「平成の怪物」武双山
1993年1月場所に初土俵を踏むと、2場所連続7戦全勝で十両に昇進。
その十両も2場所で通過し、1993年9月には新入幕。昇進が早すぎて大銀杏が結えず、この時はまだ丁髷で本場所に出場していた。
そのスピード出世から「平成の怪物」との異名を取り、将来の大関、横綱候補に名乗り出た。
同時に同い年(学年は一つ下)の貴ノ花(当時、のち貴乃花)や外国出身初の横綱・曙らのライバルに成り得る存在として期待された。

武双山
1994年9月場所では、当時大関だった貴ノ花と最後まで優勝を争い、13勝2敗の優勝次点となった。
大関取りへの期待が膨らんだが、場所前左肩の亜脱臼のケガによる稽古不足が影響して、7勝8敗と初の負け越しとなってしまう。
また、この左肩の故障が現役中の武双山を常に苦しませることとなる。

手形
1995年1月場所は小結で迎えた。初日に新横綱となった貴乃花を下し、連勝記録を30で止める殊勲の星を挙げた。
しかし、6日目の貴闘力戦でまたも左肩を脱臼してしまい、途中休場に追い込まれた。
その後も左肩脱臼の再発に悩まされ、さらに足の親指の負傷など怪我が重なり、大関候補と言われながら6年もの間伸び悩んでいく。
それでも、1996年3月場所には関脇の地位で12勝の好成績を残し、受賞者自体1年ぶりとなる技能賞を獲得するなど存在感は示した。
幕内初優勝!大関昇進!!関脇陥落・・・再昇進!!!
2000年1月場所では、千秋楽に魁皇(当時関脇)を下して13勝2敗、関脇の地位で念願の幕内初優勝。そして翌3月場所でも12勝3敗の好成績を残し、ようやく遅咲きの大関昇進を果たすことになった。
伝達式での口上は「謹んでお受けいたします。大関として常に正々堂々、相撲道に徹します」だった。
しかし、新大関で迎えた5月場所を腰椎椎間板障害で全休。大関角番で臨んだ7月場所は4勝11敗と大きく負け越し、大関在位わずか2場所で関脇に陥落。現在の制度での最短在位という不名誉な記録を残した。
それでも関脇に陥落した直後の9月場所で、千秋楽に勝利して10勝5敗、大関特例復帰規定に達して1場所で大関に返り咲いた。奇しくも師匠の武蔵川(元横綱・三重ノ海)も大関から関脇陥落後に、1場所で大関復帰を経験している。

「大相撲カードレジェンド 至宝」武双山
1999年に大関になった力士に千代大海がいる。武双山との取り組みは、互いが大関となる以前から壮絶な突っ張り合戦になる事が多く、意地と意地がぶつかり合う名勝負と言われた。
最終的な幕内対戦成績は、武双山の14勝10敗(内、1不戦敗)だった。

千代大海
大分の悪童・千代大海!金髪で九重親方に入門志願するも一喝された! - Middle Edge(ミドルエッジ)
現役引退
2001年3月場所には大関・魁皇らと優勝を争い、千秋楽に魁皇に敗れたものの12勝3敗の優勝次点という好成績を残した。
しかし、以降は大関の地位を保つのがやっとの成績で、大関角番を繰り返した。その原因はやはり左肩の脱臼が大きく影響し、素質をもってすれば横綱への昇進も夢ではなかったが、ついに果たすことはできなかった。
そして、2004年11月場所に引退する。この場所は初日から3連敗するなど、本来の力を発揮できず、大関の地位で現役を引退した。

2004年頃。4度目のかど番を迎えた武双山
父・尾曽正士によるスパルタ指導は相撲版「巨人の星」と呼ばれた!
父親の尾曽正人は、茨城県相撲連盟理事長というアマチュア相撲の大御所であり、アマチュア選手として国体に10回以上出場した経験を持っていた。
小学4年生の時、父に「相撲を教えてほしい」と頼んだことから、厳しい特訓の日々が始まった。
父は息子の熱意を確かめるべく「腕立て伏せ30回毎日やり通したら教えてやる」と条件を出し、1か月やり通した息子に指導を行うことを決めたという。

