Donny Hathaway

ダニー・ハサウェイ
ダニー・ハサウェイが亡くなったのは1979年1月13日のことで、ニューヨークのセントラル・パーク・サウスにあるエセックス・ハウス・ホテルからの転落死とされていますが、死因には謎が多く、自殺とも他殺とも言われています。
音楽活動期間は、70年のソロ・デビューから、わずか9年しかありませんが、その短い期間に偉大な功績を残しているダニー・ハサウェイのキャリアを振り返ってみます。
1945年10月1日、アメリカはイリノイ州シカゴにダニー・ハサウェイは生まれます。ゴスペル・シンガーでありギタリストでもあった祖母のマーサ・クロムウェルに育てられ、3歳に時には祖母と共に中南部をツアーを行っていたのだそうです。
その一方で、幼少のころからピアノのプライベート・レッスンを受け、クラシック理論を学び、名門ハワード大学に進学して更にクラシックを学んでいます。
因みに同級生には「やさしく歌って」などで知られるロバータ・フラックがいました。
しかし、カーティス・メイフィールドの元で働くために3年で大学を辞めシカゴへと向かいます。
カーティス・メイフィールドとは、「ピープル・ゲット・レディ」などのヒットを放ったインプレッションズのメンバーで、インプレッションズ脱退後はソロとしてこれまた多くのヒット曲を放った偉大な人物です。
そのカーティス・メイフィールドの勧めで、メイフィールド・シンガーズの一員として録音に参加するようになります。また、アレンジャーとしても頭角を現してきます。
Everything Is Everything
カーティス・メイフィールドらの下でしっかりとキャリアを積んだダニー・ハサウェイは、1970年に旧友リック・パウエルとの共同プロデュースによるファースト・アルバム「新しきソウルの光と道」をリリースします。
本作からは、「ゲットー」がシングルとなり全米87位、ソウル・チャート23位というまずまずのヒットを記録しました。
しかし、このアルバムは商業的なことよりも、レイ・チャールズやアレサ・フランクリンなどといった他のミュージシャン達へ大きな衝撃を与えました。
黒人だけではなく、キャロル・キングは、友人、知人たちにこのアルバムを配って回ったという逸話が残っているほどです。
日本でも山下達郎が「無駄のない、曇りのないアルバム」と本作を評していたようですが、まさに言いえて妙です。

新しきソウルの光と道
Second album
デビュー・アルバムから1年と空けずにリリースされたセカンド・アルバム「ダニー・ハサウェイ」はボーカリストに徹したアルバムと言ってよいかと思います。オリジナル曲は「テイク・ア・ラヴ・ソング」の1曲だけで、その他の収録曲は全てカヴァー曲です。
しかも、「マグニフィセント・サンクチュアリー・バンド」以外の曲はスローナンバーばかりですから、前作に比べグルーヴ感は後退しています。その意味では残念ではありますが、その分ボーカリストの魅力が全開となっています。
ダニー・ハサウェイが半数近く手掛けている管楽器、弦楽器のアレンジはこれ以降の布石になっていて興味深いです。

ダニー・ハサウェイ
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セカンド・アルバム「ダニー・ハサウェイ」が全米チャートに顔を出した1971年6月には、キャロル・キングの「きみの友だち」をロバータ・フラックとデュエットし大ヒットしています。
そして、永遠の名盤としてロック史に刻まれる「ライブ」もハリウッドのトルバドールとニューヨークのビターエンドで、まさにこの時に録音されていたのです。
Live
レコードでいうとA面が、1971年8月28日と29日にハリウッドのトルバドールで行われたライブから選曲され、B面は10月27日から29日にニューヨークのビター・エンドで行われたライブからの選曲となっているロック史に残る大傑作ライブアルバム、タイトルはそのままズバリの「ライブ」は1972年にリリースされ、ゴールドディスクを獲得したダニー・ハサウェイにとって最大のヒット作です。
名盤とはまさにこのアルバムのためにあるような素晴らしい作品ですが、発売当時、ダニー・ハサウェイはこの出来に大満足しているわけではなかったといます。
ひとつには2枚組としてリリースしたかったということが挙げられますが、同年にはまたロバータ・フラックとのデュエット・ナンバー「ホエア・イズ・ザ・ラブ」が大ヒットしたのですが、ロバータ・フラック抜きでも成功出来るということを示したかったのかもしれません。
その為には、妥協は出来なかったのでしょう。
本作からは「リトル・ゲットー・ボーイ」がシングル・カットされています。この曲はダニー・ハサウェイが音楽を担当した1972年公開の映画「ハーレム愚連隊」のサウンドトラック・アルバムにスタジオ録音のヴァージョンが収録されています。
ライブ先行披露となったこの名曲の作者はバンド・メンバーのアール・デルーエンがエドワード・ハワードの共作です。

ライヴ
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【参加ミュージシャン】
・ダニー・ハサウェイ (ボーカル、エレクトリックピアノ、ピアノ、オルガン)
・フィル・アップチャーチ (リードギター)
・コーネル・デュプリー(リードギター)
・マイク・ハワード (ギター)
・ウィリー・ウィークス (ベース)
・フレッド・ホワイト(ドラムス)
・アール・デルーエン(コンガ)
Extension of a Man
フランシス・プーランクなどサティとジャン・コクトーに強く影響を受けた6人組の作曲家集団であるレ・シスの研究をダニー・ハサウェイは行っていました。そんなダニー・ハサウェイに「ダフニスとクロエ」の楽譜を手始めにオーケストレーションについて指導したのが日本でも大ヒットした「愛のコリーダ」等で有名なクインシー・ジョーンズです。1972年には、そのクインシー・ジョーンズとの合作が映画「ハーレム愚連隊」のサウンドトラック・アルバムです。ここではほぼ全曲の作曲、編曲、指揮をダニー・ハサウェイが手掛けていると言われています。
そして、同じく1972年リリースされたアルバム「ロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ 」をはさんで、クインシー・ジョーンズからの影響、経験を活かして制作されたのが、ダニー・ハサウェイ生前最後のスタジオ・アルバム「愛と自由を求めて」です。1973年にリリースされています。
渾身の1枚と言えるでしょう。

愛と自由を求めて
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1974年には、制作会社を設立し、アレサ・フランクリンのバックを務めるなど裏方にまわり、徐々に音楽の表舞台から遠ざかっていきます。
スランプと言ってもいいでしょうが、ダニー・ハサウェイは精神のバランスを崩していたのです。
カムバックするのは1978年のロバータ・フラックとのデュエット曲「ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー」でした。全米2位、R&Bチャートでは1位となったこの曲に続いてソロ・シングル「ユー・ワー・メント・フォー・ミー」をリリース。
この曲が生前最後の曲です。クインシー・ジョーンズの話ではダニー・ハサウェイは新しいソロ・アルバムの準備が出来ていたようですが、リリースされることはありませんでした。
ダニー・ハサウェイが助けを求めてクインシー・ジョーンズに電話をかけてきたのは、死の2か月前のことで、何もしてあげられなかったことをクインシー・ジョーンズは悔やんでいるそうです。
僅か33歳。あまりにも早すぎます。