プロレス総選挙2017  マツド・デラックス的プロレス総選挙!その3 覆面レスラー編

プロレス総選挙2017 マツド・デラックス的プロレス総選挙!その3 覆面レスラー編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!結果を2回に渡ってお知らせしたけど、もうそれはいいわよね!マツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆にも投稿してもらいたいわよ!今回は、前回の「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」に続く「覆面レスラー」よ!!


プロレス総選挙2017の順位結果を発表のおさらいは「日本人ヘビー級レスラー」「外国人ヘビー級レスラー」編で確認を!

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その2外国人ヘビー級編 - Middle Edge(ミドルエッジ)

前回のまでの「プロレス総選挙2017」の結果、「日本人ヘビー級レスラー」「外国人レスラー」はいかがだったかしら?そこで今回は「覆面レスラー」をピックアップして「マツド・デラックス」的にベスト10を作っていきたいと思うわ!この部門も絶対に忘れてはいけないわよね!でもなんせ「正体不明」のひとたちだからどうなるかしら?そしてどうしても自分の好みに偏ってしまうしわよね。好きなレスラーに順位をつけるなんてと言うかも知れないけどあえてここでも10人選ばせてもらうわね!

第10位 ドス・カラス

「飛鳥仮面」

ドス・カラス

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ご存じ「ミル・マスカラス」の弟(実弟)の「ドス・カラス」よ。優秀な兄のおかげで日本のファンには能力が低い弟のイメージが強いのかもしれないけど、名前も影響してるのかしら?「マス・カラス=千の顔」に対し「ドス・カラス=2つの顔」だからかしら?でもメキシコ本国では、「エル・カネック」を破って「ナショナルヘビー級」のチャンピオンにもなっている実力者なのよ!チャンスがあったらもう一度当時の戦いをチェックして欲しいわ!

ドス・カラスのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1970年1月にデビュー。リングネームを付けるにあたってプロモーターからいくつかの名前のリストを提示されたところ、人間の二面性(喜びと怒り)を自身のキャラクターに表現すべく、「2つの顔」を意味するドス・カラスを選んだ。1971年夏、兄マスカラスが2回目の日本遠征から帰国した際、日本の専門誌『月刊ゴング』が企画したマスカラスのマスクデザイン・コンクールに寄せられた読者のハガキの束をドス・カラスに渡し、その中から気に入ったものを選ぶよう助言。ドス・カラスはそこから双頭の鷲がデザインされた覆面を選び出し、以降自身のマスクとした。彼はそのハガキを、現在でも大切に保管しているという。1970年代前半は、マスカラスのアメリカでの主戦場でもあったテキサス州サンアントニオに遠征し、ホセ・ロザリオとのタッグで活動。1975年からは、EMLLを脱退したフランシスコ・フローレスが旗揚げしたLLIに参戦。以降メキシコでの主戦場をLLIに移し、1978年6月20日、カネックを破りナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した。同年8月、全日本プロレスに初来日。8月24日の田園コロシアム大会において、兄マスカラスとのマスカラス・ブラザーズでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、好勝負を残した。翌1979年3月は単独で再来日して『第7回チャンピオン・カーニバル』に出場。同年の末にはマスカラス・ブラザーズとして『'79世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦、ザ・ファンクスやアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークと熱戦を展開した。1980年2月の来日時は、大先輩ドクトル・ワグナーとの「UWAメキシコ・ライトヘビー級選手権」と銘打たれた架空のタイトルマッチが実現、技巧戦の末に勝利を収めた。同年8月の来日時にはマスカラスと組んでPWF杯争奪タッグトーナメントの第1回大会に出場し優勝を果たした。翌1981年8月に行われた第2回大会にもマスカラス・ブラザーズとして出場、決勝でリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを下して2連覇を遂げた。1983年2月25日には愛知県体育館にて、当時大仁田厚が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。同年11月開幕の『'83世界最強タッグ決定リーグ戦』にもマスカラスとの兄弟タッグチームで参加し、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビやタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の凶悪コンビとも対戦、これが昭和期の全日本プロレスへの最後の来日となった。1984年2月26日、エンリケ・ベラからUWA世界ヘビー級王座を奪取。1985年1月20日にはUWAの総本山エル・トレオにてスタン・ハンセンとシングルマッチで対戦、同年より新日本プロレスへ転出し、11月開幕の『IWGPタッグ・リーグ戦』にカネックとのコンビで参加。藤波辰巳とのシングルマッチも実現したが、1勝4敗2分けで参加8チーム中6位の戦績で終わった。翌1986年5月の再来日ではザ・コブラとの試合で左腕を負傷、途中帰国を余儀なくされている。1986年はEMLLのリングにも登場し、1月28日にビジャノ3号&ビジャノ5号と組んでロス・ブラソスからナショナル・トリオ王座を奪取。同年12月30日にはカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を再び獲得している。1989年にはWWAの世界ヘビー級王者にも認定された。1990年代に入り、日本へはW★ING、ユニバーサル・プロレスリング、WARなどインディー系の団体に参戦。1995年7月にはみちのくプロレスに来日、『第1回ふく面ワールドリーグ戦』でザ・グレート・サスケを破り優勝した。1992年2月2日、カネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取して同タイトルへの3度目の戴冠を果たすも、AAAの出現などでLLIは崩壊寸前となり、1994年10月よりCMLLに移籍。1996年3月22日にはCMLL世界トリオ王座を獲得した。しかし、1997年6月にAAAから選手を借り受けて単独興行を主催したことによりCMLLを解雇され、以降は準レギュラーのポジションでAAAに出場。2000年9月にデビューしたドス・カラス・ジュニアとも親子タッグを結成した。2002年7月、全日本プロレスへの約19年ぶりの来日が実現。かつての全日本マットで「夏の風物詩」と謳われたマスカラス・ブラザーズを再結成し、武藤敬司ともタッグを組んだ。セミリタイア後の2010年5月8日には、WWEのメキシコシティでの興行にスペシャルゲストとして登場、チャボ・ゲレロ・ジュニアを相手に凱旋試合を行うドス・カラス・ジュニアをリング上から紹介した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9

