実弟ジョンも俳優。また長男クリストファー、次男ジェームズはじめ、孫のキャリー、ベントレーも同じく俳優となっている。
この映画では、米国陸軍第29歩兵師団副師団長であるノーマン・コータ准将役を演じていて、葉巻を銜えたダンディーな井出達を披露している。
眠たそうな瞳を擁した顔立ちに加え、がっしりとした体格を武器に戦後のスクリーンを賑わせたタフガイ俳優としてお馴染みで、スリーピング・アイという異名をとった。
本名はRobert Charles Durman Mitchum。父が1歳半の時に死亡。姉や弟のジョンと共に母の実家へ移る。14歳の時に家を出て各地を転々としながら肉体労働に従事。やがてカリフォルニアに渡り飛行場で仕事をしながら地元劇団に加入。その後1942年に映画デビューを果たす(一時期“ボブ・ミッチャム”と名乗る)。1944年にはRKOと契約を結び「ネヴァダ男」に主演。翌年の「G・I・ジョウ」では早くもアカデミー助演賞候補となった。1948年、マリフファナ吸引の容疑で逮捕され、2年間投獄されるというスキャンダルに巻き込まれるが、裁判で冤罪を実証して無罪となった。以降イメージダウンの逆境をはね返し、マリリン・モンローと共演した1954年の「帰らざる河」、名優チャールズ・ロートンが生涯ただ一度監督を手掛けた「狩人の夜」、強烈な悪役を演じた「恐怖の岬」、そして巨匠デヴィッド・リーンの「ライアンの娘」など、数々の傑作に出演。アクション・ファンには「眼下の敵」や、「史上最大の作戦」、そして「エル・ドラド」などで頼もしいヒーローを演じて親しまれた。幼なじみのドロシーとは1940年に結婚。息子のクリス、ジェームズと孫のキャリー、ベントレーと皆彼の後を追って俳優になった。1997年、肺ガンによる呼吸器疾患で就寝中に死亡した。

ロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)

サー・トマス・ショーン・コネリー(Sir Thomas Sean Connery、1930年8月25日 - )は、英国スコットランド出身の映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。
この映画では、イギリス軍コマンド部隊に所属するフラナガン一等兵役をクールに演じている。
本名はThomas Sean Connery。中学から働きに出て卒業後はトラック運転手に。18歳で海軍に入隊。病気のため除隊してから新聞社など職を転々としていたが、友人の勧めで『南太平洋』の舞台に立ったのをきっかけに本格的に俳優を志し、“No Road Back”で映画デビュー。が、その後もあまり陽のあたることは無かった。そんな折、1957年の「虎の行動」出演をきっかけに「007/ドクター・ノオ」でボンド役を得てから人気上昇。以後、ボンド役を引退してからも数々の映画に出演。1987年、「アンタッチャブル」でアカデミー助演男優賞を獲得。最近ではセクシーというより渋みある初老男性を魅力的に演じている。最初の妻、女優ダイアン・シレントとは1973年に離婚(二人の間に生まれたジェイソンは俳優になった)。その翌年、画家のシシェリン・ルクブルンと再婚している。1999年、ナイトの称号も得た。

ショーン・コネリー(Sir Thomas Sean Connery)

1963年も歴史物超大作の嵐だった!!

’63年夏に『大脱走』が公開

『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great Escape)は、1963年公開の米国映画。戦闘シーンのない集団脱走を描いた異色の戦争映画。監督はジョン・スタージェス。出演はスティーブ・マックイーン 、ジェームズ・ガーナー、チャールズ・ブロンソン 、ジェームズ・コバーン 、リチャード・アッテンボロー 、デヴィッド・マッカラム など。歴史物(近代)でもあり、戦争物でもあるアクション映画の古典的傑作といえば「大脱走」。脱走不可能とされたドイツ軍捕虜収容所から、連合軍捕虜が大量脱走したという実話の映画化で、トンネルを掘ってあの手この手でドイツ側を翻弄させる前半と、あれよこれよと逃げまくった後半とが絶妙のコントラストで、3時間まったく飽きることなく見せてくれる。

『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great Escape)

