「ビルマの竪琴」
本で読んだ人、あるいは1985年に上映された映画で鑑賞した人が多かったかと思います。
映画では「埴生の宿」の音楽が、 さらにその世界観を深めてくれました。
当時は「戦争映画」として鑑賞し、悲惨さや残酷さという側面よりも、その無情さをストレートに感じた作品だったような気がします。

「ビルマの竪琴」
「ビルマの竪琴」初めに映画化されたのは1956年でした
本稿では、1985年に上映された映画版を中心に「ビルマの竪琴」を振り返ろうと思います。
1985年に上映された「ビルマの竪琴」
監督は1956年作品と同様に市川崑。
1956年にも上映された作品を29年後に再び映画化しました。

1985年7月20日公開
水島上等兵(中井貴一)、井上隊長(石坂浩二)、伊東軍曹(川谷拓三)、小林上等兵(渡辺篤史)、岡田上等兵(小林稔侍)、三角山守備隊々長(菅原文太)といった、振り返ると錚々たるキャスティングでした。

水島上等兵 - 中井貴一

井上隊長 - 石坂浩二

伊東軍曹 - 川谷拓三

三角山守備隊々長 - 菅原文太
作中、「埴生の宿」「仰げば尊し」が、しみじみと心に伝わってきます。
1985年映画「ビルマの竪琴」のあらすじ

オウムが伝えた2つの言葉

オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ

アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ
1945年7月、ビルマ戦線の日本軍は中立国のタイを目指して撤退を続けていた。音楽学校出の井上小隊長は兵士たちに歌を教えていた。水島上等兵はビルマの竪琴を操り、部隊の団結と暗号にも役立てていた。小隊は国境近くの村まで来たところで敵軍に囲まれた。
敵を油断させるために小隊は竪琴の伴奏で合唱を続け、武器弾薬を載せた荷車を回収し、戦闘準備を整えた。すると、小隊の『埴生の宿』に合わせて、敵も英語で歌い始めたのだった。ここで小隊は敗戦を知り、武器を置いて投降した。
南のムドンに護送されることになったが、付近の三角山で抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため、水島が隊を離れることになる。水島は懸命に説得するが、日本軍は玉砕を選び、最後の戦闘が始まってしまう。
辛うじて一命を取り留めた水島はムドンへ向かう道中、無数の日本兵の死体と出会い、愕然となる。帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に留まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続ける。
ムドンの橋で小隊はオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違う。呼び止めるが、僧は無言で去る。井上は物売りの話から事情を推察した。彼はオウムを譲り受け「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、大仏の胎内に隠れていた水島が森の中で合唱する小隊の声を聞きつけ、思わず堅琴を弾き始め、仲間は大仏の鉄扉を開けようとするが、水島は拒む。その夜、3日後に帰国することが決まり、一同は水島も引き連れようと合唱を繰り返す。井上はオウムを水島に渡してくれるよう、物売りの老婆に頼む。
出発の前日、水島が収容所の柵越しに姿を現わす。兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を伴奏して森の中へ去って行く。帰国の船に乗る井上の許に手紙とオウムが届いた。手紙を読んでいる途中、オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。
「ビルマの 土はあかい 岩も またあかい」