ペレの愛称で世界から呼ばれ、「サッカーの神様」と言われた男の本名は「エドソン・アランテス・ド・ナシメント」

ペレの愛称で世界から呼ばれ、「サッカーの神様」と言われた男の本名は「エドソン・アランテス・ド・ナシメント」

1940年10月23日にブラジルのトレス・コラソネスで生まれる。サッカー選手の現役時代はサッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した。その実績から「サッカーの王様、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」とも評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と一目置かれている。


サッカーの神様、生まれいずる

第1回ワールドカップは、地元ブラジルで

1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。ブラジルはこの試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていた。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街、いやブラジル全土が静まりかえった。ペレ次自身はこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と約束したという。

思春期は、複数のサッカークラブを渡り歩く

10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。1954年に地元のバウルACが下部組織を創設することに伴い、同チームに入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに出会い指導を受けることになった。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった。ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりチームを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った。

プロサッカー選手として

サントスFC入団

1956年、弱冠16歳でサントスFCに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であったこともあって直ぐにトップチームでプレーすることが出来ず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。月給6000クルゼイロで仮契約を結び、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。国内のリーグ戦でFWのレギュラー選手が骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった。その選手はは他のクラブへ移籍し、代わりにペレは1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。

得点の名手ペレ発動

1958年には同じくFWを務めていた別の選手が欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。同年にはジト、ペペ、ジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行う。しかし1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。

ブラジルの徴兵制には勝てず

一方でクラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのから再び国に仕える義務はない」と主張したが、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず。サントスの沿岸防衛部隊に配属される。
1958年にはサントス、ブラジル代表サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った。

マラカナンの奇跡

6人抜きゴール

1961年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦。自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルから得点を決めた。サンパウロの「オ・エスポルチ」紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、この得点を記念して同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれたプレートが設置された。この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている。

ロナウジーニョばりのシャペウで3人のDFを外してのゴール

また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFCでは自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった。ペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった。グアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張したため判定は覆らずゴールが認められた。

欧州トップクラブからのオファー....それはあのチームから

レアルかユーベか、インテルか

これらの活躍からヨーロッパの有力クラブの関心を集め、スペインのレアル・マドリードは会長を務めるサンティアゴ・ベルナベウが直接オファー。1961年にイタリアに遠征した際にはインテルミラノから4000万クルゼイロ、ユヴェントス会長のウンベルト・アニエッリからは百万ドルから数千万ドルの移籍の申し入れがあった。
ペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は、後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した。また所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した。なおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジがレアル・マドリード、ジノ・サニとジョゼ・アルタフィーニがACミランへ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた」「欧州に移籍することも考えたが、サントスFCと共にあることを選んだ」と発言している。

当時の移籍市場

背景には、1980年代頃まで世界中の多くのクラブでは外国人枠は「2人」までに設定されていたということがあるが、欧州のサッカー先進国はその時代によって国外からの選手移籍に制限を加えようとする動きも見られ、イングランドでは1978年まで旧植民地以外の国からの選手移籍を制限。イタリアではFIFAワールドカップでの代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人以外の外国籍選手との契約を禁止、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。
ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた。

国際タイトルの獲得

コパ・リベルタドーレスカップ、インターコンチネンタルカップ(現トヨタカップ)

1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出。ウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した。この勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている。
翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。

アフリカ遠征...戦争をも止めるサッカーの神様

クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなく北米やアジア、アフリカといった後進地域のチームとも試合を行うようになった。特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた。
1969年1月、最初の遠征地であるコンゴはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の間で紛争状態にあったが、双方の指導者は試合観戦のために休戦に合意した。サントスFCはコンゴで数試合を行い、同月23日のコンゴ民主共和国代表戦では2-3で敗れたが、この試合を記念して同国大統領のモブツ・セセ・セコは「国民のスポーツの日」と定めた。次の遠征先はビアフラ戦争により内戦状態にあったナイジェリアだったが、同国とビアフラ共和国との間で試合前後の48時間は停戦し、ペレらが滞在する首都のラゴスへは侵攻しないとの合意がなされ、親善試合は予定通り行われた。

