投手じゃなかった!?
宮城県の名門、東北高校に進学した斎藤選手。3年時には第69回全国高校野球選手権大会に出場していますが、この時は1塁手でした。
高校卒業後、東北福祉大学に進んだ後も野手としてプレーしていたのですが、大学2年時の練習中に遊びで投手の練習をしていたのを当時の監督が注目し、それがきっかけでそのまま本格的に投手に転向。1990年に行われた第20回日米野球選手権大会の大学選抜メンバーに選出される程の投手になったのです。この「遊び」に気づかなければ、メジャーリーガー、斎藤隆選手の誕生はなかったかもしれません。
プロ入り~新人時代
横浜大洋ホエールズにドラフト1位で入団した斎藤隆選手は、未勝利ながらも1年目から1軍入りしプロ初登板を果たしています(0勝2敗)。2年目は先発ローテーションに定着。負け越してはいたものの、新人王候補の選手の中では最多の勝ち星し8勝(10敗)を挙げ、規定投球回もクリアしていたのですが、7勝2敗の伊藤智仁選手に敗れ、惜しくも新人王のタイトルを逃しました。

プロ入り時の斉藤隆投手
その後も先発ローテーションを担う若手投手として活躍していった斎藤投手ですが、勝負所で痛打を浴びたり、好投しても打線の援護が得られなかったりという事が重なって、中々2桁勝利を挙げる事が出来ずにいました。1996年シーズンには最多奪三振王のタイトルを獲得(206奪三振)。初の2桁勝利を挙げます(10勝10敗)
手術からの復活
1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨が発見され、除去手術を行います。この年のシーズン終盤二軍で登板復帰はしたものの、チームが優勝争いをするほど投手陣が充実していた事もあり、1軍登板できずにシーズンを終えました。1998年、4月5日に中継ぎ投手として復帰登板し、4月29日には583日ぶりの勝利を挙げます。
シーズン中盤以降、先発に復帰を果たした斎藤選手。結局、この年13勝5敗1セーブの好成績を挙げて、チームの38年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。日本シリーズの第二戦に登板した斎藤選手は完封勝利を挙げ、優秀選手に選ばれました。
この活躍により、斎藤選手はセ・リーグのカムバック賞を受賞。翌年も14勝3敗の好成績をあげます。
リリーフに転向~先発に再転向
1999年オフに、チーム不動のリリーフエース佐々木主浩がフリーエージェントでMLBのシアトル・マリナーズに移籍して以降、横浜にはチームに抑え投手が不在となります。そういったチーム事情から斎藤隆選手は2001年シーズンからリリーフに転向。7勝1敗27セーブ、防御率1.67と活躍。翌年も1勝2敗20セーブと好成績を挙げたのです。