物語としては、第二次大戦中、ドイツ軍は各地に捕虜収容所を設置し連合軍の捕虜を収容していたが彼らの脱走による後方支援に戦況は混乱していた。そこで建設されたのが脱走不可能といわれるルフト第三空軍捕虜収容所であり、そこに「脱獄王」との異名をとるヒルツ(スティーブ・マックイーン)ら他の収容所からの脱走の常習者が移送されてきた。ルフト第三空軍捕虜収容所は監視がしやすい広い敷地に作られており、最も近い森までは最低でも100メートルもの距離があるという立地。しかも周囲は鉄条網に覆われ常に歩哨が監視にあたっている。捕虜のひとりで「ビッグX」と呼ばれる大物・バートレット(リチャード・アッテンボロー)は収容所の地下にトンネルを掘って250名もの捕虜を脱走させる計画を立てる。ヒルツも加わり脱走計画が始まった・・・!

その題材の面白さもさることながら、見せ場に次ぐ見せ場を盛り込んだ脚色と、ダイナミックな演出によって類稀な娯楽作品になっている。特に、公開時にスティーブ・マックイーンがドイツ軍から奪い取ったバイクで草原を疾走するシーンがその爽快さとともに話題となり、この映画の代表的なシーンとしてその後長く記憶されている。

『大脱走』出演陣の横顔紹介

テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン(Terence Steven "Steve" McQueen, 1930年3月24日 - 1980年11月7日)は、米国の俳優。「キング・オブ・クール "The King of Cool"」と呼ばれ、「アンチヒーロー」としてのキャラクターは1960年代の反体制文化(英語版)において発展し、1960年代から70年代にかけてトップ俳優としての地位を確立した。スタント・パーソンに頼らない本格的アクション俳優として一時代を築き、世界中の映画ファンを熱狂させた。
この映画では、通称「独房王(The Cooler King)」とよばえる米国陸軍航空隊大尉。本作の主人公格。単独行動を好む一匹狼。 野球が趣味で、独房でもボールとグローブは欠かさない。脱走に執念を燃やしており、独房にいる間は彼の脱走への試みが篭ったボールの音を日夜鳴り響かせていた。入隊前は大学で化学工学を専攻、学費の足しに祭でバイクレースに参加していたらしい。ドイツ捕虜収容所に送られて早々、ルーゲル所長と対立して20日間の独房行きとなる。以前の収容所では17回も脱走を試みた、とルーゲル所長宛ての報告書にあり、ヒルツが「18回だ」とルーゲル所長の発言を訂正したのは、この収容所に来るトラックからも脱走を試みた時の一回を加えたものである。

飛行機の曲乗り師だった父は生後6カ月で蒸発。母方の伯父のもと、ミズーリの牧場で育つ。9歳、12歳の時にと母が二度再婚し、ロサンジェルスに移るが不良グループと交際。14歳でカリフォルニアの少年院に収容され1年半を送る。出所後、職を転々とし、兵役後もそれが続いたが、女友達の勧めで51年からネイバーフット・プレイハウスにて演技を学ぶ。更にHGスタジオやアクターズ・スタジオでも演劇を学び、舞台を経ての1956年、「傷だらけの栄光」で映画デビュー。以後、CBSテレビの「拳銃無宿」で人気スターとなり以後はアクション・スターとして数々の作品に出演。カー・レーサーとしても有名で、ブルース・リーやチャック・ノリスの門下生でもあった。日本には裁判に出廷するためだけに来日したことも。肺ガンにより1980年に死亡。彼の遺灰は太平洋にまかれた。結婚は1956年、ニール・アダムス、1973年、アリ・マッグロー、1980年、バーバラ・ミンディと三回。ニールとの間に生れたチャド・マックィーンはその後俳優になった。

テレンス・スティーブン「スティーブ」マックイーン(Terence Steven "Steve" McQueen)

アッテンボロー男爵、リチャード・サミュエル・アッテンボロー(Richard Samuel Attenborough, Baron Attenborough, CBE、1923年8月29日 - 2014年8月24日)は、英国の映画監督、映画プロデューサー、俳優。
この映画では、通称「ビッグX(Big X)」と呼ばれ、集団脱走計画を練る中心人物に扮している。階級は少佐。脱走した捕虜の捜索にドイツ軍の兵力を割かせ、ドイツ軍の後方かく乱を目的として250名もの集団脱走計画を企てる、頭脳に秀でた脱走のカリスマとして描かれている。

