チャンピオンベルトを巻かれた力道山がリング上で歓声に応えていたとき、リングサイドで観戦していた大山倍達が怒り叫んでいた。
「おのれ!
リキドウ!
許せん。
ブッ殺してやる。」
大山倍達は、木村政彦を「昭和の宮本武蔵」と尊敬し、武の道の先輩として慕っていた。
また以前、雑誌の企画で力道山と対談したとき、記者の要望で、腕相撲を行った。
この腕相撲もお互いの顔を立てるために引き分けにしようというものだったが、記者のカメラのシャッターが切られた瞬間、力道山は急に力を入れ勝ってしまったという。
そして再び目の前で力道山は同じ手を使って勝った。
純粋な強さを追い求めて生きる大山倍達にとって、許せないことだった。
控室に戻った力道山は記者団にいった。
「リングに上ってから2度も木村は引き分けでいこうといった。
自分から挑戦しておきながらこんなことをいうのはとんでもないことだと思った。
・・・
首を絞めたときフォールできたが、このときも木村はやめてくれといってきたので離れた。
その直後、彼が僕の急所を蹴ってきたのでしゃくにさわり遠慮していた空手チョップを用いてあのように叩きのめす結果になってしまった」
それに対し木村政彦はこう答えた。
「力道山は、僕が引き分けようといったという話だが、そのようなことをいったとしたら彼の心理状態を疑いたい。
この試合で力道山も大した技もなかった。
そもそもこの試合をやる前にプロレスのルールの範囲内でフェアプレーでやるようにお互いに証文を入れ、日新プロの中川氏に渡してあるわけだ。
それだから私としては引き分けにしてくれなどスポーツマンシップに反するようなことはいわない」
その夜、力道山は自宅で、弟子3人にライフル銃を渡し、襲撃に備えた。
東京でのシャープ兄弟との3連戦だけで2500万円、その後の地方の試合の利益を入れると7000万円以上、現在でいえば数十億円の利益が出たという。
一夜で大金が動く興行にはヤクザが絡んでいることは多い。
力道山は木村政彦のバックにいるヤクザ組織の報復に備えたのだ。
結局、その夜は誰も来なかったが、力道山自身も寝ずに恐怖の一夜を明かした。
翌日、力道山は木村政彦から受け取った念書をマスコミに暴露した。
これが大きな記事となって、世間を震撼させた。
木村政彦は、その輝かしい格闘技人生に大きな汚点をつけられた。
力道山は大阪で全日本プロレスの山口利夫の挑戦も退け、名実ともに日本一となった。
木村政彦と山口利夫はその後もプロレスを続けたが、やがて消えていった。
国際プロレス団と全日本プロレスが消滅した後、力道山の日本プロレスが日本に君臨した。
プロモーターとしても一流
ザ・デストロイヤー
力道山は、海外からレスラーを呼び、試合の組み合わせを考え、自らもリングに上がり血と汗を流し戦った。
しかし収益の多くを新田新作社長に持っていかれた。
例えば、木村政彦との試合では数千万円がプロモーターに入ったが、プロモーターから力道山と木村政彦には2人合わせて150万円しか出ない。
7000万円以上、利益があったシャープ兄弟との試合でも、力道山には1試合10万円で2週間分の140万円。
それにアメリカでの交渉など手間賃として10万円が上乗せされた。
大相撲時代のタニマチであり、自らマゲを落とした後の就職先の社長であり、日本プロレス社長だった新田新作が50歳で亡くなった後、力道山はリングのヒーローだけではなく、経営や興行も行い始めた。
プロモーターとしても力道山は一流だった。
自分がリング上で叩きのめした外人レスラーにはその夜、特別に接待した。
フレッド・ブラッシー
ザ・デストロイヤーは、覆面を外していることを力道山に注意されてから、日本にいるときは空港を通るとき以外、いつも覆面をした。
銀髪を振り乱して相手に噛みつく吸血鬼:フレッド・ブラッシーは、その試合をみた人を8人もショック死させた。
彼はヤスリで自分の歯を研ぐというパフォーマンスを行ったが、これを考えヤスリを彼に渡したのは力道山だった。
198㎝、240㎏のグレートアントニオには、バスを4台を引っ張るパフォーマンスを行った。
これも力道山のアイデアで、実は緩やかな下り坂で行った。
リキスポーツパレス
リキスポーツパレス
街頭テレビでシャープ兄弟戦が写し出されてから3年後。
全国で5万台だったテレビは、100万台が普及した。
そしてプロレス中継が始まった。
視聴率は87%に達した。
1世帯が1ヶ月3万円で暮らしていた時代に、力道山の1試合のギャラは250万円だった。
