タイガーマスク、マスクを脱いだー!三沢ーとなっていま猛然と!!
【三沢光晴】これぞプロレス!全日本プロレスのトップからプロレスリング・ノアを立ち上げたエルボーの貴公子、最強プロレスラー三沢光晴。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
それは1990年5月14日、東京体育館における全日本プロレススーパーパワーシリーズ開幕戦での出来事でした
三沢光晴。
彼が、真の意味で始動したのはこの時だったのかもしれません。
1981年4月の全日本プロレス入門からわずか4か月でデビューを果たしたエリートも、この時すでにキャリア9年。
デビューから3年経った1984年に二代目タイガーマスクに変身後、6年近くをタイガーマスクとして過ごした彼が、再びその素顔を観衆の前に現したこの瞬間から「三沢光晴」は始動したのです。
実況も解説も、驚きを禁じ得ない声がそのままブラウン管に流れました
自ら虎の仮面を脱いだ男、三沢光晴
この日の実況は、福澤明と並んで全日本プロレスの名物アナウンサーだった若林健治(愛称は「若林”恩知らず”健治」「若林”マンモス”健治」)。
そして解説席にはザ・グレート・カブキ。
タイガーがパートナーの川田利明に自らのマスクをとるよう指示したあたりからの二人の声は、もう実況にも解説にもならない、ただ目の前の出来事に茫然となっている様でした。
以下、二人の発言。
ザ・グレート・カブキ
「何してるの、何してるの?何してる何してる何してるの?」
若林アナ
「おっと、おーっと、おーおーっ、マスクをー、マスクにっ、手を、おーおー、マスクを脱いだー!タイガーマスクマスクを脱いだー、みさわーとなって今、猛然と打っていったー!」
(場内、割れんばかりの三沢コール)
興奮のなか、一躍時の人となった三沢光晴はトップを狙って覇道を歩むことに
マスクを脱いだ後、時代は三沢光晴を後押しし始めました。
5月17日 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。
6月8日 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。
なおこの試合、前述の若林アナの「三沢が勝ったー!」という名実況は有名。
8月、超世代軍結成
以降、90年代の全日本プロレスを熱狂の渦に導いた「四天王プロレス」をリードします
【四天王プロレスの極み】「三沢光晴VS小橋建太」闘いを通してお互いの覚悟を確かめ合う、”死して悔いなし”の至高のプロレス!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
90年代全日本プロレスを率いた三沢光晴。
社長として、さらにはプロレスリング・ノアを立上げ業界の盟主とまで呼ばれた彼の活躍については別記事に譲り、三沢光晴が虎のマスクの下から見ていた全日本プロレスの風景を振り返ります。
あの時、虎の仮面を敢えて脱ぎ去った三沢光晴の覚悟を。
1980年代はポスト馬場・猪木!全日本プロレスでは鶴田や天龍、新日本プロレスでは藤波や長州が台頭!
「鶴藤長天」と呼ばれた鶴田、藤波、長州、天龍
プロレス自体が空前のブームだった80年代にあって、ポスト馬場・猪木世代とされた全日本の鶴田、天龍、新日本の藤波、長州はそれぞれに勇躍しました。
長州の「かませ犬発言」に始まる新日本プロレス内での維新、その長州率いるジャパンプロレスとの遭遇をきっかけとした天龍による全日本プロレス内での天龍革命。
かませ犬発言の裏に古館伊知郎!?革命戦士・長州力、藤波辰巳との「名勝負数え唄」までを追う!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
これらは反体制の分かりやすい構図でしたし本流派だった藤波、鶴田をみても、藤波は新日本プロレス内で飛龍革命を唱えました。
また新日本プロレスでは長州によるハイスパート・レスリングが。全日は外国人、日本人ともに大型選手らによる受け身のしっかりした見応えあるレスリングが行われていました。