F1の安全対策の歴史:ドライバーの安全性を高めるリスクマネジメントの進化

F1の安全対策の歴史:ドライバーの安全性を高めるリスクマネジメントの進化

1970年代のF1では『毎年25人中2人が死ぬ』と言われる程に、最高速のスピードで戦うF1は、栄光と危険は背中合わせ。だからこそ限界ギリギリのところで勝負しているチームやドライバーに魅了されるところもあります。マシンテクノロジー・パイロットやチームの意識・コース設定やレース運営やレギュレーション、あらゆる面で徹底的に完全面を高め続けて挑まないと、F1は時には牙を剥くことがあります。F1の安全性に関する技術・規定・コース設計・レース運営思想がどのように進化し続けているか振り返ってみましょう。


F1創生期のドライバーたちは常に死と隣り合わせ、命を懸けるリスクが高かった

モーターレースの誕生とともに、ドライバーたちは常に死と隣り合わせで生きてきた。

1970年代、毎年2人が事故で死亡する危険なF1の世界で伝説的な存在の「ニキ・ラウダ」も1976年に大事故を起こすが奇跡的にも生還した。

アンドレアス・ニコラウス・"ニキ"・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda 、1949年2月22日 - )は、F1レーシングドライバー。オーストリアのウィーン出身。1975年、1977年、1984年のF1チャンピオン。「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、その走りはコンピューターと云われた。

1976年、ニュルブルクリンクで開催された第10戦ドイツグランプリで悲劇に襲われる。タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に衝突、衝撃でヘルメットが脱げてしまった。

発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガーのサーティース・TS19が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。

事故原因については、縁石を乗せた弾みのスピン説やリアサスペンションの故障説なども浮上したが、現在も謎のままである。しかしラウダはタイヤトラブルだと語っている。

ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。

全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、牧師が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦イタリアグランプリで奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。
(出典:Wikipedia「ニキ・ラウダ」)

1976年の事故前のニキ・ラウダ

大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だった。

事故直後の共同記者会見

1968年のジム・クラークの死亡事故などをきっかけにフォーミュラカーにシートベルト装着が義務づけられた

1960年代以前のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった

1960年代以前のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった。そのため、ドライバーが飛んでいってしまう死亡事故が多発した。

シートベルトが装着されていないのでドライバーが飛んでいってしまう死亡事故が多発した。

ジム・クラーク はF1の歴史において最も優れたドライバーのひとりに数えられ、天性の速さの資質においてアイルトン・セナと並び称されている。

天才ドライバー「ジム・クラーク 」の事故(1968年)は当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかったため、車から放り出されて即死するというものだった。

ロータス・25に乗るクラーク(1962年ドイツGPにて)

マシンの信頼性・強度自体も低かった。コースレイアウト、レースコントロール・・・すべてが現代からするとないに等しいレベルで、生死をかけた勇気を試すような世界だった。

当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった。安全対策意識が現代の視点からすると極度に欠けていた。

レーシングカーでは軽量化のため限界まで肉厚(=強度)を落とすこと(ギリギリの強度)が常道であり、強度不足によるパーツ破損・マシントラブルが起こる

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス) 事故原因「軽量化を優先したトルクロッドの強度不足が原因と考えられる」

1970年代のF1は毎年2人が事故で死亡する危険な世界。

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス)

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス)の死亡事故

ロータスの創始者チャップマン(左)とリント(右)

1980年代に「カーボンモノクッコ」シャーシが普及して安全性が高まる

1980年代に入り頑丈かつ軽量なカーボンモノコックが普及することで、70年代までと比べて格段にマシンの安全性が向上した。

ルノー・ターボエンジンを搭載した(1983年)ロータス93Tのカーボンモノコック

マクラーレンホンダ(1988年ごろ)のカーボンモノコック(展示)

