本田美奈子、アイドル時代の最大ヒット曲『1986年のマリリン』
ミュージカル「ミス・サイゴン」主役など数々の役柄を好演し、クラシカル・クロスオーバーへも進出。
さらなる活躍を期待されている最中に白血病で帰らぬ人となってしまった本田美奈子。
彼女がアイドル時代に最も輝きを放ったシングル『1986年のマリリン』にまつわるエピソードを当時の画像や動画と共に紹介。
本田美奈子(ほんだ みなこ)
本田美奈子のイメチェン曲『1986年のマリリン』が生まれた背景
アイドルらしからぬ『1986年のマリリン』が生まれた背景は、デビュー前から本田美奈子が抱いていた歌に対する強い想いと、彼女を取り巻く環境が大きく影響していた。
アイドル志望ではなく、演歌歌手志望だった本田美奈子。
アイドルとしてデビューした本田美奈子であったが、実は演歌歌手志望であった。
歌手に憧れていた母親の影響により、幼い頃から歌を歌うことが大好きだった本田美奈子。
小学生の頃は金井克子や山本リンダといった大人のポップスを、中学生になると都はるみや、石川さゆりといった演歌を歌っていた。
地元のお祭りのステージに出場しては、歌を歌っていたという。
事務所のオーディションの時に準備してきた楽曲も演歌だったが、所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルに。
当初はアイドルユニット「少女隊」のメンバーの一人として考えられていたが、歌唱力を高く評価されソロとしてデビューすることになった。
事務所はアイドルとして経験を積んだ後に、改めて演歌歌手として売り出していくと説得して、なんとか納得してもらったという。
歌うことに対して並みならぬ情熱を持つ本田にとっては、「用意された歌を歌うだけのアイドル」にはなりたくないという強いこだわりがあった。
本田美奈子もアイドル豊作の85年組としてデビュー
また、本田美奈子がデビューした1985年はアイドル豊作の年(通称:85年組)と言われ同期には、おニャン子クラブ、中山美穂、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯、いしのようこ、松本典子、大西結花、芳本美代子、佐野量子らがいた。
こうした環境下でアイドルとして頭角を現すのは並大抵のことではなかった。
本田美奈子は、他のアイドルたちとは違う、自分だけの個性を見つけようと、ファッションやメイク、振付けなどを、所属するボンド企画社長の高杉がアメリカで買ってきた、ミュージックビデオや雑誌を参考に、必死に勉強していった。
伝説の『アイドル85年組』
本田美奈子の強い要望で変更されたデビュー曲
2枚目のシングルとなった『好きと言いなさい』が最初のシングルとなる予定だったが、本田はアイドル色が強い『好きと言いなさい』よりも大人の色気が強い『殺意のバカンス』を最初のシングルにしたいという希望を持っていたため、この曲がデビュー曲となった。
転機となった『Temptation(誘惑)』のヒット
2枚目、3枚目のシングルはレコード会社(東芝EMI)の戦略で、典型的なアイドルソングを歌うことになったが、4枚目のシングルは本田美奈子自身が曲を選べることになった。
そして、選ばれたのが松本隆が作詞した少し大人っぽい歌詞の『Temptation(誘惑)』。
自身が主演したフジテレビ月曜ドラマランド「微熱MY LOVE」主題歌や、「東芝 ファンヒーター」TV-CMソングに起用されスマッシュヒット。
この曲で1985年の「第27回日本レコード大賞」「第16回日本歌謡大賞」「第14回FNS歌謡祭」などで新人賞を受賞した。
スマッシュヒットを記録し、本田美奈子の知名度を高めてくれた『Temptation(誘惑)』であったが、TBS系の歌番組「ザ・ベストテン」では惜しくも10位以内のランクインは果たせなかった。
また、オリコン最高位は10位と期待ほどのヒットには届かなかった。
初めて振付けにも挑戦し、気合を入れまくった曲が満足できるヒットとまでは至らなかったことを悔しく感じた本田美奈子は「もっと強く自分の個性を打ち出せる楽曲を」とスタッフに要望。
そこで、事務所社長・高杉は「夕焼けニャンニャン」の立ち上げなどで懇意にしていた秋元康に作詞を依頼することにした。
本田美奈子と秋元康は1985年5月からニッポン放送『ヤングパラダイス』内の箱番組「KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ」で共演しており、お互い気心の知れた仲でもあった。
秋元康の作詞、筒美京平の作曲、本田美奈子の衣装と振付け、3つが見事に融合した『1986年のマリリン』
秋元康は、本田美奈子の性格や歌手としての資質をキーワードにイメージを膨らませていったところ、貪欲なまでのプロ意識を持ってトップスターに上り詰めたマリリン・モンローが頭の中に浮かび、「マリリン」というサビの部分とタイトルが決まった。
そして、そこから歌詞のストーリーを組み上げていったという。