武双山
「水戸尾曽相撲道場」では柔軟体操から始まり、腕立て伏せ、四股踏み、バスケットボールの中にコンクリートを詰め込んだ特製のボールを抱え200回の屈伸運動、すり足で200m、そして四股を踏んだ体制でのうさぎ跳び。
朝稽古が終わった後の6時半には例として牛乳2本、野菜ジュース、チーズ4個、目玉焼き2個、ステーキ2枚、焼き魚たっぷり、生野菜とおひたしをボウルで山盛り、ご飯2膳という食事を父が自ら作って用意。大げさに”畳二畳分”とも言われる量を食べきらなければ学校に行くことは許されなかった。
また、昼食も父が用意した二段重ねの特大弁当を持たされた。さらにそればかりかカルシウム補充の目的でポケットには煮干しもねじこまれたという。食事を食べ終わるのが1時間かかるため、集団登校には間に合わず、いつも1人で登校した。
そして、夕方4時半からは実際に廻しをつけ、自宅の庭に用意された土俵に上がっての稽古を行い、仕上げにタイヤを積み重ねた重さ100kgの「ぶちかましマシーン」を6m動かす稽古を30往復課された。

引退した武双山の断髪式に父・正人も参加した
こうした相撲漬けの生活から相撲版「巨人の星」と呼ばれたが、5つ上の姉は「やっていることは、虐待と変わらない」と父の徹底指導を腹に据えかねて猛抗議したことがあり当の父も「できることなら投げ出してほしい」と内心で願っていたという。
しかし、当の本人は友達と遊んでいても、夕方4時半には帰宅し、特訓をこなした。それは家族旅行先でも変わらず、黙々とメニューを消化したそうだ。
武双山は後年、こう述懐している。
”学校から家に帰るのが嫌な時期もありました。
道場だったら休めるけど、家だから帰らないわけにはいかない。
でも、親父は試合で勝つとおもちゃを買ってくれたり、
稽古の時も褒めてくれたりするので、それが嬉しかった。
(中略)
僕はそれに、上手く乗せられちゃったのかも。”
(nishi19 breaking newsより引用)
こうして、小学校4年生で、身長143cmの体重37kgと他の子供と比べると小さく、あぐらもかけないほど柔軟性に欠けていたという少年は、後に身長184cm、体重177kgとなり、「平成の怪物」と呼ばれるまでに成長することになった。

武双山
変化をしない力士!真っ向勝負あるのみ!!
現役時代には一切変化しない力士として知られており、本人も変化に対しては「相撲道はただの勝ち負けを争うものではない」として厳格な立場を取っている。
アマチュア横綱を獲得した専修大学時代。
1年の時、鷹巣大会の団体準決勝、同志社大学との一戦で「どうしても勝ちたくて」生涯唯一の立ち合いの変化をしたという。しかし、「あと味が悪くて、うれしくなかった」とその夜は眠れなかったそう。

武双山
現役時代、出足を活かした押し相撲、引かずに常に前へ出る取組をみせた武双山。不調の際も、駆け引きをせず、真っ向勝負の相撲は真面目な人柄をも垣間見せた。また、その姿勢にファンは魅せられた。
武双山本人は変化について「勝負に対する執念かもしれない。反則じゃないから、やったって構わないんですよ。個人の相撲道の違いじゃないですか」「価値観ですから。私は、変化は汚い手段だと思ってますから。技術の1つだという人もいる。私は胸を張れる相撲を取りたかった。(変化すると)勝った後も評価が変わってくるんじゃないですか? 自分が胸を張れないでしょう」と述べている。
また、度重なる怪我に苦しんだ現役生活だったが、決してそれを負けの言い訳にしない点にも、武双山の美学を感じることができた。
大関・魁皇とは最大のライバルであり、親友
学年は武双山が一つ上であるが、同じ1972年生まれの元大関・魁皇とは最大のライバルであった。そしてまた大の親友同士でもあった。
その魁皇とは武双山が現役引退した2004年11月場所まで、幕内在位場所数(68場所)が一緒だった。
2004年11月場所3日目に武双山から引退を聞かされた時の魁皇は、ショックの余り「言葉を失った」と言い、武双山は2011年7月場所限りで現役引退した魁皇から電話で「武双山がいたから俺も頑張れたよ」と告げられたという。
魁皇は自身の思い出の一番に、2000年1月場所千秋楽で武双山に敗れ幕内初優勝を献上した取組を挙げ「その時の悔しさがあったから、大関に上がれた」とコメント。一方の武双山は「相手を気遣う気持ちが魁皇らしい。一緒に刺激し合った特別な存在だから、寂しくなるし残念だ」と、かつてライバルの引退を惜しんだ。

