沖雅也の少年時代

沖雅也の父は石油卸売業を営む事業主、祖父は病院経営者という裕福な家庭に生まれる。
兄弟は妹がいる。(写真の女子は友人)
父親の事業失敗のために大分市に転居する。
1966年12月、14歳の時に両親は離婚した。妹は福岡県の親類に預けられる。
沖雅也の家出からデビュー、日景忠男氏との出会い

東京ではラーメン屋や菓子の配達助手として働いていた。職を転々としスナックで働き、ゲイバー勤務に行き着いた。
そして、養父となる日景忠男氏に声をかけられ出会う。
店に出ている時に客からスカウトされファッションモデルの仕事を単発的にしていた。
1968年(昭和43年)、日活関係者が客として訪れ、日活入りが決まる。
同年10月に日活ニューフェイスとして映画『ある少女の告白・純潔』で俳優デビューする。
映画デビュー当時の沖雅也は16歳、家出して上京した少年であることを隠すために、年齢を18歳と偽っていたという。
翌1969年には日本映画テレビプロデューサー協会が選定する「エランドール新人賞」を受賞。
その後は日活作品に出演するようになる。
「沖雅也」の芸名の「雅」は当時の日活社長の堀雅彦の名前から一字とって命名された。
沖雅也のデビュー
1969年5月13日から同年9月30日まで、NETテレビ(現・テレビ朝日)系列で放送された 「犬と麻ちゃん」でテレビデビューする。
1971年3月30日~5月4日に日本テレビ系列で放送された「高校生ブルース・クラスメート」や1971年10月2日~1972年3月25日に日本テレビ系列で放送された「さぼてんとマシュマロ」ではコミカルな演技を披露し注目を浴び、アイドル的な人気となる。

1971年12月 月刊明星

1971年に沖雅也は、映画『八月の濡れた砂』の主役に抜擢されるが、撮影開始直後に怪我により降板。同時期に『金メダルへのターン!』(フジテレビ)、『キイハンター』(TBS)にも出演していた。
1972年に松竹へ移籍し大人の役者へと成長していく。
※19歳の頃の沖雅也は愛車スカイライン2000GTXに乗っていたという。

1975年、沖雅也の実父が亡くなる。この死去を受け日景忠男と養子縁組、日景城児となった。
『太陽にほえろ!』でスコッチ刑事を演じ人気を博す
沖雅也が『太陽にほえろ!』に初出演したのは、1972年9月放送の『太陽にほえろ!』第10回「ハマッ子刑事の心意気」。神奈川県警浜崎署・久保刑事役を演じている。

スコッチ刑事・沖雅也
Images of 沖雅也 - JapaneseClass.jp
「太陽にほえろ!」の“スコッチ刑事”こと沖雅也がとつぜん転勤のかたちで姿を消した。

※この当時の沖雅也24歳、『太陽にほえろ!』ロケ地を移動するためにはクルマが必要だった、沖雅也は運転手付きのオースチンに乗っていたという。

「スコッチ刑事」の最期は、1982(昭和57)年1月29日、胸の古傷が悪化し吐血、病死する。
沖雅也のノイローゼ
1977(昭和52)年3月から3年間、沖雅也はノイローゼで休業する、その後は復帰していた。


沖雅也の歌手としてリリースしたレコード
1972年から1978年の間に、沖雅也は8枚にシングルレコードを発売した。


沖雅也の自殺・31歳で生涯を閉じる

自殺当日夜の6月28日22:00にフジテレビの時代劇「大奥」が放送された。
家光役を演じている生前の沖雅也の姿がそこにあった。
沖雅也が亡くなった翌日の6月29日には、テレビドラマ版『蒲田行進曲』後編が放送された。
当時の死因にまつわるスキャンダルのなか、最後の沖雅也の映像は話題となった。
沖は自殺直前に部屋にホテトル嬢を呼んでいた事が発覚、日景氏との同性愛疑惑なども取り沙汰され、マスコミの格好の餌食となった。
沖雅也が残した 遺書
ホテルに遺された沖雅也の遺書

自宅に残された沖雅也の遺書

日景氏に対する差別
2014年12月に話題になった俳優の成宮寛貴は、90年代に家を出た。中学卒業前後14歳のころから新宿二丁目に行き、アルバイトをしていたという。60年代の沖雅也少年の家出と同じだ。ちなみに成宮寛貴は沖雅也が亡くなる1年前に生まれている。
沖雅也が亡くなった80年代はじめ。
養父の日景氏はゲイ(同性愛者)であり、当時の彼に対する差別は酷いものだった。
日景忠男氏は、高学歴!超裕福な家庭に育っていた

日景氏は2005年12月、覚せい剤取締法違反で逮捕された、役員を退任。
2008年秋、同じ容疑で逮捕される。懲役1年2月の判決が確定した。
勾留中の、日景忠男は患っていたC型肝炎から肝硬変になり入院したという。
寝たきりで、車椅子を使い刑務所内を移動していた。
2015年2月に78年の生涯を閉じた。
沖雅也のエピソード「パリ」

養父の日景忠男氏は自身の誕生日(1月2日)に沖雅也から指輪を贈られた。
(二人でパリを旅行中だったのだろうか。)
沖雅也が死んだ後、「数百年後の恋人達に拾ってもらえるように」と願いを込め、沖が愛したパリを流れるセーヌ川にその指輪を投げ入れたという。