
玉の海の不知火型土俵入り
玉の海 正洋(たまのうみ まさひろ)とは?

若き日の玉の海
初土俵から新入幕まで
玉の海本人は、進路については最初警察官を目指していたが、高校進学直前に校長の知人であるカマボコ屋の竹内家の養子となった後、玉乃海太三郎(後の年寄片男波)に勧誘されて二所ノ関部屋に入門。1959年3月場所で初土俵、四股名は玉乃嶋。1963年9月場所で新十両に昇進、1964年3月場所で新入幕を果たし、この翌場所に玉乃島と改名する。すこぶる順調な出世と言わざるを得ない。
ちなみに下記で詳しく説明するが、幕下時代に片男波の独立騒動が発生した際は片男波について行くことを選んだ。独立が承認された時も、玉乃嶋の素質を高く評価していた二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)からは「どうにか連れて行かず残して欲しい」と言われたこともあるという。
片男波親方独立騒動 -部屋独立問題に巻き込まれた現役力士が一時廃業状態に-
幕下まで昇進した玉乃島は1962年7月、片男波独立騒動に巻き込まれる。
1961年(昭和36年)1月場所で引退して、二所ノ関部屋の部屋付き親方となっていた年寄・12代片男波親方(元関脇・玉乃海)は、同年5月に当時の師匠である8代二所ノ関親方に内弟子たちを連れての分離独立を申し入れたが、8代二所ノ関親方が12代片男波の預り弟子たちの移籍に関しては1年待ってほしいと言われたので、とりあえず内弟子の移籍は保留したままの状態で、12代片男波親方は片男波部屋を創設したのであった。
《預り弟子とは引退後独立を視野に入れる関取が現役中から弟子を集め、現在の師匠の下に預け、独立後に引き取る弟子のことである。片男波親方も現役時代から弟子を集め、その数は20人以上となっていた。自分が連れてきた弟子には四股名に自身の現役時代の四股名から「玉」の字を入れていた。》
ところが、1年待っても”弟子”の移籍にうんともすんとも言及しない二所ノ関親方に業を煮やした片男波親方が、62年5月場所直前、弟子に引き揚げを呼び掛け19名がこれに応じた。強硬手段に二所ノ関親方も反発し、関取2名と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名と6名の未成年力士を除いた9名の廃業届を提出してしまった。
本来の手続きは師匠が協会に届けを提出し理事会の承認を得なければならない。しかし、今回の移籍は本来のルールに乗っ取ったものではなかったし、場所直前のタイミングでだまし討ちに近いものを二所ノ関親方は感じたのだろう。
ではなぜ二所ノ関親方は移籍を認めなかったのだろうか? それはまず、20名近くも引き抜かれれば、部屋へのダメージは大きかったことが考えられる。部屋から活気は無くなるし、力士の数だけ協会から支給される力士養成費は部屋の貴重な収入だからだ。それに当時の状況を考えると、二所ノ関親方が移籍を認めなかった本当の理由が見え隠れしていた。
二所ノ関親方は「4名は2年間待つように」と主張した。
二所ノ関親方は1964年の理事長選を目指しており、2年後の選挙での2名の関取に加えそれまでには関取になっているだろう両幕下力士の4票を確保しておきたかったと思われるのだ。(当時は関取以上に投票権があった)。したがい、2名の関取と期待の幕下である玉兜、玉乃島の計4名以外の残り15名については遺跡を認めていたようだったのだ。
さて、土俵に上がれなくなった9名の力士を何とかして救済しようという動きが土俵の内外で活発化し出したが、既に本場所が始まっている状況下で、あの昭和の大横綱だった元双葉山の時津風理事長の仲裁で何とか解決の方向に事が進み、二所ノ関親方が折れる形で本場所5日目にようやく復帰願いが協会に提出され、9日目から復帰が認められた。地位に関しては現地位より10枚下げられ、二所ノ関親方、片男波親方、両親方の謹慎も併せて発表された。
一応の決着は見たものの、現役力士を巻き込んだ大混乱となったのは事実だ。
大関までは順調な出足!! その後がしんどかった!!!
