アニメ史上、もっともリアルに人間と戦争を描いた作品、それが「ガンダム」だ!
手元には「機動戦士ガンダム 劇場版メモリアルボックス」がある。数年前に購入したものだ。発売されたとき、買わずにはいられなかった。なんの躊躇もなく、手にした。「機動戦士ガンダム」が私にとって特別なものだったからだ。
いまさら言うまでもなく、アニメ史上、もっともリアルに人間と戦争を描いた物語である。そこにあるのは、愚かな人間の姿だ。私たちはこの物語を目の当たりにして、戦争という愚かな行為に絡み取られていく人間の悲しみと無力さを感じる。
けれども、私たちはこの物語に惹かれていく。それは、無力なんじゃないかと自問しながらも必死に戦い、生きる人間の姿がそこにあるからだ。
善悪はここにはない。それまでのアニメのような悪者と呼ばれるものは登場しない。ジオンは悪ではない。地球連邦が善でもない。それぞれに生きる理由と、戦う論理がある。それを肯定も否定もせず、私たちは見つめていくのだ。
この物語に背を向けてはいけない。登場する少年少女たちは、幾多の悲しみと、苦しい試練を乗り越え、大人になっていく。そしてそれを観る僕らも同様に大人になり、この物語を語り継いでいくのだ。それが私が「メモリアルボックス」を手にした理由だと思う。
「ファースト・ガンダム」と呼ばれるこのシリーズ。
こんな物語はもうこの先、作られることはないのではないか。
日本の映画史に残る珠玉のアニメ映画!
「機動戦士ガンダム」はこれからの混迷の時代を生きるための必須科目なのだ!

「機動戦士ガンダム」を作った人々
企画: サンライズ 原作: 矢立 肇・富野 喜幸
キャラクターデザイン: 安彦 良和 メカデザイン: 大河原 邦男
美術監督: 中村 光毅 音楽: 渡辺 岳夫・松山 祐士
アニメーションディレクター: 安彦 良和
●キャスト
アムロ・レイ: 古谷 徹 シャア・アズナブル: 池田 秀一
ブライト・ノア: 鈴置 洋孝 フラウ・ボゥ: 鵜飼 るみ子
ミライ・ヤシマ: 白石 冬美 セイラ・マス: 井上 遥
カイ・シデン: 古川 登志夫 ハヤト・コバヤシ: 鈴木 清信
マチルダ・アジャン: 戸田 恵子 ララァ・スン: 潘 恵子
ナレーター: 永井 一郎
第1作目の劇場版『機動戦士ガンダム』は、テレビシリーズ1~14話をまとめた形で1980年に公開。その大反響を受けて、1981年に2作目『哀戦士』、1982年に3作目『めぐりあい宇宙(そら)編』が続いて公開され、「ガンダム」は社会現象となる。
この「ガンダム」と1980年前後の松本零士が制作に関わった劇場版アニメによって、“アニメーション” は市民権を得たといえる。アニメが低俗で子どもだけのものという、それまでの風潮を見事に打ち破ったのが、『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』であり、そしてこの「ガンダム」シリーズなのだ。

「機動戦士ガンダム」のあらすじ
宇宙世紀0079年。
人類の半数がスペースコロニーでの宇宙生活者となって半世紀。
人類同士の宇宙空間でのはじめての戦争が勃発する。
ジオン公国を名乗ったサイド3の宇宙移民者による独立戦争である。
開戦当初に総人口の半数が死亡するというこの戦争は、泥沼化する。
人類は自らの行為に恐怖し、そして疲弊していくのである。

物語はサイド7から始まる。
偵察目的のジオン軍が連邦軍の新型モビルスーツを発見。
功をあせったジオンのモビルスーツ「ザク」が突然攻撃を仕掛けてくる。
混乱し、逃げ惑うサイド7の住民たち。サイド7に住む少年アムロは、
その連邦軍の新型モビルスーツ「ガンダム」に乗り込んで応戦。
アムロは初めての戦闘に恐怖しながらも2機のザクを撃破する。

戦いに巻き込まれ、ホワイトベースに乗り込むことになったアムロたち少年、少女は、いつしか地球連邦の一員として大きな役割を担うようになる。
サイド7から地球、再び宇宙へとホワイトベースで戦うなかで、多くの人と出会い、また多くの人の死を目の当たりにしながら、少年少女たちはいつしか大人になっていくのだった。