美しいカウルを外すと、無骨なカーボンモノコックの姿があらわれる。

Honda Collection Hallより

マクラーレンホンダMP4/4 のカーボンモノコック(展示)

Honda Collection Hallより

アラン・プロストとアイルトン・セナのマシン(展示)

参考:BMWザウバー・F1.08(2008年)のカーボンモノコックの断面図

BMWザウバー・F1.08のカーボンモノコックの断面図

ドライバーを覆うカーボンモノコックのシャシーもここ10年で大きく様変わりしてサスとステアリング以外は空力デバイスになっていることが分かる。

参考:ル・マン24時間レースと世界耐久選手権(WEC)の初代チャンピオン“Audi R18 e-tron quattro”の断面写真

技術的に安全性が高まっても、スピードや危険な走行を追及すれば、やはり事故は起こる・・・マシントラブルや人的ミスを100%完全になくすことも不可能

これは二人の関係性が原因となっている接触事故。野球でいえば、デッドボールをわざとやっているような。

アラン・プロストとアイルトン・セナの2年連続の日本GPの接触事故(1989年・1990年)

レース運営面でも、重大事故発生時の赤旗中断や黄旗およびセーフティーカー導入によるレースコントロールが強化されていく(1993年)

フェリペ・マッサを先導するセーフティカー。(写真は2006年のF1世界選手権にて)

イエローフラッグとSCサイン(SCとはSafety Carの略)

セーフティカーがコースに入る際は、コースの全ての区間において、黄色のレース旗が振られるとともに、「SC」と書かれたプラカードやLED表示板が掲げられ、ドライバーは走行速度を落とすことを求められる。「SC」とはSafety Carの略である。 これらの合図が提示されてからセーフティカーが先導している間は、競技車両は、先行車がトラブルでスローダウンした場合などのやむをえない場合を除き、一切の追い越しが禁止されている。 セーフティカーは車体上部に緑と黄色の回転灯や閃光灯を備えており、セーフティカーはコースに入ってしばらくは緑のランプを点灯する。このランプが点灯している間は、競技車両がセーフティカーを追い越すことが認められている。 レースの先頭を走っていた車両(その時点で1位の車両)がセーフティカーの後ろに追いついた時点で、セーフティカーは黄色のランプを点灯し、この時点でセーフティカーの追い越しが禁止となる。 隊列を先導している間セーフティカーは黄色のランプを点灯させ、コースの安全が確認され次にピットに入ることになるとランプを消灯し、次の周からレースが再開されることを知らせる。 セーフティカーがレースに介入すると、その副作用として、セーフティカーが入る以前の段階で後続車との間に大きなリードを築いていたとしても、そうした差が全て縮められることになるため、その後のレースがより白熱したものとなるという効果がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%BC

セーフティカー - Wikipedia

2015年度からF1のセーフティカーとして使用されているメルセデスAMG・GT S

レース運営の判断ミスやコースレイアウトの危険性など複合的な要因による『F1安全神話の完全な崩壊』 1994年サンマリノグランプリ「最も悲しい日」

「カーボンモノクッコ」でさえも絶対的に安全ではなかった。衝撃で穴があくこともある。

ローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故で過去十数年に渡ってF1GPで死亡事故が発生していなかった、カーボン・ファイバー・モノコックの安全神話は崩れ去った。

事故の衝撃は、強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものであり、ラッツェンバーガーの体は露出していた。

なお、突然ウイングが脱落した要因については、事故の直前の周に一度コースアウトしており、そのときにフロントウィングにダメージを受けていた可能性が高いと言われている。

ローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故が起きる。第3戦サンマリノGPにおいて、4月30日の予選二日目でのタイムアタック中、ビルヌーヴコーナー手前でフロントウイングが脱落しコントロールを失い、マシンは310km/hでコンクリートウォールに激突した。

ウィリアムズ・FW16(1994年)

