サッカーの神様、生まれいずる
第1回ワールドカップは、地元ブラジルで
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。ブラジルはこの試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていた。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街、いやブラジル全土が静まりかえった。ペレ次自身はこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と約束したという。
思春期は、複数のサッカークラブを渡り歩く
10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。1954年に地元のバウルACが下部組織を創設することに伴い、同チームに入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに出会い指導を受けることになった。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった。ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりチームを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った。
プロサッカー選手として
サントスFC入団
1956年、弱冠16歳でサントスFCに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であったこともあって直ぐにトップチームでプレーすることが出来ず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。月給6000クルゼイロで仮契約を結び、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。国内のリーグ戦でFWのレギュラー選手が骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった。その選手はは他のクラブへ移籍し、代わりにペレは1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。
得点の名手ペレ発動
1958年には同じくFWを務めていた別の選手が欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。同年にはジト、ペペ、ジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行う。しかし1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。
ブラジルの徴兵制には勝てず
一方でクラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのから再び国に仕える義務はない」と主張したが、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず。サントスの沿岸防衛部隊に配属される。
1958年にはサントス、ブラジル代表サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った。
マラカナンの奇跡
6人抜きゴール
1961年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦。自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルから得点を決めた。サンパウロの「オ・エスポルチ」紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、この得点を記念して同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれたプレートが設置された。この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている。