ホームランキング 王貞治の1本足打法   Flamingo Style Butting of Homerun King Sadaharu Oh.

ホームランキング 王貞治の1本足打法 Flamingo Style Butting of Homerun King Sadaharu Oh.

王貞治の澄んだ瞳と誠実さは尋常ではない。 個性とバカ話が渦巻く野球界にあって、ひと際、異彩を放っている。 しかし単なるお人好しじゃない。 鉄拳制裁や、、道場通い、刀を握っての練習などは、まさに鬼の所業だった。 三振王からホームラン王に、さらに世界の王となった現役時代の王貞治の軌跡を、一本足打法を中心にまとめてみました。


王のストーリー Story of the King

荒川博との運命的な出会い

プロ野球選手:荒川博が、犬を散歩させるために歩いていると、公園で子供たちが野球をやっていた。
その中に中学2年生にして176㎝もあった王貞治がピッチャーをしていた。
荒川は、左投げなのに右打ちをしていた王に、左で打つようにアドバイスした。
すると王はいきなり快打した。
王は、荒川の指導の的確さに驚き、荒川は、王の才能と、何よりその素直さに感心した。

三振王

高校受験で進学校に落ちた王は、
「野球をやろう。」
と早稲田実業に進学した。
早実は、荒川の母校で、進学を薦められていた。
そして高校1年生の時に外野手兼控え投手として夏の甲子園出場。
1年生の秋よりエースとなり、2度目の甲子園(春の甲子園)で優勝。
2年生の夏の甲子園2回戦で、延長11回を完投しノーヒットノーランを達成。
3年生の春の甲子園で2試合連続本塁打。
しかし最後の夏の甲子園では、東京都大会決勝戦で負けてしまった。
それまで大学に進むことを決めていた王だったが、この敗戦が影響し、プロ野球に進むことになった。

1959年、王は、鳴り物入り(契約金1800万円、年俸144万円、背番号「1」という破格の条件)でジャイアンツに入団。
しかしわずか2週間後、監督から
「お前はピッチャーとして大成しない。」
と引導を渡され、前年、引退した打撃の神様:川上哲治の後を継いで、一塁手となった。
1年目は、7番打者として、打率:161、ホームラン:7、三振:72。
三振が多いため、「三振王」といわれた。
成績は悪かったが、練習の球拾いをしていたとき、破れたボールを自分で糸を買って修繕したことが球団に評価され、2年目の年俸は、140万円から160万円にアップした。
その2年目(1960年)は、打率:270、ホームラン:17、三振は101。
相変わらず三振は多かったが、オールスターゲームに選出された。

3年目(1961年)、川上哲治が監督に就任。
「王は、3割、25本は十分打てる素質がある。」
という川上監督の期待に応えることはできず、王は打率:253、ホームラン:13。
この年のシーズンオフに荒川博は現役を引退。
そして打撃コーチとして、ジャイアンツのユニフォームを着ることになった。
ここから荒川と王は、2人で練習をし始めた。
通常の練習後、また試合後、そして休日でさえ、東京都新宿区早稲田の荒川の自宅で毎日バットを振る「荒川道場」が始まった。

初めての一本足打法で、いきなり大ブレイク

4年目(1962年)、川上監督は、開幕戦で王を4番にした。
しかし王は極度の不振に陥り、チャンスでは代打を出されることさえあった。
6月30日も、2打席2三振を喫したところで、王は他の選手と交代させられた。
試合が終わった後、王は、いつものように荒川の車に乗り、早稲田鶴巻町の荒川の家に行き、練習を行った。
2人はもう半年以上前からいろいろとやってきたが、なかなか成果は出ていなかった。
特にそのとき王は、ピッチャーの投げるボールに差し込まれて、打球がつまってしまっていた。
荒川はいった。
「明日の試合では、ピッチャーが足を上げたら、こちらも足を上げよう。」
このように当初、1本足打法は、王の欠点を克服するためのものだった。
そして7月1日、1本足に替えた試合で、王はいきなり5打席3安打4打点。
ただ王がフォームを変えることが珍しくなかったため、翌日の新聞は、1本足打法についてほとんど報じなかったが、その後も王が立て続けにホームランを打ち始めて、
「そういえば変な打ち方している」
と騒がれ始めた。
4~6月にかけて9本だったホームランが、7月だけで10本を打った。
左足だけで立つ1本足打法は、タイミングの取り方が難しいが、当たると桁外れの打球をかっ飛ばした。
ホームランも、フライでフェンスを越えるのではなく、ライナーで一気にいってしまうような打球になった。
このシーズン(1962年)の王のホームラン38本、打点は85で、それぞれのタイトルを獲得した。
そして5年目(1963年)は、ホームラン40本。
6年目(1964年)には、ライト方向への打球が多い王に対して、ライト寄りの守備態勢:王シフトがしかれたが、王は4打席連続ホームランを含む、55本のホームランを放ち、年間最多本塁打を記録し、名実ともにホームラン王になった。
その後も王は、ジャイアンツの主砲としてV9に貢献し、868本のホームランで世界記録を樹立。
頂点を極めた。