力道山の故郷がある朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争のためにアメリカ軍が、様々なものを発注し日本は好景気だった。
力道山は、プロレスラー、プロモーターに加え、リキアパート、リキマンション、リキスポーツパレスを建設し実業家にもなった
リキスポーツパレスは、東京都渋谷区大和町76(現:道玄坂)にあった。
地上5階、地下1階。
1階はトレーニング場。
2階はリングが設置された試合場。
その他にもサウナ、レストラン、ボウリング場などがあった。
エディ・タンゼント
トレーニング場は、昼間はプロレスラーが使い17時からリキボクシングジムのボクサーが使った。
力道山の進出にボクシング界は拒否の空気が強かった。
力道山は、重量級のボクサーを育てたかった。
ボクシング界は、ボクシングのイメージダウンと興行を引っ掻き回されたくないという懸念があった。
全日本ボクシング協会の本田明会長は、東日本を取り仕切って睨みをきかせる大親分:住吉連合の阿部重作会長を仲介人にして力道山と手打ちを行った。
力道山はただのオーナーとして背後に回りあまり表に出ないことなどを約束した。
後にリキボクシングジムには、エディ・タンゼントがハワイから呼ばれ、藤猛という世界チャンピオンを輩出した。
力道山の弟子のしごきはすごかった。
それはトレーニングだけでなく私生活にもおよび、ウィスキー1本を一気飲みさせ、飲めないと殴った。
そして自ら飲んでみせ、飲み干したコップをバリバリと嚊んで食べた。
弟子も仕方なく口の中を血だらけにしながらガラスを噛んで砕いて飲んだ。
酒場で会ったアメリカ人に
「ワシらはビクともしないぞ」
と野球の硬球を渡し、弟子の顔に向かって投げさせた。
大木金太郎は、力道山に呼ばれたら、棒をもっていった。
それは自分が叩かれるための棒だった。
馬場と猪木
馬場正平は、プロ野球の巨人ジャイアンツに4年間在籍していたが、右肘を痛め退団。
再起を賭け、大洋でテストを受けるため明石市でのキャンプに参加。
しかし風呂場で転んで右肘の腱を断裂してしまい、野球人生を断たれた。
その後、出版社に就職を決めたが、力道山に誘われプロレス入りした。
203㎝、125㎏。
22歳だった。
馬場のスカウトに成功した力道山は、彼を日本に残して、ブラジルへ旅立った。
そして3年前に移民し、サンパウロで中央青果市場で働く猪木寛至と出会った。
17歳の猪木は、192㎝、90㎏。
ブラジルの陸上選手権少年の部で砲丸投げと円盤投げで優勝していた。
猪木をホテルに呼んだ。
「裸になれ」
「背中をみせろ」
そして
「よし日本に行くぞ」
このたった三言で猪木はプロレスラーになった。
ブラジルから帰国した翌日、奇しくも馬場と猪木は、同日入門発表となった。
同時入門した2人を力道山は徹底的にしごいた。
馬場は、合宿所住まいを免除され、アパートからジムに通った。
猪木は、合宿所どころか力道山の家に住み込みになった。
馬場は純粋なプロレス練習生だったが、猪木は付き人だった。
猪木を含め、前座やそれ以前の者の給料は小遣い程度だった。
馬場だけは月給制で、それも巨人時代と同じ50000円だった。
2人は、苛烈なトレーニングを課された。
スクワットを毎日2000~3000回。
流れる汗がバケツをまいた水のように床にたまった。
気を抜けば、力道山に木刀を振り下ろされた。
練習が終わると馬場はアパートに引き上げた。
しかし猪木は力道山の付き人となった。
力道山が車で家に帰ってきたら飛び出して門を開けた。
車を磨き、靴を磨き、力道山が出かけるときは靴ベラを渡した。
試合が終わった力道山を足の指の間までタオルでふいた。
無理やり酒を飲まされた。
気持ち悪くなり吐いても、また飲まされた。
馬場はトレーニング以外で殴られることはなかったが、猪木は私生活でもことあることに殴られた。
猪木は、力道山を後ろから包丁で刺して、(お金がないので)海に飛び込んでブラジルに帰ることを夢想した。
入門5ヵ月後、同日入門の2人は、同日デビューした。
力道山はそれぞれの対戦相手に指示し、馬場は花を持たされ、猪木は手加減なしで痛めつけられた。
馬場が海外修業に出て成功しメインイベンターとなったとき、猪木は前座をつとめた後、力道山の汗を拭き、殴られた。
力道山存命中に、馬場と猪木は16回対戦し、馬場が全勝した。
またその間、猪木が海外に出されなかった。
ヒーローの苦しみ
40歳になっても力道山はリングに立ち続けた。
