ハンサム ハリー・レイス
およそ、その名に相応しくない風貌をそなえた超一流の
プロレスラーである。
1973年にドリー・ファンク・ジュニアを破ってNWA
世界ベビー級王座を獲得。
その後1983年にリック・フレアーに敗れて王座を明け渡す
まで世界最高峰のNWAのベルトを8度も腰に巻き、
「ミスター・プロレス」の称号を得ました。

チャンピオンベルトとハリー・レイス
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なぜハリー・レイスは長期政権を築けたのか?
レイスのファイト・スタイルや時代背景など
を通してその秘密を、探って見ましょう!
プロレスデビュー
先ず始めに、ハリー・レイスがプロレスラーになるまで、
どの様な道を歩んで来たかに触れておく必要があるだろう。
ハリー・レイスは、プロレスの前身だったとも言われる、
カーニバル・レスラーであった。
そんな経験を経た後、ハリー・レイスは1960年代に
プロレスラーとして、NWA地区でデビューしました。
その後AWAに移り、活動を続けました。
AWA世界タッグチャンピオンにもなり、プロレス界に
頭角を現すようになって来たのです。
AWAで活躍しながら、日本のリングにも上がった
事もあったが、まだ当時はネームバリューが低く、
メインで活躍する事はありませんでした。
NWA
当時の全米3大タイトルと言えば、NWA,AWA,
WWWF(WWF)であった。
その中でも実質No,1のタイトルと言えば、NWAで
あったのは間違いない。
NWAはAWAやWWWF(WWF)のように、限定された
テリトリーで活動をしていたのでは無く、全米を対象として
広範囲において活動していた団体であった。
ニューヨーク地区を中心に活動していたWWWF(WWF)。
アメリカ北部を中心に活動していたAWA。
それに対して、NWAは全米を対象として広範囲で活動して
おり、その点から見ても全米No,1と言っても過言では
ないだろう。
一方、ハリー・レイスは、他団体とのダブル・タイトルマッチ
を行ったりもした。
WWWFヘビー級チャンピオンだった、スーパースター・
ビリー・グラハム。 同じく、WWFヘビー級チャンピオン
ボブ・ハックランドとの一戦であった。
勿論、結果は引き分け。
お互い団体の顔であり、興行上でもダブル・タイトルマッチ
は、ドローになる事は暗黙のルールであったであろう。
日本でのプロレスブーム
1950年代、力道山によってブームに火がついたプロレス。
1964年、WWA世界ヘビー級チャンピオンであった
力道山と挑戦者ザ・デストロイヤーとの一戦は、視聴率60%
を超えたと事もあると言うから、当時の熱狂ぶりが
想像出来るでしょう。

力道山の空手チョップ
1960年にジャイアント馬場とアントニオ猪木が、
日本プロレスでデビュー。 BI砲の活躍は、大きく
プロレス人気を支えました。
この時代、プロレスは大衆文化として庶民の間に定着し、
既に市民権を得ていたと言えるでしょう。
ハリー・レイスが活躍した1970年~1980年と言えば、
1970年に日本では大阪万国博覧会が開催され、
日本の経済は高度成長期から安定期に入った時代で
ありました。
当時、日本でのプロレス人気は非常に高く、国際プロレス、
新日本プロレス、全日本プロレスと週の3本の番組
が放送されていたほどです。

燃える闘魂 アントニオ猪木
当時のプロレス人気を支えていたのは、ジャイアント馬場や
アントニオ猪木などのスーパースターの活躍であり、
プロレスを知らなくても、二人の名前を知らない人は
誰もいないくらいの国民的英雄でありスターでもあった。
筆者も週3本のプロレスは欠かさず観戦し、
学校で体育の時間や昼休みには、プロレスごっこ
に興じていました。
チャンピオン ハリー・レイスの来日
そんなプロレス・ブームの中、NWA世界ベビー級
チャンピオンとして、ハリー・レイスは何度と無く来日し、
日本のプロレスファンの前に勇姿を見せてくれました。
NWA世界ベビー級チャンピオンと言えば、日本の
プロレスファンなら誰もが敬意を持って迎え入れる
存在であった。
ハリー・レイスは全日本プロレスに参戦し、
ジャイアント馬場や、時にはアブドーラ・ザ・ブッチャー
そしてミル・マスカラスらとNWA世界ヘビー級
タイトルマッチを繰り広げました。
技には技、ラフプレイにはラフプレイ。
ハリー・レイスはどんなスタイルにも対応が出来る
オールラウンドのレスラーであった。
彼のファイトは、多くの日本のプロレスファンを魅了した
事だったと思います。
そんなハリー・レイスですが、日本でジャイアント馬場に
NWA世界ヘビー級チャンピオンベルトを、わずかな期間
ですが奪取された事がありました。
ただ、帰国前にはしっかりベルトを奪回している事を
見る限り、プロレス興行上ハリー・レイスもこれらの
ストーリーを受け入れる事に了承したのでしょう。
補足ですが、それにさかのぼる事5年前。
ジャイアント馬場は、ジャック・ブリスコを破って、
日本人として初めてNWA世界ヘビー級
チャンピオンに就きました。
尚、ハリー・レイスとのタイトル・マッチは2度も制し、
2度NWA世界ヘビー級チャンピオンを腰に巻いた
のです。
トータル3度の王座獲得は、後にも先にもジャイアント
馬場だけである。
チャンピオンになるための必要条件
ところで、なぜハリー・レイスはこのように長期に渡って
タイトルを保持出来たのでしょうか?
チャンピオンになれば、全米中を毎日のようにタイトルマッチ
を続けなくてはいけない。
怪我をしたり、病気で休む事さえ認められない。
休み続ける事は、プロレス興行に穴を開ける事と
であり、それはチャンピオンの座を明け渡す事を
意味します。
想像するだけでも、非常に過酷職業とも言えるだろう。

