大関直前に自らマゲを切り落とす!
シムル
後に力道山となる金信洛は、日韓併合によって日本の一部となり、その統治下にあった朝鮮半島の威鏡南道(ハムギョンナムド)洪原(ホンウォン)郡の龍源(リョンウォン)村で生を受けた。
まだ10代のとき、大人に混じってシムル(朝鮮相撲)の大会に出場し3位になった。
その様子をみていたのが、警察官:小方寅一と小方の義父:百田巴之吉だった。
百田は相撲好きで、大相撲の二所ノ関部屋にコネがあった。
彼らは信洛に日本で相撲をするようにすすめたが、家族は大反対した。
しかし小方は説得を続け、百田は日本に帰って、二所ノ関部屋の玉ノ海親方に信洛のことを話した。
2年間の説得の末、金信洛は故郷を後にし、釜山から日露戦争に勝利した日本が開いた関釜連絡船に乗り、玄界灘を越えて下関に上陸した。
奇しくも同年、後に極真空手を創始する大山倍達が渡日した。
ただし彼は密航だった。
18歳の金信洛は、二所ノ関部屋に入門し、新弟子検査に合格した。
その当時の体格は175㎝、84㎏。
四股名は、「力道山」となった。
最初は日本語がわからず新弟子の生活はつらかった。
買い出し、マキ割り、チャンコづくり、給仕、掃除、洗濯、風呂では先輩の背中を流し、移動では大きな荷物を担がされ、使い走りをさせられた。
そんな生活を脱するには強くなるしかなかった。
強くなりさえすれば、出世、楽な生活、ファン、人気、全部ついてくる。
力道山は寝てもさめても、強くなろうと思い、寝てもさめても鍛錬、鍛錬、鍛錬だった。
先輩が来ると新弟子は土俵に上がれないので早起きして土俵で独り稽古をし、本稽古でも積極的に強い相手にぶつかっていった。
そしてご飯を丼15、6杯たいらげ、ビールも50本飲んだ。
力道山は驚くべきスピードで出世し、3年目で、3段目で全勝優勝し幕下に進んだ。
その頃には日本語もうまくなっていた。
太平洋戦争が激化し、力士たちも次々に徴兵された。
力道山も関西のベアリング工場に勤労奉仕に出た。
出来上がったベアリングを詰めた袋をトラックの荷台に積むのが仕事だった。
その袋は180㎏あった。
人の手を借りることを嫌った力道山は1人で担ぎ上げてトラックに積み込んだ。
1945年8月15日、日本は戦争に敗れた。
勝利を信じていた日本人たちは路上に崩れ、日本の支配から解放された在日朝鮮人たちは喜び弾けた。
一部の在日朝鮮人たちも、それまでのうっ憤を晴らすように略奪や暴動を起こした。
入門から敗戦前まで素直で稽古熱心だった力道山も敗戦後、態度が一変した。
親方や先輩のいうことを聞かなくなり、日本人力士に対して威圧的になり、インディアンという大型バイクに乗って場所入りしたり、芸者通いするなど自由奔放な行動が多くなった。
しかし相撲に打ち込む姿勢は変わらなかった。
戦後初の大相撲、1945年の11月場所は、空襲で屋根が焼け落ちた両国国技館で行われ、8勝2敗で勝ち越した。
1947年の6月場所で、力道山は前頭8枚目ながら、9勝1敗で、優勝決定戦にまで進んだ。
力道山と同じく9勝1敗で残ったのは、横綱1人と大関2人。
優勝はこの4人の四つ巴戦で争われた。
力道山はその巴戦で、横綱:羽黒山を外掛けで寄り倒した。
しかし物言いがつき、力道山の勇み足のため横綱に軍配が上がった。
1948年8月、アメリカの後押しを受けて大韓民国(韓国)が建国。
同年9月、ソ連を後ろ盾とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が生まれる。
力道山の故国は南北に分断されてしまった。
故郷は北朝鮮にあり、日本にいる力道山に故郷の情報は入りにくくなった。
1949年1月場所を8勝5敗で終え、次の5月場所での関脇昇進が期待された。
しか2月に宴会で出された川カニが原因で、肺ジストマ(肺に吸虫類が寄生する病気)にかかり入院。
4月半ばに退院したときには20㎏も体重が落ちていた。
周囲には休めという者もいたが、力道山は、5月場所に注射を打ちながら出た。
(力道山は場所を休んだことはなかった。)
5月場所は、期待通り関脇になっていたが、結果は3勝12敗と惨敗。
次の10月場所は、前頭2枚目まで転落するも8勝7敗で勝ち越し。