実業家として資金源はプロレスだったし、外人レスラーの高額なギャラや税金の支払い、自分が抱える20人以上のレスラーの給料などを年間の試合数は60~70試合で捻出しなくてはならなかった。
猪木と馬場はまだ2年目。
任せられる後継者はまだいなかった。
やがて睡眠薬をはじめいろいろな薬を常用し始め、次第にその量は増えていった。
力道山は同郷の幼馴染が経営する五反田の焼肉屋に訪れた。
他の者と一緒に行くときもあったが、決して故郷の話はしなかった。
1人で行くときは、夜中の2時に閉店間際だった。
誰にもみられたくなかったのだ。
そして故郷の話ばかりした。
多くの在日朝鮮人が自分の本名をで隠し、後ろ指をさされないように生きていた。
力道山はあまりにも有名だった。
出生を隠すために膨大なエネルギーを消費した。
日本中の尊敬と憧れの的だったヒーローは悩み苦しみ続けていた。
結婚した年に刺殺
田中敬子と力道山
1963年6月5日、力道山は田中敬子と結婚した。
田中敬子は、日本航空のスチュワーデス。
その父、勝五郎は、神奈川県警の警視で、警察署長だった。
結婚式の招待客は3000人。
総費用5000万円。
2日後、新婚旅行に出発。
1ヵ月かけてヨーロッパからアメリカを回った。
旅先で服や靴で気に入ったものがあると1ダースくらいをまとめて買った。
帰国後はリキ・アパートで暮らした。
皿洗い機、乾燥機、温蔵機などが揃っていた。
ニューラテンクォーター
DU BOOKS: 昭和が愛したニューラテンクォーター - ナイトクラブ・オーナーが築いた戦後ショービジネス / 山本信太郎
1963年12月8日、相撲協会の理事で元横綱、前田山である高砂親方が力道山と面会した。
用件は大相撲のアメリカ巡業について相談だった。
力道山にとって、相撲協会の幹部が頭を下げているのは快事だった。
上機嫌で料亭に親方達を招待して飲んだ。
その後のTBSのラジオ番組「朝丘雪路ショー」にゲスト出演したが、酔っ払って上機嫌で冗談をいい、大声で歌う力道山をみて、番組の制作者は収録を見送った。
TBSをあとにした力道山は、側近と共に赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」に向かった。
ニューラテンクォーターはアメリカ人:テッド・ルウインの経営だった。
ルウインは、かつてフィリピンのマニラで「リベラルクラブ」という賭博場を経営していた国際賭博の大ボスで、戦後、モーリス・リプトンという札つきの子分を連れて日本に貴金属商と称して来日した。
ルウインは銀座の「マンダリン・クラブ」などを本拠に、モナコさながらの国際賭博を開帳し芸能人などを集めて派手にやっていたが、警視庁の手入れを受けマニラに逃げ、しばらくしてから再び来日し赤坂でナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」を経営した。
「ニュー・ラテン・クォーター」の他、麻布仲町の「ゴールデン・ゲート」など都内数ヶ所のアメリカ人経営のナイトクラブで国際賭博を開きあくどい稼ぎをあげていた。
他に怪しげなアメリカ人が集まる場所として、立川のキャバレー「ゴールデン・ドラゴン」、横浜桜木町の「エメラルド・クラブ」などがあり、こうした場所で香港から密輸されてくるアメリカ製のピストルや小銃などが、右翼団体や暴力団に流れた。
力道山は「ニュー・ラテン・クォーター」によく出入りした。
気分がいいときはドアボーイに1万円札を与えたりしていたが、テーブルをひっくり返したり、ケンカをふっかけたり、マフィアにつながるような外人を2、3人まとめてやってしまったこともあった。
毎年のように12月の暮れも押し迫る頃になると<力道山また暴れる>という見出しが記事が躍った。
この日もアメリカからやってきた黒人のバンドに向かって
「Negro Go Home.(黒人はウチに帰れ)
SonOf A Bitch(くそったれ野郎)」
と大声で怒鳴った。
そして直美というホステスと踊り、肩を抱いてトイレに向かった。
小林楠男が率いる大日本興行(現:住吉一家小林会)組員だった24歳の村田勝志がホステスを2人連れてニューラテンクォーターに来たのは22時40分。
23時10分、村田勝志がトイレに行くと力道山が直美と立ち話していた。
村田勝志は力道山の後ろを通り抜けトイレの手洗いに入った。
するといきなり後ろから襟首をつかまれた。
「足を踏んだぞ」
「踏んだ覚えはない。」
2人は口論となった。
「この野郎!ブッ殺すぞ」
「殺せるもんなら殺してみろ!