ドス・カラス - Wikipedia

第9位 ザ・コブラ

「謎のアストロノーツ」

ザ・コブラ

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本当にこのレスラーには「哀愁」が漂うわ。会社の都合や、デビュー戦の「凡戦」がなければ「タイガーマスク(初代)」のようにスーパースターになれたかも知れなかったと思うの。元々、役者にスカウトされていたりした位の人物だったらしので(アステカイザーに出演)運命とは本当に微妙な事で変わるのよね。でも、時折見せたパフォーマンスはやはり「大器」の片鱗はあったと思うわ!

ザ・コブラのキャリア(Wikipediaより抜粋)

ザ・コブラ(The Cobra)は、カナダ・カルガリーマットでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーツ」、入場曲はエイジア「THE HEAT GOES ON」。当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。日本デビューは、1983年11月3日に蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクやミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした。ちなみに、青年時代カルガリーでコブラの空中殺法を観て憧れてプロレスラーになったオーエン・ハートが、来日時にこのバック宙リングインを真似している。対戦相手のデイビーボーイ・スミスは試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなど、波乱を予想させる出だしを見せた。田中秀和リングアナによってスミス、コブラのコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスがかわしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、技の失敗もあって結果的にこのデビュー戦は凡戦となる。このことが初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待したファンや関係者を落胆させ、いかに初戦のインパクトが重要であるかを示した格好となった。後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスがかわしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビでの録画中継の一部で、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。なお、このザ・コブラの日本デビュー戦は、2012年に放送された『ワールドプロレスリング アンソロジー』の第3回「伝説のマスクマン ザ・コブラ 秘蔵哀愁名勝負選」の中でノーカットで放送された。コブラはその後NWA世界ジュニアヘビー、WWFジュニアヘビー級の二冠王となるが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設。リーグ戦が開かれ、1986年2月6日に両国国技館で越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。さらに越中を破って第2代チャンピオンとなった高田伸彦とも同年6月17日に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。この試合を最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消えた。しかし実際は、結婚を発表し素顔に戻っただけだった。デビュー戦で期待以上のインパクトを残した初代タイガーマスクと、スミスのギミック破りに遭い怪我をしたザ・コブラは常に比較され、アニメも同時放送されメディアミックスが成功した初代タイガーマスクのようなチビッコファンのアイドルにはなれなかった。しかし、その美しい体格と群を抜く運動能力で20代のファンには人気が高かった。また、キッドやスミス、小林邦昭、ヒロ斎藤などの好敵手が相次いで他団体へ移籍していったことによる挑戦者不足や、185cmという長身がジュニア戦士としてはマイナスとなり、キャラクターとしては大成しなかった。なお「スコードロン・サンダー」なる必殺技を持つことがプロレスマスコミによって報道されていたが、その完成形は一度も披露されなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E9%AB%98%E9%87%8E