翌年の1月場所では小結に昇進し10勝5敗。
5月場所では見事、関脇に返り咲き、8勝7敗で勝ち越した。
いよいよ次は大関かと期待された。
太平洋戦争が終わって5年後、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。
2か月後、大関昇進が期待された10月場所を控えた8月25日の夜更け。
力道山は自宅の寝室で1人起き上がり台所へ向かった。
そして髪をほどき、左手で束ねて持ち、右手で包丁を逆手に持ってマゲを切り落とした。
相撲を初めて12年後のことだった。
大関を目の前にした現役の関脇が自らマゲを切り落とすなど前代未聞のことだった。
この原因について、親方や先輩との軋轢、相撲協会への不満、差別問題など、いろいろなな憶測を呼んだが、明確な理由を力道山は終生、語らなかった。
部長からプロレスラーに
新田新作(中央)
その後、力道山はタニマチである新田建設の新田新作社長の下で働いた。
新田新作は全身に入れ墨が入った博徒だったが、アメリカ人捕虜収容所に勤めていたとき、その待遇があまりにひどいため上司の目を盗んでタバコやお菓子を差し入れをしたりした。
戦後、解放された捕虜が、恩を忘れず東京の下町一帯の復興事業を新田新作に任せた。
アメリカから入ってくる潤沢な資金で新田新作は財を成した。
力道山は新田建設の資材部長となり、建設資材の調達と現場に運ぶ仕事をした。
しかし生活は力士時代に比べ質素になった。
力士としてさらに上を狙える力を持ちながら廃業した力道山は、抑えることができない何かを酒とケンカでまぎらわせた。
そんなある日、アメリカ軍兵士のための慰問興行のために来日していたプロレスラーに出会いプロレスラーになることを薦められた。
数日後、力道山は彼の練習場を訪れ、プロレスの練習を開始した。
昼間は新田建設で働き、夜は練習。
車にもダンベルが置くほど、暇さえあれば体を鍛えた。
数週間後にはエキシビションマッチながらリングに上がりプロレスラーデビューした。
その後、慰問興行に参加し各地を周った。
目的が在日米軍を対象とした慰労興行だったため、観客はほとんどアメリカ人で日本人はほとんどいなかった。
プロレスは、まだ日本ではまったく未知のものだった。
アメリカで人気を得る
3ヵ月後、力道山は新田新作社長の許可を得て、プロレスラー修行のためにハワイに旅立った。
だるまホテルに泊まり、毎日YMCAジムに通った。
180㎝、130㎏、お腹が大きい相撲体型だった。
相撲は瞬発力だが、プロレスには持久力も要求される。
相撲は投げられたら負けだが、プロレスは寝技に移行したり立ち上がって戦わなければならない。
毎日、バーベルやダンベルを使ってウエイトトレーニングを行い、ワイキキビーチを走った。
力士時代のただただ詰め込むという食事ではなく、高タンパク食を摂った。
首を鍛え、スクワットは3000回行った。
プロレスの関節技や投げ技も練習した。
脚が太くて短く高く上がらないので、蹴りは相手の下を狙った。
そして相撲の張り手を発展させ、空手の手刀、つまり空手チョップを打った。
チョップとは、材木などを「叩き切る」という意味。
まさに力道山は、プロレスという未開の地を、その手で叩き切るようにして開拓していく。
ハワイからアメリカ本土まで及んだ修業は13ヵ月間。
その間に力道山の肉体は改造された。
130㎏だった体重は110㎏に、ウエストは120㎝超から100㎝以下になり、そのかわりに首や胸や腕が太くなった。
グレート東郷
来日全外国人レスラー名鑑 グレート東郷
また力道山はアメリカ人に媚びる日本人、日系人を嫌った。
アメリカでは真珠湾で不意打ちを食らわした日本に対して卑怯というイメージがあった。
当時、アメリカで活躍していたグレート東郷というプロレスラーのリングネームは、日本軍の元帥:東郷平八郎に因んでいる。
グレート東郷は、相手に攻められピンチとなると両手を合わせやめてくれと懇願し、相手が背中を向けた途端に殴りかかった。
彼を含めた多くの日系プロレスラーは、アメリカ人観客の感情を逆なですることで結果的に人気レスラーとなり稼いでいた。