栄光の1000得点を達成

1969年の夏になると通算1000得点が成るかにメディアやファンの注目が集まった。10月に990得点を達成し、11月14日にレシフェで行われたボタフォゴFC戦で999得点目を決めて1000得点まで王手をかけると遠征先の都市では1000得点の瞬間を祝おうとカーニバルが催され、スタジアムは宛らワールドカップ決勝のように熱狂して迎えた。メディアによる報道も加熱した。
11月19日、マラカナンスタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にペレがペナルティエリア内で倒されペナルティキックを獲得。これを自らゴール右すみに決め1000得点を達成した。この際にペレが放ったシュートはキックの瞬間に一瞬動きを止めてキーパーの動きを確認してから、その動きと反対方向に決めるという物だったが、この技は後に「パラディーニャ」(ポルトガル語で小休止の意)と呼ばれるようになった。
その後、ブラジル郵政省からは記念切手が発行され、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした。サンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。

サントスFCでの引退

所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた。このような状況もあって、かつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考え、大学に入るため引退した。
時は1974年10月2日、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となったポンチ・プレッタ戦。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた。

新天地

ニューヨーク・コスモスへの移籍

1975年、北米サッカーリーグに所属するニューヨーク・コスモスに移籍。これはアトランティック・レコードの創設者であるアーティガン兄弟やワーナー・ブラザース社長でニューヨーク・コスモスのチェアマンを務めていたスティーヴ・ロスからの勧誘を受けてのもので、2年契約で移籍金は900万ドル。この契約の背後にはアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの存在があった。1970年代当時、サッカー不毛の地と呼ばれたアメリカにサッカーを普及させ、いずれワールドカップを招致したいという思惑があった。
同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得。サッカー不毛の地と言われたアメリカでサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。
1977年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった。

ブラジル代表としての栄光

ブラジル代表デビューは1957年7月7日のアルゼンチン戦。16歳9ヶ月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録であった。試合は1-2で敗れたが、ペレ自身は唯一の得点を決める活躍を見せた。その後、所属クラブでの活躍もあって代表チームに定着していった。

1958 FIFAワールドカップ

サンパウロ州選手権2年連続得点王の実績もあってこの大会の代表メンバーに招集され、背番号は10番を与えられた。大会直前のテストマッチで膝の故障もあってグループリーグの2試合を欠場したが、第3戦のソビエト連邦戦でワールドカップ初出場を果たした。なお17歳でのW杯出場は1982年のスペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドによって塗り替えられるまで史上最年少記録であった。
準々決勝のウェールズ戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録。続く準決勝のフランス戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリックの活躍を見せた。
決勝のスウェーデン戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュート決めて追加点、終了間際にはマリオ・ザガロとのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献。大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした。なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソンの頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語られている。この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り、17歳にして「新たなキングの誕生」と称された。

栄光の背番号「10番」は偶然性の賜物

1958年のスウェーデンの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった。

1962 FIFAワールドカップ

1962年のワールドカップ・チリ大会では1次リーグ初戦のメキシコ戦で1得点1アシストと好調を維持していたが、続く第2戦のチェコスロバキア戦の25分にドリブル突破からミドルシュートを放った直後に太股の筋肉を痛めた。当時の規定で交代出場は認められておらずピッチに留まったが、負傷したことを知ったチェコスロバキアのヨゼフ・マソプストとヤーン・ポプルハールらはペレを故意に痛めつけようとはしなかった。ペレはチェコスロバキアの選手達の行為を「真のスポーツマンシップ」と賞賛したが、後の試合に出場することは難しくなった。ブラジルはペレを欠いたもののガリンシャらの活躍もあって大会2連覇を成し遂げた。一方でブラジル代表チームは2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたことで国民と国家のシンボル的存在となった。

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