王立演劇アカデミーに学び、俳優として舞台や映画で活躍、性格俳優として評価され多数の映画に出演する。1960年の「紳士同盟」や1963年の「大脱走」あたりから魅力的な脇役として異彩を放っていたが、演出にも興味を抱き1969年のミュージカル「素晴らしき戦争」で監督デビュー。その後は俳優と監督の二足のわらじで活躍を続け、1982年の「ガンジー」でアカデミー監督賞を獲得。以降も「コーラスライン」、「遠い夜明け」など、多彩振りを発揮して話題作を造った。1976年にはナイトの称号を授与されている。テレビ局のBFI、チャンネル4などの会長、ユニセフの親善大使、王立演劇アカデミーの議長に就任したこともある。最近では「ジュラシック・パーク」のオーナー役が有名。1945年、シーラ・シムと結婚。息子のマイケルは舞台監督として活躍。動物学者のとして有名なデヴィッド・アッテンボローは弟にあたる。2004年、スマトラ島沖地震で娘と孫娘を失う。2014年8月に死去。2008年に階段から落ちて以来、車椅子で余生を過ごしていたという。享年90歳。

チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson, 1921年11月3日 - 2003年8月30日)は、米国の俳優。
この映画では、通称「トンネル王(The Tunnel King)」と呼ばれるポーランド人の大尉を熱演。脱走計画では脱走用トンネルの掘削作業を担当する。子供の頃からの閉所・暗所恐怖症でありながらも、そのことを押し殺してトンネルを掘り続ける。屈託のないやさしい男である。

本名はチャールズ・デニス・ブチンスキー(Charles Dennis Buchinsky)。リトアニア移民の父の下、15人兄弟の五男として生まれる。高校卒業後、家計を助けるために炭坑夫など様々な職に就き、1943年空軍に入隊。B29の射撃手となった。1946年に除隊後、美術学校に入学して舞台の裏方となりエキストラも経験。1948年に友人と共にNYに移住して舞台に端役として出演するようになる。その後LAへ移りパサディナ・プレイハウスで演技を勉強。1951年映画デビュー。当時は本名を名乗っていたがその後“Charles Buchinski”に改名。「太鼓の響き」からブロンソン名義になった。そして1960年の「荒野の七人」、1963年の「大脱走」で共に男臭い風貌が人気を呼んで俳優としての地位を確立。「さらば友よ」や「雨の訪問者」で国際的にもスターとなった。日本ではマンダムのCMで一世を風靡。外人タレントのCM起用の先駆けとなった。その後も独特の個性を活かしてアクション作品で活躍。近年は「狼よさらば」の主人公、ポール・カージイの復讐劇を描いた“デス・ウィッシュ”シリーズで健在なところをアピールした。1949年に女優と結婚してふたりの子供も出来たが1967年に離婚。翌年ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。しかし彼女が乳ガンを患い1990年に死別。その後1998年に再婚した。しかし彼自身もアルツハイマーとの闘いの末、2003年に肺炎でこの世を去った。

チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)

’63年の年末は二本の歴史超大作が封切され、最初に『クレオパトラ』が観客獲得で先行逃げ切りを図る!!