力道山はそういうやり方を憎み軽蔑した。
そして自身はガチガチのストリートファイトを行い、一直線に前に出て、全力で攻めた。
日系のショーマンレスラーに慣れていたアメリカ人は、一心不乱で妥協のない力道山のファイトに驚き、声援を送った。
世界最大の格闘技誌「ボクシングマガジン」は、力道山を世界のプロレス最強ベスト10に入れた。
相撲の力道山、柔道の木村政彦、空手の大山倍達
エリオ・グレイシー(右)と握手する木村政彦(左)
同時期、力道山同様、海外でリングに立った日本人格闘家が数人いた。
柔道の遠藤幸吉、大学1年ですでに柔道5段だった山口利夫、史上最強の柔道家:木村政彦、そして後に極真空手を創始する大山倍達である。
木村政彦は、ブラジルでグレーシー柔術のエリオ・グレーシーを大外刈りで叩きつけ、その腕をへし折った。
大山倍達は、ショーであるプロレスは拒否し、空手のデモンストレーションや賞金つきのリアルファイトなどを行った。
力道山道場
帰国後、力道山は、日本でプロレスを普及させるために動き始める。
まずプロレスラーになる日本人をスカウトしに奔走した。
すでに柔道の遠藤幸吉は確保していた。
相撲で先輩だった駿河海は、膝のケガで引退し日本橋浜町でトンカツ屋をやっていた。
そこに連日押しかけ口説いた。
駿河海は、相撲をやめてすでに6年が経っていたので断り続けていた。
新田新作社長の許可を得て、新田建設の資材置き場を力道山道場にすることになった。
材木などはたくさんあったので力道山は自分でつくることにした。
それに相撲時代の後輩も手伝い、やがて駿河海も参加した。
彼らは結局、プロレスラーになった。
屋根と柱と壁しかない倉庫に、太い丸太を何本も通してその上に3㎝の板を釘で打ちつけてリングをつくり、入り口に「力道山道場」の看板を掲げられた。
力道山道場の道場開きで、力道山はプロレスの公開練習を行った。
vs ルー・テーズ
力道山は、世界ヘビー級チャンピオン:ルー・テーズへの挑戦者決定トーナメントに参加するためにハワイに旅立った。
ルー・テーズは、936連勝を誇る不滅のプロレス界の「鉄人」である。
プロレスは、観客がいなければ成立しない。
単に強くて、すぐに試合を終わるのはダメ。
自分の技を出し、相手の技を受け、観客を喜ばせなければならない。
勝敗にこだわらず、観客の受けを狙うだけのレスラーもいる。
だが力道山は、勝つことにこだわった。
妥協せずにがむしゃらに闘い、相手を痛めつけるため「セメントレスラー」といわれた。
力道山は、ハワイのトーナメントで勝ち、チャンピオン:ルー・テーズへの挑戦権を得た。
そして同じくハワイで行われたルー・テーズ戦では、試合開始後、頭突きを放ち、空手チョップを乱打した。
無敵のチャンピオンにケンカファイトしかけ続けた力道山だったが、43分、ヘッドロックにいったところをルー・テーズのバックドロップに返されてマットに沈んだ。
vs シャープ兄弟
Mike and Ben Sharpe
ルー・テーズに負けた力道山は、次の目的地であるアメリカに飛んだ。
そして世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟と試合の契約を結んだ。
力道山は日本での第1戦は、東京でシャープ兄弟と行うことを決めていた。
日本の大卒の初任給が5000円の時代にシャープ兄弟は年間20万ドル(約36000万円)を稼ぐ人気兄弟だった。
力道山の帰国した5日後、シャープ兄弟が来日。
この日本初のプロレス中継は、日本テレビとNHKで放送された。
テレビ放映が開始され、まだ半年、テレビがサラリーマンの平均月収の7倍もした。
試合会場の蔵前国技館は12000人の観客が入った。
また新橋駅西口広場では20000人が、その他、有楽町、銀座、新宿、渋谷など都内30か所以上の広場で群衆ができて街頭テレビをみた。
メインイベントのリングに上がったのは、195㎝の兄ベン、197㎝の弟マイクのシャープ兄弟。
そして180㎝の力道山と170㎝前半の全日本選手権を10連覇した柔道の鬼、木村政彦だった。
日本の観客は、シャープ兄弟の筋肉にため息をもらした。
こんな大男に勝てるのか?