『めぐりあい宇宙(そら)編』が最高傑作である理由
『めぐりあい宇宙(そら)編』は、作画監督でキャラクターデザインを担当する安彦良和の完全復帰で新作カットが劇的に増えた。この情報は公開前からガンダムファンの間では大きな話題になっていたのだ。私も安彦ファンの一人として劇場に行くのが楽しみだった記憶がある。クオリティの高い新作カットの増加は、この作品を最高傑作と言わしめる大きな要因となっている。
最終的に『めぐりあい宇宙(そら)編』は、12億9000万円の配給収入で同年公開のアニメ映画で第1位を記録している。
▼名シーンレビュー<1> ホワイトベースとフラミンゴの群れ
『めぐりあい宇宙(そら)編』は、戦いの舞台を地球から再び宇宙へと移した劇場版の3作目、完結編である。
その前に劇場版2作目『哀戦士編』の見事なラストシーンを紹介したい。
連邦軍最大の基地、南米ジャブローから宇宙(そら)に飛び立つホワイトベースの横をフラミンゴの群れがどこかへ飛び立っていくシーン。
「手の空いてるものは左手を見ろ、フラミンゴの群れだ」
「はあ、ビデオに撮っておきます」
「よし、許可するぞ」
なんというアニメだろうか。これがアニメの1シーンか。
戦争の悲惨さと対比するように美しいフラミンゴの群れを見せる。
そこにあるのはつかの間の休息と新たな戦いへの鼓動だ。
さらに「ビデオを撮る」「許可する」というやりとりは、こんな時でも組織の何たるかを見せる部分。加えて、ホワイトベースの青年艦長ブライトの実直な性格をきちんと見せる。つまりこの作品はとにかく行き届いているのだ。
これだけの作品を作ることができたアニメ界がいまはどうだろう。30年以上経って、このレベルに到達した作品は存在しない(と思う、そんなにちゃんとウォッチしてないけど…)。

ここで劇場版第2作『機動戦士ガンダムⅡ 哀戦士編』の特報映像を!!
続いて、『めぐりあい宇宙(そら)編」のオープニングを!
▼名シーンレビュー<2>「やはり大佐は宇宙(そら)のほうがお似合いですな」
1作目から観ているファンなら、このオープニングの後のドレン(昔の部下)の登場にニヤリとするかもしれない。シャア(昔の上司)とのやりとりがまたいい。そこらへんの会社の上司と部下のやりとりさながらだ。
「おー、ご無沙汰であります、大佐」(ご無沙汰なんて使うアニメがあるか?)
「元気そうだな、ドレン」(シャアの、このさわやかな感じもいい)
「また貴様の手を借りたいのだ」(この言い回しもニクイ。手を借りたいと言ったのは、泣く子も黙る“赤い彗星のシャア ”だ。シャアが昔の部下にそういう言い回しを使う。シャアの人身掌握術を見るようだ。なまじ、現場での実力があるタイプは部下の扱いがマズい。それがシャアは人を操る術も知っている。それが垣間見れるシーンだ)
「追いつけますか?」(軽口挟み~の)
「私を誰だと思っているんだ?ドレン」(笑いながら、俺さま節)
「申し訳ありません、大佐」(笑いながら~の)
「やはり大佐は宇宙(そら)のほうがお似合いですな」
(お世辞も忘れない、まさに良い部下)
「お世辞か」(シャア様のツッコミ)
「わっはっはっはっはっはっは」(ここで会話終了!)
このリアルさ、小気味良さがいい。ホント、いろんな意味で感心します。



さらに、ここで『めぐりあい宇宙(そら)編』の劇場予告編も!
▼名シーンレビュー<3>「宇宙の片隅で連邦とジオンが戦い続けるのです」
このシーンは、まさに予言的ですらあった。
公開は1982年だが、いま観るとその数年後の湾岸戦争のテレビ中継を想起させるものがある。
中立コロニーであるサイド6を飛び立ったホワイトベースとジオンの戦いをテレビ局が中継するシーン。サイド6の人々は街のあちこちでそれを目にする。
「これはドラマではありません。実戦です。宇宙の片隅で連邦とジオンが戦い続けるのです!」
1991年、私たちはアメリカのミサイルと
イラクの高射砲が飛び交う光景をテレビで見ていた。
暗い中東の空を光の筋が駆け抜けていく。
そこにあったのは確実に本物の戦争だった。
でも、私たちにはそれがどうもリアルに感じられなかった。
遠く離れた地で、中東の片隅で繰り広げられる戦争を傍観者として見ていたのだ。
まるでゲームを見ているような感覚で。
「これは本当の戦争です。この事実を目撃した我々は戦火に巻き込まれないために何を…考えるべきでしょう」
そう、私たちは何を考えるべきなのだろう。