シューマッハがゴールラインを越えてから2時間20分後の18時40分、マリア・テレーザ・フィアンドリ医師はアイルトン・セナの死を発表した。

公式の死亡時刻は14時17分、つまり即死だった。

1994年サンマリノグランプリ:ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック)とアイルトン・セナ(ウィリアムズF1)の死亡事故がそれまでの『F1安全神話』を完全に崩壊させた。

セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。 そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmで首位を走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。 車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るもののマシンが曲がらないままコンクリートウォールに向かう映像が残っている。 また、カウンターを当てたのか一瞬マシンが右に向く場面もあって謎が謎を呼び、その後自殺説やチームオーナーのフランク・ウイリアムズが追及されたりと、さまざまな憶測も飛び交うこととなったが事故原因の確定的な結論には至らぬままだった。 死亡の直接原因はステアリングシャフトの頭部貫通によるダメージだった。セナの事故後、早急に該当部への改良がなされ、クラッシュした際にステアリングシャフトがドライバー側に動かないデザインとなった。 セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に、34歳で死亡した(以後、2015年にジュール・ビアンキが亡くなるまで死亡事故は起きなかった)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%8A

アイルトン・セナ - Wikipedia

コックピット内の安全対策不足・もし何らかのマシントラブルに気付いていたなら、天才過ぎるアイルトン・セナのリスクマネジメントの問題も一因としてありうる

ステアリングシャフトの頭部貫通という直接的な原因に関しては、ステアリングシャフトの強度不足とコックピット内の安全対策が十分ではなかったと言えるでしょう。

事故の間接的な要因は大きく、前日のローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故、レース運営上の判断(レースーカーによる中断ではなく、再スタートにするべきではなかったか)、イモラサーキットのコースレイアウト上のリスク、ベネトンのM.シューマッハは開幕から2連勝しており、セナはこのレースを負けられない事情があった・・・セナの心理状況(もしマシントラブルを察知していながら、危険を冒していたなら、冷静なリスクマネジメントが欠けていた部分もありえる)・・・多様な複合的な要因があったのでしょう。

アイルトン・セナの死亡の直接原因はステアリングシャフトの頭部貫通によるダメージだった。

強度不足のステアリングシャフトが折れた場合、これが狭いコックピット内のドライバーに対して危険な凶器となりうることを見逃したミスが大きい。

レギュレーションで、ウィリアムズの強みであった「アクティブサスペンション」が禁止になったことも痛かった。

ウィリアムズ・FW16のコックピット内の足元(ステアリングシャフト)

