史上初の国会議員プロレスラー

猪木は「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に、「スポーツ平和党」を結党した。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。
そして第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」
流血演説事件

猪木は政治活動を続けながらプロレスは引退しないという2足のわらじだった。
マスコミは プロレスラーと 国会議員の扱いを分け、「猪木」と呼び捨ての場合はプロレスラー、「猪木さん」「猪木氏」という場合は国会議員だった。
1989年10月14日、猪木は福島県会津若松市で講演中、暴漢に刃物で襲われ左頸部などを負傷した。
会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後、東京の病院に入院した。
闘魂ビンタ誕生
1990年5月16日、猪木は、早稲田予備校での講演「5月病に卍固め」の中で、予備校生のパンチを腹部に受けるという余興を行った。
次々と予備校生が猪木の腹を殴っていくが、猪木はビクともしなかった。
しかしその中に1人、少林寺拳法の有段者がいた。
彼は力を込めて猪木の腹を殴った。
(いい突きだった。)
するとその瞬間、猪木の顔が怒り、本能的、反射的に予備校生の顔面にビンタを返した。
ビンタを受けた予備校生は
「ありがとうございました。」
と一礼した。
この様子は全国に流れた。
こうして『闘魂ビンタ』が誕生した。
イラクがクエートに侵攻、日本は猪木をバクダッドに投下。

1990年9月、イラクがクエートに侵攻。
湾岸戦争が危惧される中、サダム・フセイン大統領(イラク)は在留外国人を国外出国禁止とした。
これは事実上の人質、人間の盾だった。
その中には多くの日本人が含まれた。
日本の外務省による人質解放交渉は遅々として進まず
痺れを切らした猪木は決断した。
それは、あえて緊張高まるイラクで「スポーツと平和の祭典」を行うため、被害者家族等を率いてバグダッドに向かうというものだった。
外務省は、猪木にイラク行きを止めたが、猪木は拒否した。
同様に外務省は、被害者家族も止めたが、イラク邦人人質被害者家族「あやめの会」は猪木にすべてを託す事にした。
1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラク行きを要請した。
が、すべての会社が拒否した。
やむなく猪木は、園遊会の会場で駐日トルコ大使に懇願したところ、チャーター機の費用を猪木個人が負担することを条件に、トルコ航空の協力でイラク入りが可能となった。
1990年12月1日、猪木は平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダッド入りした。
イラクは、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えた。
1990年12月2日、3日、スポーツと平和の祭典には、猪木の趣旨に賛同した各国の選手、ミュージシャンたちも参加した。
初日は、アル・シャープ・スタジアムでサッカー、ナショナルシアターでロックコンサートと日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント。
2日目は、長州力、マサ斉藤vs.馳浩、佐々木健介をメインとしたプロレス大会が開催された。
イベントが成功した一方、邦人人質と家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
猪木と家族たちは、焦りと落胆の中、帰りの機内についた。
フライト直前、猪木はイラク政府から
「大統領からお話があります」
と告げられ、急遽、猪木は飛行機を降りた。
そして1990年12月3日、イラクの在留邦人の解放が決まった。
さらに1990年12月5日、、イラクの在留外国人全員の解放が決定した。
1991年、東京都知事選