今なお敗戦の痛手は癒えておらず、アメリカへのコンプレックスは深かった。
しかし力道山は空手チョップを乱打し、木村政彦は、大男を投げ。
試合は3本勝負。
1本目は、力道山が199㎝のマイクをフォールして勝った。
観客たちは力道山の空手チョップに魅せられ拳を握った。
2本目は、木村政彦が場外に投げ飛ばされロープを超えてリング下に落下。
上がってきた木村政彦はロープ外からマイクの首を絞めた。
これが反則となり反則負けになった。
3本目は、3本目は時間切れ引き分け。
日本vsアメリカ。
ヘビー級の迫力。
プロレスラーの肉体と強さ。
数万の人々が、プロレスに心を奪われた。
とくに力道山が大男を叩きのめす姿は強烈だった。
力道山ならアメリカに勝てる。
人々はそう思った。
このシャープ兄弟と力道山のイベントは3連戦。
2日目は、9000人が入る国技館が13000人の超満員になった。
街頭テレビにも前日以上の人が集まった。
2日目は日本テレビの独占中継だった。
メインイベントは、力道山vsシャープ兄弟の兄ベンのシングルマッチ。
3本勝負を2本とった力道山が勝った。
この試合を街頭テレビでみていた57歳の男性が、興奮のあまり心臓マヒを起こし死亡した。
3日目は、シャープ兄弟の保持するNWA世界タッグのタイトルに、力道山と木村政彦が挑戦した。
日本がチャンピオンになるかもしれない。
人々は力道山と木村政彦がシャープ兄弟に勝つことを期待した。
1本目は、木村政彦が滅多打ちにあってフォール負け。
2本目は、力道山が空手チョップを乱打し、弟のマイクを倒し、わずか57秒でフォール勝ち。
3本目は、力道山がヘッドシザースをかけ両脚でベンの首を絞り上げた。
これでベンが額から出血。
レフリーが試合を止め、引き分け。
シャープ兄弟がタイトルを防衛した。
この3連戦後も一行は日本各地を転戦。
17日で14試合をこなしすべての会場を超満員にし、テレビの普及と発展にも貢献。
力道山は日本の戦後復興のスターとなった。
力道山は、自分が在日朝鮮人であることを終生、隠し続けなければならなかった。
vs 木村政彦
この後、木村政彦も郷里の熊本で「国際プロレス団」を立ち上げた。
また柔道の山口利夫も大阪で「全日本プロレス協会」を結成し興行を開始した。
日本国内で力道山の「日本プロレス」と3団体が乱立した。
『国際プロレス団』を旗揚げした木村政彦は、ある取材の中でこういった。
「シャープ兄弟戦ではやられ役を演じたが、真剣勝負なら私は力道山に負けない。
力道山のプロレスはショーだ。」
この発言をマスコミが大きく取り上げた。
力道山も、その挑戦を受けた。
「私だっていつだってやってやりますよ
木村なんてどうとも思っていません」
1954年11月26日。
木村政彦が上京し、記者会見を開き正式に力道山へ対戦を申し入れ、力道山もそれを受けた。
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた不世出の柔道家、柔道の鬼:木村政彦。
プロレスのヒーロー:力道山。
果たしてどちらが強いのか?