ザ・コブラ - Wikipedia

8位 フィッシュマン

「怪魚仮面」

フィッシュマン

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この方を覚えている方は何人いるかしら?あたしが個人的に好きなレスラーなのよ。「初代タイガー」「2代目タイガー」「ザ・コブラ」等とも戦ったことがあるのよ。ただ、キャラ立ちがしなかったせいか「かませ犬」的な役割が日本では多かったけど5個の世界王者を11回も獲得する実力者だったのよ!

フィッシュマンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1974年(1971年説もあり)、メキシコのプロレス雑誌『ルチャ・リブレ』が行ったミル・マスカラスのマスクデザイン・コンテストの中から覆面のデザインを選び、同年よりフィッシュマン(Fishman)に変身。10月3日にはエル・マルケスからナショナル・ウェルター級王座を奪取、以降、同王座を通算3回獲得した。1976年4月9日には古豪ブルー・デモンを破り、NWA世界ウェルター級王座にも戴冠している。1978年5月よりLLIに移籍。1980年12月12日、ペロ・アグアヨを下してUWA世界ライトヘビー級王者となる。1981年3月に新日本プロレスに初来日し、WWFライトヘビー級王座の争奪リーグ戦に出場。優勝を逸し戴冠は果たせなかったものの、9月25日にカリフォルニア州ロサンゼルスにてアグアヨから同王座を奪取した。アメリカにはロサンゼルスをはじめ、メキシカン人口の多いテキサスにも時折遠征しており、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのWCCWでは、悪徳マネージャーのスカンドル・アクバ率いるヒール軍団に加入。1983年6月17日に行われたビッグイベント "Star Wars" にはワイルド・ビル・アーウィン&ザ・モンゴルと組んで6人タッグマッチに出場、クリス・アダムス、チャボ・ゲレロ、ホセ・ロザリオのトリオと対戦している。その5日前の1983年6月12日、当時空位だったWWFジュニアヘビー級王座をメキシコシティにて初代タイガーマスクと争い、翌1984年8月には全日本プロレスに参戦して二代目タイガーマスクとも対戦した。1985年10月には新日本プロレスにUターンしてザ・コブラのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦している。1986年8月24日、ビジャノ3号を破りWWFライトヘビー級王座を再び獲得。1988年よりティフアナのWWAに移籍し、1990年2月18日にWWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座をレイ・ミステリオ・ジュニアから奪取した。1991年8月にはW★INGの旗揚げシリーズに来日している。以降、1990年代はAAAを主戦場に活動したが、2000年8月27日にマスカラ・サグラダとのマスカラ・コントラ・マスカラに敗れて覆面を失い、素顔となって引退した。2011年12月25日、『覆面MANIA20』に息子のエル・イホ・デ・フィッシュマンと共に来日。久々の試合出場を果たし、初代タイガーマスクと約30年ぶりにタッグマッチで対戦した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%83%B3

フィッシュマン - Wikipedia

7位 ストロング・マシーン(魔神1号)

「戦慄の殺人魔神」

ストロング・マシーン(魔神1号)

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マスクマンなのに「お前!平田だろ!」と「藤波辰巳」に言われて事が一番印象に残ってるというのが皮肉な結果だけど、こんなに正体がバレていても愛された覆面レスラーはいないんじゃないかしら?ヒールもベビーフェイスもこなせる覆面レスラーとして堂々のランクインよ!