新間寿

1991年2月、猪木は東京都知事選に出馬表明した。
しかし3月には出馬を断念した。
出馬断念の理由は後日明らかになる。
3月4日に、東京佐川急便の渡辺広康社長の宴席で、金丸信、小沢一郎、猪木の4者会談が行われ、その場で借金がチャラになる代わりに出馬断念が決まったのだ。
新間は猪木から出馬断念の本当の理由を聞き耳を疑った。
『新間、すごいよ。
佐川急便はすごいよ。
オレを都知事選から降ろすのに16億チャラにしてくれたよ。』
その言葉を聞いたとたん、新間は猪木というのは「こういう人なのだ」と失望し、気持ちが冷めていった。
その後、内田裕也が、東京都知事選に立候補するため、都選管事務局に赴き事前審査の手続きを行った。
「行動派として尊敬していたアントニオ猪木氏が突然、知事選出馬を取りやめたことがきっかけ。」
だという。
急遽、選挙ポスターは、赤坂プリンスホテルの結婚式場で撮影し、1枚づつ直筆のサインを入れた、
(このポスターは選挙終了後、ファンの手で自主的に回収された。)
政見放送では、まず冒頭でジョン・レノンの『パワー・トゥー・ザ・ピープル』を歌い、自らの経歴を英語で語った。
選挙演説はトラックをステージにしての路上ライブだった。
4月7日に行われた投票の結果、内田裕也は54654票を獲得。
東京ドームを満員にする数字だった。
東京都知事選出馬断念直後、猪木の公設第2秘書をしていた佐藤久美子から新間寿に報告があった。
「段ボールが1箱なくなった。」
ちょうど決算時期で、秘書たちは、スポーツ平和党関連の領収書などの資料を段ボールにまとめて入れておいたものがなくなってしまったという。
新間が猪木の運転手に電話すると
「(猪木)議員の指示だったんです。」
と認めて段ボールを持ってきた。
1966年、猪木は、大学卒業後、マックスファクター(化粧品メーカー)でサラリーマンをしていた新間寿と共に東京プロレスを旗揚げした。
しかし3ヵ月で潰し、日本プロレスに戻った。
このときも猪木は新間の留守中に、小切手や印鑑をみんな持っていってしまったことがあった。
しばらくすると猪木が新間を呼び出した。
そしてスポーツ平和党の幹事長:新間寿と猪木議員の公設秘書:佐藤久美子は解雇された。
議員秘書、捨身の告白
「たとえ返り血を浴びるような結果になっても、猪木議員の不正を告発し、その議員生命を断たせたい。」

1992年7月、スポーツ平和党は、第16回参議院議員通常選挙に、比例代表候補として、元阪神タイガースのプロ野球解説者:江本孟紀を擁立した。
江本は当選しスポーツ平和党は参議院で2議席目を獲得した。
1993年5月、
猪木の公設秘書だった佐藤久美子が
「たとえ返り血を浴びるような結果になっても、猪木議員の不正を告発し、その議員生命を断たせたい。」
と、、『週刊現代』で、「還付金の不正所得による巧妙な脱税工作の実態と3億円に及ぶ巨額の税金滞納」という記事を掲載し猪木を告発した。
(この記事は5週にわたって掘り深く取り上げられた。)
また著書『議員秘書、捨身の告白―永田町のアブナイ常識』で、
「政治資金規正法違反」
「賄賂」
「脱税工作」
「税金滞納額3億円」
「猪木と佐川(急便会長)&皇民党(右翼団体)の闇のトライアングル」
「選挙応援で1億円の謝礼」
「都知事選出馬撤回を取引に受け取った巨額な佐川マネー」
「右翼(日本皇民党)との癒着問題」
「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」
「猪木議員手作り1000円事件」
「猪木が旧ソ連でマンモスの牙不正輸入」
など、数々の問題を暴露した。
佐藤久美子は、1956年に生まれ、横浜学院高等部時代にモデル、ラジオのDJのバイトを始めた。
その頃、NET(テレ朝)で新日本プロレス営業本部長:新間寿に出会った。
高校卒業後、渡米し、庭師、バーのバニー・ガールなどをしながら語学学校へ通い、帰国後、ラジオ関東の深夜放送のDJの仕事をした。
相方は岩城こう一だった。
ラジオDJを終えてからは、カフェバーや株で儲けた。
26歳頃から新間寿の政治団体「健康産業政治連盟」の仕事に携わるようになり、アントニオ猪木が議員当選後、公設第2秘書になり、その後、第1秘書だった猪木の実兄:猪木快守が、借金の未払い問題でクビになり第1秘書に昇格した。
しかし性格がのん気で無邪気、かつ邪悪な猪木と、まともでキツい佐藤久美子が合うはずもなく、1993年に解雇された。

議員会館の部屋に「汚れた水を浄化する」というバクテリアの入った水槽を設置し、東京湾からヘドロを採取し水槽の中に入れたため悪臭が充満。
何日経っても変化はなく、1ヶ月以上も匂いに悩まされた佐藤が猪木に止めるようにと頼むと
「俺が地球の環境のことを考えて実験しているというのになんというふとどきなことを言うんだ。」
と怒られた。

1991年、猪木はペルーのフジモリ大統領を訪問。
このとき「ペルーの水を浄化してあげるんだ。」と実験用具とコレラ、チフス菌を培養した試験管を持参した。
しかし途中で病原菌の入った試験管を紛失し、実験せずに帰ってきた。
病原菌はその後どうなったかは不明。