『クレオパトラ』(Cleopatra)は、1963年の米国映画。超歴史スペクタクル映画。
製作にあたっては、100万ドルという破格の報酬で契約した主役のエリザベス・テイラーの度重なる病気、初期のロケ地選択の失敗によるセットの造り直しで撮影が遅れに遅れ、さらに当初監督だったルーベン・マムーリアンをはじめとして、重要な配役が変更になる(当初シーザー役はピーター・フィンチ、アントニー役はスティーヴン・ボイドで撮影開始)という不手際にも見舞われ、その度にシーンの撮り直しを強いられた。また共演のテイラーとリチャード・バートンの不倫も取りざたされ大スキャンダルとなった。
最終的には製作費は4400万ドル(現貨換算で3億ドル以上)という空前の巨額にまで膨れ上がり、製作会社の20世紀フォックスの経営を危機的状況にまで陥れた。経営危機に際して会社の実権を握ったダリル・F・ザナックは、『シーザーとクレオパトラ』と『アントニーとクレオパトラ』の前編後編2本立てで計6時間という当初構想が、作品としては長過ぎて興行の妨げになること、また当時一大スキャンダルとなっていたテイラーとバートンの登場する『アントニーとクレオパトラ』の部分が後出しになることは時機を逸するという考えから、マンキーウィッツに映画を1本にまとめるよう指示した。これにより映画は1本立て5時間20分となったがザナックは満足せず、さらなる大々的なカットが行われた。
映画は製作開始から4年を経た1963年6月にようやくプレミア上映にこぎつけた。この際の上映時間は4時間5分だったが、一般公開版はさらに3時間14分に短縮された。そのため場面の繋がりが不明瞭な箇所や重要人物の死を描いた箇所が丸ごと欠落するなどといった、編集上の問題にも見舞われることになった。
『クレオパトラ』は同年の北米興行収益でトップを記録する4800万ドルのヒットとなったものの、20世紀フォックスの純益は製作費4400万ドルの半分強2600万ドルに過ぎず、事業的には社運を傾けるほどの大失敗作となった。

『クレオパトラ』(Cleopatra)

物語としては、皆様もよ~くご存知のはずです。最後にはクレオパトラはコブラに噛まれて人生を終えます。

紀元前48年、エジプト王国は内乱につぐ内乱を重ね、新興ローマの覇勢に滅亡寸前のありさまだった。幼いプトレマイオス14世をを立てる一派は、王の姉にあたる18歳のクレオパトラ(エリザベス・テイラー)を王宮から追放する。そのころ、アレキサンドリアに遠征していたローマの将シーザー(レックス・ハリソン)は砂漠のスフィンクスで初めてクレオパトラに会い。その虜になってしまった。シーザーはクレオパトラを伴い、アレキサンドリアに侵入、激しい戦闘を重ねて勝利を収め、クレオパトラは、エジプトの王に即位した。やがてローマに凱旋したシーザーは、独裁者としての勇威を高めていった。クレオパトラはそのシーザーを追ってローマへ渡った。しかし、2人の喜びも束の間、シーザーはブルータス(ケネス・ヘイグ)達暗殺団の手にかかり、その短い生涯を閉じた。クレオパトラは不穏なローマを逃れてエジプトに帰った。そして、3年の月日が流れた。ローマの権力者となったアントニー(リチャード・バートン)は財政の窮乏を救うため、エジプトに活路を求めた。アントニーを迎えたクレオパトラだったが、たちまち2人に恋の焔が燃え上がる。アントニーがクレオパトラと結婚し、彼が死んだらエジプトの土になるという遺書を認めてローマ元老議員は激昂した。そしてアントニーは、ローマとの戦いに敗れて、自ら命を絶つ。捕らわれたクレオパトラは、「アントニーの側に葬って……」と遺書を書き、アスプ(毒蛇)を隠した果物篭に自らの手を差し入れたのだった。