1964年3月場所で新入幕を果たしたその翌年の1月場所から本場所の取組決定方法が系統別《例えば片男波部屋は二所の関一門なので取組相手は二所一門以外から選ばれた》から部屋別総当たり制となり、初日には、初対戦となった同門の横綱で兄弟子だった大鵬幸喜と対戦して勝利した(この一番が部屋別総当たり制を定着させる決定打になったとも言われている)。また、大関昇進までに栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松から2個ずつ金星を獲得し、1966年9月場所に関脇で11勝4敗の成績を上げ、ライバルの大関北の冨士勝明(当時)より1場所遅れて大関へ昇進した。
しかし大関昇進後の1年間は1桁勝ち星が続き、1967年3月場所には7勝8敗と負け越しを喫した(昔も今も大関のていたらくは場所が盛り上がりに欠けるようです。それから、当時は「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度だったため、次の同年5月場所は大関角番とはなりませんでした)。
1967年11月場所に11勝4敗と大関初の二桁勝利を果たして以降、終盤まで優勝争いに加わる好成績を挙げるようになり、1968年5月場所では13勝2敗の成績で、自身念願の幕内初優勝を果たした。同年1月場所と3月場所では連続して12勝を挙げており、同場所後に横綱昇進も期待されたが、横綱審議委員会が相撲協会からの諮問には「時期尚早」との多数意見により反対され、昇進を見送られた。(実際、そのように思っていた人々が圧倒的に多かった記憶があります)
初顔合わせで勝利した大鵬にはその後も大鵬が「精神的に堅くなった」こともあり、一時は3勝1敗とリードしたが、対戦を重ねるにつれて逆に玉の海(玉乃島)が全く勝てなくなり、1965年9月場所から1969年7月場所までは1不戦勝を挟んで16連敗を喫した(最終対戦成績は玉の海の7勝21敗(うち不戦勝1)。他に優勝決定戦で1勝1敗)。大鵬は「玉の海君に上手さえ取らせなければ、左右どちらの四つでも相撲は取れるし、勝てる」と見ており、実際に玉の海が右四つに組んでも左上手が取れず、逆に大鵬が右の差し手からの寄りや掬い投げで玉の海を圧倒した。また、玉の海の大関時代までは大鵬が離れて相撲を取り、玉の海が懐に飛び込むこともできずに敗れる相撲も多く、地力の差を感じさせる内容となっていた。横綱昇進後も玉の海は大鵬に2度にわたり千秋楽に全勝を止められ、最後まで壁として君臨したのであった。
北の富士というライバル出現に奮起する!!「北玉時代」の到来か?!
1969年9月場所では13勝2敗の成績で2度目の優勝を果たしたが、同年11月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で優勝した北の富士と明暗を分ける格好となった。1970年1月場所は「北の富士と玉乃島の横綱争い」というキャッチフレーズが出た。横綱昇進に関して、コンスタントに12勝以上を上げていたライバルの北の富士は「12勝の準優勝で横綱になれる」と言われており、成績に少々むらがあった玉乃島(玉の海)に関しては「ともかく13勝をやることだ。過去2回も惜しいところで見送られた実績がある。審議会の中にもこの点で同情している人もいるじゃないか」と救いの手を差し伸べる意見が見られた。この場所も中日までに2敗したため、その時点では綱取りは駄目かと思われたが、残りをすべて勝って13勝2敗の成績を挙げた。北の富士との優勝決定戦には敗れたが、場所後に2人が揃って横綱に推挙され(審議委員会の評価では玉の海が上だったようだ)、「北玉時代」の到来と言われ始めた。横綱土俵入りは当時から後継者の少なかった「不知火型」を選択、土俵入りの指導は大鵬が務めた。因みに北の富士の土俵入りは「雲竜型」であった。これ以降、性格が正反対の玉の海と北の富士は良き友になり、互いに「北さん」「島ちゃん」と呼び合う間柄になった。

玉の海に土俵入りを指導する大鵬
ついに大横綱の道を歩み始める!!
新横綱になった1970年3月場所から、師匠である片男波の現役時代の四股名である「玉の海」を継いで玉の海 正洋と改めた。昇進伝達式では、本来「謹んでお受け致します」と言うべきところを「喜んでお受け致します」と言ってしまい、こうした経緯から当時は「現代っ子横綱」と呼ばれることが多かった。
横綱昇進以後、横綱3場所目(1970年7月場所)で9勝6敗の他は毎場所優勝を争い、12勝3敗も2場所のみ、1970年9月場所から4場所連続で14勝を挙げ、このうち3度は優勝している。大鵬とは連続して14勝1敗同士の優勝決定戦を行い、大鵬最後の優勝(通算32回目)を許した1971年1月場所には「何のこれしき。(自分が)弱いから負けるんだ」と発言して再起を誓った。地元名古屋での7月場所には念願の全勝優勝を果たし、多くの識者から「まもなく北玉時代から、玉の海独走時代になる」とも期待され、昭和の大横綱・双葉山の再来とまで呼ばれるようになった。
悲劇は突然に!!