ストロング・マシーンのキャリア(Wikipediaより抜粋)

デビュー当初は「ストロング・マシーン」の呼称・表記だったが現在は「ストロング・マシン」と呼称・表記される場合が多い。将軍KYワカマツに操られる設定で1984年8月24日に後楽園ホールに初登場し、後に2号も出現してマシーン軍団として活動。以降も増殖を続け、3号と4号も登場した。 マシンの本名・経歴・趣味・好きな有名人は不明だが、週刊プロレスの選手名鑑には必ず「好物は中華料理」と6年間載っていた。ブラックになってからはカツカレーに変わっている。レスラーとしての評価も高いが、ストロング・マシーンのマスクもはデザイン・機能性など評価は高い。マスクの目元や口元の開口部は大きいが、二重メッシュ(網目)構造でラメが施されている為キラキラと輝き、素顔は全く見えない。赤、緑、紫、黒系統のマスクを使い分けていた。WAR参戦時に、口の部分が開いたマスクを着用したこともある。額にはSのデザイン文字が入るがレイジング・スタッフ時代はRSとなっていた。このデザインは楳図かずおの作品「笑う仮面」に登場するマスクの不気味さに、平田自身が気に入って取り入れた。桜庭和志がPRIDEのリングに登場する際にマシン風のマスクを被って以来現在でも「仮面39ライダー」のキャラクターとして使われている。一時期、ストロングマシン39号とも名乗っていた。桜庭のほかにも、プロレスラーでは高野俊二、アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター(ビリー・クラッシャー)、ハルク・ホーガン、安生洋二、後藤達俊、石澤常光、高木功、杉浦貴、高山善廣、青木篤志などが次々とマシンマスクを被るため、マシン軍団は現在も増殖し続ける。嘗てのマネージャー若松市政(将軍KYワカマツ)は芦別市議会議員に転じたため、マシン軍団と疎遠となってしまったが、プロレス誌のインタビューで記者からこのことを聞き、「マシンは今も増えてるんですか? 嬉しいなあ」と、マシン軍団の増殖ギミックを喜んでいた。「スーパー・ストロング・マシン」となって「マシン軍団」から離れて活動するようになった以外は、外見上のデザインはほとんど変化ない。 2006年5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDにて、久々にスーパー・ストロング・マシンとして試合を行った。今日でも会場人気は高く、「おまえは平田だろ〜」という野次が絶えない。これに対してS・S・マシンは「誰が平田だ?」とやり返す。永田裕志率いる青義軍に加入してからは、マスクの色をメタリックブルーに改めた。 対戦相手が不甲斐無い試合をして負けると、試合後に「○○(対戦相手の名前)が、しょっぱい試合ですいません」と、対戦相手を揶揄するマイクパフォーマンスをする。 また2009年に放送された「アメトーーク」に取り上げられて以来再び注目を集めている。2014年以降試合に出場していない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%B7%B3%E5%97%A3

ストロング・マシーン - Wikipedia

6位 エル・カネック

「盗賊仮面」
「仮面の魔豹」
「UWAの帝王」

エル・カネック

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あたしたちの時代で、ヘビー級の外国人マスクマンと言えば「ミル・マスカラス」と「エル・カネック」よね。この人、いまいち強いのか弱いのかわからない所があったのだけど、晩年長い間「UWA世界王者」を保持していたことを考えると、やはり実力者だったのよね。だって、「カール・ゴッチ」を師とし、「ルー・テーズ」を破った男ですもの!

