石原裕次郎

石原 裕次郎

こっちは「ゆうたろう」
兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市に育ちました。父・石原潔(山下汽船社員)は愛媛県、母・光子は広島県宮島の出身です。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になりました。
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石原裕次郎の家族
石原裕次郎の家族は、兄・慎太郎(作家、政治家)、妻・まき子(元女優)、子・なし。
甥に伸晃、良純、宏高、延啓がいます。

兄、慎太郎

妻 北原三枝(石原まり子)

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芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー
慶應義塾大学法学部政治学科に進学しましたが、放蕩生活に明け暮れる毎日を過ごします。大学在学中から、俳優を目指し東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格という結果に。しかし1956年、弟のあまりの放蕩ぶりを心配した兄・慎太郎の推薦によって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビューしました。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社します。

石原裕次郎本人は『太陽の季節』への出演は至って遊び感覚でしかなく、迎えの車に乗り初めて日活撮影所へ降り立った時にはなんと、素肌にヨット・パーカーを羽織り、海水パンツにゴム草履履きといった格好でした。その場に居合わせた宍戸錠と小林旭は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したといいます。
映画『狂った果実』で型破りな銀幕スターが誕生
大人の世界に反抗する若い世代のモラルを描いた「太陽の季節」姉妹篇です。真面目で寡黙な男が良しとされていた時代に、女性を押し倒し、欲望のまま行動するやんちゃな主人公は衝撃的で、この後の日活映画の方向性までもをアクション路線に変更させた作品でもあります。

石原裕次郎の出世作『嵐を呼ぶ男』

日活ムード・アクション映画の代表作『赤いハンカチ』
英国映画「第三の男」をモチーフに、アクション、サスペンス、推理、ラブ・ストーリーと娯楽映画の要素をすべて詰め込んだ傑作にして、石原裕次郎の代表作です。
刑事役には石原裕次郎。その刑事が恋することになる被害者の娘の玲子には浅丘ルリ子。

俺は待ってるぜ

300万枚を超える大ヒット曲『銀座の恋の物語』
石原裕次郎と浅丘ルリ子の主演により映画化した名作『夜霧よ今夜も有難う』
石原裕次郎とブランデー

石原裕次郎は芸能人で初めて記者会見をした!

1960年、日本の芸能界で初めて記者会見を開いきました。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻、北原三枝とともにアメリカに逃れていましが、元日活社長堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされます。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされています。
石原裕次郎と徹子の部屋

石原裕次郎は紅白歌合戦には出ない!?

石原裕次郎の死と、死後発売された曲
1987年7月17日金曜日午後4時26分肝細胞癌のため52歳で死去。ケガや病気の多い人生でした。

12万人が訪れた23回忌法要
2009年7月5日東京・霞ヶ丘の国立競技場で石原裕次郎の23回忌法要が行われました。大々的な法要としては最後となるが、裕次郎が眠る神奈川・鶴見の総持寺本堂を国立競技場に再現するという規格外の規模で開催されました。
最後の大規模法要として、総持寺で執り行うことも検討さたが、高齢になったフアンの健康や交通周辺環境を考慮し、法要の場所としては誰もが想像もし得なかった、国立競技場での開催となりました。

驚くのは場所だけではなく、トラック部分に約200トンの鉄骨を使い、高さ17メートル幅50メートルの総持寺本堂レプリカを10日間かけて建設。本尊の釈迦如来も運ぶ、奈良時代から1300年の歴史ある総持寺で持ち出されるのは勿論始めてである。そして160人の僧侶も出向きました。

石原裕次郎の墓

石原裕次郎記念館
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鈴木福くんもボスに!