1本足打法 Flamingo Style Butting

荒川博と王貞治が行った数々の練習

1961年の秋、毎日オリオンズの選手だった荒川博は現役の引退し、ジャイアンツの打撃コーチとなった。
そして久々に王のバッティングをみて、その崩れに驚きつつも、この悪いフォームで、打率:253、ホームラン:13という成績を出せる素質に感心した。
まず荒川は、王に毎日200~300本、素振りをさせた。
バットがシャープに、また箸のように自由自在に振れるようになることを目指した。
やがてその数は増えていき、素振り練習をする部屋の畳は擦り減り、ささくれ立った。

ダウンスイング

野球のバットスイングは、大きく
・レベル(水平)スイング
・アッパー(振り上げ)スイング
・ダウン(振り下ろし)スイング
の3つに分けることができる。
当時の野球は、アッパースイングがよいとされた。
しかし荒川はダウンスイング主義者だった。
重いバットを振るとどうしてもバットの先は下がっていく。
その力を利用するために、ボールを上からみるように構えて、バットはトップからボールまで最短距離で振り下ろすのである。
王は、レベル、あるいはアッパースイングだったが、ダウンスイングに矯正された。

巌の身

荒川は、バッターボックスに立ったとき、巌の身になるよう指導した。
「巌の身」とは、
宮本武蔵の剣の極意で、
「岩尾の身と云うのは、動くことなくして強く大きな心」
「磐石のごとく成て万事当たらざる所、動かざる所」
だという。
王は、この動かざる姿勢を練習した。

軽く、柔らかく、逆らわず

スタンスは球道と平行に立つ。
前(右)肩は、下げすぎず、かつキャッチャー側にねじり過ぎないように。
右手は、軽く、柔らかくバットを持って、十分、後方にに引かれているように。
そしてボールが来たら、手で打つのではなく、ボールを引きつけて腰で打つ。
このように
「球道に逆らわず、打つことがバッティングの真髄。」
と荒川は指導した。
王のスタンスは、内角に対抗するために開き気味だったが矯正され、バットの握りも固かったが、傘を持つように軽く、柔らかくした。

ノーステップ

バッティングは、十分な体重移動がなければスイングできない。
体重は、最初は後ろ足へ、それから前足へ移動する。
一般的に、ロングヒッターほど、この体重移動が大きく、スイングも大きい。
まだ2本足打法だった王に、荒川はノーステップ気味にするように指導した。
ボクシングや剣道では、短い距離で攻撃が繰り出され、それに対応する。
それと同じように、瞬間的にボールが来たら、瞬間的に自然に打つためステップを指導した。
王も、それまでタイミングをとって打っていたが、力まず軽く、そして気は抜かずに構えた。
そのスタンスは狭くなった。
1歩足打法は、2本足で立っている姿勢から、1本足になる。
2本足から1本足になるときに体の移動があり、その移動の時にスタンスが広ければ広いほど1本足になるときに姿勢が崩れやすい。
だからスタンスは狭い方がよかった。
ピッチャーが、どんなタイミングで、またどこに投げても、王は、いつでも打てる姿勢で待って、いつでも打てるようなフォームを目指した。

「間」「気」

合気道の創始者:植芝盛平は、「間」について、
「間なんていうものは必要ない。
あるべきでもない。
合わすべきでもない。
相手があると思ってはいけないし、相手があるとしたら掌握しなければならない(相手と感じてはいけない)。」
という。
現役時代、荒川は、長年、合気道の稽古を続けた。
その鍛錬の中から得た「間」と「気」を、バッテイングに応用した。
そして王に「間」と「気」について
「打球が来たら打てばいい。」
と指導した。