マリナーズと入団会見をする佐々木選手
2003年シーズンに新しく就任した山下大輔監督の意向により、斎藤選手は先発に再転向。17試合に登板。6勝7敗。その翌年は2勝5敗。3勝4敗と3シーズン続けて不本意な成績が続きました。
メジャーリーグ挑戦
斎藤投手は抑え投手として活躍していた2002年シーズンオフにも、メジャーリーグへの移籍を模索していたのですが、結局この時は横浜と3年総額7億3,000万円とも言われる高額の契約を結んで横浜に残留。その後の3シーズンが上記の様に不本意なシーズンだった事もあり、斎藤隆選手が再びメジャーリーグ挑戦を表明しても、活躍すると予想した人は少なく、実際ロサンゼルスドジャースとマイナー契約するまでにも長い時間がかかりました。スプリングトレーニングにも招待選手として参加。そこでも結果を残せなかった斎藤隆選手はシーズン開幕を3Aで迎えました。
しかし、シーズン開幕直後にチームのクローザーを務めていたエリック・ガニエ選手が右肘を痛めて故障者リスト入り。その入れ替わりで4月7日にメジャーに昇格すると、9日のフィリーズ戦でメジャー初登板。18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾ります。ここから36歳の「オールドルーキー」斎藤隆の快進撃が始まります。
当初はセットアッパーとして起用されていましたが、シーズン途中からクローザーに指名され、5月15日のコロラド・ロッキーズ戦でメジャー初セーブ。復帰したガニエ選手が再び怪我で戦列を離れたこともあり、この年チーム最多の72試合に登板し、6勝2敗24セーブという好成績を挙げたのです。
翌2007年シーズンは開幕からクローザーとして起用。6月26日の対ダイヤモンドバックス戦で投げたストレートは日本人メジャー最速となる球速159kmを記録。MLBオールスターゲームにも選出されるなど名実ともにMLBのスター選手となりました。結局この年、63試合に登板し2勝1敗、リーグ3位の39セーブを挙げます。2008年シーズンは、7月にけがもあり、一時故障者リスト入りしたものの45試合に登板、4勝4敗18セーブという好成績を残しました。
2009年シーズンボストン・レッドソックスと契約し、セットアッパーの役割を担った斎藤選手は、6月11日に日米通算100勝100セーブを達成。その後、アトランタ・ブレーブス (2010)を経て、2011年に所属したブルワーズでは、ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第2戦に登板。6回1イニングを無失点に抑え、ポストシーズン初白星を記録。チーム29年ぶりのディビジョンシリーズ突破に貢献。その翌年アリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍します。メジャー在籍7年で5球団に在籍し、338試合に登板。21勝15敗84セーブ40ホールドという記録を残したのです。挑戦前は「ベテラン選手の思い出作り」と揶揄された斎藤隆選手のメジャー挑戦は大成功を収めたのです。
日本球界復帰
2012年のオフに斎藤選手が東北楽天ゴールデンイーグルスと1年契約で合意したことが発表。横浜時代の2005年以来8年ぶりの日本球界復帰となった時「斎藤隆選手は最後に故郷の東北を引退の地に選んだんだ…」という見方が一般的でした。

優勝を果たして
2013年シーズン、怪我の影響もあって斎藤隆選手が1軍で初登板を果たしたのは5月6日の事でした。これまでのシーズンだと楽天はこの時期に早くも首位とは大きく離されている…という事も多々あったのですが、この年は違いました。エースの田中選手を中心にチーム一丸で戦い、首位争いの中心にいたのです。
初登板でNPBで自身2768日振りの勝利投手になった斎藤選手は、リリーフとして登板を重ねます。8月末にそれまでのクローザーだったラズナー選手が離脱すると、代わってクローザーを務め、チームのリーグ優勝に貢献。単に「引退前に故郷に帰って来た」だけではなく、戦力として活躍したのです。
2014年7月2日にセーブをあげ、44歳4ヶ月で日本プロ野球最年長セーブ記録を更新するなど、年間31試合に登板、1勝1敗3セーブ9ホールドを挙げた斎藤選手でしたが、翌2015年シーズンは怪我と不調により2試合に登板しただけで登録抹消されたことを受け、8月16日に仙台市内で開かれた記者会見でこの年限りでの現役引退を表明。10月4日の対ソフトバンク戦の引退試合で、9回表の無死から「打者1人」という条件で登板した斎藤選手は、細川亨選手から空振り三振を奪って現役生活を終了したのです。
試合後に開かれた引退セレモニーでは、「今日まで魂を込めて、白球にこの身を挺してきましたが、心技体、チームの力にもなれず、私の体は限界です。後輩たちに全ての思いを託し、『野球人・斎藤隆』として、新しい第2の人生を歩んでいこうと思っています」と挨拶。23年の選手生活に幕を閉じたのです。
【斎藤隆選手の選手歴】
東北福祉大学
横浜大洋ホエールズ
横浜ベイスターズ (1992 – 2005)
ロサンゼルス・ドジャース (2006 – 2008)
ボストン・レッドソックス (2009)
アトランタ・ブレーブス (2010)
ミルウォーキー・ブルワーズ (2011)
アリゾナ・ダイヤモンドバックス (2012)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2013 – 2015)
【通算成績】
NPB:16年 403試合に登板。91勝81敗55セーブ14ホールド
MLB:7年 338試合に登板。21勝15敗84セーブ40ホールド