長期王座に君臨
ただ、いくら鍛えられたハリー・レイスでも、連戦続きでは
身体が持ちません。
しかしながら、NWAの王座は、カウント3かギブアップで
負ける以外はタイトルが移動しないというルールがあります。
リングアウト負け、オーバー・ザ・トップロープでの反則
など、NWA王座を守る鉄壁なルールによって、レイス
は守られていたと言えます。
つまり、試合中苦しくなっても、チャンピオン・アドバンテージ
をフルに利用すれば、どんな相手であろうが王座を確実に
防衛する事が出来きた訳です。
NWA世界ベビー級チャンピオンになるための要素は、
強いからチャンピオンになれるのでは無く、
いかに観客を呼べるか? いかに観客を喜ばす事が
出来るか? が必要条件となります。
それに加えて、有力プロモーターの支持を得る事が、
NWA世界ベビー級の王座を長期に渡って維持する
絶対条件でありました。
客が呼べないチャンピオンでは、プロモーターとしては
必要がない。
その点でハリー・レイスは、観客、プロモーターの両者
を満足させるレスラーであったのは間違い無いだろう。
ヒールとしてのチャンピオン
また一方で、地元のヒーローと対戦するヒールのチャンピオン
でなくてはならなかった。
観客は、NWA世界ベビー級チャンピオンを応援するため
に試合を見に来たのでは無く、地元のヒーローが
チャンピオンを倒すのを期待して会場に足を運ぶのである。
プロレスは勧善懲悪のストーリの中で展開されており、
善は地元のヒーローであり、当然チャンピオンは
悪という事になります。
そうです。 NWAのように広いエリアをサーッキトするには、
チャンピオンは、常にヒールでなければならないのです。
ただ、ヒールと言っても単純な悪役では無く、ある種の
尊敬の意が込められたヒールであった。
反則を繰り返すだけの単純な悪役では無く、憎たらしい
くらい地元のヒーローを追い詰めて、観客をハラハラ
させるも、最後はヒーローに逆襲の道を用意する。
観客は満足して、会場を後にするわけです。
それがNWA世界ベビー級チャンピオンに求められる技量
であり、課せたれた宿命であろう。
それが出来たからこそ、ハリー・レイスは長期政権を
築けたのであった。

NWA世界ベビー級チャンピオンベルトを巻くハリー・レイス
必殺技
チャンピオンは、代名詞となる必ず一撃必殺の技を
持っています。
アントニオ猪木の卍固め、ジャイアント馬場の16文キック。
必殺技が出たら勝負が決まります。
ところが、ハリー・レイスはダイビング・ヘッドバッド
ブレーンバスター、インデアン・デスロックなどの技は有名
ですが、完全な代名詞とまではなっていません。
言い換えれば、それだけオールマイティなレスラー
であったとも言えます。
ハリー・レイスは対戦相手を叩きのめすのでは無く、
逆に相手の強さを最大限に引き出す技量に優れて
いました。

ブレーンバスター
多彩な技を持ち、誰もが認める最強レスラーが、
チャンピオンとして君臨し続ける事が出来なかった
例は多くあります。
神様カール・ゴッチ。 人間風車ビル・ロビンソン。
強さだけ見れば、カール・ゴッチやビル・ロビンソンは、
ハリー・レイス以上の実力を備えていたでしょう。
しかし、ハリー・レイスは彼らが成し遂げられなかった
NWA世界ベビー級チャンピオンとして長期政権を築き、
長年に渡り王座に君臨し続ける事が出来たのである。
超一流の受け技
トップロープから登って攻撃をしようと思ったところを、
デッドリードライブで豪快に投げられるハリー・レイス。
もやは彼の定番スタイルであり、ジャイアント馬場
との対戦では幾度と無く見られたシーンでした。
「受身も超一流!」 とジャイアント馬場に言わしめた
ハリー・レイスの受身テクニックは超一流であった。
これはどんな対戦相手でも、そのスタイルに合わせて
プレーをする技術を指すことは言うまでもありません。