『クレオパトラ』の一場面

『クレオパトラ』出演陣の横顔紹介

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、1932年2月27日 - 2011年3月23日)は、英国出身の女優。少女時代から米国の映画会社MGMで子役として映画出演していて、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。
本名はElizabeth Rosemond Taylor。美術商をしていた父の関係で1939年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って1942年にユニヴァーサル作品“There's One Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。1950年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、1960年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。1963年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、1966年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。1970年以降はさすがに年と共に人気にも陰りが見え始めるが、1980年代からはブロードウェイへ進出。そこでも成功を収めて舞台女優として活躍し、TVにも積極的に出演。1987年にレジョン・ドヌール勲章を受けるほか、香水“パッション”、“ホワイト・ダイヤモンズ”を売り出すなどした。1984年からはエイズ撲滅運動に目を向け、翌年研究財団AmFARを設立。1991年にはエリザベス・テイラー・エイズ財団も設立し、その功績を称えて1993年にアカデミーのジーン・ハーシ賞を受賞した。さて、エリザベス・テイラーといえば結婚遍歴が付き物。15歳の頃から共演者や大富豪の息子たちとの噂は絶えることなかったが、最初の結婚は18歳の時の1950年、ホテル王の息子、コンラッド・ヒルトン・ジュニアと。しかし1年と経たずに離婚。1952年に撮影先で知り合ったマイケル・ワイルディングと結ばれ二人の息子が生れるが、プロデユーサーのマイケル・トッドと恋に落ちて1957年に離婚。その3日後にトッドと結婚するが彼が飛行機事故で1958年に死亡。落ちこんでいた彼女を(当時デビー・レイノルズと結婚していた)歌手のエディ・フィッシャーが励まし、不倫関係に発展。1959年に世の非難の中、結婚した。その後「クレオパトラ」で共演したリチャード・バートンといい仲になり、こちらも大スキャンダルとなったが(当時のバートンはもちろん妻子持ち)1964年、リズ離婚後の9日目に再婚。リチャード・バートンとは以降多数の作品に共演するが、1974年、彼のアルコール中毒がもとで離婚。翌年よりを戻して再婚するがわずか10ヶ月ではたまた破局。1976年に上院議員、ジョン・ワーナー、1991年にはラリー・フォーテンスキーと再婚したがいずれも離婚し、結婚回数はバートンとの二度の結婚を含めて8回となった。2011年、うっ血性心不全のため死去。79年の人生だった。

エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)

リチャード・バートン,CBE(Richard Burton,CBE, 1925年11月10日 - 1984年8月5日)は、英国・ウェールズ出身の俳優である。英国映画界を代表する俳優の一人。
この映画では、共和政ローマの政治家・軍人であるアントニウスを演じた。

本名はRichard Walter Jenkins Jr.。炭坑作業員の息子(13人兄弟の12番目)に生まれ、2歳の時に母親が死に、姉夫婦に育てられる。16歳で学校をやめて働かなければいけなくなったが、彼の教師であったフィリップ・バートンが彼を養子に取り、18歳の時には英空軍の士官候補生としてオックスフォード大学エクセターコレッジの6ヶ月間の特別コースで学ぶことが許された。1943年にリヴァプールの舞台でデビューし、その後、舞台俳優として活躍。1944年から3年間、英空軍のパイロットとして従軍。1949年に映画デビュー、映画で共演した女優シビル・ウィリアムズと結婚した。同年、クリストファー・フライ作の『The Lady's Not For Burning』での演技が絶賛される。これがきっかけとなって1952年にはハリウッドに招かれ、『謎の佳人レイチェル』でオリヴィア・デ・ハヴィランドと共演、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。
舞台ではオールド・ヴィク座の『ハムレット』『オセロ』やブロードウェイのミュージカル『キャメロット』などに主演、英米の垣根を越えて活躍、特に『キャメロット』では1961年のトニー賞ミュージカル部門の俳優賞を受賞した。映画では『聖衣』『アレクサンダー大王』『北海の果て』『史上最大の作戦』などの大作や、『寒い国から帰ったスパイ』や『暗殺者のメロディ』などに出演。しかし『謎の佳人レイチェル』を初めアカデミー賞に計7回もノミネートされたものの、一度も受賞はできなかった。
1963年の『クレオパトラ』で共演したクレオパトラ役のエリザベス・テイラーと恋が芽生え、スキャンダルとなった。その後、妻ウィリアムズと離婚し、一方エディ・フィッシャーと別れたテイラーと結婚、その後は夫婦して、『予期せぬ出来事』『いそしぎ』『バージニア・ウルフなんかこわくない』『じゃじゃ馬ならし』『悪のたのしみ』『危険な航路』『夕なぎ』で共演、しかしバートンがアルコール使用障害にかかり、1973年にテレビ映画『離婚』に夫婦共演中に本当に二人の離婚が取り沙汰されるようになり、ついに翌年離婚した。その後1975年10月10日に二人は再婚するが、翌年、再び離婚する。1983年のブロードウェイの舞台が二人の最後の共演となった。テイラーとの離婚後は2度結婚を繰り返し、1984年にジュネーヴ郊外の自宅で脳溢血により倒れ、市内の病院に搬送されたが帰らぬ人となった。

リチャード・バートン,CBE(Richard Burton,CBE)

