そんな中でも「怪物」と呼ばれた鶴田の強さは別格。
いまだに見果てぬ夢「最強は誰か」論議では鶴田の名が挙がりますし、鶴田と闘った天龍や長州は後年、鶴田のナチュラルパワーが自分を上回っていたとそれぞれに述懐しています。
【ジャンボ鶴田】強すぎた怪物レスラーの足跡を辿る!スタン・ハンセン、天龍源一郎、三沢光晴らと数々の激闘を繰り広げた完全無欠のエース!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
特に80年代後半、全日本プロレスはそんな絶対的エース「ジャンボ鶴田」を中心に、天龍同盟を対立軸として進んでいきました。
【ジャンボ鶴田VS天龍源一郎】「鶴龍対決」と称された1980年代後半の全日本プロレス看板カード!恵まれた体躯を誇った二人のド迫力対決にファンは酔いしれました!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
そんな80年代全日本プロレスで、鶴田率いる正規軍の中でも中途半端な立場にいたタイガーマスクは1988年7月に開幕したサマーアクションシリーズにて「決起軍」を結成。メンバーはタイガーマスク、仲野信市、高木功、高野俊二、田上明の5人。
ところが開幕戦の龍原砲VSタイガー・田上組では、田上が天龍の関節技の前にあっさりと敗北。高野はハンセンとのシングル戦でりウエスタンラリアット一閃、あっさりとフォール負け。
結局は大した見せ場を作ることなくタイガー自身は1989年春に手術を行い長期欠場、その間に決起軍は解散させられます。
当時のタイガーは鶴田・天龍・ハンセンといったトップと互角に渡り合うメインイベンターになるための決意を持っていたものの、他のメンバーにそこまでの鬼気迫る意欲はなかったといえそうです。
天龍源一郎はジャイアント馬場・アントニオ猪木からピンフォールを奪った唯一の日本人レスラー!プロレス界の風雲児でした!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
そんなタイガーのリング復帰は実に1990年1月。
そのポジションは復帰前と大きく変わることはない「無難な」ものだったといえるでしょう。
2月 - 新日本プロレス「'90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。
4月13日 - 全日本プロレス、新日本プロレス、WWFとの3団体合同による「日米レスリングサミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分け。
4月 - 岡山武道館にて小橋健太をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦、勝利。第51代王者に。
1990年、東京ドームで行われた日米レスリングサミット!新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現:WWE)の合同興行に当代きっての人気レスラーが大集結!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
1990年、メガネスーパーによるプロレス団体「SWS」新設の動き
全日本プロレスを揺るがしたSWS設立
レスリングサミット開催、またタイガーのアジアタッグ奪取の直後、全日本プロレスに激震が走りました。
SWS設立に際しての、所属選手たちの移籍の動きでした。
以下、タイガーがマスクを脱ぐまでの2週間の出来事です。
4月26日、天龍源一郎が全日本プロレス社長のジャイアント馬場と会談。辞意を了承され全日本を退団して、メガネスーパーが興す新団体参加の意向を明らかに。
4月27日、ジョージ高野、佐野直喜が新日本プロレスの大会を欠場して、両選手の新日本脱退が表面化。
5月7日、高野が正式にメガネスーパー新団体参加の意向を表明。
5月10日、東京・ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長、富永巽総務部次長、所属選手天龍が出席して、SWSの発足を発表。
1990年9月29日、「越前闘会始」のタイトルでプレ旗揚げ戦
80年代の多くをタイガーマスクとして過ごした三沢にとって、決起軍の失敗を踏まえた後の全日本プロレス激震のなか、5月14日に虎の仮面を脱いだことは並々ならぬ決意があってのことだったと容易に想像がつくのです。