レース運営における判断ミスやセーフティカーの性能の低さも事故の一因となりうる

セーフティカーの介入によって、タイヤ温度の低下、負けられないシューマッハとの差が縮められてしまったこと・・・などが遠因にはあるかもしれません。

1990年代の中盤には、セーフティカーは各サーキットが用意していたものを使用していた。セーフティーカーが遅すぎると、タイヤの温度が低下してしまう。

テクノロジーの進化により危険なコーナーへと変貌、「イモラ・サーキット」のコースレイアウト上の問題により高速でコンクリート壁に激突してしまうリスクが発生していた

「タンブレロコーナー」でのクラッシュは全てタンブレロを直進してコンクリート壁に激突するという共通点を持っていた。

「イモラ・サーキット」の高速コーナー「タンブレロコーナー」:セナの事故現場

ホームストレートから左に緩やかなカーブを描き、左・右・左と切り返すタンブレロ (Tamburello) を通過する。 かつてはアクセル全開で通過する超高速コーナーであったが、1987年にネルソン・ピケが初日の予選中にクラッシュ、1989年にはゲルハルト・ベルガーがレース中にクラッシュしマシンが炎上、そして1992年にはウイリアムズのリカルド・パトレーゼがテスト中にクラッシュし首を負傷するなど、テクノロジーの進化により危険なコーナーへと変貌していった。そして1994年、アイルトン・セナがレース中にクラッシュ、死亡するに至る。 これらのクラッシュは全てタンブレロを直進してコンクリート壁に激突するという共通点を持っていた。 この種のリスクに対しては、コンクリート壁を後退させてランオフエリアを拡大するか、コンクリート壁の前にタイヤバリアを敷設するなどの対応が考えられるが、このコーナーのすぐ外側にはサンテルノ川が流れており、ランオフエリアのスペースを拡大することができず、タイヤバリアの敷設にしても衝突時の飛散のリスクを考慮すると、やはりコースとの距離が絶対的に不足しており、採用することができなかった。 そこで高速コーナーを廃止し、1995年からは内側に切り込むシケイン状のコーナーに姿を変えた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%88

イモラ・サーキット - Wikipedia

コースが難しいところは戦いの見所、選手たちの攻略の腕の見せ所となる。

コース上の難所や事故が起こりやすい場所で発生するリスクに対して万全な対策が施されているかどうかが問題。

1994年のイモラのレイアウトは、リスクを回避する十分な対策が施せていなかった。

イモラ・サーキット

1994年サンマリノグランプリ以降、FIAはF1カーの設計に関する規則(F1レギュレーション)も変更

(画像説明)1975年シーズン F1マシン寸法規定の一例
FIA /1975 YEARBOOK OF AUTOMOBILE SPORTより

F1のレギュレーションは次の2種類からなる。

スポーティングレギュレーション (Sporting Regulation)
競技面の規約。レースの運営手順、入賞者へのポイント配分、違反行為への罰則などを定める。

テクニカルレギュレーション (Technical Regulation)
技術面の規約。競技車両(フォーミュラ1カー)の各部寸法・重量・許容性能・安全基準などを定める。
(出典:Wikipedia「F1レギュレーション」)

自動車競技の統轄機関である国際自動車連盟 (FIA) が制定している『F1レギュレーション』

自動車に関する技術の進歩による危険性の増加にともない、F1のレギュレーションは大小さまざまな変更がなされている。

特に
1968年から起きた、それまでの空気抵抗を抑えるデザインから逆に空気を利用する、流体力学を応用したデザインへの変化
1977年に登場したグランドエフェクトカーとターボエンジンの隆盛
1989年から登場した油圧システムと電子制御によるハイテク化
それぞれによる飛躍的な性能向上に対して、数年後に大幅な規制を行っている。

また、1994年からは、マシンおよびサーキットの安全面を強化する対策が頻繁に盛り込まれるようになっている。
(出典:Wikipedia「F1レギュレーション」)

F1マシン主要寸法規定/1991シーズン開幕時(illustration:Pioneer LDC 「F1 Grand Prix 1991」)