この抗争劇は「昭和の巌流島対決」と呼ばれた。
またこの試合の勝者は、全日本プロレスの山口利夫と対戦することが決まった。
チケットは2日で完売した。
その後、新田新作ら、数人の男が新橋の料亭に集まった。
力道山と木村政彦は卓をはさんで座った。
事前に互いの意思を確認するために念書が交わすことになっていた。
その内容は、
・この試合は、1本目は力道山、2本目は木村政彦がとり、3本目は時間切れ引き分けとする。
・次の試合では力道山が勝つ。
ということだった。
要は、2人で勝ったり負けたり引き分けたりしながら、お互いに儲けようということだった。
木村政彦は、署名捺印した念書を力道山に差し出した。
しかし力道山は念書を忘れたといって、口頭で約束した。
木村政彦は、後にこの念書が暴露されるとは思っていなかった。
1954年12月22日。
昭和の巌流島対決が行われる蔵前国技館をたくさんの群衆と機動隊が取りまいた。
この試合は第1回プロレス日本選手権も兼ねていた。
その賞金は総額300万円。
うち勝者が7割の210万円を、敗者が3割の90万円を手にする。
また前座の4試合も、力道山の日本プロレスと木村政彦の国際プロレス団の凄惨な対決となった。
第1試合は、二所ノ関部屋の力道山の弟分である芳の里と柔道4段の市川登。
寝技では負けると思った芳の里は市川登の顔面に張り手を張って張って張りまくった。
市川登に逆エビ固を極めかけられると、一目散にロープへ張って逃げた。
そして再び立ち上がると張りまくった。
合計、50発以上の張り手で市川登を沈めた。
プロレスではなかった。
真剣勝負のケンカマッチだった。
第2試合、駿河海と大坪清隆は引き分け。
第3試合、ユセフ・トルコと戸田武雄も引き分け。
第4試合、日本プロレスの遠藤幸吉が立ノ海を体固で破った。
そしてメインイベント。
力道山110㎏。
木村政彦95㎏。
テレビとラジオ同時中継によって日本中が見守る中、2人はにらみ合った。
4分、木村政彦が力道山の胴を両腕で締めつけるサバ折り。
そしてすばやく手をはなして一本背負いを決めた。
投げられた力道山はすばやく身をかわし、寝たまま木村政彦の首を絞めた。
そして立ち上がって抱え投げ。
木村政彦はリング外へ逃れた。
このようにオーソドックスなプロレスの展開で進んでいった。
しかし試合開始後、13分、木村政彦が力道山の下腹部を軽く蹴った後、突然、力道山が豹変した。
いきなりフライングキックを浴びせた。
木村政彦はコーナーに詰まった。
追いつめた力道山は、容赦なく左頸動脈から左顔面、肩、胸へ空手チョップを滅多打ちした。
次第に木村政彦の腰が落ちだし、ついにコーナーにうずくまった。
レフリーがカウントをとった。
立ち上がった木村政彦の顔は変形していた。
そしてよろめくようにロープ際を移動した。
なおも力道山は空手チョップを見舞った。
木村政彦は崩れ落ち口から血を噴いた。
力道山はそれでも攻撃をやめない。
木村の顎にキックを叩き込んだ。
木村政彦の前歯は折れ、さらに出血した。
レフリーが2人を分けてカウントをはじめる。
この約40秒間に、張り手12回と蹴り7回が叩き込まれた木村政彦はピクリとも動かない。
「・・・、8、9、10!」
15分49秒、レフリーは手を振り、ゴングが鳴らされた。
2本目は試合続行不可能となり、レフリーは力道山のKO勝ちを宣告した。