正体不明のプロレスラー「グレート・ニタ」!
1990年、アメリカに突如として現れた謎の男!
本稿では彼の正体を邪道、涙のカリスマ、電流爆破マッチの鬼の異名をもつ、あの「大仁田厚」と仮定し、情報をまとめる事にした!ファイヤー!
グレート・ニタ(大仁田厚)の第一発見はアメリカだった!
1990年にアメリカで行われたプロレスの試合で、顔面ペイントを施したレスラーが登場した。
その顔は当時アメリカのWCWで活躍していたヒールレスラーでザ・グレート・カブキの息子である「グレート・ムタ」のそれを思わせるものだった。
大仁田厚はその試合が組まれていたアメリカ遠征に出場しており、「グレート・ニタ」と同時刻に同じ場所にいた事となる。
当時の週刊プロレスの記事に「グレート・ニタ?」と紹介された。
以降、その男は「グレート・ニタ」と呼ばれる事となった。
その時は、遠征時だけの限定だと思われており、大仁田自身もこの「グレート・ニタ」に関して語ることは全くなかった。

左が「グレート・ニタ」で右が「大仁田厚」。
≪グレート・ニタより早くデビューした「グレート・ムタ」≫

こちらは「グレート・ムタ」
グレート・ムタ。漢字表記は「愚零闘武多」。
「グレート・ニタ」より早くアメリカに現れていて、こちらはレスラ-の武藤敬司が正体である可能性が高い(武藤自身は「代理人」とコメント)。
※「グレート・ニタ」vs「グレート・ムタ」の模様は後述!
1989年、当時アメリカでWWF(WWE)と並んで二大団体として名を馳せていたWCWマットに登場した。
「グレート・ニタ」同様、顔に毒々しいペイントを施し、忍者スタイルで妖しげな動きを見せながら戦っていた。
マネージャーがザ・グレート・カブキのマネージメントも務めていたため、「カブキの息子」という設定が用意されていた。
毒霧もカブキ同様に用い、また、元々ヘビーレスラーであるにもかかわらずスピードと華麗なテクニックを有していた為、外見・設定頼みにならずに実力をアピールし、ヒールレスラーながらも現地・アメリカ人から高い人気を得た。
「グレート・ムタ」の登場以降、「グレート・ニタ」を始め、偽物「GREAT MUTA」、「グレート・カズシ」、「愚零斗孤士(グレート・コジ)」、「グレート・ルタ」、「グレート・ボノ」、「具冷斗油太(グレート・ユタ)」等々、挙げれば切りがない程に似たキャラクターが多く現れた!!
「グレート・ニタ」が現れた当時、「大仁田厚」は何をしていた!?
全日本プロレスを退団後、タレントに転向した大仁田。
小松政夫に弟子入りするが、この時のタレント活動は長続きせず、実業家(一時期成功)や土木作業員、配達員と借金返済の為に職を転々としていた。
その後、ジャパン女子プロレスのコーチとなり、同じくコーチをしていたグラン浜田との団体内での遺恨の決着をつける為に1988年12月リング復帰。
同時期には、旗揚げしたばかりの第2次UWFの会場へ顔パスで入場しアピールしようとしたものの、フロントに「チケット持ってますか?」と言われ一般ファン同様の扱いをされたがために会場に入れずに門前払いを受けている。