全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に急性虫垂炎を発症、俗に言う”もうちょう”である。夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要だった。
しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えていたため、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなるため、痛み止めの薬を刺し続けながら9月場所に強行出場した。この場所ではさらに肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げているが、これが結果として玉の海の生命を縮めることになってしまったようだ。
1971年10月2日の大鵬引退相撲では、最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川健次の引退相撲にも出場した。
出場後直ちに虎の門病院へ入院して虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日に退院する予定だった。なお、この時点で11月場所の出場に関しては未定だったこともあり、本人も「退院後すぐに(相撲)は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたという。
ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然「苦しい」と右胸部の激痛を訴えてその場に倒れた。その時、既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく11時30分に死亡が確認された。27歳没。
その急逝後、玉の海の遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では術後の肺血栓)であることが判明し、特に右の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。玉の海のような力士体型(肥満体)の人間が、手術後に血栓症を発症しやすいのは現代では常識であるが、その当時はあまり知られておらず十分な予防策も取られていなかったものと考えられる。これから全盛期を迎えようとするのは確実だっただけに、誰もがその死を惜しんだ。
玉の海の死因は「エコノミークラス症候群」とも密接な関係!!
玉の海の死因は「心筋梗塞」と発表されたが、病理解剖により「肺塞栓症(肺血栓塞栓症ともいう)」とわかった。
肺塞栓症は、心臓から肺へ血液を送る血管(肺動脈)に血栓が詰まる病気だ。詰まる血栓は、心臓や肺でできるのではない。脚の静脈の中でできる。
安静時に脚の静脈にできた血栓が、立ち上がって歩いているとき、血管からはがれて血流に乗り、心臓へ飛び、肺動脈に流れ込む。大きな血栓だと、肺動脈に入ったとたん詰まってしまい、突然死(発症から24時間以内の死)を招く。玉の海のように─。小さな血栓でも、肺動脈は枝分かれしながらだんだん細くなっていくので、どこかで引っかかり、呼吸困難が生じる。
同じことは長時間、飛行機などの座席に座り続けたときにも起こる。「エコノミークラス症候群」がそれだが、この名称は実態にそぐわない。ロングフライト症候群とか、旅行者血栓症と言い換えるべきだという意見もある。ビジネスクラスや長距離バスの乗客などでも頻発しているからだ。
しかし、肺塞栓症が最も起こりやすいのは手術や出産のあとだ。予防策として、手術や出産前に脚の血行を促進する弾性ストッキングをはき、血液の凝固を防ぐ薬が投与される。手術の前に医師の説明を受けるときは肺塞栓症の対策も聞いておこう。
長時間旅行の機内、車内では水分(ただしアルコール以外!)の補給と、足の運動(脚の曲げ伸ばし、足首を動かす)をひんぱんに─。

医療用弾性ストッキング
玉の海の急死により、相撲界には”ディープ・インパクト”が襲う!!!
話しが逸れてしまったが、玉の海の急死は当時の相撲界にとって「関東大震災」クラスの大きな衝撃と波紋を与えたに違いない。玉の海は多少の病気や怪我をいとなわない性格で横綱の責任感で土俵を務め上げた。その証拠に入門以来、ただの一日も休場がない。その責任感が体に疲労を起こし、死に至ったという声も少なくない。現在、公傷制度というものがあるが、その設立のきっかけが玉の海の死が原因とも言われている。ライバル力士に与えた影響も大きく、特に北の富士は玉の海の死をきっかけに土俵への情熱が薄れ、以後好成績を残すことが少なく3年持たなかった。代わりに輪島・北の湖といった若手力士がスピード出世で横綱まで駆け上がったが玉の海が健在だったら状況は大きく変わった訳で、その意味で玉の海の死は相撲の歴史を大きく塗り替える衝撃的な出来事だったのである。