レックス・ハリソン(Rex Harrison、1908年3月5日 - 1990年6月2日)は、英国の俳優。
この映画では、共和政ローマの政治家・軍人であるジュリアス・シーザーを演じた。

本名: Reginald Carey Harrison。イングランドのハイトン(Huyton:当時はランカシャー州、現在はマージーサイド州)出身で、父は絹仲買人だった。子供の頃にかかった麻疹のせいで左目の視力をほとんど失う。1924年にリヴァプールのレパートリー劇場で初舞台を踏むが、第二次世界大戦に従軍したため、一時期そのキャリアはストップする。1930年にロンドンの舞台に進出、1936年にはブロードウェイの舞台に立った。主に都会派コメディで活躍した。1940年代には『陽気な幽霊』、『アンナとシャム王』、『幽霊と未亡人』といった名作に出演、上品で洗練された個性で多くの女性ファンを獲得した。1949年と1957年にトニー賞を受賞。1964年公開の『マイ・フェア・レディ』では、1956年にブロードウェイで初演したヒギンズ教授役でアカデミー主演男優賞およびゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞。自身最高の当り役となった。
私生活では、プレイボーイとしても名を馳せ、リリー・パルマー、ケイ・ケンドール、レイチェル・ロバーツなど生涯に6度の結婚をし、レクシー・ハリソン(レックスとセクシーを合成させた)の異名をとった。

レックス・ハリソン(Rex Harrison)

’63年の年末にはもう一本の歴史超大作が封切られた。その名も『アラビアのローレンス』!!

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)は、1962年、米国ではなく英国で作成された映画である。日本では、一年後の1963年12月に公開された。ジャンルとしては、近世の中東を舞台とした歴史スペクタクル超大作映画。デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
砂漠とその民を深く愛し、しかし英国人であるがために深い挫折に追い込まれていく青年リーダー、ローレンスの苦悩を中心に、砂漠の一大戦争スペクタクルを展開していく。D・リーンの数ある名作の中でも紛れもない最高傑作で、その年の米国アカデミー賞7部門を受賞した。

約4時間に渡る超大作であり、夜となく昼となく表情を変える砂漠の美しさとスケール感に圧倒される。その砂のキャンバスに描き出されるエキゾチックな色彩のコントラストがリアルに浮かび上がり、どのシーンを切り取っても一枚の絵画に成り得るようなフレーミングには目を釘付けにされるばかりであり、画面構成での黄金比がこれほど見事な映画は史上類を見ない。これも砂漠というロケーションを中心に捉えた効果なのだろうか。物語の内容以前にその黄金比に心を奪われ、巨大な美術館の中で壮大な宗教絵巻を見ているようなシーンの連続は圧巻としか言いようがない。映画史上最も美しいスペクタクルだと断言できるほどの作品である。願わくば一度は映画館で見てみたい。

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)