俺、こんな生き方しかできません「大仁田厚、33歳」
翌1989年には、全財産の5万円を元手に自らの団体「FMW」を旗揚げした。
1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。
その後も大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも取り上げられ知名度を上げた。
1994年、ミスター・ポーゴと激突!
1994年にミスター・ポーゴとの抗争において12月1日の広島グリーンアリーナ大会で、正式にグレート・ニタとしてのデビュー戦を行う(ニタ、ホー・チー・ウィン組対ポーゴ、大矢剛功組)。
大仁田との明確なファイトスタイルの違いは、意味不明な奇声や奇行を用いた点だ。
ポーゴの凶器攻撃を受けきった後逆襲に転じる試合展開に徹し、大仁田ではできない残虐な攻撃を仕掛けた。
その後、1995年5月1日に大阪府立臨海スポーツセンターにおいてニタの引退試合が行われた(ニタ、田中正人、新山勝利組対ポーゴ、ザ・グラジエーター、保坂秀樹組)。試合後、ニタは大阪湾の彼方に消え、二度と現れないものと思われた。
ミスター・ポーゴとニタが闘っていた頃、「大仁田厚」は何をしていた!?
グレート・ニタと大仁田厚の対戦相手には、何故かミスター・ポーゴが選ばれる事が多かった。
大仁田は1994年5月5日の川崎球場大会のメインイベントで天龍源一郎と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌1995年5月5日に、川崎球場で弟子のハヤブサと戦い、2度目の引退。
その後、ミスター・ポーゴの「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといったアングル(ストーリー展開)で、この一試合限定という建前で1996年12月11日に2度目の復帰戦を行い(大仁田、ポーゴ、田中正人、黒田哲広組 対 テリー・ファンク、大矢剛功、ザ・ヘッドハンターズ組)、そのままなし崩しにリングに上がり続けた。
しかし、1998年11月に自らが旗揚げしたFMWを追い出されてしまった大仁田。
その時の対戦相手は1997年に現役復帰したミスター・ポーゴであった。

FMWでは凶器攻撃が激しかったミスター・ポーゴ!
「グレート・ニタ」と「グレート・ムタ」が神宮球場で激突!!
大仁田が現役復帰して新日本プロレスに参戦した際、武藤敬司がニタの存在に不快感を示したのをきっかけに、ニタと本家グレート・ムタとの一騎打ちが決定。
その際『ワールドプロレスリング』内では、二タが消えたとされる大阪南港を舞台にした「ニタ復活」の映像が放送された。
真鍋由アナウンサーに対し終始、半強制的に「お前はグレート・ニタを見たいか!」「二タは生きている!俺が お前の目の前で呼んでやる!よく見とけ!」と吠える大仁田。
すると「グレート・二タ」が「フォフォフォ」と不気味な声を上げながら大阪湾から現れ、驚愕する浮かべる真鍋だった。
また、「グレート・二タ」が現れている間、先程まで「グレート・二タ」の存在を強くアピールしていた大仁田が何故か消えている。やはり彼らは同一人物だと考えられる。



≪グレート・ニタ復活の場面が含まれた動画≫
≪1999年8月28日、決戦の火蓋が切って落とされた!≫
1999年8月28日、神宮球場において「グレート・ニタ」vs「グレート・ムタ」が行われた(「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」)。
開始前から会場のボルテージは最高潮!
試合は「グレート・ニタ」の先制攻撃が成功するも、徐々に「グレート・ムタ」がペースを掴み、「グレート・ニタ」を追い込んでいく。
自らがスイッチを押し、起動させた時限爆破を喰らってしまう「グレート・ニタ」。
電流や毒霧を喰らい、体力が消耗していく「グレート・ニタ」だった。
結局、13分32秒「体固め」により「グレート・ニタ」は敗北した。
試合後、「グレート・ムタ」は「グレート・ムタ、No.1!!」と叫び、存在をアピールした。
一方、「グレート・ニタ」は嗚咽し、自ら棺桶に入った。いつの間にか現れた大仁田は「ニタは死んだ」と語った。

「グレート・ニタ」vs「グレート・ムタ」
その後の「グレート・ニタ」
しかしその後、2003年にWJプロレスへの参戦に伴い、「ニタは今魔界から帰ってきた」というアングルで再び復活させ、5月3日のグランキューブ大阪大会で馳浩と対戦した(結果は「両者反則負け」)。
大仁田厚はFMWを率いた邪道プロレスラーのままでよかったんです。 - Middle Edge(ミドルエッジ)