エル・カネックのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスールの名義でデビュー。その後、1973年3月24日にカネックのリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ。1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、レイ・メンドーサ組と対戦。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレスから北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす。1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる。1978年3月の初来日以降、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となって活躍。藤波辰巳とは1977年の藤波のメキシコ初遠征以来の因縁があり、日本とメキシコを股にかけて抗争を展開した。カネックは1978年3月の初来日時、いわゆる「敵前逃亡事件」を起こしている。これは、3月30日に予定されていた蔵前国技館での藤波辰巳とのWWFジュニアヘビー級王座戦への出場を当日になって急遽キャンセル、そのまま独断で帰国してしまったものである。やむなくタイトルマッチは中止となり、当日、藤波はイワン・コロフとのシングルマッチを行った。前代未聞の敵前逃亡として話題になったが、カネックは来日中、3月18日の藤原喜明戦および翌19日の木戸修戦で勝利したものの膝を負傷し、その後の6大会を欠場するほどの怪我を負っていた。また、この事件の背景には、新日本サイドがカネックの覆面と藤波のWWFジュニア王座を賭けて戦うコントラ・マッチを直前になって一方的に通告してきたこと、さらに、同じシリーズに参戦していた一部のアメリカ人レスラーが、メキシコ人に対する差別意識から、タイトルマッチ直前の28日深夜に宿泊先のホテルでカネックに暴行を加えていたことなどが発覚している。これらの諸事情が判明したことから、翌1979年4月にカネックは再来日を果たし、藤波のWWFジュニア王座に2回挑戦。以降も常連外国人選手として活躍するなど、敵前逃亡の汚名を返上した。1979年4月の再来日ではMSGシリーズの第2回大会に出場、1981年11月の来日では初代タイガーマスクとも対戦。1983年5月にはIWGP決勝リーグ戦に中南米代表として出場している。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた。1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回。以後、1990年代はグレート・コキーナ、ブルー・ブレイザー、バンピーロ・カサノバ、ヤマト、ブラック・マジック、ミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1992年にはW★INGプロモーションに来日、ミル・マスカラスとの日本における初対決が実現し、マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座とカネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。1995年にはレッスル夢ファクトリーの旗揚げ興行に参戦している。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた。2001年12月23日、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代打として久々に来日し、総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、1ラウンド4分55秒、パウンドでTKO勝ちを収めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AF

カネック - Wikipedia

5位 ザ・デストロイヤー

「白覆面の魔王」

ザ・デストロイヤー

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日本人で「マスクマン」又は「覆面レスラー」と言ったら年配の方はこの「ザ・デストロイヤー」をあげる方が多いのではないかしら?実力があるレスラーながら、日本のバラエティー番組に出演したり、CMにも出演したのわ有名よ。全日本プロレスでの「ジャイアント馬場」没後の引退試合での日本語での挨拶にはあたしも涙したわ。

ザ・デストロイヤーのキャリア(Wikipediaより抜粋)

1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。1964年には7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラーと組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ビル・ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマー・アクション・シリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。その後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。同年12月20日に有明コロシアムで行われた、アントニオ猪木が主催するIGFプロレスリング「GENOME2~猪木 Fighting Xmas~」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止し、会場のファンから大歓声を浴びた。2011年8月27日、『ALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレス』に登場。「デストロイヤー杯争奪 ALL TOGETHER スペシャルバトルロイヤル」の立会人をつとめた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC

ザ・デストロイヤー - Wikipedia

第4位 タイガーマスク(二代目)

「七色のスープレックス」
「虎戦士」

タイガーマスク(二代目)

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あたしにとって「タイガーマスク」はここまでなの。そして、最も哀しい「タイガー」はやっぱり二代目よね。本当にやりたいプロレスが出来なかった事や、作られた「ビジネスタイガー」がのちの悲劇につながって行くと考えるあたしは、肩入れしすぎてるのかしら?もっと彼のプロレスが見たかったわ。

タイガーマスク(二代目)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1984年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦[で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向。1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。翌20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。空中技を多用したことで膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会参戦。なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%A2%E5%85%89%E6%99%B4

タイガーマスク(二代目) - Wikipedia

3位 ブラック・タイガー(初代)

「暗闇の虎」

ブラック・タイガー(初代)

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やはり「タイガーマスク」を語る時に「ブラック・タイガー」を語らない訳にはいかないわよね!それもやっぱり「初代」よ!あの、冷徹さや技の重さは他の「ブラック・タイガー」とは一味違うと思うの。「二代目」も、のちのちの大スター「エディ・ゲレロ」な訳だけどあたしは「ロコ」が大好きだったわ。あ、言っちゃったわ!