原っぱの真ん中じゃあるまいし、あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかってしょうがねえだろう」
村田はそういって懐に手をやった。
それをみて力道山はいった。
「わかった。
仲直りしよう。」
「冗談じゃない。
人前でブッ殺すとまでいわれて、はいそうですかといったんじゃ俺も飯が食えない。
俺の顔が立つようにしろ。」
「なんだとこの野郎!」
力道山は村田の顎を拳で突いた。
村田は吹き飛んで壁に激突しうつぶせに倒れた。
力道山は村田の上に馬乗りになり村田の頭部を両手で無茶苦茶に殴った。
後ろから頭を殴りつけられている村田はベルトのナイフを握り、上半身を捻って力道山の左下腹部を刺した。
ナイフの刃は根元まで刺さった。
ドイツのゾーリング社製の錆びた登山ナイフだった。
力道山は飛ぶように後ろに下がり立ち上がり、手で腹を押さえて身構えた。
村田は力道山の脇をすり抜け走って逃げた。
力道山は服をめくって傷口をみた。
そして周囲の心配をよそに席に戻った。
そして突然ステージに走り出し、歌手のマイクを奪いとり吠えた。
「皆さん気をつけてください。
この店には殺し屋がいます。
早く帰ったほうがいいですよ。」
支離滅裂なことを叫んでからマイクを投げ捨てた。
刺されてから15分後、車に乗り、山王病院に向かった。
側近たちは、赤坂にある有名な外科病院:前田外科を勧めたが力道山は嫌がった。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは親しい医者のいたからだった。
力道山は山王病院につくと暴れた。
手あたり次第、投げてひっくり返した。
側近はひとまず力道山を家に連れ戻った。
村田勝志は、家に帰り、自首するために洗面用具などを用意していたが、親分である小林楠男に連れられ力道山の家に向かった。
力道山の家の周辺は、すでに力道山と関係の深い東声会の男たちが集まっていた。
小林楠男はインターホンで謝罪の意を告げ、力道山が逆上するのを防ぐため、自分だけ力道山の家に入った。
村田勝志は6、7人の東声会の面々に取り囲まれた。
丸太で殴られ、牛刀で頬を切られた。
村田は謝りに来ている身なので我慢していた。
しかし一緒に来ていた友人に手を出されたのをみて力道山を刺した登山ナイフを相手の腹に刺した。
そして木刀で周囲の明かりを叩き割り、ナイフを振りかざし威嚇した。
そこに警官が到着し、小林楠男と東声会の親分も出てきた。
2人の親分は、とりあえずこの場はおさめようといい、村田は警官にナイフと木刀を渡し、逮捕された。
村田に刺された東声会男は死ななかった。
山王病院
力道山は再び山王病院に行った。
診察の結果、緊急手術が必要と判断されたが山王病院には力道山の傷を手術できる執刀医がいなかった。
12月9日、深夜、聖路加病院の外科医長に執刀を要請し力道山の手術が行われた。
小腸が4ヵ所切れていたが、手術は成功し命に別条は無いものと思われた。
12月15日、力道山の腹がふくらみ、痛み始めた。
回傷口をみた院長が腹膜炎で腸閉塞を起こしているのを発見。
再び聖路加病院の外科医長が呼ばれ午後2時30分再手術が始まった。
これも成功したと報告されたが、21時頃から力道山は危篤状態に陥り、22時35分に死亡した。
力道山はうめくように指を3本出して、こと切れてしまった。
この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。
力道山を刺した村田勝志は、1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、キッチリ7年間、刑に服した。
出所後、村田組の組長として都内に事務所を構えた。
力道山の命日の翌日、人目を避け力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。
事件から30年後の1993年、岐阜大学医学部教授である土肥修司の著書『麻酔と蘇生』が出版された。
これには力道山の死因についても書かれている。
<力道山の死は出血でもショックでも何でもなく、単に運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった
・・・・・・
問題は、筋弛緩薬を使用したために外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。>
筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種である。
全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。
土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。
土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、後に専門医として調査した結果を発表した。
2002年、力道山の孫娘の朴明哲が北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。
へジョンは力道山の長女:金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の四女。
高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。
一方、村田勝志の愛娘:篠原光は、格闘家として活躍した。
篠原光