猪木は、尿にいれて飲むと体に良いという健康薬品をもらい実践。
周りの人間にも勧めイヤがられる。
さらには自分の尿のエキスと薬を混ぜたものを持ってきて
「これは俺の小便でつくったんだ。
疲れたときこれをなめるとよく効くぞ。」
といって配った。

「ライオンタマリン」は、猪木の第2の故郷:ブラジルに生息する小さな猿。
顔に金色の長い毛が生えていてライオンみたいな顔をしている。
環境変化で、彼らの住むところが減少してきているという。
国会で猪木はいきなり海部首相に
「海部首相、首相はライオンタマリンってご存じですか?」
と質問した。
通常、国会質問は事前の打ち合わせがあるが、何の脈絡もなく突然「ライオンタマリン」が出てきたため、海部首相は面食らってしまった。
それをみて調子に乗った猪木は「ライオンタマリン」の説明を始めた。
委員会終了後、参議院事務局速記係から猪木の部屋に電話がかかり「ライオンタマリン」について質問攻撃。
議員会館で「ライオンタマリン騒動」が起きた。

猪木は、水浄化装置の権利を買うため、不正に所得税還付を受け取ろうと工作。
しかし長年にわたり国税を滞納していたため、還付金はまるごと棒引き。
一銭も入らず。

猪木は「手かざし」で知られる「真光」の信者で、1989年10月14日、猪木が講演中、暴漢に襲われたとき、佐藤が病院に行くと、宗教真光の幹部が猪木に手をかざしていた。
猪木は佐藤が仕事をしているとき、背後にやってきて
「エネルギーを分けてあげる。」
といって手かざしをしてきたこともあった。

猪木は無類の宗教好きで
「天はおれがほしいものをほしいときに与えてくれる。」
が口癖。
1990年にはイスラム教にも入信している。
イスラム名は、「モハメッド・フセイン」。

猪木快守’(アントニオ猪木の兄)がキューバから国際電話してきた。
「佐藤さん、カリブ海で、昔、海賊が沈めた船のありかを示す地図を見つけたんだ。
お金のことでは、佐藤さんにいろいろ苦労をかけたけど、これでゆったりした気持ちで仕事してもらえるようになるからね。」
佐藤は相手にしなかったが、アントニオ猪木、すなわち猪木寛至は
「兄貴、すごいな。
内緒にしておけよ。
絶対、誰にも言うんじゃないぞ。
・・・・そうか、それなら船がいるな。
船をどうやって手配したらいいか佐藤君に調べさせるから・・・・」
と本気で興奮していた。

1991年の猪木の東京都知事選出馬のきっかけは、かつて猪木はソ連の利権を得るためにプロレスを利用してソ連首脳陣に接触を図っていた。
その過程で知り合ったバグダーノフ将軍らに、猪木は都知事の許可も得ずに鈴木東京都知事(当時)を連れてくると約束。
さらに勝手に佐川急便の中古のトラック100台をプレゼントするとも約束。
結局どれも果たせず、ソ連首脳陣から「嘘つき」呼ばわりされ、以後、「クレムリン出入り禁止」となった。
以後、猪木は鈴木知事を逆恨みし、おまけに猪木vsアリを茶番とけなしたNHKの磯村尚徳が東京都知事選立候補を表明。
猪木は都知事選出馬を決意した。

成田空港で、猪木は佐藤に頼んだ。
「本を買ってたんだ。
あとで金を払っておいてくれ。」
佐藤が支払いに行くと
「本代1000円借りました 猪木寛至」
と書かれた紙片を渡された。
これは「アントニオ猪木手作り1000円事件」として伝説となった。

猪木は大の文房具好きで、文房具店に入るとなかなか出てこない。
ある日、猪木が議員室に閉じこもったまま、いやに静かだったため、佐藤はそっと中をのぞいて見た。
すると猪木が小さなハサミで紙を小さく刻んで遊んでいた。

1990年、猪木は国会の会期中にイラクに旅立った。
届けを出していないため「無届け外遊」だった。
佐藤は猪木が帰国する前に関係各所に謝罪して回った。
猪木が帰国すると、形だけでもいいから謝罪してほしいと頼んだ。
すると猪木は着替えるために議員会館の議員室に入った。
すると中から「ガターン」とものすごい音がして、みてみると猪木が床に倒れていた。
「俺、具合が悪いから今日は家に帰る。」
「いい加減にして下さいよ。
子供じゃないんだから。」
結局、猪木は謝罪して回った。
「めんどくせえ!!」