ブラック・タイガー(初代)のキャリア(Wikipediaより抜粋)

ドロップキックの名手として活躍した父のジム・ハジーからはプロ入りを反対されていたが、父のツアー中に密かにコリン・ジョイソンのトレーニングを受け、1970年2月25日に英国マットにジョイソンを相手にデビュー。マックス・クラブトリーが運営を引き継いだデール・マーティンズ・プロモーションズを主戦場にヒールのポジションで活動し、1977年にはダイナマイト・キッドと抗争を繰り広げた。1979年9月には "ローラーボール" マーク・ロッコのリングネームで国際プロレスに初来日、阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座に2度挑戦している。1980年から1981年にかけては、当時イギリスで武者修行中だったサミー・リーこと佐山聡と抗争を展開しており、佐山がタイガーマスクとして凱旋後の1982年4月には、覆面レスラーのブラック・タイガーに変身して新日本プロレスに初登場、タイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦した。同年5月6日にはグラン浜田を破り、タイガーマスクの負傷による返上で空位となっていた同王座を獲得。20日後の5月26日にタイガーマスクに敗れ短命王者で終わったものの、以降1980年代は新日本マットを日本での主戦場に活動。アントニオ猪木に頼まれ、ハルク・ホーガンにレスリングの基本をコーチしたこともあったという。1983年8月のタイガーマスク引退後はザ・コブラのライバルとなり、1984年12月28日にはWWFの本拠地ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、コブラとのWWFジュニア王座決定戦を行った。1986年からは地元の英国マットでフライング・フジ・ヤマダこと山田恵一と世界ヘビーミドル級王座を争い、1987年8月には凱旋帰国した山田を追って素顔のマーク・ロコとして新日本に参戦。1989年7月には再びブラック・タイガーに変身し、獣神サンダー・ライガーのIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦した。1990年1月に最後の来日を果たしてからは英国のオールスター・プロモーションズに定着したが、1991年のデイブ・テイラーとの試合で脊髄を負傷、同年のワージングにおけるデイブ・フィンレイ戦を最後に現役を引退した。なお、共にヒールのポジションにいたロコとフィンレイは欧州では頻繁にタッグを組んでおり、1988年6月にはオーストリアのリンツにて、トニー・セント・クレアー&ミレ・ツルノを相手にCWA世界タッグ王座を争った。1989年10月に行われたWWF英国遠征の前座試合にも、揃って出場している。引退後は、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島に居住。英国の各団体にもレジェンドとして招かれてり、2003年2月と2006年8月にはオールスター・レスリングの主催したリユニオン・イベントに登場している。2015年10月3日にレディングで行われたリボリューション・プロレスリングと新日本プロレスの合同興行では、獣神サンダー・ライガーとの久々の再会を果たした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B3

ブラック・タイガー - Wikipedia

第2位 ミル・マスカラス

「仮面貴族」
「悪魔仮面」
「千の顔を持つ男」

ミル・マスカラス

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入場テーマ曲と戦うスタイルが、これほどピッタリなプロレスラーはいないと思うの。「ジグソー」の「スカイ・ハイ」はまさに「マスカラス」の為にある曲よね。(本当は映画「スカイ・ハイ」のサントラ)今までテレビで見ていた「プロレスラー」とは全く違うと、子供心に思っていたのは、あたしだけじゃないと思うわ。「千の顔を持つ男」はあたし達のプロレス感も変えたのかも知れないわね。

ミル・マスカラスのキャリア(Wikipediaより抜粋)

レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区を主戦場に活動し、NWAアメリカス・ヘビー級王座を通算4回獲得。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリングに参戦。初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラ、ミスター・フジ、プロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニアや中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスのキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル(第10回大会)にも出場した。アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツのミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄やローラン・ボックと対戦した。1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代はW★ING、FMW、WAR、みちのくプロレスに来日。2000年2月にはバトラーツ、2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』が製作・公開された。2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEのスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。2016年11月28日、東京愚連隊の後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B9

ミル・マスカラス - Wikipedia

1位 タイガーマスク(初代)

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