合気道

荒川同様、王も実際に合気道の道場に行き、稽古を行った。
合気道の基本を学び、相手の力を使う(投手がボールに与えた力をうまく利用する)ことや、「気」をバッティングに応用していった。
力任せにバットを振るのではなく、ピッチャーが球に込めた力を利用してボールを弾き返すほうがより強い打球が打てた。
また「気で打つ」といって、臍下丹田(ヘソの下10㎝辺り)の1点に気を集中し、球が来たら体全体でボールを打った。

短冊に切った新聞紙を天井からぶら下げ、1㎏を超える日本刀で斬る練習も行った。
これは一見、かんたんそうだが、実際は非常に難しい。
無駄な力を抜いて、間合いと角度がピタリと合わせ、肘を絞り、真っすぐに斬らないといけない。
また「切っ先三寸」といって、刀の先端が活きていないと切れない。
これはバットのヘッドを走らせることに通じ、またボールを叩くのではなくボールを切ってしまうようにボールの中心に力を貫通させるような感覚が身についた。

王のエピソード Episode of the King

江夏豊

江夏豊は、シーズン353奪三振を王から奪い、そこからわざと8人は三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪った。
王と江夏の大戦は、常に直球vsフルスイング勝負だった。
約250回の対戦で、王から最も三振を奪ったのが江夏であり、江夏から最もホームランを打ったのは王だった。
そして死球は1回だけだった。

ON砲

王貞治と長嶋茂雄の巨人の2枚看板は、「ON砲」と呼ばれた。

OH砲

張本勲とのコンビは、「OH砲」といわれた。
王と張本は同い年で、「親友」ではなく「心友」の仲である。

王シフト

広島の白石勝巳監督が、初めて対王貞治守備体系「王シフト」を行った。
王の打球は、ライト方向に集中していることから、野手6人をライト側に守らせた。
しかし王は動じることはなくバックスクリーンの右へホームランを叩き込んだ。

バッキー荒川事件

阪神のジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、王はバッキーに詰め寄った。
そして荒川がバッキーと乱闘。
2人が退場となった。
更に交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。
その後、長嶋が権藤からレフトスタンドに3ランを叩き込んだ。
王は頭部陥没骨折の重傷を負ったが、懸命の治療で大事に至らず、2試合欠場しただけで復帰。
復帰した試合では2本の本塁打を放った。
バッキーは荒川との乱闘で、指を骨折し、投手生命を絶たれた。

868号

かつてはベーブ・ルースの通算714号がホームランの世界記録だった。
1974年にハンク・アーロンが、715号を放ち、その記録は引退までに、755本に伸びた。
1977年8月31日、王はアーロンに並ぶ755号を放ち、引退までに、868本まで記録を伸ばした。
1本足打法は、アメリカでは「フラミンゴ打法」といわれた。
1970年の日米野球では1試合2本のホームランを放ち、敬遠さえされた。
1976年には、アメリカのスポーツ雑誌:スポーツ・イラストレイテッドに、日本のプロ野球選手として初めての表紙を飾った。
一方、日本では「世界のホームラン王」だったが、世界では「Japanese homerun king Sadaharu Oh.」といわれ、あくまでも日本のホームラン王だった。
その理由は、日本の球場の狭さにあった。

868号を放ったバットは、徳光和夫が所有している。
徳光はそのバットが868号を打ったバットとは思わずに、自宅で青竹踏み代わりに使っていた。

鉄拳

あるとき、試合のため来ていた名古屋の宿舎でのことである。
そのときチームの調子が悪く、選手たちは、自主的に遊びを自粛しようということになった。
だからその夜、外出したのはわずかだった。
堀内恒夫もその中にいた。
堀内は、門限の1、2分前に帰り、玄関で
「俺は門限を破らなかったぞ!」
と大声で言った。
そしてその後、ロビーで長電話を始めた。
現在のようにホテルではなく、3階建ての旅館だったため、堀内の話し声は館内に響いた。
『いい加減にしろ』と、舌打ちや咳払いをする者もいた。
やがて
「俺がいってくる。」
といって立ち上がった先輩を王は止めた。
「いや、私が行ってきます。」
そしてロビーに降りていき、堀内の電話が終わるのを待った。
そして堀内が受話器を置いた途端、胸倉をつかみ、大部屋へ引きずり込み、いきなり殴った。

野村克也

野村克也と王が偶然、銀座で会って、一緒に飲んでいたとき、王は、
「荒川さんと練習があるから失礼します。」
と帰ろうとした。
引き止めても行ってしまった王をみて野村は思った。
「いつかこいつに抜かれるなあ…」

松井秀喜

松井秀喜の背番号「55」は、王の年間最多ホームラン記録:55本に因んでいる。

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