佐藤久美子と共に、新間寿も、連日、ワイドショーに出演し、猪木のスキャンダルを暴露した。
1993年6月30日、
たちまち疑惑まみれになった猪木は記者会見を開き、暴露本や週刊誌に出た数多くのスキャンダルを完全否定した。
そしてマスコミに
「なぜちゃんと反論しないのですか?」
と聞かれると
「めんどくせえ!!」
の一言で終わらせた。
「ワールドプロレスリング」を放送するテレビ朝日は、アントニオ猪木の試合は放送しないことを決め、1995年1月4日に解禁となるまで1年間、テレビで猪木の試合が見られない状態が続いた。
アントニオ猪木のPKO

1995年、新間寿は、猪木の出馬する参議院選挙に合わせ告発本の出版を計画していたが、参議院選挙が早まったため、急遽出版時期を繰り上げて本の出版記者会見を開いた。
そして
「女性の方は耳をふさいでください。
アントニオ猪木のPKO。
それはパンパン来い来いオ○ンコやろう。」
と放送禁止用語を発言し、その模様はTBSで全国に生中継された。
落選

1995年7月に行われた第17回参議院議員選挙で、猪木は2期目を目指して再出馬したが、44.2%という低い投票率に加え、金銭スキャンダルのため根、54万票しか獲得出来ずに落選した。
江本孟紀は、猪木へ不信感から離党した。
スポーツ平和党は、江本孟紀副代表が離党し、猪木の実兄:猪木快守が党首に就任した。
前述の暴露によると、猪木快守は、選挙期間中に自民党からもらった選挙資金を持ってきたとき、持って帰り、ブラジルのアントン牧場に流用したという。
また自民党の他の代議士から陣中見舞いやプロレスのプロモーターから祝儀なども勝手に持ち出したという。
快守はブラジルから日本に来て、アントン・トレーディング、アントン・ハイセル、アントン管財、新日本プロレスと渡り歩いていた。
そのたび会社の金を流用して追い出されていた。
しかし弟であるアントニオ猪木、すなわち猪木寛至は「小さいころ、面倒を見てくれた」ということで大目に見ていた。
この後、スポーツ平和党は政治活動はなくなり、2007年3月には公式サイトを閉鎖し、そして政治団体解散届が総務大臣に提出された。
しかし猪木はチャレンジし続ける
1995年4月、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌で行った「平和の祭典」で、猪木はリック・フレアーと対戦し勝利を収めた。
このイベントは延べ38万人を動員し一見成功したかに見えた。
しかし実はこれが原因で新日本プロレスは倒産寸前にまで陥ってしまった。
「平和の祭典」のきっかけは、北朝鮮側からの「2億5000万円の報酬を出すから(平和の祭典を)やってくれ」という打診だった。
新日本プロレスはこのイベントを引き受け、「2億5000万円入るなら」と開催までの費用はひとまず新日本プロレスが負担。
事前に米を送ったり機材を送ったりいろんな物資を北朝鮮に送った。
ところが「平和の祭典」が終わっても北朝鮮側は約束の金を払うどころかなしのつぶてだった。
最終的には猪木事務所と新日本プロレスの幹部が責任を取れというところまでいったが、これもウヤムヤになった。
その結果、新日本プロレスはその負債をまるまる抱えることになってしまった。
当時の坂口征二社長は億単位の赤字を埋めるために奔走した。
坂口は
「血の小便が出るような努力だった。」
という。
1995年10月9日、東京ドームで、新日本プロレスと高田延彦率いるUWFインターとの対抗戦が行われた。
このイベントの成功で新日本プロレスはようやく資金的に息をついたといわれ、これがなければ新日本プロレスは間違いなくつぶれていたという。
1996年、猪木は
「『ロッキー4』の世界を現実化させる。」
といって、勇利・アルバチャコフ(旧ソ連)、オルズベック・ナザロフ(旧ソ連)、崔鉄洙(北朝鮮)など、プロスポーツがない共産主義国の有望ボクシング選手を日本に呼び、親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムにあずけ、日本でプロデビューする道を拓いた。
(現在、猪木は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として、薬師寺保栄を支援している。)
また、同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手を新日本プロレスでプロデビューさせた。