1916年、英国陸軍カイロ司令部に勤務中のローレンス少尉(ピーター・オトゥール)は、トルコに対して反乱を起しつつあるアラブ民族の情勢を確かめるため三ヶ月の派遣を命ぜられた。ロレンスは反乱軍の指揮者ファイサル王子(アレック・ギネス)の陣営へと灼熱の砂漠の中を旅立ったが、同じ民族が争うのに愛想を尽かし、ハリス族首長アリの案内申し出を断った。やがてイギリス軍将校ブライトン大佐(アンソニー・クェイル)に逢ったが、突如トルコ空軍の爆撃を受け、近代武力の前にアラブ反乱軍の無力さを見せつけられる。ブライトン大佐は彼らに最新兵器による指導と訓練を提案したが、ローレンスはゲリラ戦を主張した。それはトルコ軍の重要地点アカバの反対側にいる、アウダ(アンソニー・クイン)を首長とするハウェイタット族と連携し、背後から敵を叩いて撹乱させるという作戦だった。しかしローレンスの部隊は疲労困憊し、ラクダも人も次々と倒れて行く。ある夜、部隊全員がアウダの陣営に招待され、ローレンスとアリはアラブ民族の団結を説き、アカバに秘宝があるという話を聞いてアウダはロレンスに助力を約束する。補強された部隊での進撃中、ガシムがアウダの部下と争い相手を殺してしまう。砂漠の掟によりローレンスはガシムへと引金を引いた。アカバでの戦いは苛烈を極め、ローレンスが意識を回復したときにはトルコ兵の姿はなく、アウダが役に立たない秘宝の箱を抱えているだけだった。ローレンスはアカバ攻略を告げるためカイロに向かい、到着すると司令官がアレンビー将軍(ジャック・ホーキンス)に変わっていた。ローレンスはゲリラ戦の指導者という新たな任務を与えられた。何回目かの鉄道爆破の際、部下のファラジが重傷を負ったがローレンスは秘密漏洩を恐れその場で射殺した。エルサレムに行ったローレンスは、英仏両国間にアラブとトルコの土地を二等分する条約が結ばれているのを知り愕然とするが、再編成された彼のゲリラ部隊にはアリもアウダも参加していた。ローレンス支持者の集落へ部隊が訪れたとき、そこはトルコ軍の襲撃を受け廃墟と化していた。怒ったローレンスはトルコ兵を全滅させた。アウダは部下を連れ砂漠へ帰り、アリはダマスカスに残ると言った。ローレンスはトルコの病院に忘れられている二百人の重傷者を労い、アラビア人の装いで病院へ向ったが、誤解した英国の軍医に、惨状を引き起した張本人だと平手打ちを食わされる。アレンビー将軍の司令部でも、シリアの王となるファイサルにとっても、ローレンスは無用の者となり追放を受ける。大佐への進級と英国への帰還船に個室が用意されたことだけが、ローレンスの功績に対する感謝の印だった。ダマスカスを発ったローレンスは顔馴染みを探したが、彼に気づく者は誰もいなかった。

『アラビアのローレンス』(Lawrence of Arabia)あらすじ

『アラビアのローレンス』出演陣の横顔紹介

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole, 1932年8月2日 - 2013年12月14日)は、アイルランドの俳優。シリアスで濃厚なドラマから軽妙なコメディまでこなす演技派として知られる。
この映画では、主人公の英国陸軍カイロ司令部に勤務中するローレンス少尉を熱演した。

本名: Peter Seamus O'Toole, イギリスのヨークシャーに育つ。幼い頃からの夢だったジャーナリストになるべく地元の新聞社に入社して4年間を過ごす。一方ではアマチュア劇団にも参加して1949年に初舞台を踏んだ。その後、海軍に従軍して除隊後、奨学金を得て王立演劇アカデミーに入学。1955年にはプロ・デビューも果たした。その後はシェイクスピア劇を中心に活躍。映画へは1960年の「海賊船」でデビュー。やがてプロデューサーのジュールス・バックと共に独立プロも設立した。そして1962年、「アラビアのローレンス」のT・E・ローレンス役に抜擢。188cmの長身と透き通るような美しいグリーンの瞳と共にエキセントリックな演技が作品に多大な影響を与え、自身もアカデミー主演賞候補にもなった。その後も多数作品に出演して計7回も同賞候補になっているが「アラビアのローレンス」の印象があまりにも強烈だったためか以降の作品に恵まれたとは言い難い。1959年に舞台で共演したシアン・フィリップスと結婚して二人の娘も生まれたが1979年に離婚している。1975年には腹部の悪性腫瘍で余命幾ばくもないと告知を受けたが手術の後に奇跡的にこれを克服。以降も精力的に俳優活動を続けていたが、2012年にその第一線から退くことを表明。2013年12月、ロンドンの病院で病気のため死去した。長年に渡り闘病生活を送っていたという。

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole)

オマー・シャリフ(Omar SharifまたはOmar El-Sharif、1932年4月10日 - 2015年7月10日 )は、アラブ人でエジプト出身の俳優。
この映画では、ベドティン族長に扮して、国際デビューを果す。