この呪われた1994年サンマリノではピットでも問題が起きていた・・・以降、ピットロードでの速度制限が定められる

悲劇の1994年サンマリノグランプリではピットでの事故まで起きていた・・・呪われています。

1994年、レース運営の規定変更:
ピットロードのスピード制限(フリー走行:80km/h・決勝:120km/h)(モナコGPから)。

事故発生の意外な盲点になりうる「ピットレーン」での安全規制強化も大切

1994年の最後の死亡事故以来、F1の安全性は大きく進歩したが、ドライバーにとって最大のリスクはコクピットが開放されていることである(飛来物による頭部損傷)。

FIAはドライバー用の頭部保護対策を精力的に検討

2009年ハンガリーGP予選Q2より

F1マシンは開放型コクピットのため、飛来してきた物体がパイロットの頭部を直撃するリスクが存在する。

走行中の他のF1マシンから外れた部品(スプリングのようなもの)がコクピットに向かって飛んできている

飛来してきた物体が、コクピットのフェリペ・マッサのヘルメットに直撃する直前の瞬間

フェリペ・マッサのヘルメットは損傷し、傷も負う。意識を失いマシンはタイヤバリアに突っ込んだ。

F1のドライバー用の頭部保護コクピット・ソリューション案

メルセデスが考案したF1の保護コクピット

メルセデスが考案したF1の保護コクピットソリューション

レッドブルのコックピットの頭部保護設計イメージ画

レッドブルのF1が採用するべきだと考えるコックピットの頭部保護設計イメージ

ドライバーの頭部を守る『ヘルメット』技術の進歩:カーボンファイバー製でバイザーは防弾仕様

『ヘルメット』技術の進歩

テクノロジーの進化は新たなリスクを生み出す・レース運営時の不運やミスが重なってしまうこともある・・・終わることのない安全対策の戦い

1994年サンマリノグランプリが最後とはならなかった・・・21年間死亡事故がなかったことが奇跡

ニキ・ラウダ(現メルセデスAMG会長)「これは奇跡なんだ。もう一度強調するが、過去21年間にわたってこういうことが起きなかったというのは奇跡なんだ」

2014年日本グランプリ:ジュール・ビアンキ(マルシャF1チーム)

ジュール・ビアンキの死をきっかけに、F1の安全性に関する議論が再びメディアをにぎわせる状況となっている。

2014年日本グランプリ:ジュール・ビアンキ(マルシャF1チーム)の死亡事故

同じ場所で先にコースアウトし、クラッシュしていたエイドリアン・スーティル(ザウバー)のマシンを撤去していたホイールローダー(クレーン車)に後方から追突した。

事故発生の意外な盲点「ホイールローダー」(クレーン車)に衝突して、その事故は起きてしまった・・・まさか・・

2014年10月5日、鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPにおいて、折からの台風18号に伴う雨により、44周目にダンロップ・コーナーを旋回中にハイドロプレーニング現象が発生。 コントロールを失いアウト側にコースアウトし、同じ場所で先にコースアウトし、クラッシュしていたエイドリアン・スーティル(ザウバー)のマシンを撤去していたホイールローダー(クレーン車)に後方から追突した。 ビアンキは意識を失い、救急車で四日市市の三重県立総合医療センターへ搬送され、緊急手術が行われた。 手術は成功し、ビアンキは人工昏睡状態におかれ同病院で治療が継続され、のちに自発呼吸の回復とバイタルサインの安定が認められた事から母国への移送ができると判断。11月19日にフランス・ニースのニース大学付属病院に転院した。 しかし、九ヵ月後の2015年7月13日にSNSでビアンキの親族が「現在楽観できない状況になりつつある」と発信。そして、その四日後の2015年7月17日夜、ビアンキは意識が戻らないまま入院先の病院にて死去した(享年25)。 F1走行セッション中のドライバーの死亡事故は1994年サンマリノグランプリでのアイルトン・セナ、ローランド・ラッツェンバーガー以来21年ぶりの事であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AD

ジュール・ビアンキ - Wikipedia

レースコントロールのミスを指摘するアラン・プロスト

アラン・プロスト「コースにあの作業車を入れる前にセーフティカーを導入してレースをコントロールすることが必要だった」

統括団体であるFIA(国際自動車連盟)が行った事故調査の結果、黄旗が振動されていたにもかかわらず、ビアンキがスピードを出し過ぎていたことも判明していた。

ビアンキやプロストと同じフランス出身の元F1ドライバーであるパトリック・タンベイ「・・・F1とはこういうものなんだ。」

F1の安全対策の歴史は企業や個人の「リスクマネジメント」のケーススタディになると思います。

スピードを追求すれば、危険性は増す。相反する要素の組み合わせを、どうバランスしていくのか。
誰の視点でバランス(最適化)を取るのか?

F1のファン?ドライバー?コンストラクター?利害関係もそれぞれ異なる。

いずれにしてもドライバーの安全が最優先課題であることは絶対的なこと。

リスクは極限まで減らせたとしても、完全にゼロにはできない。リスクがなくなったと油断すると悪夢(まさか)が襲い掛かってくる。そういう永遠に続く戦いのようです。

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