16文キックを受けるハリー・レイス
そして、ハリー・レイスがすごいのは、対戦相手の
魅力を100%引き出すプレースタイルが出来た事
だろう。
観客が何を見たがっているのか?
何をすれば観客が喜ぶのか?
主役は自分では無く、あくまでも地元のヒーローである
事を十分に理解し、それをあらゆる対戦レスラーに
適応する事が出来た天才レスラーであった。
映画界で例えれば、アカデミー助演男優賞なみの
技量を持ち合わせていたと言えるでしょう。
尚、そのスタイルを継承したのは、ハリー・レイスと何度も
NWA世界ヘビー級タイトルマッチを繰り広げた、
リック・フレアーであった。
彼は、レイスから多くの事を学び、またレイスと同様に
長期に渡って、NWA世界王座に君臨したのであった。

狂乱の貴公子 リック・フレアー
プロレス殿堂入り
ハリー・レイスはNWAを去った後、WWFのリングで活躍
の場を移しました。
WWFでは、元NWA世界ヘビー級チャンピオンに敬意を
表し、キング・ハリー・レイスでファンの前に登場しました。
当時、WWFヘビー級チャンピオンであった、ハルク・
ホーガンとの戦いは、ファンを大いに楽しませた。
往年の動きこそは無いものの、長年NWA世界ベビー級
チャンピオンとして長年君臨した風格は、他のレスラーとは
明らかに一線を引くものであった。
WWFを去ったハリー・レイスは、再び日本のマットに
登場した。
1989年の事である。
往年のレイスを知る私にとっては、少し寂しいファイト内容
であったが、プロレスファンを大いに楽しませた。
結局、この来日が現役最後となった。

キング・オブ・ザ・リング
1995年。 ハリー・レイスはついに現役を引退した。
1999年には、プロレス団体WLWを設立。
同時に、若手のレスラーの育成に全力を注いだ。
WLWは、日本のプロレス団体ノアと連携し、良好な関係
を築き上げました。
2004年、それまでの功績が認められ、WWEの殿堂入り
を果たした。
キング・オブ・ザ・リング
その偉大なるレスラー、ハリー・レイスの名は、後世に
長く伝えられていくであろう。
ハリー・レイス番外編
ミスター・プロレスのハリー・レイス。
リングの外でも話題が豊富です。
ハリー・レイスのあれこれをご紹介しましょう!
自伝「キング・オブ・ザ・リング」
NWA世界ヘビー級王座を8度も獲得した伝説の
チャンピオンであるハリー・レイスの栄光の軌跡
を語った一冊。
少年時代からプロレス・デビュー。 そして、黄金時代
を経て、晩年に至るまでの活躍が書かれています。
ハリー・レイスの入場テーマ曲
プロレスラーがリングに上がる時に流れるテーマ曲。
中には、ミル・マスカラスの入場テーマに使われた
「スカイ・ハイ」は当時大ヒットを飛ばしたのは有名な
話しである。
私もレコードショップに急いで買いに行った記憶がある。
ところでハリー・レイス。
彼の入場テーマ曲は「ギャラクシー・エクスプレス」
後に、NWA世界王座と同じく、リック・フレアーが
この曲を引き継いでいる。
この曲は「プロレスQ3」に収録されているので、
当時の記憶に浸りたい方は、購入して聞くのも
一つの楽しみであろう。
「真夜中のハーリー&レイス」
ラジオ日本深夜の解放区枠で放送されている、プロレス
トーク番組である。
毎回楽しいプロレストークが繰り広げられ、プロレスファン
なら、一度聞いたら必ず満足する番組である。
この番組に、なんとハリー・レイス本人も出演した
事があり、レイスファンだけでなく、プロレスファンを
大いに楽しませた。
それと、同タイトルで、「大人のプロレス入門」をサブタイトル
とした面白い本が出版されています。
ラジオ番組「真夜中のハーリー&レイス」のプロレストーク
と、プロレスのルールが分かりやすく丁寧に説明してあります。
プロレスが分からない人が読んでも、十分楽しめる本でもある。

真夜中のハーリー&レイス
我々のヒーローであるハリー・レイス
これからも彼の活躍を大いに期待しましょう!