熾烈を極める最後の戦場ア・バオア・クーで私たちの見たものは?
はじめにも触れたが、しっかりと人間と戦争が描かれている。
世界の歴史をなぞるように。
権力闘争の末に身内が殺し合う権力者。
母親や恋人の名前を叫びながら、死んでいく兵士。
戦場(宇宙空間)では爆発音が鳴り響き、
いたるところに死体が漂っている。
この『めぐりあい宇宙(そら)編』の
最後の戦場ア・バオア・クーでの戦いはまさに熾烈を極めた。
ホワイトベースは両方のエンジンを失って、ア・バオア・クーに沈む。
ガンダムは片手と顔を失い、シャアへ最後の一撃を放つ。
最終的には地球連邦軍が勝利する。
だが、誰が勝者で誰が敗者だというのは関係がないように思える。
最後にそこにあるのは、死と沈黙でしかない。



▼名シーンレビュー<4>「ニュータイプの独善的な世づくりをすることはいけないわ」
シャアとセイラがテキサスコロニーで出会うシーン。
その会話は子どもじゃ、いやいやアホな中高生でも、なかなか理解しずらい内容だ。
「私のたちを育ててくれたジンバ・ラルはデギン・ザビ公王が父を暗殺したと言い続けていた。父の死因となった心臓発作はデギンが仕掛けたのは事実らしい。それを悟られぬためにデギンは公国性を敷いたとき、父の名のジオンを国の名に使ったわけだ。宇宙移民者の独立主権を唱えた父は、宇宙の民をニュータイプのエリートだとしたところにデギンのつけ込むスキがあったのだな。宇宙移民者はエリートであるから地球に従う必要がない、という論法にすり替えられたわけだ」(公国性? 独立主権? 論法のすり替え? いやいや、ホント、子どもの映画ではないですな)
「けど、この戦争で、いえ、この以前から人の革新は始まっていると思えるわ」
「それがわかる人とわからぬ人がいるのだよ。だからオールドタイプはせん滅するのだ」
「でも、オールドタイプがニュータイプを生む土壌になってるのではなくて。古きもののすべてが悪しきものではないでしょう」(土壌ってドジョウ?)
「それはわかっている。しかしな、アルテイシア。体制に取り込まれているニュータイプが私の敵になっているのは面白くない。それは私のザビ家打倒を阻むものとなる」
とまあ、よくできたお話しです。というかよくできたセリフ。
この大きな物語の在り様が多くの世代をガンダムに引き付けた理由でもあるのだろう。
「兄さんは一人で何かをやろうとしているようだけど、ニュータイプひとりの独善的な世づくりをすることはいけないわ」(独善的? 世づくり?)
「私はそんなにうぬぼれていない。ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道を作りたいだけだ」(生まれ出る道?)
まったく・・・子どもの知らない言葉を連呼してますなあ。
子どもの観るものじゃあ、ありません、ホント。

ニュータイプという “人の革新” 。そこに私たちの未来がある!?
オリンピックで次々と記録が塗り替えられていく。その様を見ていると、人間は運動能力だけでなく、思考能力や感覚やさまざまな部分においても、いずれ大きな革新を見せるのだろうと思える。
「ガンダム」が語るように、“人の革新” は必ずあるだろう。エスパーなどというと、いまだたいていの人が笑うかもしれないが、社会状況、生活環境の変化、テクノロジーの発達によって、人間の思考能力の拡大や、感覚の鋭敏さの発達などということは十分あり得るのだ。
“道具”として扱われることに危機感をもち、ほかの人間との異質を受け入れながら生きていくことに悩むニュータイプの姿を描くこの物語には、いろいろな意味で価値がある。異質なものを素直に受け入れることのできない人類のその愚かな資質と、それでも受け入れようとする人々の許容の姿を見ることができるからだ。
この物語のテーマのひとつである “人の革新” には、私たちの未来があると思えるのだ。


「僕には帰るところがあるんだ」この言葉にすべてが集約される
ラストシーン。
仲間を導き、仲間に導かれたアムロが言う。
「まだ、僕には帰れるところがあるんだ。こんなにうれしいことはない」
私たちが生きていて、最後に寄り添えるのはこうした思いなのだろう。
そうした人間の気持ちの基本的な在り方を
「ガンダム」はしっかりと物語に織り込んでいるのである。

