ワーナー・ブラザース時代
ようやくワーナー・ブラザースに移籍したものの、ワーナー・ブラザースとの契約は1974年に2枚のアルバムをリリースするというものだったため、アップル・レコードとの契約が残っていたため本国イギリスでは1年間に2つのレーベルから3枚のアルバムをリリースするはめになってしまいます。
結局プロモーションされることもあまりなく、セールス的にも落ち込んでしまいます。
そんな波乱の幕開けとなったワーナー・ブラザース移籍第一弾となったのが、アルバム「涙の旅路(Badfinger)」です。
「アス」の録音終了から6週間後にスタジオに入り制作にとりかかっています。
このアルバムからは、「Love Is Easy」がイギリスで、「I Miss You」がアメリカでシングルになりましたが、共にヒットはしませんでした。
涙の旅路
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アルバム「涙の旅路」は、悪くはない!決して悪いアルバムではありませんが、POPなキラー・チューンがないことも事実で、全体に地味な印象です。
しかし、このアルバムがヒットしなかった理由には、アップル・レコードでお蔵入りとしていた前作にあたる「アス」をこの時期にぶつけてきたことがあげられます。
結果、このアルバムは本国イギリスでは注目されることはありませんでした。
それにしても、この「涙の旅路」のジャケットは素晴らしいです!
とってもオシャレですね。
そして、バッドフィンガーはアメリカ・ツアー終了後、6枚目のアルバム「素敵な君(Wish You Were Here)」のレコーディングを開始します。
なんともすごいスケジュールですね。
素敵な君
「素敵な君」は、前作に引き続きプロデューサーはクリス・トーマスで、クリス・トーマス自身も作品の出来に満足したというほどの名盤です。
アルバムは、ウキウキする「Just A Chance」からはじまり、マイク作の名曲「Your So Fine」、ジョーイ作の「Got To Get Out Of Here」、ミカ(元サディスティックミカバンドでクリス・トーマス夫人)の妖しい日本語が入った「Know One Knows」など充実しています。
しかし、名盤であるこのアルバムも数々のトラブルで前作と併せて市場から消えてしまいます。
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ヒットはしなかったもののアメリカでの「素敵な君」に対するアルバム・レビューは好意的だったとされています。
しかし、セールスの低迷という問題とは別に、バッドフィンガーはマネージャーのスタン・ポリーによる横領という金銭トラブルを抱えていました。
危機を感じ取ったジョーイの妻はスタン・ポリーとの完全な契約破棄を進言しましたが、他のメンバー、特にスタン・ポリーを信じ切っていたピートを説得することは出来ませんでした。
ピート・ハム
「素敵な君」のリリース直後の1974年12月から次作「Head First」のレコーディングが開始され2週間で完成させました。
しかし、この時期マネージャーのスタン・ポリーが管理していた10万ドルが消滅しているということが発覚し、ワーナー・ブラザースはバッドフィンガーの管理会社とスタン・ポリーを訴える準備をしていたため、このレコーディング・テープの受け取りを拒否します。
新作が発表できないことに加え、ワーナー・ブラザースからの金銭に関する問い合わせにマネージャーのスタン・ポリーは回答を拒否したため、1975年前半にはレコード店からバッドフィンガーのレコードは全て引き上げられてしまいます。
そもそもバンド゙・メンバーの給料は、スタン・ポリーがコントロールしている会社を通して支払われているもので、収益に対し酷く不充分なものであったといわれていますが、ワーナー・ブラザースから訴訟が起こされると、スタン・ポリーはその少ない給料の支払いを止めてしまいます。
因みに、お蔵入りとなった「ヘッド・ファースト(Head First )」は、2000年に発売されました。
ヘッド・ファースト
そして悲劇が起こります。
最後までスタン・ポリーを信じていたピート・ハムもスタン・ポリーの不正を知ることとなり絶望してしまい、間もなくガールフレンドに子供が生まれる予定だったにも関わらず、1975年4月23日ガレージで首つり自殺をしてしまいます。
その際に、以下の遺言が残されています。
アンナ、愛している。ブレア、愛している。でも、ぼくがみんなを愛し信じることは許されないだろう。このほうがいいんだ。ピートより。
追伸:スタン・ポリーは血も涙もない下衆野郎だ。あいつを道連れにしてやる。
ピート・ハムの死後
ピート・ハムの死によって解散状態にあったバッドフィンガーですが、ジョー・タンシンをボーカルに据えジョーイとトムによりバッドフィンガーが再結成されアルバム「ガラスの恋人」が発売されました。
ガラスの恋人
ジョー・タンシンは、「ガラスの恋人」のレコーディング終了後に脱退してしまいます。
アルバムは商業的な成功を収めることはなく、バッドフィンガーは新たなレコード会社と契約し次作「セイ・ノー・モア(Say No More)」の制作にとりかかります。
セイ・ノー・モア
アルバム「セイ・ノー・モア(Say No More)」発表後、トム・エヴァンズとジョーイ・モーランドは意見の違いから別れてしまい、それぞれバッドフィンガーを名乗ることになります。
そして対立したトムとジョーイは名曲「ウィズアウト・ユー」の利権を巡って訴訟へ。
1983年11月19日には、訴訟に疲れ果てたトム・エヴァンズはピート・ハム同様に自宅の庭の木で首吊り自殺してしまいます。
あまりにも悲しいですね。
こうして悲運のバッドフィンガーの歴史は終わりを遂げました。
但し、ジョーイは現在も「ジョーイ・モーランズ・バッドフィンガー(Joey Molland's Badfinger)」として活動を続けています。