本名はMichel Shalhoub。材木商の家庭に生れ、4歳でカイロに移住。ビクトリア大学では学生演劇会の委員長などを務めた。卒業後は父の仕事の手伝いなどをしていたが、23歳の時に渡英して王立演劇アカデミーの聴講生となり、帰国後の1955年にエジプト映画でデビュー。同年にはエジプトのトップ女優と結婚して20本以上の作品に出演。次第にその名は世界的にも知られるようになった。やがて製作者のサム・スピーゲルに呼ばれて1962年「アラビアのロレンス」のアカデミー助演賞候補にもなり一躍有名になる。その後は「ドクトル・ジバゴ」、「ファニー・ガール」、「うたかたの恋」と代表作が続いた。私生活ではドヌーブなどと噂になり、1966年に離婚。1977年には別の女性と再婚した。またブリッジの名手としても有名で、その腕前は世界選手権に出場するほどのものだとか。2003年には「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」でセザール賞の主演男優賞に輝くなど、近年でも活躍していたが、アルツハイマーを発症して療養中の2015年、心臓発作によってこの世を去った。

オマー・シャリフ(Omar Sharif)

映画って、本当にいいですね!!それでは、さよなら、さよなら、さよなら!!

関連する投稿


若松孝二監督「金瓶梅」など6作品!CS衛星劇場で「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」が放送!!

若松孝二監督「金瓶梅」など6作品!CS衛星劇場で「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」が放送!!

CS放送「衛星劇場」で放送中の「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」の8月放送分にて、中国の古典を映画化した異色の文芸エロティック・ロマン「金瓶梅」、風間健、五十嵐淳子が出演したアクション「少林寺拳法 ムサシ香港に現わる」など6作品が放送されることが決定しました。


『リカちゃん エポスカードデビュー記念 POP-UP STORE レトロパーティー』が全国のマルイ系列店で開催決定!!

『リカちゃん エポスカードデビュー記念 POP-UP STORE レトロパーティー』が全国のマルイ系列店で開催決定!!

マンガ、アニメ、特撮などを始めとするサブカルチャーをテーマとした企画展を開催・運営しているクレイジーバンプが、8月1日(金)からのマルイ北千住を皮切りに、全国のマルイ系列4店舗にて1967年に誕生した着せ替え人形「リカちゃん」のPOP-UP STOREを開催します。


懐かしい昭和レトロな記事の数々!高度経済成長期の「子供の科学」を振り返る『子供の科学完全読本 高度経済成長期編』が発売!

懐かしい昭和レトロな記事の数々!高度経済成長期の「子供の科学」を振り返る『子供の科学完全読本 高度経済成長期編』が発売!

誠文堂新光社より、書籍『子供の科学完全読本 高度経済成長期編』の発売が決定しました。発売予定日は8月8日(金)、価格は2750円(税込)。


「ウルトラQ」に登場する人気怪獣『カネゴン』が、完全新規造形のハイクオリティソフビ製フィギュアになって登場!!

「ウルトラQ」に登場する人気怪獣『カネゴン』が、完全新規造形のハイクオリティソフビ製フィギュアになって登場!!

フィギュアメーカーのCCPJAPANより、人気特撮作品『ウルトラQ』に登場する”カネゴン”をソフビ製で再現した『1/6特撮シリーズ Vol.113 コイン怪獣 カネゴン』の発売が決定しました。


昭和の特撮ホラー「マタンゴ」&任侠怪談「怪談昇り竜」のサウンドトラックが発売決定!!

昭和の特撮ホラー「マタンゴ」&任侠怪談「怪談昇り竜」のサウンドトラックが発売決定!!

ディスクユニオン・DIWの映画サウンドトラックレーベルCINEMA-KAN(シネマカン)より、1963年公開の東宝特撮ホラー映画「マタンゴ」と、1970年公開の日活の異色任侠怪談映画「怪談昇り竜」のサウンドトラック2作品が同時リリースされます。


最新の投稿


赤塚不二夫が生誕90周年!RIP SLYME、氣志團ら豪華出演陣が渋谷に集結する記念音楽フェス詳細発表

赤塚不二夫が生誕90周年!RIP SLYME、氣志團ら豪華出演陣が渋谷に集結する記念音楽フェス詳細発表

漫画家・赤塚不二夫の生誕90周年を記念したミュージックフェスティバル「コニャニャチハのコンバンハ!」の詳細が解禁されました。2025年12月5日・6日にLINE CUBE SHIBUYAで開催。RIP SLYME、氣志團、小泉今日子らが赤塚スピリッツ溢れるステージを披露します。チケット先行抽選は10月20日(月)からスタート!


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。