魁皇
2001年5月場所、「感動した!」で有名な貴乃花の優勝。怪我をさせたのは武双山だった
2001年5月場所、武双山は初日から13連勝の貴乃花と対戦。
貴乃花は左差し右上手を引きつけて投げの体勢を取るが、一枚廻しの状態の武双山は崩れず、最終的に武双山が土俵際で貴乃花を巻き落としで下した。
貴乃花は落ちた際に右膝半月板を損傷する重傷を負ってしまった。
歩行も困難な状態であり、休場すべき重症であった。取組後の夜に貴乃花は師匠の二子山(元大関・貴ノ花)から休場勧告を受ける。
しかし、貴乃花は千秋楽に強行出場し、結びの一番で武蔵丸と対戦した。
右膝にぐるぐると巻かれたテーピングから怪我の深刻さが伝わってくるほどで、本割では案の定、武蔵丸にあっけなく敗れてしまう。
だが、13勝同士で武蔵丸と戦った決定戦では大方の予想を覆し、豪快な上手投げで勝利した。この優勝劇は、当時の内閣総理大臣である小泉純一郎が「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と興奮気味に内閣総理大臣杯を手渡したシーンでも有名である。
しかし、この怪我を押しての出場の影響から、貴乃花は以降7場所に渡って休場を余儀なくされ、結果的にこれが最後の優勝となった。

武双山が貴乃花を巻き落としで破ったシーン

優勝を決めた瞬間の貴乃花。まさに勝負師・鬼の形相だった
一方で武双山は一部の相撲ファンから「貴乃花が怪我をしたことに武双山のユルフンが関係している」と批判され、場所直後の読売新聞の記事には「ケガの一因が、武双山の緩く締めたまわしにあった」と明記されていた。
実際には武双山に限らずユルフンの力士は当時の土俵上で珍しくなく、ユルフンが戦略として蔓延していることも同じ記事の上で問題になっていた。そして、武双山の場合は腰痛が原因できつく締められなかったという経緯もあった。
大相撲【曙vs若貴】この対戦がとにかくアツかった!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
個人データ、生涯戦歴
四股名:武双山 正士 (引退後は藤島親方)
本名:尾曽 武人
所属:武蔵川部屋
最高位:東大関
1972年2月14日生まれ。 茨城県水戸市(出生地は勝田市、現在のひたちなか市)出身
身長:184cm、体重:177kg、BMI:52.28
得意技:突き、押し、突き落とし、巻き落とし、左四つ、寄り

武双山、最後の番付
【生涯戦歴】 554勝377敗122休/921出(72場所)
【幕内戦歴】 520勝367敗122休/877出(68場所)、1優勝、4準優勝、4技能賞、5殊勲賞、4敢闘賞、2金星(曙1個、貴乃花1個)
【優勝】 幕内最高優勝1回、幕下優勝2回
【賞】 殊勲賞5回、敢闘賞4回、技能賞4回
エピソード
・タモリ倶楽部の大ファンで、空耳アワーやボキャブラ天国に投稿し採用された。弟弟子にも書かせていたらしい。なお、敷島(元前頭)も空耳アワーに採用されたことがある。
・現役時代は、所ジョージとも親交があり、所が司会を務める番組によく出演していた。特に、場所中でない限りは1億人の大質問!?笑ってコラえて!によくゲスト出演していた。
・現役時代から大のプロレスファン(プロレスマニア)としても有名。ノア所属の元プロレスラーだった力皇猛(元前頭4枚目・力櫻。現・ラーメン店経営者)とも仲が良く、力皇のプロレスデビュー戦では、親友の魁皇と共に応援に駆けつけている。
・最初は武双海と名乗ったが、海という名は自分には似合わないとして武双山と変えたという。武双海の四股名で書いた色紙がごく少数ながら存在するらしく、貴重品であると大相撲中継の解説で話題となったこともある。

2015年頃の無双山(藤島親方)
変化しないパワフルな押し相撲が魅力だった武双山。その源に小学生時代に猛特訓で磨かれた精神力と体力があるのだろう。
現在は稀勢の里がガチンコ相撲で有名だが、そういった力士がどんどん出てきて欲しいと好角家の方々は思っているのではないだろうか。
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